第10話 侯爵家嫡男は、凡庸な男爵家次男に光を当てたい
前回まで:
ユリウス主催の上級生交流勉強会で、リオネルは「どの派閥にも属さない」と明言しました。
しかしその結果、中立であること自体に価値を見出され、ユリウスからはますます“貴重な人材”として見られることになります。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見ると放っておけない。
ユリウス・クラインベルク……侯爵家嫡男。善意で人を正しい場所へ導こうとする上級生。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルの隣に立とうとする不器用な友人。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルの傷と危うさを静かに見ている。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。ギルバートの側近的存在で、政治的な目が利く。
マティアス・フォルナー……学生自治会副会長。制度を動かす側の上級生。
上級生交流勉強会は、表向きには無事に終わった。
ニールは古代史の参考文献を得た。
エリーゼは上級生の令嬢と意見を交わせた。
ダリオは戦術基礎の資料を手に入れて満足そうだった。
ミリアは、エリーゼに質問することに少し慣れた。
アメリアは、自分一人で場を背負わずに済んだ。
良い会だった。
そう言おうと思えば、言える。
問題は解決した。
少なくとも、表面上は。
だが翌朝、俺はすぐに理解した。
問題が解決したのではない。
配置が終わったのだ。
教室に入ると、空気が変わっていた。
以前から視線はあった。
だが、今日の視線は少し違う。
好奇心でも、単なる噂好きでもない。
もっと具体的だ。
あの男爵家次男は、何ができるのか。
誰とつながっているのか。
誰の言葉なら動くのか。
どこまで踏み込めば、こちらの話を聞くのか。
そういう視線。
人を見る目ではない。
使える道具を測る目だ。
俺は静かに席へ向かった。
机の上には封書がなかった。
資料もない。
相談箱の改訂案もない。
それなのに、まったく安心できない。
最近分かってきた。
本当に面倒なものは、必ずしも紙に書かれて届くわけではない。
噂。
視線。
期待。
評価。
そういう形のないもののほうが、よほど逃げにくい。
「リオネル様」
ニール・ロイドが近づいてきた。
少し緊張した顔をしている。
「おはようございます」
「おはようございます。何かありましたか」
俺が尋ねると、ニールは少し困ったように笑った。
「今朝、上級生の方から声をかけられました」
「上級生?」
「はい。昨日の勉強会での私の発言を聞いて、今度の古代史研究会に参加しないかと」
なるほど。
もう来たか。
「それは、勧誘ですか」
「学習支援だと言われました」
「誰の紹介ですか」
「直接は言われませんでした。ただ、クラインベルク様が私のことを褒めていた、と」
ユリウス。
やはり、あの人だ。
本人は直接手を伸ばしていない。
ただ、光を当てている。
その光を見た周囲が動き出す。
そういう形だ。
「参加したいのですか」
俺が尋ねると、ニールは少し考えた。
「古代史の研究会自体には興味があります」
「はい」
「ですが、私が参加することで、平民奨学生の代表のように見られるのではないかと」
よく見えている。
以前より、かなり危うさを見られるようになっている。
「良い警戒です」
俺がそう言うと、ニールは少し驚いた顔をした。
「警戒していいのですか」
「もちろんです。学びたい気持ちと、利用されたくない気持ちは両立します」
ニールはその言葉を、噛みしめるように聞いていた。
「では、どうすれば」
「参加条件を確認してください」
「条件」
「研究会の目的、参加者、発言内容の扱い、他の場で名前を出される可能性。そのあたりです」
ニールは少し目を丸くした。
「そこまで聞いても失礼ではありませんか」
「失礼に聞こえない言い方をすれば大丈夫です」
俺は言った。
「たとえば、“初めて参加するので、失礼のないよう事前に確認したい”と」
ニールは小さくうなずいた。
「なるほど」
「それでも曖昧にされるなら、少し待ったほうがいいです」
「分かりました」
ニールの顔が少しだけ明るくなる。
その瞬間、また少し嫌な予感がした。
俺の言葉が、彼の行動を変える。
それは良いことかもしれない。
だが、影響が増えるということは、責任が増えるということでもある。
助言は、軽いようで重い。
前世で何度も思い知らされた。
君がそう言ったから。
君が止めなかったから。
君が背中を押したから。
人は、結果が悪くなった時、誰かの言葉を鎖に変えることがある。
俺はそれが怖い。
だが、ここで何も言わなければ、ニールはもっと危ない場所へ無防備に入っていくかもしれない。
本当に面倒だ。
見えてしまうことは、いつも面倒だ。
「アルバート」
今度はギルバートが来た。
隣にはクラウスもいる。
ギルバートの表情は不機嫌だった。
クラウスは、いつも通り冷静だ。
「おはようございます。レイヴン様、ヴェルナー様」
「昨日の勉強会の後、俺にも声がかかった」
ギルバートは前置きなく言った。
「誰からですか」
「ローレンス・ベルティエだ。クラインベルク先輩の周囲にいる男だ」
やはり。
「何と?」
「今後、アルバートと連携するなら、上級生側との窓口を持っておいたほうがいい、と」
俺は目を閉じたくなった。
連携。
窓口。
勝手に俺を制度か何かにしないでほしい。
クラウスが眼鏡を押し上げた。
「要するに、ギルバート様を通して君を見たいということだね」
「なぜ私を見る必要があるのですか」
「君が見えにくいからだよ」
クラウスは淡々と言った。
「どの派閥にも属さない。だが、相談制度には関わる。平民奨学生とも話す。侯爵令嬢とも距離が近い。ギルバート様には友人と言われた。ユリウス様にも目をかけられている」
「並べないでください。胃が痛くなります」
「現実だ」
やめてほしい。
現実ほど、時に人を追い詰める言葉はない。
クラウスは続けた。
「君は中立でいたいのだろう。でも、周囲から見れば、中立というより未所属の重要物件だ」
「物件」
「失礼。人材」
「言い直してもあまり変わっていません」
クラウスは少しだけ笑った。
「だからこそ、今後は君に直接来る者と、君の周囲に来る者が増える」
「周囲に」
「ニール君、ギルバート様、グランベル様、ロッセ嬢、場合によっては君のご実家にも」
その言葉で、胸の奥が冷えた。
実家。
兄。
父。
母。
アルバート男爵家。
俺が王都で目立てば、家にも影響する。
分かっていた。
分かっていたつもりだった。
だが、クラウスに言葉にされると、急に現実味が増した。
「アルバート」
ギルバートが低く言った。
「何か来たら、俺に言え」
「ありがとうございます」
「本気で言っている」
「分かっています」
「分かっている顔ではない」
そうだろう。
俺はたぶん、また笑おうとしていた。
大丈夫です、と。
そう言って、場を終わらせようとしていた。
だが、その言葉を出す前に、喉の奥が少し詰まった。
『君なら、このくらい大丈夫だよね』
前世の声が、薄く蘇る。
便利な人間。
断らない人間。
笑ってくれる人間。
自分より相手を優先する人間。
そう見られるたびに、俺の中身は少しずつ削られていった。
俺は息を整えた。
「……大丈夫とは、少し言いづらいですね」
ギルバートの表情が変わった。
クラウスも、少しだけ目を細める。
「では、大丈夫ではないということだな」
ギルバートが言う。
「そこまででは」
「言いづらいなら、そういうことだ」
強引だ。
だが、今は少しありがたかった。
クラウスが静かに言った。
「君は、本当に自分の危機だけ言葉にするのが下手だね」
「よく言われます」
「誰に?」
「最近は、周囲の皆様に」
クラウスは小さく笑った。
「それは改善の兆しかもしれないね」
改善。
そうだろうか。
ただ、隠しきれなくなっているだけかもしれない。
その日の午後。
授業が終わる頃、俺は教師に呼び止められた。
呼び止めたのは、貴族法制の担当である老教師、ハルバート先生だった。
白髪で、背筋の伸びた人物だ。
授業中は厳しいが、言葉は公平で、身分によって態度を変えない。
少なくとも、今のところはそう見える。
「アルバート君」
「はい」
「少し、時間はあるかね」
最近、この言葉を聞くたびに胃が重くなる。
少し。
時間。
あるか。
どれも危険な言葉だ。
「内容によります」
思わずそう答えると、ハルバート先生は眉を上げた。
そして、少しだけ笑った。
「なるほど。噂通り慎重だ」
噂通り。
また噂だ。
俺は頭を下げた。
「失礼しました」
「いや、よい。むしろ学生にはそれくらいの慎重さがあったほうがいい」
先生は一枚の紙を差し出した。
「先日の相談制度に関する守秘条項、君の意見が入っていると聞いた」
誰から聞いたのか。
聞くまでもない。
おそらく学生自治会か、ユリウス先輩か、その周辺だ。
「少し意見を述べただけです」
「その“少し”が良かった」
褒めないでほしい。
本当に褒めないでほしい。
「来週、貴族法制の授業で“個人の名誉と公益”について扱う。よければ、君の考えを短く聞かせてもらえないか」
来た。
教師側からも来た。
俺は黙った。
これは、学生同士の噂よりさらに重い。
授業で発言する。
教師から意見を求められる。
それは、ただの発言ではない。
学院内で“考えを持つ生徒”として認識される。
つまり、さらに目立つ。
「恐れながら、私はまだ一年生です」
「それは分かっている」
「学び始めたばかりの者の意見を授業で扱うのは、かえって場を乱すかもしれません」
「謙遜かね」
「保身です」
ハルバート先生は一瞬、目を丸くした。
それから、低く笑った。
「正直だな」
「最近、正直に言わないと余計に巻き込まれることを学びました」
「では、こうしよう。君に発表を求めるのではない。私が授業で匿名の事例として扱う。必要があれば、あとで君に内容の確認だけを頼む」
内容確認。
まただ。
また内容確認だ。
俺は少しだけ遠い目をした。
ハルバート先生は、俺の表情を見て言った。
「その顔は、何か心当たりがあるようだな」
「最近、確認だけという言葉から役割が増えることがありまして」
「なるほど。では、明確に書面に残そう。君の名は出さない。発表も求めない。内容確認以上の役割は頼まない」
先生はそう言った。
ここまで言われると、断りづらい。
いや、違う。
断りづらくさせるためではなく、本当に線を引いてくれている。
少なくとも、そう見える。
俺は頭を下げた。
「その条件でしたら」
「助かる」
助かる。
その言葉に、少し胃が重くなる。
助けてしまった。
また。
先生は悪い人ではない。
むしろ、こちらの線を尊重してくれている。
それでも、俺の名はまた見えない場所で使われる。
匿名であっても、意見は残る。
それが、いつか俺に戻ってくるかもしれない。
廊下へ出ると、セシリア・グランベルが立っていた。
当然のように。
いや、偶然かもしれない。
だが、最近の俺は、彼女の偶然をあまり信じていない。
「アルバート様」
「グランベル様」
「お疲れの顔ですわね」
「今日は少し、色々ありました」
「大丈夫ですか?」
その言葉に、体が一瞬強張った。
セシリア嬢はそれを見逃さなかった。
だが、何も言わなかった。
ただ、少しだけ言い方を変えた。
「今、答えなくても大丈夫です」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
大丈夫ですか、と聞いておきながら、すぐ答えなくてもいいと言う。
この人は、本当に距離の取り方が厄介だ。
近いのに、踏み込まない。
「ありがとうございます」
俺は言った。
「少し、疲れています」
言えた。
言ってしまえば、案外何も起きなかった。
セシリア嬢は大げさに心配もしない。
助けましょうか、と迫ってもこない。
ただ、静かにうなずいた。
「では、少し歩きませんか。人の少ない中庭のほうへ」
「内容によります」
「内容は、歩くだけです」
「それなら」
俺たちは中庭へ出た。
夕方の風が少し冷たい。
セシリア嬢は、俺の斜め前を歩いた。
横に並びすぎない。
後ろにも回らない。
前を塞がない。
本当に、この人は距離の取り方がうまい。
「今日、何かありましたか」
「ニール君が研究会に誘われ、レイヴン様が窓口を求められ、私は教師から授業内容の確認を頼まれました」
「一日で?」
「はい」
セシリア嬢は少しだけ目を伏せた。
「ユリウス様ですね」
「おそらく」
「直接命じてはいない」
「はい」
「ただ、光を当てている」
その言葉に、俺は足を止めた。
光。
そうだ。
ユリウス先輩は、俺を引っ張っているわけではない。
命令しているわけでもない。
ただ、俺がいる場所に光を当てている。
すると周囲が気づく。
教師が気づく。
上級生が気づく。
派閥が気づく。
利用価値に気づく。
「……光を当てすぎることは」
俺は小さく言った。
「焼き殺すことと同じです」
セシリア嬢は、何も言わなかった。
俺は続けた。
「花なら枯れる。紙なら焦げる。人なら、逃げ場を失う」
言ってから、自分で少し驚いた。
思ったより、声に毒が混じっていた。
だが、セシリア嬢は驚かなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「ユリウス様は、それを分かっていないのでしょうか」
「分かっていないわけではないと思います」
俺は中庭の木々を見た。
「たぶん、焼ける前に正しい場所へ移せばいいと思っている」
「正しい場所」
「はい」
ユリウス先輩なら、きっとそう考える。
才能があるなら、目立つ場所へ。
価値があるなら、使える場所へ。
声が届くなら、届くべき場所へ。
本人が隠れたいと思っていても、それは自己評価が低いだけだと判断する。
そして善意で、引き上げる。
本人の人生を、本人より先に配置する。
「善意だからこそ、拒みにくいですわね」
セシリア嬢が言った。
「はい」
「あなたは、そういう善意が怖いのですね」
答えられなかった。
怖い。
確かに怖い。
前世でもそうだった。
好きだから。
心配だから。
君のためだから。
君ならもっとできるから。
私があなたを分かっているから。
その言葉はいつも、こちらの意思より先に場所を決めた。
どこへ行くべきか。
誰といるべきか。
何を選ぶべきか。
好意は、時に侵食だった。
俺の人格の上に、誰かの理想像を塗り重ねていく行為だった。
「怖いです」
俺は言った。
今度は、はっきり。
セシリア嬢は、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
それだけだった。
同情も、慰めもない。
だが、それでよかった。
セシリア嬢はしばらく歩いてから言った。
「なら、覚えておいてください」
「何をですか」
「あなたが怖いと言ったことを、わたくしは聞きました」
俺は彼女を見る。
「そして、怖いと言える相手がいることは、悪いことではありません」
胸の奥が、少し痛んだ。
優しい言葉だった。
だが、押しつけではなかった。
期待でもない。
ただ、そこに置かれた言葉だった。
俺は返事に困り、結局こう言った。
「……覚えておきます」
セシリア嬢は、少しだけ微笑んだ。
その日の放課後。
俺は呼び出された。
呼び出したのは、ユリウス・クラインベルク本人だった。
場所は、東棟の小応接室。
前回よりも小さな部屋。
人払いがされている。
中にいたのは、ユリウス先輩とマティアス先輩。
そして、なぜかギルバートもいた。
ギルバートは俺を見ると、少し気まずそうに言った。
「俺も呼ばれた」
「なぜですか」
「分からん」
分からないまま来るのか。
いや、来るだろう。
ギルバートはそういう男だ。
ユリウス先輩は穏やかに笑った。
「レイヴン君にも関係がある話だからね」
「私にも、ですか」
ギルバートが警戒した声で言う。
ユリウス先輩はうなずいた。
「君はアルバート君の友人として隣に立つと言った。なら、彼がどのように扱われるかにも関心があるだろう」
ギルバートは黙った。
正論だ。
本当に、この人は正論がうまい。
ユリウス先輩は俺に視線を向けた。
「アルバート君。今日は謝罪から始めよう」
「謝罪、ですか」
「私は、少し君に光を当てすぎたらしい」
背筋が冷えた。
セシリア嬢との会話を知っているのかと思った。
だが、違うだろう。
おそらく、彼自身も気づいている。
いや、周囲の動きを見て分かっているのだ。
自分の言葉が、どれだけ周囲を動かしたか。
「教師や上級生が君に接触し始めている。私が君を評価したからだ」
ユリウス先輩は、悪びれずに言った。
「それは、君にとって負担だっただろう」
「ご理解いただけるなら、今後は控えていただけると助かります」
俺が言うと、ユリウス先輩は微笑んだ。
「完全には難しい」
ギルバートが眉を寄せる。
俺は静かに息を吐いた。
「理由を伺っても?」
「君の能力は、隠しておくには惜しいからだ」
来た。
やはり来た。
「男爵家の片隅で、君のような才能が腐るのは損失だ」
その言葉は、あまりに自然だった。
ユリウス先輩は本気でそう思っている。
悪意はない。
侮辱のつもりもない。
むしろ、最大限の評価なのだろう。
だが、その言葉は俺の胸を冷たく刺した。
男爵家の片隅。
腐る。
損失。
俺の望む場所を、彼はそう呼んだ。
兄を支えて、領地で静かに暮らす未来。
俺にとっては、ようやく得たかった平穏。
それを、彼は損失と言った。
「クラインベルク先輩」
ギルバートが低い声を出した。
「その言い方は」
「悪かったかな」
ユリウス先輩は本当に不思議そうに聞いた。
その表情を見て、俺は少しぞっとした。
彼は、傷つけた自覚が薄い。
なぜなら、彼にとってこれは褒め言葉だからだ。
才能を見つけた。
埋もれさせるのは惜しい。
正しい場所へ導く。
それは彼の中で善なのだ。
だからこそ、怖い。
「私は」
俺は言った。
「領地で兄を支える人生を、腐るとは思っていません」
ユリウス先輩が俺を見る。
初めて、少しだけ笑みが薄くなった。
「それは失礼した」
「はい。失礼です」
マティアス先輩が、わずかに眉を動かした。
ギルバートは驚いた顔をした。
俺自身も、少し驚いた。
だが、言った。
言わなければいけなかった。
ここを笑って流したら、俺はまた自分の望む人生を誰かに明け渡す。
ユリウス先輩は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。君は、君自身の平穏を守ろうとしているのか」
「はい」
「だが、それでも君は火種を見れば動く」
「……はい」
「そこが矛盾している」
「分かっています」
「その矛盾を、私は価値だと思っている」
やめてほしい。
俺の矛盾に値札をつけないでほしい。
ユリウス先輩は続けた。
「君は自分の平穏を望みながら、他人の平穏が壊れる瞬間を見過ごせない。なら、君のいるべき場所は、より多くの火種が見える場所ではないかな」
「違います」
即答だった。
自分でも驚くほど早かった。
「それは、火の近くに立てと言っているだけです」
ユリウス先輩の目が細くなる。
「火を消せる者が火から遠ざかるのは、無責任では?」
「火を消せる者を、燃える場所に置き続けるのは、使い潰しです」
空気が止まった。
ギルバートが息を飲む。
マティアス先輩が、静かにこちらを見る。
ユリウス先輩は、笑わなかった。
初めて、笑わなかった。
「君は、私をそう見ているのか」
「はい」
言った。
もう引けない。
「クラインベルク様は、私を傷つけたいわけではないと思います。むしろ、評価してくださっているのでしょう」
「そうだね」
「ですが、その評価は、私の望みより役割を優先しています」
ユリウス先輩は黙っている。
「私は、役割ではありません」
前回も似たようなことを言った。
私は売り物ではない。
今回は、さらに踏み込んだ。
「私は、火消しの道具ではありません」
沈黙。
長い沈黙だった。
マティアス先輩も、ギルバートも、口を挟まない。
ユリウス先輩は、しばらくして静かに息を吐いた。
「……君は難しいな」
「よく言われます」
「誰に?」
「主に、最近関わった皆様に」
ユリウス先輩は少しだけ笑った。
だが、その笑いはいつもの完璧なものではなかった。
少しだけ、困ったような笑いだった。
「分かった。私は、君の望む人生を軽んじた。それは認めよう」
意外だった。
認めるのか。
「ただし」
やはり来た。
「君の才能が必要とされる場があることも、事実だ」
「否定はしません」
「なら、折衷案だ」
折衷案。
嫌な予感がする。
「君を引き上げるのではなく、君が自分で選べる形にする」
「選べる形?」
「そうだ。相談制度や勉強会、研究会、自治会。君の意見が必要な場は、今後も出るだろう。だが、参加するかは君が選ぶ。断る権利も明記する」
「それは以前も確認したはずです」
「今回は、私の周囲にも徹底する」
俺は少し黙った。
「ローレンス様にも?」
「もちろん」
ユリウス先輩はうなずいた。
「私の名を使って君を動かそうとする者がいれば、止める」
それは大きい。
かなり大きい。
だが。
「断った場合は?」
俺が尋ねると、ユリウス先輩は穏やかに答えた。
「理由は聞く」
「理由を、ですか」
「もちろん。君が納得できる理由を持って断るなら、私は無理強いしないよ」
その言葉は、一見すると公平だった。
断る権利を認める。
理由を聞く。
納得できれば無理強いしない。
とても理性的で、紳士的で、正しい。
けれど、違う。
この人は、俺に断る自由を与えているのではない。
断るための理由を、正しさの秤に乗せようとしている。
そして、その秤を持っているのは、この人だ。
「……それは、断る権利なのでしょうか」
俺は言った。
ユリウス先輩は、少しだけ目を細めた。
「どういう意味かな」
「納得できる理由でなければ、断れないという意味にも聞こえます」
「私は、無理強いはしない」
「はい。ですが、説得はされるのでしょう」
「必要があれば」
やはり。
外堀だ。
この人は、檻に鍵をかけない。
ただ、出入り口の前に正論を積み上げる。
乗り越えられないほど綺麗な正論を。
ギルバートが低く言った。
「それでは、断るたびに裁かれるようなものです」
ユリウス先輩はギルバートを見た。
「レイヴン君は、そう感じるのか」
「少なくとも、俺はそう聞こえました」
ギルバートの言葉は、真っ直ぐだった。
不器用だが、今回は外していない。
俺は少しだけ救われた。
ユリウス先輩は、しばらく黙った。
そして、ゆっくりうなずいた。
「なるほど。では、こう改めよう」
彼は俺を見た。
「君には断る権利がある。理由は聞くが、それは君を説得するためではなく、次に同じ負担をかけないために聞く。そう明記する」
俺はすぐには答えなかった。
まだ完全に信用はできない。
だが、少しだけ線は引けた。
「それなら、以前よりは」
「以前よりは?」
「ましです」
ユリウス先輩は、少しだけ笑った。
「手厳しいな」
「最近、曖昧に頷くと役割が増えることを学びました」
マティアス先輩が視線を逸らした。
心当たりがあるのだろう。
「それで、なぜそこまで?」
俺が尋ねると、ユリウス先輩は少し不思議そうな顔をした。
「君を壊したいわけではないからだ」
その言葉は、穏やかだった。
本心だろう。
たぶん。
この人は、本当に俺を壊したいわけではない。
ただ、俺が壊れる前にどこまで使えるかを見誤る。
善意で。
正義で。
だから厄介なのだ。
「クラインベルク様」
「何かな」
「私は、あなたが怖いです」
言った。
ギルバートがこちらを見た。
マティアス先輩も、驚いたようだった。
ユリウス先輩だけが、静かに俺を見ている。
「怖い?」
「はい」
「怒鳴ったことも、脅したこともないつもりだけれど」
「だから怖いのです」
俺は答えた。
「あなたは正しいことを言います。正しい場所、正しい役割、正しい価値。きっと多くの人を救えるのでしょう」
「うん」
「でも、その正しさの中に、本人の逃げたい気持ちが入っていないことがある」
ユリウス先輩は、黙った。
「それが怖いです」
言った。
言い切った。
不思議と、少し息が楽になった。
ユリウス先輩は、長い間何も言わなかった。
そして、静かに笑った。
「君は、私にとっても必要な人間かもしれないね」
胃が沈んだ。
なぜそうなる。
俺は今、あなたが怖いと言ったのだ。
それを必要に変換しないでほしい。
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
今のは評価ではない。
好意でもない。
配置だ。
この人の正しさの中に、俺の席が作られた。
俺が望んだわけでもない場所に、当然のように椅子を置かれた。
怖いと言った俺の声さえ、この人にとっては、自分の正しさを補う部品になる。
それが、たまらなく怖かった。
ユリウス先輩は続けた。
「私の正しさに、逃げたい者の視点を入れられる」
まただ。
また役割に変換された。
だが、今度は少し違った。
彼は初めて、自分に足りないものとして俺を見た。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
たぶん、両方だ。
「君を無理に引き上げることはしない」
ユリウス先輩は言った。
「だが、君が必要だと思った時には声をかける。君は断っていい」
「断った場合は、理由を聞く」
俺がそう言うと、ユリウス先輩は少し笑った。
「訂正しよう。理由は聞く。ただし、君を裁くためではない」
「……覚えておきます」
信用はできない。
だが、完全に突っぱねることもできない。
ギルバートが横から言った。
「その場には、俺も同席します」
「毎回かい?」
ユリウス先輩が尋ねる。
ギルバートは少し考えた。
「必要なら」
「君は本当に、アルバート君の隣に立つつもりなのだね」
「はい」
その返事は、迷いがなかった。
俺の胸が少し重くなる。
だが、今はそれを否定しなかった。
ユリウス先輩は、少しだけ楽しそうに笑った。
「いい友人だ」
「はい」
ギルバートが答えた。
俺は何も言わなかった。
だが、否定もしなかった。
話し合いは、それで終わった。
完全に解決したわけではない。
だが、ユリウス先輩の周囲が俺を勝手に動かそうとする流れには、一応の線が引かれた。
問題は解決した。
少なくとも、表面上は。
しかし、俺の平穏はまた死んだ。
なぜなら、ユリウス先輩は俺を諦めていない。
むしろ、俺を「自分の正しさに必要な視点」として認識した。
これは、評価より厄介かもしれない。
応接室を出ると、ギルバートが隣に並んだ。
「大丈夫か」
俺は少し迷った。
そして、答えた。
「少し、疲れました」
ギルバートはうなずいた。
「なら、茶を飲め」
兄と同じことを言う。
思わず笑ってしまった。
ギルバートが少し驚く。
「何だ」
「いえ。兄にもよく言われます」
「そうか。良い兄だな」
「はい」
素直にそう言えた。
その夜。
俺は兄への手紙を書いた。
『兄上。
本日、クラインベルク様と話しました。
あの方は、私を悪意で使おうとしているわけではありません。
むしろ、善意で正しい場所へ導こうとしてくださっています。
だからこそ、怖いです。』
筆が止まる。
少し迷ってから、続けた。
『私は、領地で兄上を支える人生を、腐るとは思っていません。
そのように伝えました。
また、私は火消しの道具ではないとも言いました。』
書きながら、少し手が震えた。
これほどはっきり自分の望みを書いたのは、久しぶりだった。
いや、初めてかもしれない。
最後に、こう書いた。
『ご心配には及びません。
今日は、大丈夫ですとは書きません。
少し疲れました。
ですので、茶を飲んでから眠ります。』
封をして、俺は息を吐いた。
大丈夫ではない時に、大丈夫と書かない。
それだけのことが、少し難しかった。
でも、できた。
窓の外には、王都の夜があった。
明るすぎる夜。
逃げ場を奪うような光。
俺はカップに茶を注いだ。
湯気が上がる。
光を当てられすぎた日は、せめて影の中で茶を飲みたい。
そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。
翌朝。
教室に入ると、机の上には封書がなかった。
資料もない。
相談もない。
珍しく、何もない朝だった。
俺は少しだけ安堵した。
だが、黒板の端に掲示された一枚の紙を見て、その安堵はすぐ消えた。
『来週の貴族法制授業にて、相談制度と守秘義務に関する特別講義を行う』
その下には、小さくこう書かれていた。
『参考意見提供者:匿名』
匿名。
名前はない。
約束は守られている。
守られているのに、俺には分かった。
これは俺の意見だ。
俺の言葉が、授業になる。
匿名という名の透明な鎖。
名前を晒されるよりも、よほど厄介だった。
俺という個人は隠されている。
けれど、俺の考えだけが、俺から切り離されて“便利な概念”として歩き始めている。
名前がないから安全なのではない。
名前がないからこそ、どこまで広がったのか分からない。
ユリウス先輩ではない。
教師の判断だ。
制度のためだ。
学びのためだ。
きっと、良いことなのだろう。
それでも。
光は、また少し強くなった。
横からギルバートが言った。
「アルバート」
「はい」
「茶、足りているか」
俺は黒板を見たまま、小さく答えた。
「足りないかもしれません」
ギルバートは真顔でうなずいた。
「では、俺も用意する」
やめてほしい。
と思った。
けれど、少しだけ笑ってしまった。
平穏は遠い。
逃げ場も狭い。
それでも今は、茶を増やしてくれる友人がいる。
その事実だけは、悪くないのかもしれない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ユリウスの「善意で正しい場所へ導こうとする怖さ」と、リオネルの線引きを描く回でした。
悪意ではなく、正しさで人を追い込む相手。
リオネルにとって、ユリウスはかなり厄介な存在になってきました。
それでもリオネルは、自分は火消しの道具ではないと少しずつ言えるようになっています。
逃げたいのに光を当てられてしまうリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




