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第4話

 アリは床に座って、興味深そうに紙袋を覗き込む。


「これ、食べ物?」


「そう。チキン。鳥」


「鳥、おいしそう」


 アリは一瞬考えて、それからひとつ取り出した。

 噛み付くと熱された蒸気が噴き出し、舌に唐辛子から作られたソースが触れる。サクッという音がした。

 次の瞬間、アリが目を見開く。

 人間とは違い、瞳孔の無い瞳だった。


「……あつい。おいしい」


 ハヌルも一口食べる。

 油と塩とスパイスの味。

 舌にしっかりと“生きている”感覚が戻ってきた。


「冷める前に食えよ」


「うん」


 ふたりで黙ってチキンを食べる。

 夕暮れの光が壁の穴から差し込んで、油紙の上で反射した。


 遠くで雷が鳴った。

 雨が降りそうだった。

 でも、ハヌルの胸の中だけは、少し温かかった。


 カシャ。


 指を舐めて綺麗にしたアリがポラロイドカメラを構えていた。

 ただチキンにかぶりついているだけの姿を撮られて、ハヌルは少しだけ気恥ずかしくなった。


「貸せよ、俺ばっか撮られてるじゃんか」


 ハヌルがカメラを取り、アリへとそのレンズを向ける。二つ目のチキンを取り上げてかぶりついたアリの姿を、カメラで写し取る。



 夜になっても、涼しい風は止まなかった。

 壁の隙間から吹き込むたびに、畳の上の新聞紙が小さく揺れる。


 アリは、ポラロイドの写真を床に並べていた。

 昼の海、ソーダアイス、そしてチキンにかぶりつくアリとハヌル。

 白い余白がまだ残っていて、光の粒が浮かんでいる。


「これは、なに?」


「写真。思い出ってやつ」


「おもいで?」


 ハヌルは少し考えて、「過ぎた時間のことだよ」と言った。

 アリはふむ、と頷いてから、指先で写真の角を撫でた。


「すぎた時間は、どこにいくの?」


「さあな。もう、戻ってこないよ」


「でも、ここにいるよ」


 アリがそう言って、二人が写った写真を胸に当てた。

 瞳孔のない瞳が、まっすぐハヌルを見ていた。

 その目の中に、ハヌル自身の姿が小さく映っていた。


 ハヌルは何も答えられず、ただ黙って目を伏せた。

 少し冷えたチキンの匂いと、湿った木の匂いが混ざっていた。

 外からは虫の声がして、遠くで電車の音が響いていた。


「ハヌル」


「ん?」


「おやすみ」


 その言葉だけが、あたたかかった。


 ハヌルは小さく息を吐いて、アリに倣って床に横になった。

 家では絶対に有り得ないことだった。床に寝転ぶなんてだらしが無いと母には怒られる。でも、いまだけは自由だった。

 目を閉じると、まぶたの裏に、波と光とアリの笑顔が残っていた。


 ──この夜、ハヌルは何も考えずに眠った。勉強にも、母からの優しさにも似た期待にも、父からの無言の圧にも晒されず、ただ穏やかに眠ることのできた、夜だった。

 それは、ずっと忘れていた“普通の眠り”だった。



────


 朝が来ていた。

 ハヌルは初めて、母の声以外で起きることができた。起きてすぐに数学のテキストを解くことも無く、無理に食事をしろとも言われる事もない。

 母の、朝から作られるソルロンタンの淡い香りも無い。


 薄い風が、破れた壁の隙間から流れ込んでくる。

 小屋の中はまだ青く、光はやわらかかった。

 穏やかな朝だった。


 アリは、既に起きていた。

 窓際に立ち、外を見ている。

 遠くで鳥が鳴く。

 その声が、静かな部屋を通り抜けていった。


 ハヌルは、しばらくその背中を見つめていた。

 陽の光がアリの髪の先に触れ、まるで光そのものが形を持ったようだった。

 言葉をかけようとして、やめた。


 ハヌルは、まるでそうすることが正しいのだと言うかのようにポラロイドカメラを手に取る。

 ゆっくりと構える。

 そして、シャッターを押した。


 カシャ。


 音が、空気を震わせた。

 その音に、アリが振り向く。

 光の中で、無表情に、でも確かに微笑んだ。


「……おはよう」


 ハヌルは小さく笑って言った。

 アリは少し首を傾け、窓の外の光を指さした。


「ひかりが、きれいだよ」


 その声が、朝の風に混ざって消えた。

 ハヌルはポラロイドの白い紙を見つめる。

 まだ何も浮かんでいない。

 けれど、そこにはたしかに“いま”が焼きついていた。


 アリが床に座り、光の粒を追っている。

 ハヌルは鞄を開け、中を探った。

 奥から、小さな弁当箱が出てきた。

 昨日の朝、母が渡してくれたもの。

 昼も夜も食べなかった、それがまだそのまま残っている。


「……これ、まだ食べれるかな」


 弁当箱の蓋を開ける。

 中には、少し乾いたチュモッパッが並んでいた。

 ごま油の香りが、ほのかに残っている。

 それだけで胸が詰まる。

 腐らないように全体に梅が混ぜこまれている。それが母親の親心だなんてこと、ハヌルは知っていたのだ。


「それ、なに?」


「チュモッパッ。母さんが作ったやつ」


 アリは首を傾げて、その小さな丸い形をじっと見つめた。

 ハヌルは一つつまんで、口に入れた。

 少し硬くなっていたけど、ちゃんと味がした。


「……まだ食べれる」


 その言葉に、アリが小さく笑った。

 ハヌルはひとつ、アリにも差し出した。


「食ってみる?」


 アリは一瞬だけ迷って、それから頷いた。

 チュモッパッを手に取ったアリは、何のためらいもなく、口に入れた。

 数回噛んで、飲み込む。やっぱりアリが食べるとチャッチャッと音がする。

 口の周りを軽く舐めて、手の指もペロペロと舐める。


「……おいしいね」


 その言葉は、まるで当たり前のことを言うみたいに軽かった。

 でも、その言葉でハヌルの中で何かが崩れた。


 胸の奥がぎゅっと痛くなった。

 喉が熱くなって、視界がにじむ。

 急に息がうまくできなくなった。


「……そうだよな」


 ハヌルは笑おうとして、笑えなかった。


「美味いんだよ、俺の母さんの料理は……本当は、美味かったんだよ」


 ハヌルの頬を伝う涙を、アリはただ見ていた。

 その意味を知らないまま、手の中のチュモッパッをもう一つ口に入れた。


 外では、夏の風が少し強く吹いた。

 光が壁の隙間から差し込んで、二人の影がゆっくり重なった。



 昼前の陽射しが、昨日よりも少し強かった。

 アリは裸足のまま、はしゃぐように道を歩いていく。ハヌルは足の裏は熱くないのかと聞きかけて、アリが人間かどうかも分からないのだということを思い出す。

 道端の草が風に揺れて、影がアスファルトに揺らめいた。


 村の入り口にある商店の前で、アリがぴたりと足を止める。

 冷凍ケースの中を覗き込みながら、目を輝かせた。


「これ」


 青い棒付きのソーダアイス。

 昨日と同じもの。


「またそれかよ」


 ハヌルは笑った。


「好きだな」


 アリは頷く。


「たべると、光の味がする」


「光の味?」


「うん。すこし甘い」


 意味なんて分からなかった。

 けれどその言葉が、どうしようもなく優しく聞こえた。


 ハヌルはポケットから小銭を出した。

 銀色の音が落ちる。

 店の老婆が笑って、二本のアイスを紙袋に入れた。


 外に出ると、陽射しが眩しかった。

 アリは袋から一本取り出して、すぐにかじる。

 冷たさに肩をすくめて、楽しそうに笑った。


 ハヌルも一口かじる。

 昨日と同じ甘さ。

 でも、少し違って感じた。


 青い雫がアリの指先から落ちて、地面に染みをつくる。

 その染みが陽の光で乾いていくのを、ハヌルはずっと見ていた。

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