第3話
歩くたびに、草が足首に触れる。
蜂の羽音と、川の流れる音が近づいてくる。
道の終わりに、古い小屋が見えた。
壁の一部は剥がれ、屋根のトタンが風に鳴っている。
少女は振り返って笑った。
「……ここ」
ハヌルは立ち止まった。
どう見ても、人が住むような場所じゃない。
けれど、少女の目はまっすぐだった。
「……お前、ここに住んでるのか?」
少女は、ゆっくり頷いた。
その仕草が、まるで“誇らしい”という感情を初めて覚えたみたいだった。
ハヌルは少し息を吐いた。
「……マジかよ」
そう言いながらも、ハヌルは結局、靴を脱いで中に入っていた。
小屋の中は、思ったよりも広かった。
床板はところどころ抜け、壁の隙間から朝の光が差し込んでいた。
誰かが昔、ここで暮らしていたらしい。
窓際に、欠けた茶碗がひとつ。
破れた座布団。
湿った新聞紙が畳の上に散らばっている。
ハヌルは息を吐いた。
ここには、時間が止まったまま残っていた。
けれど、不思議と怖くはなかった。
少女は、部屋の隅に座り込んだ。
窓の外を見ながら、小さく足を揺らしている。
「……誰も、来ないのか?」
ハヌルが尋ねると、
少女は少し考えるように首を傾げ、
「こない」と短く言った。
「アリ、俺の名前はハヌルだ。ただのハヌル」
「ただの、ハヌル」
ただ反復するように返す、その言葉の響きが、あまりにも静かで、まるでこの家そのものが答えているみたいだった。
ハヌルは壁に背を預け、ポケットの中の財布を取り出した。
中には折り畳まれた紙幣がいくつか。
ちゃんと数えたことはない。
けれど、少なくとも一週間程度なら食べていけるだろう。
「……宿代には足りないな」
小さく呟くと、アリがこちらを見た。
その目は意味を問うでもなく、ただ真っ直ぐだった。
「泊まっていいのか?」
少女は頷いた。
「ここ、誰も来ない」
ハヌルは少し笑った。
それが慰めにも、冗談にも聞こえた。
「……そうか」
座布団を引き寄せて座り込み、
アリの視線の先──割れた窓の外に目をやった。
朝の光が差し込み、塵が金色に舞っていた。
それがまるで、この世界の残された優しさみたいだった。
空は、青かった。
雲の形がくっきりしていて、動くたびに影が道を横切った。
遠くで草を焼く匂いがして、その向こうから、蝉の声が濁って聞こえた。
アスファルトの端で、熱がゆらゆら揺れている。
駅前の売店は、半分シャッターが閉まっていた。
アリはその前で足を止め、冷凍ケースの中を覗き込んだ。
青い棒付きのアイスが並んでいる。
ハヌルは一瞬迷ってから、ポケットの小銭を出した。
銀色の音が、静かな昼に落ちた。
「これ」
アリが指をさす。
「アンタ、どこから来なすった。こんななーんもない田舎に」
老婆の問いに、ハヌルは「休みをもらったんです」と告げる。
そしてハヌルは二本のアイスを買った。
包み紙を開けると、ソーダの匂いがふっと上がった。
風が止まって、蝉の声が耳に刺さった。
アリは一口かじって、びくっと肩をすくめた。
「つめたい」
ハヌルもひと口かじる。
舌の上に、ほんの少しの甘さが残った。
「……甘いなぁ」
それだけ言って、二人は並んで、ゆっくりアイスをかじりながら歩いた。
ハヌルの母親がいれば、行儀が悪いと叱っただろう。
アリの唇から、チャッチャッと音がする。それだって、ハヌルの母親が聞いたら汚らしいと言っただろう。
でもどうしてか、いまのハヌルにはそれが心地良かった。
溶けた青い雫が、アリの指を伝って落ちた。
地面に小さな染みができて、すぐに乾いた。
アリは急に立ち止まった。
日差しの中で、ポラロイドカメラを構える。
「なにして──」
カシャ。
軽い音がして瞬間、白い紙が押し出された。
ハヌルは少し目を瞬かせる。
口にはまだ、アイスの棒が残っていた。
「撮ったのか?」
「うん。食べてたから」
アリは何でもないように言った。
写真の中では、まだ何も浮かんでいない。
風が吹いて、写真の端が、青い空を映した。
ハヌルは言葉を探して、それから黙った。
自分が“生きてる瞬間”を、誰かが見てくれたのは初めてだった。
海まで続く坂道を、二人で歩いた。
日差しが背中を焼く。
けれど海風がそれを少しだけやわらげた。
アリはソーダアイスを持ったまま、波の方へ駆けだした。
足元に泡が散って、水しぶきが光の粒みたいに跳ねた。
「冷たい!」
ハヌルも笑って追いかける。
スニーカーの中まで水が入って、砂が指の間に張りついた。
二人は波を蹴って、互いにかけ合って、そして笑った。
アリがポラロイドを構える。
カシャ。
水と光と笑い声だけが写る。
それはきっと、どの言葉よりも“生きている”瞬間だった。
アリが笑いながら波を蹴った。
飛沫が陽の光を受けて白く散る。
ハヌルも負けじと波を蹴り返した。
水音と笑い声が重なって、夏の海はどこまでも眩しかった。
ふと、ハヌルの頬に熱いものが伝った。
目の奥が熱くなって、鼻の奥がツンとする。
「……目の中に、海水が入った」
ハヌルは笑って言った。
でも、そんなハヌルの声が少しだけ震えていた。
アリは首をかしげて、そっとハヌルの目元を覗き込んだ。
「痛い?」
「平気だよ」
風が吹いて、二人の髪を揺らした。
海の光の中で、ハヌルは少しだけ笑った。
その笑顔は、ほんの少しだけ“生きてる”に近かった。
カシャ。
また、ポラロイドカメラから写真が吐き出された。
海からの帰り道、風が少し冷たくなっていた。
アリの髪が乾かないまま、頬に貼りついている。
空はまだ明るいのに、遠くで雷の音が小さく鳴った。
「……腹減った」
ハヌルが呟くと、アリがこちらを見上げた。
「はらへった」
「食べたいってこと」
「ぼくも食べたい」
その即答に、ハヌルは少し笑った。
商店街の入り口には、油の匂いが漂っていた。
古びた看板に「치킨(チキン)」の文字が並んでいる。
中からテレビの音と、油の弾ける音が混ざって聞こえる。
「二人分ください」
そう言うと、店のおばちゃんが「はいよ。妹さんとお出かけかい? いいねぇ」と笑って紙袋を差し出した。
袋の底が温かくて、指先に油の匂いが移る。
あばら家に戻ると、部屋の中は少し湿っていた。




