第2話
耳鳴りのような音の中で、ハヌルは息を整えようとした。
でもうまくできなかった。
まぶたが、ゆっくりと閉じていく。
眠ったというより、沈んでいくようだった。
列車の揺れが波みたいに体を包む。
夢の中で、誰かが呼んだ気がした。
けれど、言葉の意味はわからなかった。
そして、電車はまだ知らない駅に止まった。
電車が止まって、静かになった。
どこの駅なのか、朽ちかけた看板は読めなかった。
夜の終わりと朝の始まりが、空の端で曖昧に混ざっている。
窓の外の空は、薄い桃色をしていた。
霧が低く流れ、遠くの山の稜線が光を帯びている。
ハヌルはしばらく動けなかった。
これほど静かな朝を、彼は初めて見た。
空気が新しい匂いをしていた。
息を吸うと胸が痛いほど冷たくて、でも、それが気持ちよかった。ハヌルはようやく、呼吸ができたような心地がした。
駅のホームには誰もいなかった。
電車のドアが自動で開き、ハヌルはゆっくりと外へ降りた。
足元のコンクリートに、朝露が光っていた。
遠くで鳥が鳴いていた。
世界の音がひとつひとつ、彼の中に戻ってくるようだった。
どこかも知らない駅。ハヌルは改札を抜けて遠くの空を見つめた。美しい色だった。
そのとき、背後から小さな声がした。
「……あんの」
聞き慣れない、少し濁った発音。
舌がうまく動いていないような、子どもみたいな声だった。
声の方向を見たとき、そこにいたのは人間ではなかった。
茶色い肌。白目も瞳孔もない黒い大きな目。臼歯だけが並ぶ広い口。細い手足。
朝の光を受けるたび、輪郭が水面みたいにわずかに揺れた。
それは一歩、こちらへ近づき、立ち止まった。
ハヌルの顔をじっと見る。額、目、頬、口元。視線が面ではなく線でなぞるみたいに動く。
息の音が、聞こえた気がした。模倣の前の、長い観察。
そして──笑った。
臼歯しかない口元が、ぎこちなく横にひらく。
次の瞬間、輪郭がふっと沈み、立ち上がる。
髪が生え、皮膚の色が薄くなり、指の数は四のまま、骨格だけが人間のそれに寄っていく。
黒いショートカット、白いショートパンツ、少し大きめのTシャツ。身長は変わらず、一四〇センチメートルほど。
ハヌルは息を呑んだ。
「……なんだ、これ。夢か?」
答えはない。
ただ、少女はさっきより上手に──笑った。口の中には臼歯しか無いように見える。
「……名前は?」
気づいたら、ハヌルが口にしていた。
「……なまえは?」
同じ音を返す。舌足らずだけど、意味はまっすぐだった。
名前が、ない。
その可能性が胸の中で小さく鳴った。呼びかける言葉がないと、距離が測れない。
「名前がないなら、やるよ」
ハヌルは朝の空を一度だけ見上げ、ゆっくりと戻ってきた視線の先で言った。
「お前は、アリだ。サラン・アリ。愛を患うって意味」
「……アリ?」
彼女──もう“彼女”と呼ぶ以外に言い方が見つからない存在──は、その音を転がす。
頷く。小さく、でも確かに。
「うん。アリ」
「アリ」
名が落ち着く。
呼びかけが生まれ、世界の端が少しだけ近くなる。
朝の光が二人の間を渡っていき、ハヌルはようやく、深く息を吐いた。
彼女は、笑っていた。
どんな理由で笑っているのか、分からなかった。
けれど、その笑顔の中には、ハヌルの知らない“何かが始まる音”があるような気がした。
彼女は、何かを言いたそうに口を開いたが、結局、それ以上言葉は出なかった。
少女が口にした「あんの」だけが、空気の中に残った。
そして、不意にハヌルは息をのんだ。どうしてこんな朝早くにこんな子供が?
そう問いかけようとした声が、喉の奥で止まった。
代わりに、ゆっくりと頷いた。
少女は嬉しそうに目を細め、ほんの少し、歯を見せて笑った。
朝の光が、ふたりの間を照らしていた。
それが、この世界で最初の挨拶だった。
ハヌルは階段を降り、駅舎を抜けた。
朝の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
道の先には田畑が広がり、遠くで鳥の声が聞こえた。
振り返ると、あの少女がついてきていた。
裸足のまま、砂利の上に立っている。
「……なんでついてくるんだよ」
少女は首を傾げた。
その仕草が少し遅れていて、誰かの真似をしているみたいだった。
「付いてくるなよ」
ハヌルの声は思ったより強く響いた。
少女のまぶたが一度だけ揺れた。
少しの沈黙のあと、ハヌルはため息をついた。
「……じゃあさ、俺がじゃんけんで勝ったら、ついてくるなよ」
「じゃんけん?」
少女はその言葉を真似するように繰り返した。
「そう。手で出すんだ、ほら」
ハヌルは手を上げて、指を広げて見せた。
少女は、しばらくその手を見つめていた。
そして、不思議そうに自分の手を見た。
彼女の手には指が、四本しかなかった。
その事実に、彼女はほんの一瞬、動きを止めた。
何かを考えようとして、考え方を知らないように、ただ静かに手を見つめていた。
ハヌルはそれに気づいたけれど、何も言わなかった。
「いくぞ、じゃんけん──」
ふたりの手が、同時に動いた。
ハヌルはグー、少女もグー。
「……あいこか」
少女は“勝ち負け”の意味を理解していないのに、にこっと笑った。
その笑顔に、朝の光が透けていた。
ハヌルは小さく息を吐いて、「……まあ、あいこなら、仕方ないな」と呟いた。
そしてハヌルは歩き出した。
少女は、少し遅れて、またその後をついてきた。
ハヌルは振り返らなかった。
でも、背後の足音が、妙に心地よかった。
田んぼの上に、朝の霧が残っていた。
土の匂いが強くて、遠くで牛の鳴く声がした。
ハヌルは、どこへ行けばいいのか分からず、駅前の小道に立ち尽くしていた。
村に入っても、宿なんてあるのか分からない。
財布の中には、多少のお金と交通カードだけ。
後ろで、かすかな足音がした。
まだ、ついてきている。
「……だから、ついてくんなって」
振り向くと、少女はまた首を傾げた。
しばらく見つめ合って、少女は口を開いた。
「……こっち」
その言葉は、たどたどしく、でも確かに、誘う声だった。
「こっち?」
ハヌルは眉をひそめた。
少女はもう一度頷いた。
田んぼの脇道を、少女は裸足のまま歩き出した。
ハヌルは少し迷って、けれど結局、その後を追っていた。




