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第5話

「花火、するか」


 ハヌルの言葉に、アリがハヌルを見上げる。一四〇センチメートルほどしか無いアリがハヌルを見上げると、首がほとんど真上を向く。

 まるで幼い子供のようなアリの姿に、ハヌルは弟の幼い頃を思い出す。果たして自分は、弟にこんな風に接していただろうかと。


「花火」


「そう、花火。手で持ってさ、火花が散るんだ」


「ぼく、やったことない」


 静かな声だった。

 なんとなく、ハヌルはアリと手を繋いで歩き出す。四本しか無い指は五本指とは上手く絡まなくて、ただ掌を重ねて握るだけになった。


 二人で、何もする事がなくて青空の下海を見に行く。

 スマホを見ることも、いつの間にか無くなっていた。


 カシャ。


 小さな音がして、そちらを見るともう見慣れたポラロイドカメラがハヌルの方を向いていた。


「なあ、二人で撮ろう」


「二人で」


「そう。ほら、近付いて」


 ハヌルの肩に後頭部を付けたアリに微笑んで、ハヌルは両腕を目一杯に伸ばしてカメラのレンズを自分たちへ向ける。

 シャッターを押すと、いつも通りの音が鳴る。


 カシャ。


 すぐに出てくる写真を二人で覗き込むと、ハヌルは少し上を向いてへの字口になってしまっていたし、アリはどこを見ればいいのか分からず、ハヌルのほうを見てしまっていた。

 ハヌルは思わず笑って、腹を抱えるほど笑って、それから少しだけ泣いた。


 たくさん撮ったポラロイドカメラの残りは18枚で、それがまるで自分たちに残された時間のようで、ハヌルは目を逸らした。


 海の端っこが、少しずつ色を変えていく。オレンジ色から濃い青色、そして紺色へ。徐々に暗くなっていく空に、ハヌルはアリと手を握り直す。


「花火、買いに行こう」


「うん」


 静かな言葉だった。

 海の向こうに太陽が隠れ、風の匂いが変わる。

 その香りの中で二人は歩く。あの、アイスを買った商店だ。


「すみません。花火、置いてますか」


 ハヌルの問いに、老婆が「ああ、あるよ」と教えてくれる。

 花火と爆竹、それからバケツに一杯の水。一本のライターをハヌルへと渡してくれた。


「いくらですか」


「二〇〇〇〇ウォンだよ」


「え、安すぎます。花火とバケツだけでも、もっといくでしょう」


 ハヌルの言葉に、老婆はしわくちゃの口で笑った。


「いいさ。妹さんに、良い夏の終わりの思い出を作ってあげな」


 老婆からの言葉に、ハヌルは少しだけ困ったように眉を下げて、それから「ありがとうございます」と告げる。


「……これ」


 アリの言葉に、ハヌルがそちらを見ると、アリはいつものようにアイスのショーケースの前に立っていた。

 いつもの、ソーダアイス。


「ソーダアイスも、もらえますか」


「はいはい」


 老婆が眼鏡を掛け直し、ソーダアイスを2つ取り出す。


「全部合わせて、二二五〇〇ウォンだよ」


「ありがとうございます」


 老婆の、ハヌルとアリを見つめる目は、ただ優しかった。


 海岸へ戻った二人は花火のビニールを剥がす。アリはソーダアイスの包装を剥がしてアイスへとかぶりついている。

 空はもうすっかり暗くなっていて、夏の夜の香りがした。

 手持ち花火が何十本と入っている。きっと、普通に買えば三〇〇〇〇ウォンはしただろう。

 最初に、ハヌルが花火を手に持って火をつける。

 シュ……という小さな音、そして色とりどりの火花が吹き出す。それを、キラキラと輝く瞳でアリは見つめた。


 ハヌルは、アリが持った花火へと火をつける。ピンクから黄色、緑、白へと色を変えていく花火を、アリはただ見つめている。

 そんなアリの姿を、ハヌルはポラロイドカメラで撮る。


 カシャ。


 シャッターを押すと、静かな音とフラッシュが光る。

 出てきた写真に写るアリは、まるで火花に恋をしているかのようにキラキラと輝く瞳をしていた。


 交互に花火をする。

 ハヌルが花火へ火をつけ手をぐっと伸ばして溢れる火花を眺めていると、アリがポラロイドカメラを構える。自分と、背景にハヌルを入れて、シャッターを押した。


 カシャ。


 取られた写真には、楽しそうに花火をするハヌルと微笑んだアリの姿が写っていた。


 風が止まって、火花の音だけが残った。

 アリの瞳の中に、燃え尽きた光が映っていた。

 それが、まるで“終わりの始まり”みたいに思えた。


 二人、並んで花火をする。ポラロイドカメラを構えたハヌルが写真を撮る。

 その写真を見て、ハヌルは少しだけ笑った。

 花火から溢れ出す火花を興味深そうに見つめるアリと、そんなアリをどこか愛し気に、横目に見つめるハヌルがそこには写っていたのだ。


 青や赤や黄色の美しい火花が二人の顔を照らす。その光を、アリはずっと見つめていた。

 まるで、今日を忘れないようにするかのように。



 翌日、明るい光に照らされてハヌルは目を覚ます。窓の外を見ると、すっかり朝になっていた。

 外の空き地では祭りの準備が始まっている。おでんやトッポッキが売られている露店がある。


「あれ、なに?」


 アリの言葉に、ハヌルは「祭りだよ」と答える。

 アリの手を握り、ハヌルはゆっくりと歩く。祭り会場の奥では赤いランタンが売られている。


「これ、なに?」


「ランタンだよ。願いを込めて空に上げるんだ」


「ランタン」


「そう。やりたい?」


「うん」


 ハヌルは財布を開けて、もうあまり余裕の無い中身に少しだけ眉を下げて、そしてランタンをひとつ買う。

 太鼓の音が、近く遠く聞こえてくる。ハヌルはおでんを取り、熱いそれを頬張る。串を串立てに刺して、代金を置いて離れる。


「あれ」


 アリが指をさしたのは、ソーダアイスだった。それにハヌルは少しだけ笑って、その二つ入りのソーダアイスを買う。

 二つに割って、片方をアリに渡すと、アリは満足気にそのアイスを食べ始める。


 ハヌルは、そろそろ帰らなければならないと小さく息を吐く。

 もう財布の中身は心許なく、暑い中生活をしている体は僅かに臭っている気すらする。



 祭りが終わった夜、

 ランタンの灯りが少しずつ風に消えていく。

 人の声も、太鼓の音も遠くになって、

 夜の町には、光の名残だけが漂っていた。


 アリとハヌルは並んで歩いていた。

 屋台で買ったソーダアイスの棒を、アリはまだ握っている。


「楽しかったな」


 ハヌルが言うと、アリは小さく頷いた。

 風が吹いて、遠くの提灯がふわりと揺れる。


「……ずっと、アリと一緒にここにいたいな」


 ハヌルがそう言った。

 それは、笑いながら出た何気ない言葉。

 でも、アリはすぐに立ち止まった。


 しばらく沈黙があって、その声は風の中で静かに響いた。


「呪いなんじゃないかな、いてほしいっていうのも」


 ハヌルは、振り返ってアリを見た。

 ランタンの消えかけた灯りが、アリの横顔を照らす。

 その瞳には光が宿っていなかった。


「だって、“いないとき”のことを、考えなくちゃいけなくなるでしょ」


 ハヌルは何も言えなかった。

 アリの言葉は、どこまでも穏やかで、どこまでも遠かった。


 その日、アリは静かに言った。


「帰らないといけない」


「帰るって、どこに?」


「ぼくの、いた場所に。ぼくがいた、宇宙に」


「一緒に行ってもいいんだろう?その宇宙船、俺も乗れる?」


「お別れだよ」


「……どうして?」


「お別れなんだ」


「……また、会えるよな」


「いつか、また」


「遅かったら、迎えに行くからな」


 ──いつか、行くよ。

 見えてる星の、どれかの向こう。

 お前のいる場所まで。


 声は、届かなかった。

 ただ、最後に一枚、ポラロイドカメラのフラッシュだけが焚かれた。


 白い紙に印刷された写真が、机の上に置かれている。

 そこには、夏の海と、笑う二人。

 もう薄れてしまった光の中で、

 その笑顔だけが、確かに残っていた。



 ハヌルはあの後、家へ帰った。

 母親はほんの三日で窶れ、泣き喚き、そしてハヌルを優しく抱き締めてくれた。ハヌルに興味が無かったはずの父親は「無事で良かった」と呟いた。

 寮で暮らしていたはずの兄も帰ってきて、そして思い切り頭を殴られて「父さんと母さんに心配を掛けるな」と抱き締められたのだ。


 ハヌルは、ようやく初めて家族に愛されていることに気が付いたのだ。


「母さん、俺、進みたい道が決まったんだ」


「どういうこと? ソウル大学じゃないの?」


「うん、ソウル大学の航空宇宙工学に進んで、大学院に行きたいんだ」


 ハヌルの言葉に、母親は彼の体を抱きしめる。


「素晴らしい進路よ。母さんは応援するわ」


「ありがとう」


 ハヌルは空を見上げる。

 本当にあの空の向こうへ行けるかは分からなかった。


 けれど、あの空の向こう側。無数にある星々の中のたった一つに、ハヌルの変え難い大切な友人がいるのだ。



────


 ハヌルは、白い部屋の中、汚れの無いベッドの上でまだ幼い孫に話をせがまれて、あのほんの三日だけの友人の話をする。


「おじいちゃんは、アリに会えたの?」


「会えなかったよ。じいちゃんは、結局宇宙には行けなかった」


 静かな声だった。

 嗄れて、痰の絡んだ声。


「どうして行けなかったの?」


「じいちゃんに、意気地が無かったからだよ」


「じゃあさ、ぼくが代わりに行って、じいちゃんはアリのこと、大好きだよって言ってあげるね」


 幼いその言葉に、ハヌルは小さく笑って、そして目を閉じた。


 彼が目を開くことは、以降無かった。

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