「敵は本能寺にあり」
「起きよ」
明智軍の将兵から足軽に至るまで、一人一人が、ささやき起こされた。
寝ぼけているものもいたが「しぃ」と強く制せられた。
「音を立てるな」「馬にあぶみを噛ませ」「馬のくつわは斬りすてよ」「足軽どもは足中のわらじに履き替えよ」
秘密行軍の時の準備である。
「よいか」
光秀は悲壮な顔で、利三らに告げた。
「此度の敵は、明星衆の源吾が、一太刀も返せぬほどの手練れ揃い。もはや手遅れかもしれぬ。しかし、一縷の希望は捨てぬ。
我が軍が都を目指していることを察せられたら、彼奴らは死に物狂いで上様の御首を取りに走ろう。それは何としても避けねばならぬ。本能寺につくまでは、密かに動け。音を立ててはならぬ。明智の旗指物、幟などは立てぬように。いちどきに進めばやはり目立つ。足軽隊ごとに筋を違えて本能寺へ迎え。本能寺の森・さいかちの木・竹藪が、目印ぞ」
「承知!」
明智軍は静かに静かに気勢をあげた。
「こたびは天下の一大事である。天下様を守るため、我らはこれより京へ向かう!」
斎藤利三が下知する。
「鉄砲衆は、火縄に火を入れ、鉄砲に噛ませよ。他に火を入れた火縄を各自5本、携えてゆけ!」
「敵は、本能寺にあり!」
兵卒の一人一人は、詳しいことはわからない。
とにかく向かう先が本能寺で、そこに「敵がいる」ことだけを了解した。
物音一つ立てず、宇治川を越えころ、成田重四郎が近づいてきた。
「明智様」
「どうした」
「これは何事でございますか。まるで都にうちいるような物々しさ」
「詳細は、終わってから申し上げよう。今は黙って同道せよ」
「よもや、上様にご謀反をなさるおつもりか」
「たわけ!口を慎め。北条殿のご家中といえども容赦せぬぞ」
「これは失言」
成田重四郎は頭を下げた。
「何事かは伺いますまい。ですが、もし、物見の用があれば、私が参りましょう」
「無用である」
成田重四郎はそこで引き下がった。
「利三」
光秀は、成田重四郎が隊列に紛れたのをみて、斎藤利三を呼んだ。
「あの者に人をつけろ」
「承知」
明星衆・長縄喜八郎を小姓衆の隊列に加えた。
「おや」
成田重四郎は喜八郎が入ってきたのをみて呟いた。
「なかなかの者だな」
すぐに京の町が見えてきた。
しん、と静まり返っている。
「火の手は、見えぬな」
火を交えるような大きな戦いは起こっていない。
「ひとまずは安堵いたしました」
「うむ」
もちろん、だからと言って信長が無事であるという保障はない。
音もなく襲来し、塵も残さず去ってゆく、手練れの透破の暗殺の凄みを、何より光秀自身が一番知っている。
早く本能寺に到着して、その安否を確認したい。
斎藤利三が七条の木戸を開かせると、明智軍は下知通り、蜘蛛の子を散らすように散開して、京の各筋の夜陰へ消えていった。
各将はそれぞれ小隊と共に進み、明智光秀も、20人ほどの足軽に囲まれながら静かに本能寺を目指す。
斎藤源吾が刺された辰巳の曲輪の通りを、あえて通った。
明智軍の襲来を予期していて、そして本能寺への救援を防ぐためには、ここでなんらかの攻撃があるはずだった。
しかし、人の気配すらしない。
すでに事は成ってしまったのか?
光秀の脳裏に最悪の光景が浮かんだ。
喉がカラカラになっている。
そして、すぐ、背後に御所が黒々と控える、本能寺の威容が見えてきた。
相変わらず静かに佇んでいる。
と、そこに、ゴーン、と鐘の音が響いた。
東山の、丑三つの鐘であった。
聴き慣れているはずなのに、これほど胃の腑をえぐる鐘もなかった。




