第2話「最後の客たち」
けたたましい破砕音の正体は、幸いにも大惨事ではなかった。
特別展示室の片隅。割れていたのは『アステル17』が鎮座する重厚なガラスケースではなく、そのすぐ横に設置されていた古い星座模型の保護カバーだった。
「驚かせてごめんなさいね。ただの老朽化みたい」
駆けつけてきた湊と澪に対し、奈緒はほっとしたように胸をなでおろしてみせた。手元には、アクリル板の破片を集めるための小さなチリトリが握られている。
「なんだ、びっくりしたぁ……。展示ケースが割れたのかと思っちゃいましたよ」
胸を撫で下ろす澪の横で、湊は「……まあ、築うん十年の建物だしな」と気のない返事をしながら、静かに周囲へ視線を走らせた。
展示ケース自体に異常はない。だが、湊の目ざとい視線は、割れたアクリルケースの足元――重厚な絨毯の毛足に埋もれかけている「小さな銀色の留め具」を捉えていた。
(ネジ……? いや、精密機器の留め具か何かか……?)
経年劣化で飾りが勝手に崩れ落ちたにしては、妙に真新しい金属の光沢を放っている。湊はそれをあえて拾い上げず、頭の中でその落ちていた位置だけを正確に記憶に刻み込んだ。
「さ、怪我すると危ないから、二人ともあまり近寄らないでね」
何事もなかったかのように微笑む奈緒。しかし、彼女が去り際にアステル17のガラスケースへと向けた視線には、先ほどと変わらぬ暗い影が宿っていた。
☆★✩
割れた破片の片付けがひと段落したところへ、通路の奥から白衣を羽織った男が歩いてきた。
少し跳ねた髪に、薄いフレームの眼鏡。どこか神経質そうな雰囲気を纏ったその男は、学芸員の藤間だった。藤間は落ちている破片を一瞥すると、すぐに展示ケースの前に佇む奈緒へと視線を向けた。
その瞬間、二人の間にぴんと張り詰めたような緊張感が走る。
「……まだその石を見てたのか」
藤間の声は低く、どこか刺々しい。対する奈緒も、いつもの柔らかな笑みを消し、静かに藤間を見返した。
「悪い?」
「別に。……好きにすればいい」
言葉短かにそれだけ吐き捨てると、藤間はフイと背を向けて作業用の棚へと歩み去っていった。誰の目から見ても、二人の間に浅からぬ「何か」があるのは明らかだった。
「……ねえ、湊」
去っていく藤間の背中を見送りながら、澪が湊の袖をクイと引っ張り、耳元でひそひそ声を出した。
「知ってる? 昔、あの二人付き合ってたらしいよ」
「へえ」
興味なさそうに短く返す湊。そのあまりに素っ気ない反応に、澪は不満そうに唇を尖らせた。
「……反応薄っ」
「薄いも何も、他人の昔の恋愛事情だろ」
呆れたように肩をすくめる湊に、澪はジト目を向けながら、ぼそりと小さな声で付け加えた。
「……ふん。湊ってさ、こういう話には本当に疎いよね。幼なじみが身近な元恋人の話をしてても、全っ然ピンときてないし」
「なんの話だよ」
「別に! 何でもありませんーだ!」
ぷいっと横を向いてしまう澪。
湊は「急に怒り出して何なんだあいつは……」と首をかしげるばかりだった。
☆★✩
「黒田館長! 待ってください!」
廊下のほうから、先ほど立ち去ったはずの藤間の鋭い声が響いた。湊たちが展示室の出口へ向かうと、ちょうど館長室の前の通路で、藤間が黒田館長に通せんぼするように立ちふさがっていた。
「売却契約のことです。……まだ止められますよね!?」
食ってかかる藤間に、黒田は不快そうに眉間へシワを寄せ、溜め息を吐き出した。
「何度も同じことを言わせるな、藤間君。すでに契約書にはサインした。もう決定事項だ」
「この館の象徴を……あの『アステル17』を民間企業に売り飛ばすというんですか! 街の財産ですよ!?」
「閉館するんだぞ!?」
黒田が怒声を張り上げた。廊下の冷たい壁にその声が反響する。
「明日からは一円の予算も出んのだ。維持費も、厳重な保管費も、一体誰が払うというんだね? 綺麗事だけで歴史は守れんよ」
対立の火種――『アステル17の民間売却』。
その事実が初めて明るみに出て、傍で聞いていた澪が息をのんだ。
「売却……って……」
振り返ると、展示室の奥から歩いてきた奈緒が足をとめていた。
彼女は二人の争いを静観していたが、その口元は固く結ばれ、脇に下ろした両こぶしは白くなるほど強く握りしめられている。言葉には出さないものの、激しい怒りと拒絶がその背中から伝わってきた。
「とにかく、無駄なあがきはやめたまえ」
黒田は冷たく言い放つと、藤間を払いのけるようにして館長室の扉をピシャリと閉めた。
残された藤間は、悔しそうに拳を壁に叩きつける。
☆★✩
「やあやあ、皆さんお揃いで。少々不穏な空気でしたねぇ」
緊張感の漂う廊下に、軽快な足音とともに爽やかな声が響いた。
現れたのは、高級そうなスーツを小粋に着こなした若い男性だった。整った顔立ちに親しみやすい笑みを浮かべ、手には大きな革製のボストンバッグを下げている。買い取り側である大手民間企業の社員、榎本だ。
「榎本さん……」
悔しさを滲ませる藤間を意に介さず、榎本は爽やかに頭を下げた。
「館長から連絡を受けましてね。閉館後の引き取り手順の最終確認に伺ったんですよ。おや……そちらのお二人は?」
「あ、見学に来た私の幼なじみです」
澪が応えると、榎本は「なるほど、最後の特別なお客さんですね」と優しく微笑んだ。感じの良い男だ。だが、その瞳は時折、展示室の奥にある『アステル17』へとなめ回すような視線を送っていた。
「それにしても素晴らしい石だ。重量、含有鉱物の比率、落下地点の地質特性……実に興味深い」
滑らかな口調で、マニア顔負けの専門知識をすらすらと語る榎本。その様子をじっと観察していた湊は、彼が足元に置いたボストンバッグのファスナーがわずかに開いていることに気づいた。
バッグの隙間から覗いていたのは――黒くゴツゴツとした、どこか見覚えのある鉱物の塊。
「ん? ああ、これですか?」
湊の視線に気づいた榎本は、嫌な顔ひとつせず、バッグからその石を引っ張り出してみせた。
「驚かせてごめんなさいね。これは弊社がイベント撮影用に作成した『アステル17』のレプリカですよ」
「レプリカ……」
澪が思わず近づき、まじまじと見つめる。
「すごい……本物そっくり……。質感も、表面の金属の光沢も区別がつかないくらいです」
「でしょう? 3Dスキャンデータを元に、精巧に再現させた特注品です。引き取りの際のプロモーション動画で使う予定でしてね」
榎本は満足げに言ったが、その横でレプリカを見つめる奈緒の表情は冷ややかだった。自分の宝物を模造品で汚されたかのように、かすかに不快感を滲ませている。
(本物と瓜二つのレプリカ……)
☆★✩
「おーい、澪! そっち片付いたかー?」
気さくな声とともに、バックヤードへ続く通路から一人の青年が姿を現した。
作業服の胸元を少し崩し、軽快な足取りでやってきたのは、澪と同じアルバイトの陸だ。人懐っこい笑顔を浮かべた明るい青年だが、湊の鋭い視線は彼の一瞬の挙動を見逃さなかった。
陸は歩きながら、さりげなく通路脇にある『職員専用エリア』の電子ロックパネルに視線を送り、ポケットの中で指先を細かく動かしていた。まるで、暗証番号の配置や鍵の構造を確認しているかのように。
「あ、陸くん! うん、展示室の方はもう大丈夫だよ」
澪が答えると、陸は親しげに距離を詰め、澪の顔を覗き込んだ。
「なぁ澪、今日さ……閉館後に少し残っていかない?」
「え? 閉館後に?」
「そうそう。最後だしさ、ちょっとだけさ」
突然の誘いに、物陰で見ていた湊は思わず眉をひそめた。何気ない顔を装いながら、ぬっと二人の間に割って入る。
「……何するんだよ」
突然割り込んできた湊に、陸は嫌がる風もなく「ニッ」とイタズラっぽく笑ってみせた。
「何って、秘密だよ。男と女の秘密~」
「秘密って……怪しいなあ、陸くん」
澪が呆れたように笑うと、陸は人差し指を立ててウィンクしてみせる。
「ロマンだよ、ロマン! 最後にちょっと素敵な思い出作ろうと思ってさ」
「……ふーん」
あからさまに不機嫌な音を立てて鼻を鳴らす湊。そんな湊の横顔を、澪はジッと見つめていた。その口元が、どことなく嬉しそうにかすかな微笑みを刻む。
「……何、その顔」
「別に?」
肘でツンツンと小突いてくる澪からぷいっと顔をそむける湊だったが、その耳たぶはかすかに赤くなっていた。
(あの陸ってやつ……ただの思いつきで言ってるんじゃないな)
☆★✩
ざわめくロビーを抜け、開演を待つ観客で賑わう通路を歩きながら、湊は頭の中でパズルのピースを組み替えるように人間関係を整理していた。
閉館を前にした、この古い科学館。
そこに集まった大人たちの思惑は、不自然なほど複雑に絡み合っている。
『アステル17』を何としてでも守りたい、瀬良奈緒。
売却という決定を撤回させたい、学芸員の藤間。
一切の情を捨て、冷徹に売却を進める館長の黒田。
本物そっくりのレプリカを持ち込み、ビジネスとして買い取る榎本。
そして、職員エリアの鍵を気にしながら閉館後に残ろうとするバイトの陸。
「……ねえ、何考えてるの?」
考えに没頭して歩みを緩めていた湊の顔を、隣を歩く澪が覗き込んできた。少し心配そうな、けれどどこか探るような眼差し。
湊は歩みを止めず、展示室の奥にぽつんと飾られた黒い石を視線だけで追いながら、静かに呟いた。
「別に……ただ、みんな違う理由で同じ石を見てるなと思って」
「え? 違う理由?」
「ああ」
湊はポケットに手を突っ込み、小さく息を吐き出す。
「ある人にとってはただの思い出で、ある人にとっては金。ある人には研究の成果で、ある人には叶えたい夢、あるいはただの商品……」
一つの石。
だが、そこに投影されている人間の欲や情熱は、決して同じではない。
「……ふ~ん。湊ってば、たまには探偵みたいなカッコいいこと言うじゃん」
澪は少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうにふふっと笑った。
「でも大丈夫だよ。どんな理由があったって、奈緒さんが見せてくれる最後の星空は、きっとみんなの宝物になるんだから!」
天真爛漫に胸を張る澪の笑顔。だが、湊の胸に広がる胸騒ぎは消えなかった。
☆★✩
上映開始まで、あとわずか。開場を待つ客たちが薄暗い廊下に列を作り始めていた。
プラネタリウムの案内札の横で、澪は少し躊躇いながらも、準備を進める奈緒にそっと声をかけた。
「あの……奈緒さん」
「ん? どうしたの、澪ちゃん」
「さっき展示室で言っていたこと……『アステル17』は、本当に奈緒さんのお父さんが見つけたんですよね?」
無邪気だが直球の問いかけに、奈緒は作業の手を止め、ふっと遠い目をした。
「……そうね。最初にあの石を拾い上げたのは、間違いなく父よ」
「やっぱり!」
ぱっと顔を輝かせる澪。だが、奈緒はどこか寂しげな笑みを浮かべたまま、静かに言葉を続けた。
「でもね……その石がどれほど貴重なものか、学術的な価値を証明する論文を書いたのは、彼ではないわ。だから“公式な発見者”が誰かなんて……今となっては、誰も気にしていないのよ」
「そんな……」
寂しそうに落ち込む澪の頭を、奈緒は愛おしそうに撫でた。
「いいのよ、過去のことだから。父もきっと、この科学館でみんなが星を見上げてくれたことだけで満足しているはずだもの」
そう言って微笑む奈緒の姿は、あまりにも潔く、どこか切なかった。
しかし——。
その会話に、少し離れた廊下の影からじっと聞き耳を立てている人物がいた。
☆★✩
スピーカーからノイズが混じったチャイムが響き、澄んだアナウンスが館内に流れた。
『皆さま、大変お待たせいたしました。まもなく、星海市立天文科学館、最後の特別上映を開始いたします——』
その放送を合図に、周囲の空気が一変する。
奈緒は静かに息を吐くと、意を決した表情で解説ブースへと向かった。
藤間はポケットに手を突っ込んだまま、重い足取りで裏方の投影室へ。
館長の黒田は、何かの書類を抱えて館長室……いや、奥の資料室へと消えていく。
スポンサー社員の榎本は、レプリカの入ったバッグを抱えて展示室の周囲をうろうろと巡り始め、アルバイトの陸はタイミングを見計らうように職員通路の暗がりへ滑り込んでいった。
最後の上映を前に、職員たちの配置が完了する。
「湊、行こう!」
「ああ」
澪に促され、プラネタリウムのドームへ向かおうとした湊だったが、通り際、ふと気になって展示室へ視線を投げた。
薄暗い室内の中央で、ガラスケースに収まった『アステル17』がスポットライトを浴びて青白く輝いている。
その時だった。
――カチッ。
誰も近寄っていないはずのケースの足元で、小さな機械音が鳴った。
次の瞬間、ケース側面の電子錠を示す小さなインジケーターランプが、ほんの一瞬だけ赤く点灯し、すぐに消えた。
(……え?)
湊の足がピタリと止まる。
「湊? どうしたの、早く入らないと席なくなっちゃうよ?」
入口の扉から澪が顔を覗かせ、急かすように手を振っている。
「……いや。なんでもない」
湊は胸の中に渦巻く強烈な胸騒ぎを抑え込み、最後に一度だけ電子錠を見つめてから、ドームの中へと足を踏み入れた。
重い防音扉が閉まり、館内放送から奈緒の通った声が流れてくる。
『それでは皆さん……最後の星空を始めましょう』




