第1話「最後の星空」
錆びついた鉄製のアーチをくぐると、どこか懐かしい潮風の匂いが鼻をくすぐった。
小高い丘の上にひっそりと佇むその建物の前で、大学生の久瀬湊は足をとめた。正面のガラス扉には、鮮やかな赤字で書かれた一枚の張り紙が主張するように貼り出されている。
『星海市立天文科学館 明日をもって閉館』
何十年もこの街の夜空を映し続けてきた古い科学館。その歴史が、まさに終わろうとしていた。
湊がスマートフォンの画面で時刻を確認しようとした、その時だ。
「遅いーっ!」
甲高い声とともに、エプロン姿の少女が勢いよく建物の陰から飛び出してきた。
星野澪。湊の幼なじみであり、この科学館でバイトをしている女子大生だ。制服姿のまま頬をふくらませて駆け寄ってくるなり、彼女は湊の前に仁王立ちしてみせた。
「まだ開演一時間前だろ」
時計から目を離さずに淡々と返す湊に、澪は「もう!」と不満げに眉をひそめる。
「今日は普通の日じゃないの! 最後の日なの!」
「分かってるよ。だからこうして、頼まれた通りわざわざ来たんじゃないか」
「そういう問題じゃなくて! せっかく私が招待券取ったんだから、ちゃんと最初から最後まで、目撃者として見届けてよね!」
まくしたてる澪の勢いに押されつつも、湊は「はいはい」と適当に手を振って生返事を返した。
その生ぬるいリアクションに、澪はガクッと肩を落とし、ジト目で湊を見上げる。
「……はぁ。そういうとこなんだよなあ、湊は……」
「ん? 何がだ?」
「なんでもない! ほら、立ち話してないで早く中入るよ!」
ぷいっと背を向け、バタバタと館内へ走っていく澪。その背中を追いかけながら、湊は軽く苦笑した。
昔から感情がそのまま表に出るやつだとは思っていたが、今日の興奮ぶりはいつも以上だ。まあ、彼女にとってこの場所がどれほど特別なのかを知っていれば、その理由も察しはつくのだが――。
☆★✩
重い自動ドアをくぐると、館内は独特の静寂と、少し埃っぽい紙と金属の匂いに包まれていた。薄暗いエントランスを進みながら、澪はまるで自分の家を案内するかのように誇らしげに口を開く。
「はい、ここがメインの展示室! こっちにあるのは1970年代に使われていた大型のプラネタリウム投影機でね、こっちのガラスケースに入ってるのは、実際にこの街に落ちてきた隕石の標本! それで、あっちに見えるのが——」
次々と指をさしながら、立て板に水で解説を続ける澪。その瞳は、まるで満天の星空をそのまま映し込んだかのように輝いている。
だが、そんな賑やかな展示とは裏腹に、館内のあちこちには「老朽化に伴う展示休止」の札が貼られ、壁のペンキは所々が剥げ落ちていた。長年の財政難と施設の劣化。時代の波に抗えなかった現実が、冷たくそこに横たわっている。
「……好きだったんだな、ここ」
ぽつりと呟いた湊の言葉に、先を歩いていた澪の足がぴたりと止まった。
澪は振り返らないまま、ゆっくりと首を横に振る。
「好きだった、じゃないよ」
静かな沈黙が、二人を包み込む。
澪はゆっくりと振り向くと、どこか遠くを見るような、切なくも強い眼差しで湊を見つめた。
「……好きなんだよ。今も、ずっと」
その言葉には、ただの思い出を懐かしむのとは違う、熱い感情が宿っていた。
「私ね、大学を卒業したら……ここで解説員になりたかったんだ。この暗闇の中で、みんなに星の魅力を伝える仕事を、ずっとしていたかった」
それが、彼女の夢。
けれど、その夢を育んできた大好きな場所は、明日には完全に扉を閉ざしてしまう。
「……科学館がなくなったら、澪はどうするんだ?」
湊の問いかけに、澪は一瞬だけ寂しそうな笑みを浮かべ、それから強がるように胸を張ってみせた。
「さあね! でも、まずは今日最後の上映を大成功させること! 私の夢の第一歩は、そこからなんだから!」
☆★✩
「あら、澪ちゃん。もうお客さんをご案内?」
静かな展示室に、凛とした朗らかな声が響いた。
声の主は、展示ケースの陰から姿を現した一人の女性だった。落ち着いた紺色のジャケットをスマートに着こなし、知的な眼鏡の奥から優しげな瞳を覗かせている。洗練された立ち振る舞いと、すっと通った背筋。一目で「仕事ができる人」だと分かる雰囲気を纏っていた。
「奈緒さん!」
さっきまで湊に対して威張っていたのが嘘のように、澪の顔が一瞬でパッと華やいだ。尻尾を振る犬よろしく、弾んだ足取りでその女性の元へ駆け寄っていく。
瀬良奈緒。この科学館で圧倒的な人気を誇るベテランプラネタリウム解説員であり、澪が心から尊敬している憧れの先輩だ。
「もう、奈緒さんったら! まだ開館前ですよ。準備はバッチリです!」
「ふふ、頼もしいわね」
まるで姉妹のように仲睦まじく笑い合う二人。湊は、澪のあまりの態度の激変ぶりに呆れ顔で溜息をついた。
すると、奈緒の視線が澪の背後にいる湊へと向けられる。
「ところで……その子が例の『幼なじみ』くん?」
「えっ……あ、はい! えっと、久瀬湊です……」
突然振られた話題に、湊は少し気後れしながらも会釈をした。
「例の?」
首をかしげる湊の隣で、澪の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「な、奈緒さんっ! 余計なこと言わないでくださいってば!」
慌てて手をぶんぶんと振る澪の様子に、奈緒はくすりと笑みをこぼすと、じっと湊の顔を観察するように覗き込んできた。
「へえ……なるほどねぇ」
「……何が『なるほど』なんですか?」
「ううん、気にしないで。澪ちゃんからいつも話は聞いているわよ、ってこと」
悪戯っぽく微笑む奈緒に対し、湊は完全に蚊帳の外だった。何を納得されたのかさっぱり分からない湊と、顔を真っ赤にして奈緒をポカポカ叩こうとしている澪。
その二人を、奈緒はどこか楽しそうに、愛おしそうな眼差しで見つめていた。
☆★✩
「せっかくだから、上映時間まで少し案内してあげるわ」
奈緒は二人を促すと、展示室の最も奥――ひと際重厚なスポットライトが当てられた特別展示コーナーへと足を進めた。
厳重な強化ガラスのケースの中に鎮座しているのは、拳よりも二回りほど大きい、黒くゴツゴツとした鉱物だ。表面にはどこか銀色の金属光沢が混じり合い、妖しくも美しい存在感を放っている。
「これが、この科学館のシンボル——『アステル17』よ」
奈緒の説明に、湊は思わずガラスケースへ顔を寄せた。
「へえ……これが隕石……」
「ただの隕石じゃないわ。五十年前にこの街に落下して、この科学館が作られる直接のきっかけになった、まさに命の恩人みたいな石なの」
「そうなんですよね!」
澪が鼻を高くするようにして、奈緒の隣で誇らしげに身を乗り出す。
「奈緒さんのお父さんが発見して、この科学館に寄贈したんですよね? 地元のニュースでも有名な話だって、私おじいちゃんから聞いたことがあります!」
何気ない澪の言葉。
だがその瞬間、湊の目は見逃さなかった。
奈緒の口元に浮かんでいた笑みが、ほんの一瞬だけ凍りついたのを。
彼女の瞳から一瞬だけ光が消え、どこか冷ややかな感情が過った――ような気がした。
「……そう聞いてる?」
奈緒の口から漏れ出たのは、静かすぎるトーンの返答だった。
「え?」
澪が不思議そうに首をかしげる。
「そう……聞いているのね、って」
奈緒はすぐにいつもの穏やかな笑顔を取り戻し、優しく澪の頭を撫でた。
「ええ、まあ……古い話だからね」
何事もなかったかのように会話を続ける二人。しかし、湊の胸には小さな疑問のトゲが引っかかっていた。
(そう『聞いてる』……?)
☆★✩
「瀬良君、少しいいか」
重々しい声が静寂を破り、展示室の入り口に一人の男が立っていた。
白髪交じりの髪を几帳面に分け、仕立てのいいスーツを着込んだ中年男性——この科学館の館長、黒田だ。眉間に深いシワを刻んだその表情には、明らかな苛立ちが滲み出ている。
「館長……」
館長を見た瞬間、奈緒の纏う空気が一変した。
先ほどまでの柔らかく知的な雰囲気は霧散し、まるで目に見えない刃を突き立て合うような、冷たい緊張感が二人の間に走る。
「例の件だがね、閉館後は予定通り進めさせてもらう。すでに話はまとまっているんだ」
黒田は手元の資料に目を落としたまま、吐き捨てるように言った。それに対し、奈緒は静かだが絶対に退かない強い眼差しで黒田を射抜く。
「……ここで話すことではありません」
「君の感情で決める話でもないと言っているんだ。状況を理解したまえ」
「理解した上で申し上げています。私は——」
きっぱりと言い放つ奈緒の言葉を遮るように、黒田はチッと小さく舌打ちをすると、「後で館長室に来なさい」とだけ言い残し、足早に去っていった。
取り残された展示室に、重苦しい沈黙が落ちる。
「……何の話だ?」
思わず溢れ出た湊の呟きに、隣にいた澪が不安そうに身を縮めた。
「……さあ。なんだか最近、館長と奈緒さん、ずっとああいう感じで揉めてて……」
☆★✩
去っていく館長の背中を冷ややかな目で見送っていた奈緒だったが、振り返ると何事もなかったかのように、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいね、嫌なところを見せちゃって」
「あ、いえ……」
申し訳なさそうに身をすくめる澪に、奈緒はポンと優しく手を置く。
「そうだ、今日の上映だけど……最後だから、特別演出を用意してあるの」
「特別演出ですか?」
澪がぱっと目を輝かせる。奈緒は人差し指を唇に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「プログラムの終盤にね、四分間だけ『奇跡の流星群』を再現する演出を入れるの。満天の星空から、絶え間なく流れ星が降り注ぐ最高のクライマックスよ」
「すごいです! 奈緒さんの解説で流星群なんて、絶対感動しますよ!」
大はしゃぎする澪に対し、奈緒は少しだけ表情を引き締め、プロの顔を覗かせた。
「ふふ、でもその分、裏方は大変なのよ。映像と音楽、そして私の解説を一秒単位で完璧に合わせないといけないから。だから……その四分間だけは、絶対に失敗できないの」
「えっ……あの奈緒さんでも緊張するんですか?」
意外そうに目を見張る澪に、奈緒はくすりと笑い、どこか遠くを見るような目を向けた。
「するわよ。最後だもの……完璧な星空で締めくくりたいじゃない?」
「奈緒さん……」
真摯に仕事に向き合う先輩の姿に、澪はうっとりと感銘を受けた様子で頷いていた。
一方、湊はその会話を黙って聞いていた。
(一秒単位の合わせ作業……四分間の流星群か)
☆★✩
「そろそろ開場時間ね。私はアナウンスの準備に行ってくるわ。二人とも、席で待っていて」
奈緒は優しく微笑むと、慌ただしく廊下の奥へと去っていった。
残された二人は、プラネタリウムドームへと続く重厚な扉の前へ向かう。薄暗い通路の足元灯が、静かに二人の影を伸ばしていた。
扉の手前で、澪がふと足を止めた。
「ねえ、湊」
「ん?」
振り向いた湊に、澪はまっすぐな視線を向ける。
「今日の星……ちゃんと覚えて帰ってね」
「なんで急にさ」
「最後だから」
そう言って、澪は少しだけ寂しそうに、けれど慈しむような笑みを浮かべた。言葉の裏にある彼女の寂しさに気づき、湊が何か返事をしようとした――その時だった。
——ガチャン!
静まり返った館内に、硬質で不穏な破壊音が響き渡った。
ガラスが激しく割れるような音。それは先ほどまで二人がいた、奥の特別展示室の方角から聞こえてきた。
「今の音……!」
二人は顔を見合わせ、弾かれたように翻弄されて通路を駆け戻る。
展示室に飛び込むと、そこには静寂だけが広がっていた。人影はない。
ただ、スポットライトを浴びたガラスケースの中で、隕石『アステル17』がいつもと変わらぬ金属光沢を放って光っている。
そして——ケースの向こう側、薄暗い影の中に、ポツリと一人の女性が立っていた。
瀬良奈緒だった。
彼女は割れたガラスの破片が散らばる床を一顧だにせず、ただ吸い寄せられるように、じっと隕石を見つめている。その表情は、いつもの穏やかな笑顔とはまるでかけ離れていた。
奈緒は小さく、吐息のような声で呟く。
「……明日には、もうここにないのね」
その言葉の意味を尋ねる隙さえ与えず、館内に開演を告げるブザーがけたたましく鳴り響いた。




