第3話「流星群の四分間」
重厚な防音扉をくぐると、そこはすり鉢状に広がる円形シートと、見上げるほどに巨大なドーム状の天井が広がる空間だった。
閉館を惜しむ常連客や小さな子供を連れた家族連れで、客席はあらかた埋まっている。その中央付近の並び席に、湊と澪は腰を下ろした。
「お前、スタッフなのに客席でいいのか?」
パイプ椅子をギシと鳴らしながら尋ねる湊に、隣の澪はどこかそわそわとした様子で自分のひざ掛けを整えていた。
「今日は奈緒さんが『最後なんだから見ていきなさい』って言ってくれたの。それに……」
澪は言葉を切り、ドームの天井を見上げた。
「最後くらい、ちゃんとお客さんとして見たかったし……ね」
どこか切なげな横顔。湊は、この古い科学館が彼女にとってどれほどかけがえのない場所だったのかを、改めて胸に刻み込んだ。
カチ、と館内の照明が一段落とされ、やがて視界が暗転する。
静寂が訪れたその瞬間、隣から小さく囁くような声が聞こえた。
「……寝たら怒るからね」
「寝ないよ」
「前、寝たじゃん」
「……小学生のときの話だろ、それ」
「フン、覚えてるんだ」
「お前が三日くらい本気で怒ってたからな。忘れようがない」
暗闇の中で、澪が嬉しそうに「えへへ」と小さく鼻を鳴らしたのが分かった。
☆★✩
やがてドーム内の照明が完全に消え、漆黒の暗闇が広がる。
静寂の中、スピーカーから流れてきたのは、清涼な水のように澄んだ奈緒の声だった。
『皆さん、こんばんは。本日は星海市立天文科学館、最後の特別上映へようこそお越しくださいました』
落ち着いた語り口とともに、漆黒のドーム天井に一斉に数千の星々が瞬き始める。客席のあちこちから「うわぁ……」と小さなどよめきが漏れた。
だが、奈緒の解説は単なる録音テープの朗読でも、ガチガチの台本通りでもなかった。
「あ! オリオン座知ってる!」
前方の席に座っていた小さな男の子が、声を張り上げて指をさす。
すると奈緒は、マイク越しに優しくくすりと笑った。
『お、詳しいね。じゃあ、その真ん中に三つ並んだ星の名前も分かるかな?』
「みつぼし!」
『大正解。よく知っているわね』
臨機応変な掛け合いに、会場全体が温かい空気に包まれる。
さらにその直後、後方の観客が「ハックション!」と大きなくしゃみをした。
『ふふ、夜のドームは少し冷えますからね。星空を見るときは、皆さんも風邪を引かないようにお気をつけください』
完璧なタイミングでの拾い上げ。
隣で見ていた澪が、湊の耳元に身を寄せ、得意気に小声で囁いた。
「奈緒さんの解説、すごいでしょ? 毎回、客席の雰囲気や反応に合わせてちょっとずつ内容を変えてるんだよ」
「へえ……台本通りじゃないのか」
「基本の流れはあるけど、ほとんどその場の『生』なんだから! だから奈緒さんのプラネタリウムは、二度と同じ回がないの」
(なるほど……)
湊は暗闇の中で深く頷いた。
☆★✩
美しい星々の解説が続くなか、ふとドーム天井の星座線がわずかに揺れ、本来の位置から少しだけ斜めにズレた。
ほんの一瞬の機材トラブル。
だが、奈緒は動じることなく、ユーモアを交えてマイクに声を乗せた。
『おっと……今日は機械まで、最後の上映に少し緊張しているみたいですね』
奈緒の軽妙なフォローと同時に、ガタッと小さな機械音が響き、ズレた星座線はすぐさま正しい位置へと滑らかに引き戻された。
客席からくすくすと小さな笑いが漏れる。
澪は小声でくすくす笑いながら、湊に肘鉄を喰らわせた。
「ふふ、藤間さんったら。今頃裏の投影室で、めちゃくちゃ焦って汗かいてるだろうな」
「あのズレ、藤間さんが手動で直したのか?」
「うん。投影機の微調整や演出の切り替えは、全部裏で藤間さんが手作業でやってるの。奈緒さんと藤間さん、昔からずっとあの二人でこのプラネタリウムを作ってきたから」
「へえ……」
湊はドーム後方の高い位置にある、小さなガラス窓のついた部屋——投影室へと視線を送った。暗がりの中に、ぼんやりと機材のランプと人の影が見えるような気がした。
(奈緒さんが声をあてて、藤間さんが機材を動かす……完璧な二人三脚ってわけか)
☆★✩
時計の針が20時20分を回った頃。
湊のズボンのポケットの中で、スマートフォンが『ブッ……』と一瞬だけ短い振動を返した。画面を伏せたままチラリと覗き込む。電波表示は当然のように『圏外』。しかし、画面上部に表示されていたはずの「館内Wi-Fi」のアイコンが、綺麗に消失していた。
(……Wi-Fiが切れた? ルーターの不具合か……?)
その時、客席の後方で『バタン』と防音扉が小さく開く音がした。
薄暗い闇の中、スタッフらしき人影が一人、急ぎ足でドームの外へと出ていくのがシルエットで見えた。距離と暗さのせいで、それが誰なのかまでは判別できない。
「あれ……?」
突然、隣に座っていた澪が首をかしげ、ドーム天井の一点を凝視した。
「どうかしたか?」
「ううん……今の星、一瞬だけ瞬き方が変じゃなかったかなって」
「変?」
「うん。なんか……映像が一瞬ブレたような……」
湊も澪の視線を追って天井を見上げたが、広がるのは相変わらず美しい満天の星空だけだ。
「気のせいじゃないか? 目が疲れてるとか」
「……うーん、そっかな。うん、気のせいかも!」
澪はすぐに笑顔を取り戻し、再び星空へ視線を戻した。
☆★✩
満天の星々が静かに流れていく中、奈緒のトーンがすっと変わり、より深みのある静謐な響きを帯びた。
『——それでは皆さん。最後に、この科学館から皆さまへ贈る、特別なお別れの星空です』
客席のざわめきが一瞬で静まり返る。
『これから四分間だけ……当館が誇る最高の技術を集めた、特別な夜空をお楽しみください』
その言葉に応えるように、澪がスッと背筋を伸ばし、唾を飲み込んだ。
『ここからは、映像と音楽、そして私の解説をすべて一秒単位で完璧に合わせた、完全同期の特別演出となります。一瞬たりとも目を離さず、ご覧ください——』
(一秒単位の完全同期……)
奈緒が語っていた言葉が、湊の頭をよぎる。
「失敗できない四分間」
☆★✩
壮大なオーケストラの重厚な旋律がドームを満たすと同時に、漆黒の夜空を切り裂いて、一筋、また一筋と眩い光の帯が流れ始めた。
圧倒的な数の流星群。
視界を覆い尽くす星の雨に、客席のあちこちから感嘆の息漏れが聞こえる。
その幻想的な光景に合わせ、奈緒の穏やかな声が静かに響き渡る。
『星は、ずっと同じ場所で輝き続けているように見えます』
『ですが……私たちが今、こうして同じ星空を見上げる時間は、二度と訪れません』
閉館を迎えるこの場所に重なる、あまりにも切なく美しい言葉。
隣を見ると、澪が言葉を失ったように口をわずかに開け、瞳に流れ星の光を映しながらじっと天井を見上げていた。
湊はふと、星空から視線を外し、暗がりの中で光る澪の横顔に目をやった。
「……なに?」
目ざとく視線に気づいた澪が、顔だけをこちらに向けて囁く。
「いや、別に」
「星見なよ」
「見てるよ」
「嘘。絶対今、私のこと見てたでしょ」
「自意識過剰」
「~っ、もう!」
ぷいっとそっぽを向く澪。暗闇のせいで隠せてはいるが、その頬が少し赤くなっているのを湊は見逃さなかった。
——その時だった。
前方の客席から、ガチィン!と金属が床を打ち叩く硬い音が派手に響き渡った。
小さな子供が誤って手元から水筒を落としたらしい。静まり返ったドーム内に不快な打撃音が大きく反響し、周囲の客が数人、慌てて振り返る。
「あ、すみません……!」
母親が焦った様子で水筒を拾い上げ、小さく頭を下げた。
だが——スピーカーから流れる奈緒の解説は、一切の揺らぎを見せなかった。
『——出会いと別れを繰り返しながら、夜空は巡り続けます』
先ほど観客のくしゃみや子供の声に即座に反応してみせたあのしなやかさは影を潜め、声のトーンも、間合いも、寸分の狂いもなく淡々と原稿を読み上げていく。
(演出の邪魔をしないよう、あえて無視したのか……?)
湊はかすかな違和感を覚えたが、あまりにも完璧な演出の流れを断ち切るまいとした判断だろうと、それ以上に深く追求することはしなかった。
一方、澪は流星群の軌道をじっと見つめながら、どこか不自然そうに眉をひそめていた。
「……あれ?」
「今度は何だ?」
「ううん……この左上の流星、前もまったく同じところで光ったような……」
「星の演出なんて、どれも似たようなもんだろ」
「プラネタリウムの星を舐めないでよ。光る角度もタイミングも、リハーサルの時と完全に一緒だった気がするんだよね……」
「気のせいだろ。ほら、前見ろよ」
「むー……」
澪は納得いかない様子で唇を尖らせたが、すぐに再び夜空の美しさへと引き込まれていった。
☆★✩
降り注ぐ流星群の光芒がゆっくりと余韻を残しながら消えていき、ドーム内は深い静寂と漆黒の暗闇に包まれた。
音楽の最後の音が溶けて消えると同時に、スピーカーから奈緒の声が静かに落ちてくる。
『——いかがでしたでしょうか』
その問いかけが終わるか終わらないかの瞬間、前方の席から小さな男の子が我慢しきれないといった様子で叫んだ。
「すごかったー!」
『ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると、とっても嬉しいわ』
奈緒は間髪入れずに男の子の声に応え、柔らかくくすりと笑ってみせた。客席からは温かい拍手が沸き起こり、ドーム全体が大きな一体感に包まれる。
(……すごいな)
湊もまた、暗闇の中で小さく拍手を送りながら胸を撫で下ろしていた。
☆★✩
特別演出が明け、上映はいよいよ終盤へと差し掛かっていた。
奈緒が穏やかなトーンで星座の解説を再開した、まさにその時だ。
天井に映し出された天の川の光が、唐突にワンテンポ遅れて揺らぎ、次の星座へ切り替わるタイミングがわずかにズレた。プロの現場ではあり得ない、明らかな操作ミス。
マイク越しに、奈緒がほんの少しだけ困ったような含み笑いを漏らす。
『……藤間さん?』
客席から「くすくす」と小さな笑いが漏れた。昔からの常連客たちには、いつもの二人の微笑ましい掛け合いに映ったのだろう。直後、投影機の光はハッとしたように瞬き、すぐさま正しい星配置へとスムーズに修正された。
「あ、戻ったんだ」
ドーム天井を見上げながら、澪がほっと胸を撫で下ろすように呟く。
「何がだ?」
「いや、機械の調子! 一瞬固まっちゃったみたいだから、藤間さんが慌てて手動で立て直したんじゃないかな」
「……そうかもな」
湊は適当に相槌を打ちながら、後方の投影室をちらりと見上げた。
☆★✩
上映時間が終わりを迎え、ドーム内にしんとした静寂が戻ってくる。
ゆっくりと明かりがつき始める直前、マイク越しに奈緒の深く息を吸い込む音が聞こえた。
『——この科学館で、私と一緒に星を見上げてくださったすべての皆さん。本当に、本当にありがとうございました』
最後の言葉に、奈緒の声が一瞬だけかすかに震えたのを湊は聴き逃さなかった。プロとして保ってきた完璧な面組みの奥から、溢れ出しそうになる感情。
次の瞬間、ドーム内は割れんばかりの大きな拍手に包まれた。
「……っ」
隣を見ると、澪が顔を伏せて膝の上のハンカチを強く握りしめていた。大きな瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、必死に声を殺して肩を揺らしている。
「泣いてるのか?」
「……な、泣いてない!」
「いや、どう見ても——」
「泣いてないったら!」
顔を真っ赤にして強がる澪に、湊は何も言わず、自分のポケットから予備の清潔なハンカチを取り出してそっと手渡した。
「……ありがと」
涙で濡れた目を擦りながら、小さく呟く澪。暗闇が明けていく中で、二人の手がほんの少しだけ触れ合った。
☆★✩
ドーム内の照明がゆっくりと全灯され、現実の世界が戻ってくる。
余韻に浸りながら、観客たちがぽつぽつと席を立ち始めた。
解説ブースの扉が開き、少し疲れたような、けれど晴れやかな笑顔を浮かべた奈緒が出てくる。ほぼ同時に、後方の投影室からも汗を拭いながら藤間が姿を現した。
(二人とも……ずっとそこにいたんだな)
——その時だった。
『ウーーーッ!』と館内放送のスピーカーが嫌なハウリングを起こした。だが、流れてきたのはいつもの案内放送ではない。
廊下の奥から、切り裂くような女性職員の悲鳴がドーム内まで届いた。
「きゃああぁぁぁーーーっ!! 誰か……誰か来て!!」
一瞬で静まり返る客席。湊と澪は弾かれたように同時に振り返った。
続いて、別の男性職員のパニックに陥った叫び声が廊下に響き渡る。
「館長が……! 資料室で館長が倒れている!!」
「それだけじゃない! 展示室のケースが壊されてるわ! 『アステル17』が……隕石がなくなってるの!!」
ざわめきが悲鳴へと変わり、館内は一瞬で混沌の渦へと叩き落とされた。
殺人、そして隕石の消失。
混乱する観客たちの中で、湊の鋭い視線は真っ直ぐに奈緒の顔を捉えていた。
奈緒は目を見開き、信じられないといった様子で口元を押さえている。
だが——。
「館長が倒れている」という言葉には激しく動揺してみせた彼女が、「隕石がない」という叫びを聞いたその一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、悲しみと諦めが混ざり合ったように、静かに目を伏せたのを、湊は見逃さなかった。




