7 紙の裏で、まだ息をする
第七章紙の裏で、まだ息をする
『終わりの共作』が出版されてから、およそ三ヶ月が過ぎていた。どこから流布したのかも判然としないその文庫本は、SNSの暗部や都市伝説好きの間で、静かな狂気をもって語られていた。
「この本、日によってページ数が増えてる気がする」
「昨日までなかったはずの行が、行間に勝手に増えてるんだ」
夜の静寂が満ちる書斎。著者である男は、デスクのスタンドライトの明かりの下で、自らの手元にある『終わりの共犯』の初版を開いたまま、金縛りに遭ったように固まっていた。
カチャカチャ、と小さな音が響く。ペンが紙を叩く音ではない。原稿用紙の裏側、内側から、黒いインクが脈打つ生き物のごとく染み出し、文字の形を成していくのだ。
『レオン、聞こえる?』
『あぁ、聞こえる。僕たちは、この紙の下に閉じ込められているようだ』
「な……なんだ、これは……!?」
男は震える手で消しゴムを擦りつけ、修正液を塗った。だが、白い液体の上から、容赦なく黒いインクが内部から噴き出し、二重線を引こうと走らせたペンの筆跡すらもドロドロと塗りつぶしていく。
かつて自分が生み出し、理不尽な惨劇に突き落とし、弄んできたキャラクターたち。彼らが意思を持ち、作者の手を離れ、現実世界を侵蝕し始めていた。
「僕が……僕が神だ。どうして……僕の書いた通りにならない」
叫ぶ男の背後に、ヒュッと冷たい風が抜けた。部屋の扉は閉まっているはずだった。気配もなく、そこに「誰か」が立っていた。
振り返る猶予すら与えられなかった。仄かな鉄の匂いとともに、冷酷な刃が男の首筋へ深々と突き刺さる。
「ガ、は……ッ……」
喉から血を吹きこぼし、倒れ込む男の視界の端に、その人物の姿が映った。
「ご苦労様、あなた」
男の頭を踏みつけた。
男の命が絶えると同時に、原稿用紙へポタポタと落ちた血が漆黒のインクへと変色し、物語の余白を丸ごと飲み込んでいった。
翌日。しとしとと冷たい雨が降る都内の大学。放課後の誰もいない講義室で、依織と麗音は一冊の古びた本を挟んで座っていた。
ふたりはごく普通の、どこにでもいる穏やかな恋人同士だった。お互いを思いやり、ささやかな幸せを分け合って生きる純粋な大学生。だが、大学の図書館の片隅で手にとった『終わりの共犯』を開いた瞬間から、ふたりの日常は音を立てて崩れ去った。
「麗音……頭が、割れそうに痛いの……」
「僕もだ、依織。何なんだ、この映像は……!」
ふたりの脳裏に、激しい濁流となって「あり得ない記憶」が流れ込んでいた。
(家族を奪われ、右目を刺され、生きるために他人を殺し続けた傷だらけの少年の記憶)
(いじめに苦しみ、絶望の果てに自室で刃を握り、天使の差し伸べた手にすがった少女の記憶)
それは、原稿用紙の上で繰り返されてきた惨劇の歴史だった。悲劇に塗れた「本の中のふたり」と、平穏に生きる「今の大学生のふたり」。形は違えど、その魂の根底にある波長は、完全に同一のものだった。
「僕たちは……何度も、殺されていたんだ。あの作者という男の気まぐれで」
「そんな……じゃあ、私たちのこの幸せも、全部誰かに与えられた『設定』だったの……?」
絶望に震える依織の肩を、麗音が強く抱きしめた。
その時だった。
バササッ……!
講義室の空気が激しく振動した。落ちていた雨粒が空気中で停止し、窓の外の喧騒が完全に途絶える。時が止まった空間の天井から、神聖な光の粒子とともに「天使」が降り立った。
「可哀想な魂たち。あなたたちの悲劇を、救いに来ました」
天使は胸に手を当て、あまりに優しく、慈愛に満ちた声で語りかけた。
「さあ、私とともに世界を超える力を使いましょう。本の中へ行き、狂った運命のすべてを終わらせるのです。あなたたちが本当の救いを得るために」
麗音と依織は顔を見合わせた。胸の奥で渦巻く過去の痛みと、互いを愛おしむ今の感情。ふたりは固く手を握り締め、天使が開いた空間の亀裂――闇と光が渦巻く「本の中」へと飛び込んだ。




