終章 完結の本、あるいは永遠の檻
終章 完結、あるいは永遠の檻
足を踏み入れた先は、どこまでも続く真っ白な原稿用紙の世界だった。足元には掠れたインクの文字が浮かび、空からは黒い紙吹雪のようなものが舞い落ちている。
その空間の中央に、佇むふたつの影があった。
本の中の「いおり」と「レオン」。全身に傷を負い、血と憎悪に塗れ、瞳から光を失ったかつての自分たち。
現実世界の「依織」と「麗音」は、吸い寄せられるように彼らに歩み寄った。
「ずっと……苦しかったね」
「ごめんね、君を一人にして……」
四人はそっと手を重ね合わせた。その瞬間、眩いばかりの光が破裂した。
惨劇の記憶と愛の記憶、闇と光、過去と現在がひとつに溶け合っていく。絶望に震えていた本の中の魂は現実の温もりによって救われ、平穏しか知らなかった現実の魂は過去の闇を受け入れる強さを得た。
光が収まった時、そこに立っていたのは――傷を抱えたまま、それでも互いを愛することを選んだ「麗音」と「依織」だった。完璧になったわけではない。ただ、憎むこともできたはずの過去を、彼らは自分の意志で手放さずにいた。それだけが、確かなことだった。
「これで……僕たちは、本当の自分になれた」
麗音は依織を強く引き寄せ、その手を握り返した。依織もまた、涙を流しながら彼を強く抱き返す。もう神の筋書きにも、作者の悪意にも屈しない。そう思いたかった。
「ええ、本当に……あまりに素晴らしいわ」
背後から、甲高い高貴な笑い声が響き渡った。
振り返ったふたりの前で、導き手であったはずの天使の姿がドロドロと崩れていく。純白の羽は黒いインクへと変わり、美しかった顔は殺されたはずの「姫」へ、そしてあの男が殺したはずの、岡田花蓮の姿へと不気味に変貌した。
「天使も、姫も、あの作者に物語を描かせる力を与えたのも……すべて私。私はずっと見ていた」
狙いは、最初からこれだった。傷ついた不完全な魂と、愛を知る幸せな魂をひとつに重ね、「あなたたちがここまで来ることも、最初から決まっていたのよ」
それだけ言うと、彼女はそれ以上を語らなかった。語らないことのほうが、よほど恐ろしかった。
グサッ。
「……あ……っ……」
思考が追いつくよりも速く、天使の鋭利な爪が、依織の胸を背後から深く貫いていた。
鮮血が原稿用紙の床に飛び散る。
「依織ーーーー!」
麗音の視界が、真っ赤に染まった。愛が深ければ深いほど、それを壊された時の怒りは、身の内で制御を失っていく。
「許さない……絶対に許さない」
麗音は正気を失いかけながら、悪魔に向かって飛びかかった。華奢な首へ両手をかけ、全身の力を込めて締め上げる。ゴリ、ゴリ、と骨の折れる鈍い音が響き、天使の顔が苦痛に歪んだ。
だが――天使は、首を絞められ息を絶やしながらも、その瞳に歓喜の光を宿して笑っていた。
「……ふふ……あはははは……! 見事よ、レオン……!」
天使の口から漏れたのは、血に塗れた、あまりにも幸せそうな声だった。
「これで……やっと、私とあなただけの世界ね……」
そいつの持つギフト――それは『寄生』。自分を殺した相手の中で、永遠に生き続ける力。
麗音は怒りを越え憎しみにより天使を完全に殺してしまった。
依織の亡骸をきつく抱きしめる。
パタン。
誰にも気づかれないまま、床に落ちた一冊の本『終わりの共作』が、重い音を立てて閉じた。表紙の文字は削れ落ち、二度と開くことができないよう、分厚く重い黒いインクの帯が鎖のように幾重にも巻きついている。
本の内側。光の届かない漆黒の闇の中で、麗音は息絶えた依織を静かに抱きしめていた。その心には、黒い影が満足そうに微笑んでいる。それでも麗音の腕の中で、依織の指先は、まだ折り紙のうさぎの温もりを覚えているかのように、ほんの少しだけ丸められていた。
もう、誰も入ってこられない。誰も外へは出られない。
――完結した本の中で、麗音は姫と永遠に一つとなった




