6 消えない家族の温もり
第六章消えない家族の温もり
「つまり……」
私が声をあげると、天使が続いた。
「そうさ、この世界は悪魔によって作られている」
「そう、だった、のね」
私は一時の沈黙の中、数多の感情に飲み込まれた。私は、作られた存在だったのだ。彼もまた、同じ衝撃に駆られたのだろうか。今まで見ていた景色が、丸きり変わって見えた。
同時に、ずっと胸につかえていた違和感の名前が、ようやく分かった気がした。生まれる場所も、殴られる理由も、自分では選べなかった――あの感覚は、この本を読む前から、私の中にあったものだ。レオンだけが特別だったわけじゃない。私もまた、誰かの手のひらの上で、台本通りに苦しんでいただけだったのだ。
「あなたは私に何をして欲しくて、これを見せたの?」
「それは、これからあなたが決めることだよ」
そんな答えが返ってきた。
それから、私はまたいつもの暮らしに戻った。しかし以前とは、大きく違う点があった。
「いおりん、カフェいこ!」
いじめという行為が、完全になくなっていた。同じ人間だったのかと忘れてしまうほど、クラスメイトは普通の存在になっていた。
私は、教室から人がいなくなるのを待っていた。沈む夕日が窓を越えて、橙色に机を染める。
「どうしてみんな、別人のようになってしまったの」
「おそらくだけど、この世界はもともと彼の手の中にあった。でも君が真実に触れたことで、今は『創作』という次元を超えてしまったんだと思う。だから、無理に設定されていたキャラクターたちの人物像が、崩れたんじゃないかしら」
そんな答えだった。
それでも、少したりとも変わらなかったものがあった。
「ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん」
「おかえり、いおり」
――家族の愛。
それだけは、作られたものではなかった。本当の真実は、ここにあったのかもしれない。そう思った私は、決死の覚悟をした。
けれどそれは、レオンのためだけの覚悟ではなかった。彼が家族の記憶を取り戻せるなら、私自身も「誰かに決められた人生を、それでも自分のものだと言い切っていいのだ」と、初めて思えるような気がしたのだ。彼を救うことは、私を救うことと、いつからか同じ意味になっていた。
「私は、あの子に家族の愛を思い出してほしい。――それに、私もきっと、それを見届けたいだけなんだと思う」
天使はこちらを向いた。
「私と行くかい?」
私は彼女の手を握り、空に向かって翔んだ。目を強く瞑り、運命を受け入れたかのように拳を握った。
次の瞬間、そっと目を開けた。そこは焦げた匂いのする町。崩壊しており、人の気配はしない。
黒く、悪の化身のような見た目をしたものが、上空から降りてきた。
「会いたかったさ、お前に。僕を、地獄に連れていったのもお前だろう?」
「今度こそ殺してやろう」
そう言い、鋭い爪で天使に襲いかかったとき、私は足を踏み出した。足が震えていた。今すぐ逃げ出したい。それでも、握った拳だけは開かなかった。
「私を先にやりなさい! 私はあなたのことが嫌い。でも、あなたのおかげで幸せも知れたわ」
「お前は、いおりか」
「そうよ」
「僕はずっと、君を殺したかったんだ。その存在ごと」
悲痛な目をした彼が、私に向かって飛びかかった。首に鋭い痛みが走る。感じたことのない痛みだった。私の血飛沫が、悪魔の口に入った。
(これでいいのよ)
「なんなんだ」
そのとき彼は、最も目を背けてきた記憶を見た。それは温もりそのもの。家族の優しさ。それが流れ込んでくる。
「ありがとう、レオン」「お兄ちゃん、おかえり!」――何度も何度も、繰り返し届いていたはずの言葉。読み飛ばしてきたその温度が、今になって初めて、体の芯まで届いた。
彼は、思い出すことを酷く恐れた。何もない空間から、一枚の紙を取り出す。血濡れた手で原稿用紙に二重線を引いた。しかしその線は、消えていく。
「なぜだ、なぜお前は消えないんだ」
困惑していた。私という存在は、彼の所有物ではなくなっていたのだ。
幼いレオンが、彼に話しかける。
「本当は母と妹を愛していたかった、それだけでしょ」
他の者たちの声も響く。今まで殺してきた者たちのものだ。
「お前は悪魔だ!」
「マリア、生きてくれ」
「死にたくない、死にたくない」
彼は、涙を流した。悪魔が流すそれは、信じられないほど透明に輝いていた。
「世界が正か負か、それを定めるには、あまりに複雑で美しかった」
彼は、自分が書かれた最初の一枚を取り出した。
――ビリビリ。
静寂の夜に、そんな音だけが広がった。
「私はあなたを救うために、あの子を犠牲にした。あの子の記憶こそが、今のあなたに一番必要だった。そうでしょ」
「どこまでもお節介な天使だ」
そうして彼は、その姿を失っていった。彼が生み出した全てのものとともに。
――そう、私さえ。
薄れゆく意識の中で、少女は思い出した。あの図書館で見た本のタイトルを。
――『終わりの共作』。
私は、書き終えた最高傑作を手に取った。レオンの存在が完全になくなった世界へ終着すれば、当然、私の死も消える。
この世に、この物語が事実として存在していたことを知る者は、作家である私の他に、誰一人もいない。
――と思っていた。




