4 天使を堕とす影
第四章天使を堕とす影
――それから数日。
生きる目的を失ったかのように、虚無とともに生きていた。僕にはもう、何の感情も残されていない。しかし残虐性だけは変わらなかった。人殺しは少しずつ、日常の発散手段になっていた。
そんなある日、酒を求めて街路を一人歩いていると、不思議な服装をした男が声をかけてきた。
「お初にお目にかかります。僕は預言という職を持つ者です。次期に起こる災難から、あなたを救いに来ました」
そう言われるまま、僕たちは酒場に向かった。
「僕のギフトは未来を見る力であり、君の未来が悲惨なもので溢れていたから、その不幸から救いに来た」
「そんな神ごときギフトが存在するのか」
「僕は神の意志を理解している」
「どうすればいい?」
「天使を殺せば、君は真実を知ることができるだろう」
そんな種族は聞いたことがなかった。
「東に進んだ丘で助けを求めると、そこに現れる」
僕は興味を惹かれ、耳を立てて男の話を聞いていた。男は言いたいことを言い終えたかのように立ち去ろうとした。しかし、足が止まる。
「おっと、聞きたいことがあった」
「なんだ」
「神は救世主か、それとも狂人か。どちらだと思う?」
「何者でも構わない。僕はそいつを殺したいと願うだけだろう」
そう言うと、男は大笑いをした。その答えが、何かの冗談であるかのように。
「君はやはり素晴らしい」
そう言うと、彼は店主に金貨を一枚投げ、歩いていった。そいつを殺し、その最強の力を奪おうとは、僕は思えなかった。そう考えることさえ、許されていないかのように。
それからは、男の言った場所を目指して町を出た。丘とはどこかも、見当がつかなかった。
「その馬、もらってもいいか?」
馬小屋の主に、話を持ちかけた。
「すまんが、これは売るためのものじゃないんだ」
「あぁ、そうか」
男に手を向け、呪文を唱えた。体は足元から、少しずつ凍りはじめる。
「な、なにするんだ!」
男の目は泳ぎ、汗をかき始めた。殺してしまおう、その意思でした行為だったのに、僕は魔法を解いていた。
「やめて、誰も死なせないで」
それが、レオンの心に響く。殺してきた善人たちの思いなのだろう。
「お前は黙っていろ。邪魔をするな」
あと一歩で、頭に剣を刺すところだった。男はその隙に逃げようと走る。そいつは世にも珍しい、飛行の力を持っていた。翼を生やし、今にも空高く飛び上がろうとしている。
(この力があれば、馬などいらなくなる)
脳裏の声を振り切り、僕は男に向かって剣を投げた。
――ブシュ。
背中に刺さる。移動を容易にした僕は、町人の話を頼りに丘へ向かった。たどり着いたそこは、何もないただの低い山のように見えた。両膝をつき、あらかじめ持ってきた毒を自ら飲んだ。
「神よ、僕をお助けください。僕には二人の幼い弟たちがいるのです」
その声が荒野に響いたとき、目の前が神々しく光った。……天使だ。それは明らかな姿だった。だがその両目は、助けを求める人間を見る目にしては、どこか冷え切っていた。まるで、救う相手ではなく、観察対象を見るような目だった。
僕は、ぎりぎりまで死にゆく様子を演じた。
「ああ、死んでしまいます」
天使が目の前にやってくる。
「どうか、お助けを」
その瞬間を逃さず、手を腰に運び剣を握った。天使は胸に傷を負い、倒れる。僕は立ち上がり、毒消し草を飲み込んだ。
「俺は何に見える?」
天使は、かすれた声で答えた。
「悪魔……。あなたは悪魔よ」
僕はさらに深く、剣を刺す。
「あなたも分かっているでしょう。人は愛に弱い生き物なのよ」
(あぁ、レオン。やはりあなたが……ちょうど良かった)
その最後の呟きの意味を、僕はまだ知らなかった。息絶えていく天使から、白銀の血が流れ出る。
ゴクリ。
その瞬間、莫大な記憶に襲われた。
「あなた、今日も小説を書いているの?」
「そうだよ、花蓮」
「いつか私のことも書いてよ」
「それに、完全な愛というものを、いつか見てみたいと思わない?」
――そんな声が、記憶のさらに奥底で、誰かのものとも知れず響いた気がした。
そんな会話とともに、何かが見えた。それはまるで、個々の独立した世界が並んでいるかのようなものだった。
――おそらく、この力は世界を跨ぐ力。
もし本当にそうであるならば、僕はすぐにでもこの世界を去ってしまいたい。しかし、僕にはやらなければならないことが残っていた。それは、この世界のすべてを破壊することだ。こんな世界、元から存在するべきではなかった。
僕は空高く上がった。青々と並んだ山の隣に見えたのは、最初の標的だった。そこは小さな村で、住人は数十人ほど。近づくたびに、賑やかさが増していく。
「今日の夜ご飯なにー? ママ」
子どもが、この先の運命も知らずに明るい声を上げていた。
そこに僕は魔法を使い、火の矢を降らせた。
「助けてママ」
逃げ惑う人々。嘆き苦しむ人々。
一つの町に悲劇をもたらした僕は、それから転々と町を襲撃していった。大きな王国を攻撃したあるとき、破壊した家の瓦礫に挟まれた女がいた。
「助けて。私には子どもたちがいるの」
無意識に体が動く。重い鉄塊を持ち上げた。
「ありがとう」
そのキラキラした目の光に、僕の心が軽くなる。僕が起こした苦しみなのに。なぜ、偽善者ぶっているんだ。
……天使の優しさ。
しかしそれは、僕をどん底に落とすことになる。
その瞬間、僕の体は何かに大きく引っ張られた。どこか見覚えのある翼が、視界に映る。
目を開いたとき、僕は漆黒の世界にいた。周りを見渡すが、あまりに暗く、よく見えない。そんなとき、どこかから声がした。
「あああああああああああああああ」
悲痛な音だった。この場所から逃げ出さなければならない。力いっぱい空を飛ぼうとした。しかし、ギフトの何一つ、使うことができなかった。
……トントン。
何かが、こちらに向かってくる。
少しずつ目が暗闇に慣れ、その何かが近づいたとき、はっきりと見えた。あのとき、僕の見張りをしていた黒い装束の男。そいつは、大きく声を上げた。
「それでは、断罪を開始する」
その瞬間、僕の体は硬直し、指一本さえ動かせなくなった。そいつは、僕の前に立った。
――グジュ。
身が抉れる音は、途中で聞こえなくなった。死んだのだ、その瞬間に。死とはいったい何なのか、僕はどこか興味を惹かれていた。これで自分の人生は終わってしまったのかと、そう確信していた。きっとそう、そのはずだった。
しかし――。
――気が付けば、僕は怪我一つない体に戻っていた。
そしてまた、足音が聞こえた。次に立っていたのは、僕が燃やした拷問官たちだった。そいつらは僕の周りに木片を撒いた。その瞬間、木は燃え始めた。
熱い。熱い。
再び、死んだ。
この世界では、自分が殺した人間に殺される。つまり、贖罪の場だった。これから僕は、殺され続ける。
そうして長い時が過ぎた。僕のなかに、完全なる憎悪が生まれた。すべての民を殺し、すべての世界を恐怖で壊してしまいたい。そんな望みに、僕は飲み込まれていった。




