2 虫を殺した日、家族を喪った日
第二章虫を殺した日、家族を喪った日
ぷちっ……
世界から、小さく淡い命が一つ消えた。それを消したのは、僕だ。
「なにしてるの?」
背後から声がかかる。
「虫を殺してたんだよ」
振り返らずに答えた。すると少女は、甲高く高貴な笑い声を上げた。彼女はその行為を、まるで一緒に分かち合っているかのように、僕と似た空気を纏っていた。一瞬目を閉じた彼女は、ふっと息を漏らして続けた。
「あなたって、やっぱり面白いね」
不思議な子だ。目を見開き、思わず振り返る。こんな僕の歪んだ気持ちを、幸せそうに受け入れてくれるのだから。
僕は日頃から、生き物の命を奪う行為を好んでいた。それはまるで、自分に何かを実感させるための儀式のようだった。
「ねえ、あなたって過去に大事な何かを失ったことがあるんじゃない?」
少女が聞いた。
「なんでそう思うの」
「だって、あなたの目に、愛が見えないもの」
この子だったのか。この世界で、僕を理解してくれる人間は。久しぶりに笑みがこぼれた。
その瞬間、僕は誓った。
――なんとしてでも、この子を僕の手で殺してあげよう。
「姫様!」
遠くから、風に乗って声が渡ってくる。鎧を着た男がそこにいた。ひどく息を切らしている。
「どこへ行かれたのかと、心配しておりました」
この様子を見る限り、美しいこの少女はこの国の貴族らしかった。
すると、また遠くから叫ぶ声がした。
「レオン!」
僕の母だ。
「今すぐ離れなさい!」
姫との距離の近さが、怖かったのだろう。母の目は大きく見開かれていた。引っ張られながらも、僕は最後まで姫と目を合わせ続けていた。僕のは黒く濁った瞳。彼女のは――。
人の思考は、必ず経験から生まれる。僕の歪んだ愛の形もまた、その例外ではなかった。それは、三年前のある惨劇に遡る。
僕の家は、ひどく貧しかった。食べるものを得るだけで、毎日が精一杯だった。母はいたが、父は家のものを盗んで姿を消していた。母は自分のせいだと言い、懸命に働いてくれた。
けれど、それだけでは足りない。まだ子供だった僕も、金を得る必要があった。
幸せを得るには、リスクを選ばなければならない。
家族には薬草集めだと伝えていたが、実際は盗みに他ならなかった。最初に他人の財布を抜き取った夜、僕は布団の中でずっと震えていた。眠れなかった。誰かを傷つけたという実感が、指先にまとわりついて離れなかったからだ。
でも、朝になって台所に立つと、母が笑っていた。
「ありがとう、レオン」
「お兄ちゃん、お疲れ様!」
家族がそんな温かい言葉をかけてくれる。この瞬間、僕はほっと息をつく。初めて呼吸ができるような感覚だった。その笑顔を見ている間だけ、自分がしたことを忘れられた。
――それに気づいたときから、僕の中で何かが少しずつ入れ替わっていったのだと思う。罪悪感を家族の笑顔で上書きすることに、僕は慣れていった。
夕飯を作る母の背中を見ながら、僕は椅子に座る。全身の力を抜き、目を閉じた。
「お兄ちゃん、今日はどのくらい取れたの?」
妹が高くて澄んだ声で聞いてくる。
「いっぱいだよ」
妹がそう聞いてくるのには理由があった。ずっと欲しがっている魔法の書がある。それをたくさん稼いで買ってあげる、そう約束していたのだ。この子のためなら、罪を被る覚悟はできていた。
そんな日々が続いていた、ある日のこと。
……今日は何か大物が手に入る。
そんな予感が頭をよぎった。街の祭りでもあったのか、その日はひどく賑やかだった。
ふと前を向いた僕の視線を、禍々しく光る原石が掠めた。
(絶対に盗ってやる)
男の後をつける。大人の足音と、少し小さな足音が交互に響く。心臓が次第に早鐘を打つ。周りの様子は目に入らない。男の姿だけが視界を占めていた。男は肉屋の前で足を止める。視線は、吊るされた肉に向いているようだった。
……今だ。
カバンの中に手を伸ばし、その感触を確かめる。
走る。走る。追いかけてくるかもしれない。息が荒くなる。
(どこかに隠れなければ)
建物の物陰に身を潜めた。足音は、一向に聞こえてこない。
なんだこれ……
そのものは、見た目を変えていた。あまりに奇妙な姿に、僕は一瞬ぎょっとして落としてしまった。すぐにでも売ってしまいたくて、駆け足で鑑定屋を訪れる。
「すいません、これ買ってください」
手に乗せられたそれを見た瞬間、老人は後ずさりをした。一瞬唾を飲み込み、大きな声を上げる。
「これはまずい。ワシらは何も見ておらん。とっとと出ていけ!」
店主はひどく怯えて、僕を突き放した。
「なんなんだ、まったく」
入口に向かって吐き捨てる。不服だった。売りに来ただけだというのに。僕は気味の悪いそれを、思いきり壁に投げつけた
夜が深くなっていたこともあり、僕は家へと引き返した。
――黒い布を纏った少女が、粉々になったその石を静かに拾い上げていたことなど、僕は知らなかった。
「ただいま」
先ほどまでの騒々しい世界とは打って変わり、静かで優しい空間が僕を癒す。
「レオン、ありがとう」
「お兄ちゃん、おかえり!」
母が料理台に向かい、妹は何かを抱えてやってくる。バタバタと動く足が、その気持ちの高まりを表していた。
「これ見て!」
木でできた、うさぎを象った置物だった。
「実はこれ、私が作ったの」
驚いた。この年齢の子が作ったにしては、驚くほどの出来栄えだった。僕はそれに見入り、手から離さなかった。
「ずっと大事にするよ。ありがとう」
そうして今日の疲れを忘れかけていた、そのときだった。
……コンコン。
戸を叩く音がした。こんな夜に誰かが訪れることなど、普段はない。
「誰かしら?」
母が戸に近づく。
「ちょっと待って!僕が確認する」
耳を押し付ける。
「ひ……け……ない」
「お……を……こわ……」
話し声が聞こえてくる。どうやら複数人いるようだった。僕は家族に合図を送った。怪しいから出るな、と。
でもそれは、何の意味も持たなかった。次の瞬間には、部屋の中に砂埃が立っていた。数個の黒い影が僕の目に映る。妹が逃げ惑う声が響いた。何が起きたのかもわからないまま、ただ夢であることを願っていた。
――それが、最後の記憶だった。
仄かな鉄の匂い、無機質な肌触り。僕は目を開けた。
「な……」
目の前に、吊るされた母と妹がいた。体が動かない。
「おい!」
ガチャ。
鎖だ。音を立てて暴れてみるが、頑丈でまったく外れる気配がない。
母の目は赤く腫れあがり、妹の目はまだ開いていなかった。呼吸のペースが乱れ、力任せに暴れる。
「それは外れないんだ」
牢の中には、黒い装束をまとった男たちがいた。その姿は、肉屋の前で足を止めていたあの男とぴったり重なった。
タン……タン……タン……
一人が僕の前に立ち、口を開く。
「さあ始めようか。我らの宝を盗んだ虫けらの命のショーを」
そう言って、男は母の方を向いた。
「持ってこい」
もう一人の男が斧を運んでくる。
「やめろ……」
僕は力いっぱい腕を突き出したが、皮膚を傷めるだけだった。
「やめてくれ」
怒りに飲まれているはずなのに、涙も同時に零れていた。妹はその頃に目を覚ました。ひどく怯えた声を上げている。
「第一幕は、母親の断頭だ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は声を出すことすらできなかった。
……ドン。
その音だけが、部屋に響いた。
「あああああああ!」
喉が張り裂けそうなほどの声を上げた。あのとき、幼い妹の目にその光景はどう映っていたのだろうか。
「次はこのお嬢ちゃんかな?」
男はにこりと笑い、こちらを向いた。
「いや!」
それが、最後に聞いた妹の声だった。僕は下を向いた。自分も殺されるという恐怖ではない。それはもっと美しく、透明な感情。純粋な、何か。
(ああ、こんなにも一瞬で、愛は壊れてしまうのか)
「早く殺してくれ」
僕はそいつの顔を見上げて叫んだ。ぼろぼろに腫れあがった瞳で。
「ああ? そんな甘いこと、言ってんじゃねえよ」
それから数日間、死よりも苦しい痛みを与えられ続けた。殴られては回復魔法で治され、その苦しみが延々とループする。僕を殴りつける男の力は、常人のものではなかった。もう何も反応を示せなくなり、ただ床に散った血の跡を眺めていた。
「こいつ、特に目立った能力はなさそうだな」
男たちの一人が言った。
この世界には、ギフトと呼ばれる、生まれつき与えられる超人的な力があった。魔法を使えるもの、剣技に長けたもの、その形は様々だ。僕はといえば、この世で最も存在割合の低い『ノーギフト』だと診断されていた。
僕に力がなかったから、家族は死んだのだ。そう身をもって感じた。すべては僕のせい。そうなのだ。
「おえ」
反省する暇さえなかった。再び僕は殴られた。真っ暗な闇を見た僕の心に、変化が起きた。どうせ死ぬなら、こいつらを殺してやろうという思いだった。
「しね、しね!」
殴られながら叫び続けた。
ガシッ。
僕の最初の抵抗だった。思いきり男の手に向かって、歯をむき出しにして飛びかかった。口に血が流れ込む。臭い。
「いてえな、ガキが!」
今度こそ殺される、そう思った。それと同時に、僕には不思議な感覚が伴っていた。まるで誰かの人生を覗き見ているような感覚。その光景の中には、拘束された自分の姿さえ見えた。
意識が戻ったときには、男の手に針が見えた。息を吸ったが、それが喉につっかかり咳き込む。
「暗闇でも見てろ」
そう言うと、僕の右目に真っ先に突き刺した。
「あああああああ」
視界の半分が、黒く染まる。
「休憩にするぞ」
その合図とともに、男たちは牢を出ていった。僕は痛みに悶えていた。
「痛い。痛い!」
苦しみの中、再びさっきの感覚に襲われる。どうしてか、体の奥からとてつもない力の漲りが、ドクドクと僕を貫いた。
この鎖も壊せるのではないか――常人の考えから外れたことを思った。
……ガチャン。
簡単に、鎖は壊れた。
(右目が見える、見える!)
目線は高くなっていた。
(どうなっている)
さっきまであった体の痛みもない。体を隅々まで見る。同じ位置に痣や皺
――そう、あの悪魔、あの拷問官の体になっていたのだ。
流れ込んできた記憶。変化した体。間違いない。僕はヤツの手を嚙みちぎったことで、何かのギフトを発動させたのだ。まさにそれは、模倣のギフト――。
皮肉なことだ。やはり僕は、盗人なのだ。
「なんの音だ」
監視官が、その音にすぐさま反応した。しかし僕の見た目は、もう元に戻っている。
「なぜ鎖が外れている」
「実は僕、鉄を腐らせる腐食のギフトを持ってるんです」
そう小さく答えた。
「それは本当か。証明してみよ」
「あなたの持つ剣を、こちらに投げてください」
指示に従う男。
「ほらよ」
「すみません、足を折られていて。もう少しこちらに近づいてもらえませんか」
男は檻の戸を開いた。タン、タン、タン。一歩ずつ、彼の命の時間がすり減っていく。
剣に手を伸ばした瞬間、僕は迷った。ほんの一瞬だけ。もう一人だけなら、まだ引き返せる気がした。
だが、その迷いごと押し潰すように、男の意識はぷつりと途切れ、頭は宙を舞っていた。初めて人を殺した瞬間だった。指先が、自分のものではないくらい冷たくなっていた。
しばらくして、休んでいた者たちが戻ってくる。
「どういうことなんだ」
牢の中の血飛沫を見て、僕を問いただす。生首は、隅の影に置いてあった。
「すみません、あのガキ、物体浮遊の魔法を使って……俺の剣で、自分の首を……」
「自殺させるなと言っただろう!」
男は胸ぐらをつかむ。
「早く処分しないと」
男は振り返り言った。
「死体を埋めろ」
ぞろぞろと、血だまりの中へ入っていく。僕は最後尾に立ち、彼らが入っていくのを見ていた。
――こいつらは悪人だから。二人目からは、そう自分に言い聞かせた。
――ガチャ。
「どういうことだ、お前!」
僕は、被った皮を剥いで正体を現した。憎しみに染まった片目の少年。奴らはその時、確信しただろう。死の時であると。
「シャルブレス」
殺した男の持つ『炎魔法のギフト』を使い、牢の中に向かって呪文を唱えた。躊躇はしなかった。まるで窯のように燃え盛り、男たちは嘆いた。
「全てはあのお方のために!!」
誰かがそんな言葉を発した。なんのことだかわからない。熱の充満する監獄を背に、僕は光の漏れる方へ歩き出した。奴らの悲痛な声だけが、復讐という些細な救いの効果を、僕の中で大きくしていった。外の明かりはいつもの何倍も眩しかった。家へ向かう足取りは、ひどく遅かった。
その後は、子供を産めない女性のもとに預けられ、今に至る。あの一件以来、「愛するものは自分の手で殺すことこそが愛の形である」――そんな奇妙な思想に、僕は染まっていった。誰かに人生を決められるくらいなら、いっそ自分の手で全部壊してしまいたい。その衝動だけが、僕を僕として繋ぎ止めていた。




