1 まなざしの始まり
序章 まなざしの始まり
「その日、私は神を救った」
「その日、神は私を斬った」
私に残る幼い記憶は、たった一つだけだ。それはきっと、私とは違う何かとの、最初の出会いだった。
家族とピクニックに出かけた日のことをよく覚えている。風は柔らかく、空は洗い立てのように青かった。春と夏の境目がまだはっきりしない、そんな季節だった。
「お母さん、あっち見てくる!」
「気をつけてね」
「はい!」
元気よく返事をして、少し離れた場所に咲く花に誘われるまま、私は駆け出した。草原には彼岸花が一面に咲き誇っていた。だがその美しさに見とれる間もなく、不穏な影が空へと迫ってくる。澄んでいた空はみるみる雲に覆われ、風は唸りを上げて強さを増していった。
私はその変わりように、思わず空を見上げた。
「君には、世界がどう見える?」
背後から不意に聞こえた声に、肩がびくりと跳ねる。振り返ったそこには、奇妙な出で立ちの男が立っていた。透き通るような瞳が、じっと私を見つめていた。
その瞳の奥に、誰かが誰かを見張っているような、居心地の悪い温度があったことを、私はまだ知らない。
第一章針の数、心の数
町はずれの、広くも狭くもない一軒家。窓越しに、葉が風にこすれる音が忍び込んでくる。
――何かの影が、鉛筆へと伸びる。黒い衝動に導かれるまま、悲しみに暮れる少女の筆跡が紙の上に刻まれていく。
ガチャ。
仄かな鉄の匂い。
「一、二、三……」
目をぎょろつかせながら、視線を宙に泳がせる。手には押しピンが握られていた。これが、私の毎日の始まりだった。
「いくつだったでしょう!」
甲高い声が、心臓を刺す。できることなら、そちらを見たくない。この場から消えてしまいたい。
私はそっと横を見た。長く艶やかな髪。クラスメイトの皐月ちゃんだ。
「十三個」
まるで兵士のように、私は針の数をただ真っ直ぐに報告した。傍から見れば、何をしているのかなど誰にも理解できないだろう。私はただ、玩具にされている。それだけだ。
これからまた、身の縮むような一日が始まる。私はゆっくりと教室を目指して歩き出した。一歩、また一歩――その重みを感じながら。教室には人の声がたくさん浮いていたが、私の存在に触れるものは、何一つなかった。
キンコン――昼休みの鐘が鳴ると、視界が一気に色を失う。目をきょろきょろと動かした。息を潜めていても、それは必ず私に向かってくる。逃げられない、あの苦しみからは。黒い影が近づくたびに、心までも塗りつぶされていく。見ない、見ないように――そう心の中で唱えた。
「行くよ」
「……いやだ」
小さな声で訴える。喉が震える。
「嫌ってなによ。来なさいよ!」
眉間に皺を寄せた彼女が、左手を私の頬に払った。多くの視線を感じる。下を向き、誰とも目を合わせないようにして廊下に出た私は、無機質な床を踏んで進んだ。引っ張る彼女の手は、氷のように冷たかった。鼓動が速まり、息が浅くなっていく。窓の外に舞う落ち葉が、少しだけ羨ましかった。
「え……」
突然のことだった。目の前の壁がどんどん遠ざかっていく。ざわめきが、耳鳴りのような高音に変わる。腕をつかむ彼女の姿さえ、次第に歪んでいった。
(ああ、こんなになるまで、私は疲れきっていたんだ)
不思議と、驚きはなかった。あまりに現実離れしたその光景を、脳が見せる錯覚だと思えたからだ。ただ、呆然としていた。
「ねえ、歩きなさいよ」
瞬きをすると、世界はいつも通りに戻っていた。
キーッ――女子トイレの戸が開く。湿った匂いが鼻をつく。顔を上げると、複数の影が立っているのが見えた。魚のように濁った目が、こちらを見ていた。極力見ないようにする。人としての心を手放さなければ、これには耐えられない。頭の中を、空っぽにするよう努めた。
「さあ、始めようか」
口角を上げた彼女が、私の背中を押した。
「やめて……」
力のない私にできることは、天井の灯りを見つめ続けることだけだった。一点から目を離さず、深呼吸をする。それでも呼吸は、荒くなる一方だった。
(いつものことだ、いつものことだ)
生ぬるい感触が私を貫く。一気に吐き気に襲われた。目から嘆きの雫が溢れる。
――こいつらを、この手で殺してしまいたい。
それでも結局、何もできない。下剋上――それは、本物の弱者には遠すぎる言葉だった。
「お金、頂戴」
「はいよ」
男子が千円札を差し出した。
誰もいなくなったトイレで、私は鏡を見た。短い髪はぼさぼさで、目は赤く腫れている。そこに映っていたのは、醜い生き物だった。
「早く、殺して……」
そんな独り言をこぼして、再び泣き崩れた。鼻を啜る音だけが、静かに響いていた。
学校を終えた私は、足を引きずるように校門をくぐった。夕日の差し込む帰り道を歩く。枯れた葉を無意識に踏むと、粉々に砕けて建物の隙間へと飛ばされていく。誰にも気づかれることなく。
そのとき、頭の隅で、自分でも意外なことを考えている自分に気づいた。
――もし本当に神様がいるなら、どうして私だけこんな役をあてがったんだろう。
生まれる場所も、性格も、今日殴られることさえ、自分では何一つ選んでいない。まるで誰かが先に台本を書いて、それを演じさせられているみたいだ、と。子どもじみた考えだと分かっていても、その違和感だけは、なぜか消えなかった。
(――見つけた。見つけたよ、あなたが、いおり……)
その晩、私はカッターを持ち出し、階段へ向かった。できるだけ家族と目を合わせないように。妹はゲームをしている。母は夕飯を作ってくれている。こうして見れば、ただの幸せな家族の風景だった。
胡瓜を刻む音に混じって、テレビの音声が響く。
「岡田花蓮さんを殺害した犯人の行方は、いまだ掴めておらず……」
その言葉は、なぜか心の中で反復した。自分の人生とは何の関係もない事件のはずなのに。自室に戻った私は、刃を柔らかな皮膚に押し当てた。冷や汗が滲み、手が震える。それ以上、力を込めることができない。息が整わない。
刃を出したままのカッターを、机の上に置いた。
何も変えられない。何も成し遂げられない。刃先をじっと見つめながら、苦い感情で胸がいっぱいになり、嗚咽が漏れた。
「いおり、大丈夫?」
「お姉ちゃん!」
ドアが静かに開いた。そこには、母と妹の姿があった。潤んだ瞳で、私を見つめている。私は下を向いた。こんな姿を見られたくなくて、今までずっと誤魔化してきたのに。
「ごめん、なんでもないの」
二人が駆け寄る。私は必死に顔を手で隠した。
「大丈夫。無理には聞かない」
母がそう言った。
「でも、これだけは覚えていて。何があっても、あなたのそばにいるから。絶対に。絶対だから」
母が私を包み込んだ。柔らかく、温かかった。速い鼓動が母の心臓と重なり合い、少しずつ穏やかなリズムを刻んでいく。私は力いっぱい抱き返した。妹は私たちの様子をそっと見つめ、静かに部屋を出ていった。
「これ、お姉ちゃんにあげる!」
妹が広げた掌に、丁寧に折られたうさぎの折り紙があった。なんて可愛らしいのだろう。とても綺麗に折られている。どんな気持ちで折ってくれたのだろうか。幼い妹のことだから、ただ姉を慰めたい一心だったのかもしれない。それでも、その愛おしさに胸が詰まった。大切に、そっと受け取る。
頬を濡らしながら、私は一つのことを誓った。
(家族が生きている限り、私も一緒に生きていこう)
パタン……ドアが閉まった。複雑で、それでもどこか優しい気持ちだった。うさぎを胸に当てる。久しぶりに、笑顔を作ることができた。
ベランダに出て、新鮮な空気を吸おう。そう思い、窓を開けて手すりに手をついた。夜空を見上げると、一つだけ光る遠くの星があった。
……なに!?
夜空が、一瞬にして光に覆われた。まるで太陽が降ってきたかのように。
(眩しすぎる……)
薄めに開いた目に、異質なものが映る。雄大で迫力のある白い翼を背負った、美しく神々しい存在。
――天使。
そう思った。とっさに後ずさり、壁に腰をぶつける。恐れ慄く私の目に、その体に刻まれた大きな傷痕がちらりと見えた。まるで、何かで斬りつけられたような跡だった。
「私はあなたを救いに来た、のよ」
こちらを見て、そう言った。あまりにも人間らしい話し方に驚く。それは優しさに聞こえたが、瞳の奥には別の色が揺れていた。見られている、というより、値踏みをされているような視線だった。
「てん……し?」
この出来事が、私の運命が動き始めるきっかけになった。
「あなたにお供するわ」
そう言われ、私は彼女とともに部屋へ入った。色々と質問を重ねたが、返ってくる答えは断片的だった。
「名前は、なんていうの?」
「Kって呼んでくれる?」
「どうして私だったの?」
「それは、あなたが運命を背負っているからよ」
「それって、どういう意味?」
「……」
「あなたは、私のことを助けたいの? それとも、見てみたいだけなの?」
咄嗟に出た問いに、天使は一瞬だけ黙った。ほんのわずかな沈黙だったが、私はそれを見逃さなかった。
「――両方、かしらね」
そう答えた声には、微かな笑いが混じっていた。優しさと呼ぶには、少しだけ冷たい笑いだった。
それからというもの、天使はどこにでもついてきた。天使らしい振る舞いで、あらゆる危険から私を守ってくれた。他の人間には、その姿は見えていないという。
「遠回りして帰りなさい」
「あっちに逃げなさい」
そんな助言をくれる。私を助けようとしているのだと、次第にわかっていった。おかげで私は少しずつ、いじめという泥沼から離れていくことができた。
そんなある日、天使が私にこう言った。
「今日は学校を休んで、この街の図書館に行きなさい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
私は学校とは逆の方角へ足を進めた。真意は読めなかったが、なぜか胸が高鳴った。何かが始まる予感がしていた。
そこは古びた三階建ての図書館だった。木の香りがする。平日の午前中ということもあり、人影はまばらで、老人が数人いるだけだった。受付を済ませ、入館する。
「三階へ」
呟かれるまま、私の足は上へと向かった。
「上から三番目、左から二番目の本を取りなさい」
言われた通りに本を取る。それだけが、異様に埃を被っていた。すぐに開いてみる。あらすじも、前書きもない。
一ページ目を開いた。ごく普通の小説か、伝記だろう――そう思っていたのだが。
その行為が、私のすべてを覆すことになった。




