第3話 もう退路はないの
二人は人気のない路地裏へと足を踏み入れた。周囲には大量の廃材やガラクタがうずたかく積まれている。
少女は前へ進み出ると、大きな鉄くずに両手を押し当て、頬を膨らませた。
「むむむ……っ!」
坂井は呆然と彼女を見つめた。鉄くずは微動だにしない。少女は少し息を切らしながら振り返り、不機嫌そうに言った。
「少しは紳士らしく、手伝ってくれない?」
「あ……ごめん。」
「いーち、にー、さーん……むむむ……っ!」
二人で力を合わせて巨大な鉄くずを動かしていると、坂井は思わずツッコミを入れた。
「君、普段はどうやってここに入ってるんだよ?」
「いつもはスムーズに動くの! 今日はちょっと引っかかってるだけ!」
少女は手に付いたホコリを払った。
ガタンと鈍い音が響き、鉄くずの奥から一枚の錆びついた鉄扉が現れる。
坂井が額の汗を拭いながら見つめると、少女は振り返って短く名乗った。
「橋本よ。」
そう言うと彼女は扉を開けて中へ入り、坂井も恐る恐るに続いた。
部屋の内部は薄暗く、それほど広くはない。その一番奥にはプロ仕様の PC 機材一式が鎮座しており、七〜八台ものモニターにびっしりとコードが走り抜けている。
橋本は扉を閉めると、棒付きキャンディの包み紙を破って口に放り込み、滑舌悪く言った。
「あいつらに目をつけられるなんて災難ね。横で見てたわよ。……で、どうするつもり?」
「どうするって……」坂井は重く息を吐き出した。「どうしようもないよ……AIですら俺を助けてくれない。」
橋本は鼻で笑うと、回転椅子に腰掛け、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。激しいキーボードを叩く音が部屋中に響き渡り、モニター上にいくつものウィンドウが爆速で立ち上がっていく。
「あの……」坂井が口を開かけようとすると、
「しっ!」と橋本は振り返りもせず制した。
二十分後。
「できた!」
橋本は伸びをして立ち上がると言った。「スマホ、貸して。」
坂井が戸惑う間もなく、橋本はポケットから USB メモリを取り出して坂井のスマホに挿し込んだ。二秒も経たずに抜き取り、スマホを投げ返す。
続いて、彼女はデスクの上から黒縁の眼鏡を取り出し、坂井に差し出した。どこか不敵な笑みを浮かべている。
坂井は眼鏡を装着した。橋本は首をかしげる。
「準備はいい?」
バシィッ──!!
橋本は躊躇なく坂井の頬を全力で平手打ちした。
「痛っ! なにするんだよ!?」
坂井は火照る左頬を押さえ、慌てて眼鏡を外す。
「おかしいわね……」橋本は眼鏡を受け取って確認し、「あ、ごめん。起動するの忘れてた。」
橋本は隠しボタンを押し、再び眼鏡を差し出してきた。
「まったく……一体なんなんだよ。」坂井は文句を言いながら眼鏡をかけ直す。
その瞬間、景色の見え方が一変した。
まるで高スペックなゲームの画面のように、視界に幾千もの緑色の解析データが躍り出て、周囲の情景や橋本のシルエットをリアルタイムで描画し始めたのだ。
橋本が再び手を振り上げ、平手打ちを放とうとする。
視界に赤い戦闘アシスト表示が極速で点滅した。
[予測:右平手打ち]──[最適戦術:かがんで回避 ──> 左腕でガード&反撃]
しかし、坂井の脳がその指示を処理するより速く──
バシィッ──!!
坂井は再び見事に平手打ちを食らった。
橋本は呆れたように息を吐く。
「思考も神経伝達速度も遅すぎるんじゃない?」
坂井は納得がいかずに言い返した。
「コンマ数秒で判断なんて、普通の人間には無理だろ! 一体これ、なんなんだ!?」
「私が発明した最新の AI戦術アシスタントよ。」
橋本は肩をすくめた。「もともとは実験作だけど、喧嘩くらいなら十分使えるはずよ。」
「喧嘩……? 暴力で暴力を制しろっていうのか?」坂井は首を振る。
その瞬間、橋本の顔から笑みが消え去り、その瞳は蛇のように冷たく細められた。
「あいつらが奪ったものを取り返してくれたら、次は私があいつら一族を潰してあげる。」
「もっと合法的な方法が、他にあるはずだ……!」
「他の方法?」
橋本は冷笑を深める。
「あの警察のお嬢様友達に頼るのも手だけどね。あの家族の権力を考えたら、明日まで生きていられるだけでも儲けものよ。あいにくね、坂井──あなたにもう退路はないの。」
橋本は椅子に座り直すと、あるファイルを開いて冷酷に笑った。
「協力しないなら……さっきスマホのデータをコピーしたついでに、あなたと妹さんの個人情報、全部バックアップしておいたから。」
坂井の瞳孔が猛烈に収縮する。「君……っ!」
「密告しようものなら、兄妹揃ってロクな死に方をしないわよ。」
橋本は居丈尚に彼を見下ろす。
「でも、何もしないなら、結局あいつらに殺される結末は同じでしょう?」
坂井は信じられないものを見る目で、目の前の少女を見つめた。
坂井は拳を固く握りしめ、掠れた声で呟く。
「だけど……俺はただの大学生だ……俺には……」
「あー、あー、あーっ!」橋本は大声で彼の言い訳を遮った。
「泣き言は要らない。あるのは『選択』だけよ!」
彼女は再びその眼鏡を掲げ、冷たく言い放つ。
「この扉から出ていって大人しく死を待つか。それとも……この唯一の逆転の切り札を選ぶかよ。」
坂井の心臓が激しく鐘を打つ。
(どうして俺なんだ? どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ? 本当に、他に道はないのか……?)
脳裏をよぎるのは、妹・サクラの無邪気な笑顔。そして、悪党が残していった氷のような脅迫。
(サクラ……俺が、守らなきゃ……!)
坂井は橋本を真っ直ぐ見据えた。その瞳から迷いが消え、捨て身の決意が宿る。
家へ戻ると、妹のサクラが疲弊しきった坂井を心配そうに見つめた。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
坂井は無理に笑みを浮かべた。「大丈夫さ、心配いらないよ。」
部屋へ入ると、坂井はベッドへ倒れ込み、極度の精神的消耗からすぐに深い眠りへと落ちていった。
翌朝。校門の前で、七海瞳が焦燥しきった様子で坂井を待ち受けていた。
「坂井! 話は聞いたわ……本当にごめんなさい、私、何の力にもなれなくて……警察の方も……」
「いいんだ、七海。」坂井は穏やかに彼女の言葉を遮った。
二人の間に、しばしの沈黙が流れる。
瞳は一瞬驚いたように目を見張り
「私、柔道部なの。ちょうどこれから道場で練習があるんだけど、一緒に来る?」
坂井はリュックからあの黒縁の眼鏡を取り出して装着すると、顔を上げて七海瞳を見つめた。
「あぁ、喜んで。」




