前編 『奥さんの荷物が、僕の部屋に届いた日』
今回は、『推しのグラビアアイドルと結婚しました。』続編の前編です。
みなとみらいの観覧車で想いを交わし、夫婦となった瀬名悠斗と白河莉緒。
けれど、結婚したからといって、すぐに堂々と夫婦として暮らせるわけではありません。
莉緒は人気グラビアアイドル。
悠斗は一般人の会社員。
二人の結婚は、まだ限られた人にしか言えない秘密です。
前編では、莉緒の荷物が悠斗の部屋に届き、少しずつ新婚同居が始まっていく様子を描きます。
さらに莉緒は、東雲巳波に結婚を相談し、秘密にしてほしいと打ち明けます。
莉緒の家族、悠斗の家族、そして悠斗の親友で幼馴染にも、二人の結婚が少しずつ伝わっていきます。
推しとファンだった二人が、夫婦として現実の生活を始める前編です。
それでは、秘密の新婚生活の始まりをお楽しみください。
結婚したからといって、次の日から世界が劇的に変わるわけではない。
朝起きれば、いつも通りアラームは鳴る。
会社には行かなければならないし、満員電車は相変わらず息苦しい。コンビニのコーヒーは百円で、上司からの資料修正依頼も容赦なく届く。
けれど、瀬名悠斗の世界は確かに変わっていた。
スマートフォンの画面に表示された名前。
白河莉緒。
いや、戸籍上はもう、瀬名莉緒。
長年応援してきた推しのグラビアアイドルが、今は自分の妻になっている。
その事実に、悠斗はいまだに慣れていなかった。
仕事中、ふとした瞬間に思い出してしまう。
みなとみらいの観覧車。
頂上で震える声。
「私と、結婚してください」
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。
そして同時に、少し怖くもなる。
莉緒は芸能人だ。
テレビにも出る。雑誌にも載る。イベントにも参加する。街を歩けば、誰かに気づかれるかもしれない。
一方で、悠斗は平凡な会社員だった。
特別な肩書きもない。華やかな経歴もない。誰かに誇れるような大きな財産もない。
そんな自分が、白河莉緒の夫になった。
夢のようで、幸せで、けれど現実として考えるほどに、責任の重さが胸にのしかかってくる。
その日の仕事を終え、悠斗が自宅マンションへ帰ると、部屋の前に見慣れない段ボール箱が置かれていた。
いや、正確には見慣れない箱ではない。
箱の側面に、丁寧な字でこう書かれていた。
『莉緒 部屋着・化粧品・マグカップ』
悠斗はしばらく、その文字を見つめた。
莉緒の荷物。
妻の荷物。
自分の部屋に、彼女の生活が入ってくる。
鍵を開ける手が、少しだけ震えた。
部屋に入って電気をつけると、スマートフォンが震えた。
莉緒からだった。
『お疲れさまです。荷物、届いていましたか?』
悠斗はすぐに返信した。
『届いています。大切に部屋に入れます』
すると、すぐに返事が来た。
『大切にしすぎなくて大丈夫です。中身、ほぼ生活感の塊なので』
悠斗は笑ってしまった。
段ボールを部屋の中へ運ぶ。
一人暮らしの部屋は、決して広くない。
リビングと寝室を兼ねた部屋。小さなキッチン。古い本棚。テレビ台。仕事用のデスク。
今までは自分一人分の生活だけで完結していた部屋に、これからは莉緒のものが増えていく。
段ボールを開けると、淡い色の部屋着、丁寧にまとめられたスキンケア用品、仕事用らしい台本、そして白いマグカップが入っていた。
マグカップには、小さな猫の絵が描かれている。
テレビや雑誌で見る大人っぽい白河莉緒からは、少し意外な可愛らしいデザインだった。
悠斗がそのマグカップを食器棚に並べた時、インターホンが鳴った。
画面を見る。
キャップを深く被り、マスクをした女性が立っていた。
悠斗は慌てて玄関へ向かった。
ドアを開けると、そこには莉緒がいた。
「こんばんは、旦那さん」
小さな声でそう言われた瞬間、悠斗の心臓が跳ねた。
「こ、こんばんは。莉緒さん」
「入ってもいいですか?」
「もちろんです」
莉緒は周囲を確認してから、すっと部屋に入った。
ドアが閉まる。
鍵がかかる。
その瞬間、彼女はマスクを外し、大きく息を吐いた。
「はあ……緊張しました」
「大丈夫でしたか? 誰かに見られていませんか?」
「たぶん大丈夫です。マネージャーさんには、友達の家に寄るって言ってあります」
「それは……大丈夫なんですか?」
「嘘ではないです」
莉緒は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「友達以上ですけど」
悠斗は返す言葉を失った。
莉緒は部屋を見回した。
悠斗は急に自分の部屋が気になり始める。
掃除はした。洗濯物も片づけた。机の上も整理した。
けれど、人気グラビアアイドルを迎える部屋としては、あまりにも普通すぎる。
莉緒は本棚の前で立ち止まり、そこに並んだ写真集を見つけた。
白河莉緒の写真集。
一冊だけではない。
何冊もある。
悠斗は顔が熱くなった。
「あ、すみません。それは、その……」
「ちゃんと持っていてくれたんですね」
莉緒は怒るどころか、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「捨てるわけがないです」
「でも、奥さん本人が部屋にいるのに、写真集があるのって変な感じですね」
「僕も今、ものすごく不思議な気持ちです」
莉緒は写真集の背表紙をそっと指でなぞった。
「この頃の私、必死でした」
「え?」
「笑ってますけど、撮影の前日、泣いてたんです。体型のことを言われて、表情が硬いって言われて、自分には向いてないんじゃないかって」
悠斗は静かに聞いていた。
「でも、発売後に青い便箋の手紙が届きました」
莉緒は悠斗を見た。
「“笑顔だけじゃなく、少し寂しそうな横顔が綺麗でした”って書いてありました」
悠斗は思い出した。
確かに書いた。
ただの感想のつもりだった。
けれど莉緒にとっては、それが支えになっていた。
「私、あの手紙を読んで、少しだけ救われました」
「……僕は、ただ思ったことを書いただけです」
「だから嬉しかったんです」
莉緒はそう言って、段ボールの方を見た。
「あ、マグカップ出してくれたんですね」
「はい。食器棚に並べました」
「見てもいいですか?」
「もちろんです」
莉緒はキッチンへ行き、食器棚を開けた。
悠斗の紺色のマグカップの隣に、莉緒の白いマグカップが並んでいる。
それだけの光景なのに、莉緒はしばらく動かなかった。
「莉緒さん?」
「……並んでる」
「はい」
「私のカップが、悠斗さんのカップの隣にある」
「変でしたか?」
「違います」
莉緒は振り返った。
目が少し潤んでいた。
「嬉しいんです」
悠斗は胸が締めつけられた。
結婚届を出した時よりも、もしかすると今の方が、二人が夫婦になった実感があった。
戸籍上の変化ではなく、生活の中に相手が入ってくる。
歯ブラシが増える。
マグカップが並ぶ。
部屋着がクローゼットに掛かる。
そんな小さなことの積み重ねが、夫婦という形を作っていくのだと思った。
その夜、二人はコンビニで買った総菜と、悠斗が炊いたご飯で夕食を取った。
莉緒はテーブルに並んだ味噌汁を見て、嬉しそうに笑った。
「本当に作ってくれたんですね。豆腐とわかめのお味噌汁」
「前に好きだと言っていたので」
「覚えていてくれたんですか?」
「奥さんの好きなものなので」
莉緒は箸を止めた。
「……その呼び方、まだ慣れません」
「僕もです」
「でも、嫌じゃないです」
「僕も、嫌ではありません」
そう言うと、二人は同時に照れて黙った。
テレビでは、何気ないニュース番組が流れていた。
その中で、芸能ニュースのコーナーが始まった瞬間、莉緒の表情が少しだけ硬くなった。
悠斗は気づいたが、すぐには何も言わなかった。
莉緒は味噌汁を一口飲んでから、ぽつりと言った。
「悠斗さん」
「はい」
「私、今日、巳波さんに電話しようと思っています」
「東雲さんに?」
「はい」
莉緒は箸を置いた。
「結婚したこと、ちゃんと話します。秘密にしてほしいってお願いもします」
「莉緒さんが信頼している人なら、僕は反対しません」
「ありがとうございます」
「でも、莉緒さんは大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「話すことで、不安が大きくなったりしませんか?」
莉緒は少し驚いた顔をした後、柔らかく微笑んだ。
「悠斗さんって、いつも私の心配を先にしてくれますね」
「夫なので」
「……ずるいです」
夕食の後、莉緒は窓際に座ってスマートフォンを握った。
悠斗は少し離れた場所に座っていた。
同じ部屋にいるが、会話の邪魔はしない。
莉緒が深呼吸をして、電話をかける。
数回の呼び出し音の後、相手が出たようだった。
「もしもし、巳波さん。今、大丈夫ですか?」
莉緒の声は少し緊張していた。
「はい。あの……大事な話があって」
少しの沈黙。
莉緒は悠斗の方をちらりと見た。
悠斗は小さく頷いた。
莉緒は目を閉じ、そして言った。
「私、結婚しました」
電話の向こうから、驚いたような声が漏れた。
莉緒は慌てて続ける。
「ごめんなさい、急に。まだ公表はしていません。事務所にも、これからちゃんと話します。相手は……この前話した、瀬名悠斗さんです」
莉緒の声が少し震えた。
「はい。みなとみらいの観覧車で……私から言いました」
悠斗は思わず耳まで熱くなった。
自分がその場にいるのに、改めて他人に話されると、まるで夢のように感じる。
「巳波さん」
莉緒はスマートフォンを両手で握った。
「お願いがあります」
その声は、先ほどより真剣だった。
「まだ、秘密にしていてほしいんです。もちろん、ずっと隠すつもりじゃありません。でも今は、仕事のことも、事務所のことも、ファンのことも、ちゃんと準備してからじゃないと……悠斗さんを巻き込んでしまうから」
電話の向こうで、巳波が何かを言った。
莉緒の目が揺れる。
「……はい」
また巳波の声。
莉緒は唇を噛み、それから小さく笑った。
「秘密にすることと、幸せを隠すことは違う……ですか?」
悠斗はその言葉を聞いて、胸に残った。
秘密にすることと、幸せを隠すことは違う。
巳波らしい、優しい言葉だと思った。
「ありがとうございます。私、怖かったんです。芸能人なのに結婚していいのかなって。ファンを裏切ることになるのかなって。でも……幸せになりたいって思ってしまったんです」
莉緒の声が涙で滲む。
悠斗は立ち上がりかけて、けれど止まった。
今は、莉緒が自分の言葉で話す時間だと思った。
「はい。悠斗さんは、ちゃんと私を人として見てくれる人です。推しだから、グラビアアイドルだからじゃなくて……私が泣いたら、隣にいてくれる人です」
莉緒は涙を拭った。
「巳波さん。今度、会って話してもいいですか?」
少し間があって、莉緒は安心したように笑った。
「ありがとうございます。はい。秘密にしてください。まだ、私たちだけでは抱えきれないから……巳波さんにだけ、知っていてほしかったんです」
電話を切った後、莉緒はしばらくスマートフォンを見つめていた。
悠斗は静かに声をかけた。
「大丈夫でしたか?」
莉緒は振り返った。
涙の跡が残っていたが、表情はどこか晴れていた。
「はい。怒られませんでした」
「よかったです」
「巳波さん、言ってくれました」
「何をですか?」
「“莉緒ちゃんが本当に選んだ人なら、私はその幸せを守る側に回るよ”って」
悠斗は深く頭を下げた。
「ありがたいですね」
「はい」
莉緒は少しだけ近づいてきて、悠斗の隣に座った。
「私、もう一つ話してあります」
「え?」
「家族に」
悠斗は驚いて莉緒を見た。
「ご家族に?」
「はい。父と母と、双子の妹たちに。結婚しましたって」
「いつの間に……」
「婚姻届を出す前の日です」
「前の日?」
「はい」
莉緒は少し気まずそうに笑った。
「本当は、順番をちゃんとしたかったんです。でも、私の仕事の都合もあって、すぐには全員で会えなくて。だからまず、電話で話しました」
莉緒はゆっくりと、その時のことを話し始めた。
父は最初、何も言わなかったらしい。
母は驚きすぎて、何度も聞き返した。
双子の妹たちは、電話の向こうで大騒ぎになった。
「お姉ちゃん、結婚って本気なの?」
「相手、どんな人?」
「芸能人じゃないの?」
「ファンだった人って、大丈夫なの?」
莉緒はその全部に、一つずつ答えた。
悠斗がどんな人か。
どんなふうに出会ったか。
昔から手紙で支えてくれたこと。
自分を商品としてではなく、人として見てくれること。
「妹たち、最後に言ったんです」
莉緒は苦笑した。
「“お姉ちゃんを泣かせたら許さないって、ちゃんと伝えて”って」
「……肝に銘じます」
「父も、同じようなことを言っていました」
「お父様も?」
「“会ってから判断する”って」
悠斗の背筋が伸びた。
莉緒はそんな悠斗を見て、少し笑った。
「大丈夫です。怖い人ではありません。たぶん」
「たぶんが一番怖いです」
「でも、父は私の仕事をずっと心配していたので。私が芸能界で無理をしていることも知っています。だから、私が結婚を選んだことを、簡単には否定しませんでした」
「お母様は?」
「泣いてました」
「泣いて……」
「“莉緒が一人じゃなくなるなら、それだけで安心した”って」
悠斗は言葉を失った。
テレビの中で明るく笑う莉緒。
雑誌の表紙で輝く莉緒。
その裏で、家族は彼女の孤独をずっと心配していたのだ。
「悠斗さん」
「はい」
「今度、うちに来てくれますか?」
悠斗は姿勢を正した。
「もちろんです。必ずご挨拶に伺います」
「緊張します?」
「ものすごく」
「私も、悠斗さんのご家族に会うの、緊張します」
「実は……」
悠斗は少し言いづらそうに口を開いた。
「僕も、家族には話しました」
今度は莉緒が驚く番だった。
「えっ」
「父と母、姉と兄に。あと、親友で幼馴染の拓真にだけ」
「いつですか?」
「婚姻届を出した日の夜です」
「ええっ」
莉緒は目を丸くした。
悠斗は苦笑した。
「黙っているのは違うと思ったので。ただ、もちろん秘密にするように頼みました」
莉緒は少し不安そうに尋ねた。
「反対されませんでしたか?」
「最初は全員、固まりました」
「ですよね……」
「母は、テレビをつけて確認していました」
「確認?」
「“この人?”って」
莉緒は両手で顔を覆った。
「恥ずかしい……」
「父はしばらく黙っていました。兄は、僕が詐欺に遭っているんじゃないかと本気で疑いました。姉は、なぜか莉緒さんの出演番組を検索し始めました」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることではありません」
悠斗はその時のことを思い出した。
実家のリビング。
父、修一。
母、千春。
兄、直樹。
姉、綾乃。
全員が揃ったタイミングで、悠斗は頭を下げて言った。
「結婚しました」
静まり返ったリビング。
母が落とした湯飲み。
兄が発した第一声。
「誰と?」
そして悠斗が答えた。
「白河莉緒さんと」
その瞬間、家族全員が一斉にテレビの方を見た。
もちろんテレビには何も映っていなかった。
悠斗は、みなとみらいで出会ったこと、観覧車で告白されたこと、婚姻届を出したこと、そして当面は秘密にしなければならないことを説明した。
父は最後まで黙って聞いていた。
そして言った。
「悠斗」
「はい」
「相手が誰であっても、結婚は生活だ」
「はい」
「有名人だから浮かれるな。推しだったからといって、相手を飾り物にするな」
その言葉は重かった。
悠斗は深く頷いた。
「分かっています。僕は、莉緒さんを推しとしてではなく、一人の女性として大切にします」
母は涙ぐみながら言った。
「莉緒さんは、あなたと一緒にいて安心できるの?」
「そう思ってもらえるように努力します」
姉の綾乃は腕を組んで、厳しい顔をした。
「悠斗。芸能人と結婚するって、普通じゃないよ。あんたが傷つくこともあるし、相手を傷つけることもある。それでも覚悟してるの?」
「してる」
兄の直樹は、少し乱暴に髪をかきながら言った。
「会わせろ。話はそれからだ」
その言い方は荒かったが、心配してくれているのは分かった。
最後に、幼馴染の拓真にも話した。
拓真は高校時代からの親友で、悠斗が莉緒を推していたことを誰よりも知っている男だった。
居酒屋の個室で結婚を打ち明けると、拓真は三十秒ほど沈黙した後、こう言った。
「お前、ついに夢と現実の区別がつかなくなったのか?」
「現実だ」
「証拠は?」
悠斗が婚姻届を出した話と、莉緒からのメッセージを見せると、拓真は頭を抱えた。
「マジかよ……お前、本当に推しと結婚したのか」
「ああ」
「祝う前に一個だけ言わせろ」
「何だ?」
「絶対に調子に乗るな」
悠斗は頷いた。
拓真は真剣な顔で続けた。
「相手は芸能人だ。お前が一歩間違えたら、彼女の仕事にも人生にも傷がつく。逆に、お前も普通の生活じゃいられなくなるかもしれない」
「分かってる」
「でもな」
拓真はそこで少し笑った。
「お前がずっと、莉緒さんのことを大事に応援してたのは俺が知ってる。だから、ちゃんと幸せにしろ。いや、二人で幸せになれ」
その言葉が、悠斗にはありがたかった。
話し終えると、莉緒は静かに聞いていた。
「悠斗さんのご家族も、拓真さんも、ちゃんと心配してくれているんですね」
「はい」
「私、会うのが怖いです」
「大丈夫です」
「本当に?」
「みんな驚いています。でも、莉緒さんを否定しているわけではありません」
莉緒は小さく息を吐いた。
「私、白河莉緒として見られるのが怖いんです」
「莉緒さん」
「テレビの人だって思われるのは慣れています。でも、悠斗さんの家族には、ちゃんと瀬名悠斗さんの妻として見てもらいたい」
悠斗はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。
「見てもらえます」
「どうして言い切れるんですか?」
「僕が、そう紹介するからです」
莉緒は目を見開いた。
悠斗は静かに続けた。
「白河莉緒さんではなく、僕の妻ですって。大切な人ですって。ちゃんと伝えます」
莉緒はしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくり悠斗の肩に頭を預けた。
「悠斗さん」
「はい」
「私、ここにいてもいいですか?」
「もちろんです」
「芸能人じゃない時の私も、ここにいていいですか?」
「はい」
「泣いたり、疲れたり、何もしたくない日があっても?」
「いてください」
「奥さんとして、まだ何もできなくても?」
「一緒に覚えていけばいいです」
莉緒は目を閉じた。
「ここに、私の帰る場所を作ってもいいですか?」
その声は、とても小さかった。
けれど悠斗には、はっきり届いた。
悠斗は莉緒の手をそっと握った。
「もう、ここは莉緒さんの家です」
莉緒の指が、悠斗の手を握り返した。
それだけで、二人の間にあった不安が少しだけ溶けた気がした。
翌朝。
悠斗が目を覚ますと、キッチンから小さな物音が聞こえた。
起き上がって見ると、莉緒が部屋着姿で立っていた。
髪は少し乱れていて、テレビで見る完璧な姿とは違う。
けれど悠斗には、その姿が何より愛おしかった。
「おはようございます」
莉緒が振り返る。
「おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「いいえ。何をしているんですか?」
「朝ご飯を作ろうと思って」
キッチンを見ると、卵と味噌汁の鍋が並んでいた。
「卵焼きですか?」
「はい。甘いのに挑戦中です」
「手伝います」
「だめです」
「え?」
「今日は、奥さんっぽいことをしたい日なんです」
莉緒は真剣な顔で言った。
悠斗は笑いそうになったが、こらえた。
「分かりました。では、見守ります」
「それはそれで緊張します」
卵焼きは少し形が崩れた。
味噌汁は少しだけ濃かった。
けれど、悠斗にとっては今まで食べたどんな朝食よりも嬉しかった。
向かい合って座り、二人で手を合わせる。
「いただきます」
莉緒は悠斗の反応を不安そうに見ていた。
悠斗は卵焼きを一口食べた。
「美味しいです」
「本当ですか?」
「はい」
「無理してませんか?」
「少し甘すぎますが、美味しいです」
「正直ですね」
「夫なので」
「またそれ」
莉緒はむくれたが、すぐに笑った。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
テーブルには二人分の食器。
食器棚には二つのマグカップ。
玄関には、莉緒の靴が一足増えている。
それは、誰にも知られていない小さな新婚生活だった。
けれど、二人にとっては確かに本物だった。
朝食の後、莉緒は仕事へ向かう準備をした。
帽子を被り、マスクをつけ、外では白河莉緒に戻る。
玄関で靴を履く莉緒を見て、悠斗は少し寂しさを覚えた。
「行ってきます」
莉緒が言った。
悠斗は一瞬、言葉に詰まった。
今まで誰かに「行ってきます」と言われる生活ではなかった。
それがこんなにも胸を温かくするものだとは知らなかった。
「行ってらっしゃい」
悠斗が答えると、莉緒は嬉しそうに目を細めた。
「……これ、言ってみたかったんです」
「僕も、言えて嬉しいです」
莉緒はドアノブに手をかけた。
しかし、出る直前に振り返った。
「悠斗さん」
「はい」
「次は、ちゃんと両方の家族に会いましょう」
「はい」
「それから、事務所にも報告します」
「一緒に行きます」
「怖くないですか?」
「怖いです」
「正直ですね」
「でも、莉緒さん一人にはしません」
莉緒は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
それから、マスク越しでも分かるくらい優しく笑った。
「ありがとうございます、旦那さん」
悠斗も笑った。
「行ってらっしゃい、奥さん」
ドアが閉まる。
静かになった部屋に、莉緒の気配だけが残った。
白いマグカップ。
少し甘い卵焼きの匂い。
椅子に掛けられた部屋着。
玄関に残った小さな足跡。
悠斗はその一つ一つを見つめながら、深く息を吸った。
これから、二人は向き合わなければならない。
莉緒の家族。
悠斗の家族。
そして、芸能事務所。
秘密の夫婦でいるためには、ただ隠れているだけではいけない。
守ってくれる人に、支えてくれる人に、ちゃんと報告しなければならない。
推しとファンだった二人は、もう夢の中にはいられない。
夫と妻として、現実の中で生きていく。
悠斗は食器棚に並んだ二つのマグカップを見た。
紺色のカップと、白い猫のカップ。
たったそれだけの光景が、今の悠斗には何よりも大切だった。
「……ちゃんと守ろう」
小さく呟く。
莉緒の仕事も。
莉緒の笑顔も。
莉緒がやっと見つけた帰る場所も。
その日の夜、悠斗のスマートフォンに莉緒からメッセージが届いた。
『撮影終わりました。今日も帰っていいですか?』
悠斗はすぐに返信した。
『もちろんです。ここは莉緒さんの家です』
少しして、莉緒から返事が来た。
『ただいまを言える場所があるって、すごく幸せですね』
悠斗は画面を見つめ、静かに微笑んだ。
次に二人が向かうのは、それぞれの家族のもと。
そして、莉緒が白河莉緒として所属する事務所。
秘密の新婚生活は、まだ始まったばかりだ。
けれど二人はもう、一人ではなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、瀬名悠斗と白河莉緒の秘密の新婚生活が少しずつ始まっていく前編でした。
莉緒の荷物が悠斗の部屋に届き、マグカップが並び、朝ご飯を一緒に食べる。
そんな小さな日常の中で、二人が本当に夫婦になっていく様子を描きました。
また、莉緒は東雲巳波に結婚を打ち明け、秘密にしてほしいと相談しました。
巳波は、芸能界で生きる莉緒の不安を理解しながらも、彼女の幸せを静かに支えてくれる存在です。
さらに莉緒は、父と母、双子の妹たちにも結婚を相談済み。
悠斗もまた、父、母、姉、兄、そして親友で幼馴染の拓真にだけ、結婚のことを打ち明けました。
秘密の夫婦生活は、二人だけで抱えるものではなく、少しずつ信頼できる人たちに支えられていく形になっています。
次回の後編では、いよいよ両家への正式な挨拶、そして莉緒の所属事務所への報告へ進みます。
芸能人としての白河莉緒。
一般人の夫としての瀬名悠斗。
そして、夫婦としての二人。
周囲に認めてもらうために、二人がどんな言葉で想いを伝えるのか。
後編も読んでいただけたら嬉しいです。
評価、ブックマーク、感想などをいただけましたら、今後も瀬名悠斗と白河莉緒の秘密の夫婦生活を続けて書いていきたいです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




