後編 『秘密の夫婦が、未来を報告する日』
今回は、『推しのグラビアアイドルと結婚しました。』続編の後編です。
前編では、瀬名悠斗の部屋に白河莉緒の荷物が届き、二人の秘密の新婚同居が少しずつ始まりました。
莉緒は東雲巳波に結婚を打ち明け、秘密にしてほしいと相談。
さらに、莉緒は父と母、双子の妹たちへ、悠斗は父、母、姉、兄、そして親友で幼馴染の拓真へ、それぞれ結婚を伝えました。
後編では、いよいよ二人が周囲へ正式に向き合っていきます。
東雲巳波との直接の面会。
莉緒の家族への挨拶。
悠斗の家族への挨拶。
そして、莉緒の所属事務所への結婚報告。
芸能人としての白河莉緒。
一般人の夫としての瀬名悠斗。
そして、秘密の夫婦として歩き始めた二人。
隠すためではなく、守るために。
二人が自分たちの未来を報告する後編です。
それでは、秘密の夫婦が一歩先へ進む物語をお楽しみください。
瀬名悠斗の部屋に、白い猫のマグカップが増えてから、数日が経った。
食器棚には、紺色のマグカップと白いマグカップが並んでいる。
玄関には、悠斗の革靴の隣に、莉緒の小さなスニーカーが置かれている。
洗面台には、歯ブラシが二本。
クローゼットの端には、莉緒の部屋着が数着掛けられている。
たったそれだけのことなのに、悠斗にとっては部屋の空気そのものが変わったように感じられた。
ここはもう、自分一人の部屋ではない。
白河莉緒が、瀬名莉緒として帰ってくる場所だった。
「悠斗さん」
朝のキッチンから、莉緒の声がした。
「卵焼き、今日は少し上手くできました」
悠斗が振り返ると、エプロン姿の莉緒が、フライパンを手に得意げな顔をしていた。
テレビで見るグラビアアイドルの白河莉緒ではない。
髪をゆるく結び、少し眠そうな目をして、それでも朝ご飯を作ろうと頑張っている、悠斗の奥さんだった。
「すごいですね」
「まだ食べてないのに褒めましたね?」
「見た目が昨日より綺麗です」
「昨日は失敗だったってことですか?」
「昨日も美味しかったです」
「旦那さん、逃げ方が上手くなってきましたね」
莉緒はそう言いながら、皿に卵焼きを乗せた。
少しだけ形は崩れている。
けれど、前よりも確かに綺麗だった。
二人で食卓につく。
味噌汁の湯気が上がる。
朝のニュース番組が小さな音で流れている。
何気ない朝だった。
だが、その平穏な空気の中で、莉緒の表情だけが少し硬かった。
悠斗は箸を置いた。
「莉緒さん」
「はい」
「緊張していますか?」
莉緒は小さく笑った。
「分かりますか?」
「分かります」
「今日、巳波さんに会うので」
今日は、東雲巳波と直接会う日だった。
前編で電話では話していた。
結婚したこと。
秘密にしてほしいこと。
悠斗という一般人の夫がいること。
巳波は驚きながらも、莉緒の幸せを否定せず、むしろ守る側に回ると言ってくれた。
それでも、直接会って話すとなると、莉緒の緊張は別だった。
「巳波さん、怒らないと思います」
「分かってます。でも、私、やっぱり怖いんです」
「何がですか?」
「自分の幸せを、誰かに話すことが」
莉緒は味噌汁の器を両手で包んだ。
「芸能界にいると、幸せなことも慎重に扱わないといけません。恋愛も、結婚も、家庭も。普通なら嬉しい報告のはずなのに、仕事への影響とか、ファンの反応とか、いろんなことを考えてしまうんです」
悠斗は黙って聞いていた。
「でも、巳波さんにはちゃんと話したい。私が選んだ幸せだから」
「はい」
「それに、悠斗さんのことも、ちゃんと紹介したいんです」
莉緒は不安そうに悠斗を見た。
「一緒に来てくれますか?」
悠斗は迷わず頷いた。
「もちろんです」
「巳波さん、有名人ですよ?」
「莉緒さんも有名人です」
「それはそうですけど」
「僕は、莉緒さんの夫として行きます」
その言葉に、莉緒は少しだけ目を伏せた。
それから、小さく笑った。
「……旦那さん、頼もしくなりましたね」
「内心はものすごく緊張しています」
「正直ですね」
「夫婦なので」
「またそれ」
二人は笑った。
その笑い声が、緊張を少しだけ和らげてくれた。
午後。
二人は都内の小さな個室カフェへ向かった。
莉緒は帽子とマスクで変装し、悠斗も目立たない服装を選んだ。
個室に案内されると、すでに東雲巳波が待っていた。
画面や雑誌で見たことのある女性が、目の前にいる。
悠斗は思わず背筋を伸ばした。
巳波は穏やかに微笑んだ。
「初めまして。東雲巳波です」
「初めまして。瀬名悠斗です」
悠斗は深く頭を下げた。
「莉緒さんと結婚しました」
その言葉を口にした瞬間、隣の莉緒が少しだけ息を呑んだ。
巳波は二人を交互に見て、柔らかく笑った。
「ちゃんと自分から言える人なんですね」
「え?」
「莉緒ちゃんが選んだ理由、少し分かりました」
莉緒は頬を赤くした。
「巳波さん……」
「電話でも聞いたけど、改めて。莉緒ちゃん、結婚おめでとう」
巳波がそう言った瞬間、莉緒の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「秘密にしてほしいって話も、もちろん守るよ」
「本当に、すみません」
「謝らなくていいよ。芸能人の結婚は、普通の結婚より準備が必要だから」
巳波は落ち着いた声で言った。
「ただし、秘密にすることと、隠れて苦しむことは違う。そこは間違えないで」
莉緒は頷いた。
「はい」
巳波は次に悠斗を見た。
「瀬名さん」
「はい」
「莉緒ちゃんは、仕事では強く見えるけど、本当はかなり無理をする子です」
「はい」
「疲れていても笑います。傷ついていても大丈夫と言います。自分より周りを優先します」
悠斗は真剣に聞いた。
「だから、瀬名さんには、莉緒ちゃんの“大丈夫”をそのまま信じないでほしいんです」
莉緒が少し困ったように笑った。
「巳波さん、それ言っちゃいますか」
「言うよ。大事なことだから」
巳波は穏やかなまま、けれど強い目で悠斗を見た。
「白河莉緒としての彼女ではなく、瀬名莉緒としての彼女をちゃんと見てあげてください」
悠斗は深く頷いた。
「分かりました。僕は、莉緒さんが推しだったから結婚したわけではありません」
莉緒が悠斗を見る。
悠斗は続けた。
「今も、莉緒さんのファンです。けれど、それ以上に、僕は莉緒さんの夫です。彼女が帰れる場所でいたいと思っています」
巳波はしばらく悠斗を見ていた。
そして、安心したように微笑んだ。
「うん。莉緒ちゃん、大丈夫そうだね」
莉緒は泣きそうな顔で笑った。
「巳波さん」
「幸せになっていいんだよ、莉緒ちゃん」
その一言で、莉緒の涙がこぼれた。
悠斗はそっとハンカチを差し出した。
莉緒はそれを受け取り、小さな声で言った。
「ありがとうございます」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
悠斗にも、巳波にも、そして自分自身にも向けられているように聞こえた。
巳波との面会を終えた帰り道、莉緒は悠斗の隣を歩きながら言った。
「少し、楽になりました」
「よかったです」
「巳波さんに言われると、不思議と大丈夫って思えるんです」
「信頼しているんですね」
「はい。芸能界で、私の弱いところを知っても離れなかった人なので」
莉緒は少し立ち止まり、悠斗を見た。
「悠斗さんも、離れないでくださいね」
悠斗はその言葉に胸を突かれた。
不安が、まだ莉緒の中にある。
どれだけ夫婦になっても、どれだけ同じ部屋で過ごしても、彼女はまだどこかで怖がっている。
いつか自分が重荷になるのではないか。
いつか捨てられるのではないか。
いつか白河莉緒ではない自分に価値がなくなるのではないか。
そんな不安が、彼女の奥に残っている。
悠斗は静かに言った。
「離れません」
「本当に?」
「はい。約束します」
「じゃあ、次も一緒に来てくれますか?」
「次?」
莉緒は深呼吸した。
「私の家族に、正式に挨拶に行きましょう」
数日後。
悠斗は、莉緒の実家の前に立っていた。
手には菓子折り。
服装はスーツ。
ネクタイは朝から三度結び直した。
隣の莉緒は、いつもの芸能人らしい華やかさを少し抑えた、落ち着いたワンピース姿だった。
「悠斗さん」
「はい」
「顔が固いです」
「人生で一番緊張しています」
「私の父、そんなに怖くないですよ」
「“そんなに”が怖いです」
「双子の妹たちの方が怖いかもしれません」
「余計に緊張します」
莉緒は小さく笑って、インターホンを押した。
扉が開く。
出迎えたのは、莉緒の母だった。
優しそうな表情の女性だったが、目元は莉緒によく似ていた。
「いらっしゃい」
母は莉緒を見て、それから悠斗を見た。
「あなたが、悠斗さんね」
「はい。瀬名悠斗です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
悠斗は深く頭を下げた。
リビングに通されると、そこには莉緒の父と、双子の妹たちが待っていた。
父は寡黙そうな男性だった。
腕を組んで座っており、表情は読みにくい。
双子の妹たちは、莉緒より少し幼い顔立ちで、けれど目の鋭さだけは父親譲りのようだった。
「……お姉ちゃんの旦那さん?」
「本物?」
「テレビで見た人じゃなくて?」
双子の妹たちが交互に言う。
莉緒が慌てて止めた。
「二人とも、失礼でしょ」
「だって気になるもん」
「お姉ちゃんが急に結婚したんだよ?」
悠斗は正座に近い姿勢で座り、菓子折りを差し出した。
「改めまして、瀬名悠斗と申します。莉緒さんと結婚いたしました。ご報告が遅くなり、申し訳ありません」
父はしばらく黙っていた。
その沈黙が長い。
悠斗の背中に汗がにじむ。
やがて父が口を開いた。
「君は、莉緒のファンだったと聞いた」
「はい」
「いつからだ」
「高校生の頃からです」
「それで、結婚したのか」
鋭い問いだった。
莉緒が何か言おうとする。
しかし悠斗は、自分で答えた。
「きっかけは、ファンだったことです」
父の目が細くなる。
悠斗は続けた。
「ですが、結婚を決めた理由は、莉緒さんが芸能人だからではありません。画面の向こうにいた推しだからでもありません」
悠斗は莉緒を一度見た。
莉緒は不安そうにこちらを見ていた。
「僕は、弱さを見せてくれた莉緒さんを、一人の女性として大切にしたいと思いました」
リビングが静かになる。
「莉緒さんは、仕事では明るく笑っています。でも、本当は不安も悩みも抱えています。それでも周りを心配させないように笑う人です」
悠斗は深く頭を下げた。
「僕は、その莉緒さんが安心して帰ってこられる場所になりたいです」
父は何も言わなかった。
母は目元を押さえていた。
双子の妹たちも、さっきまでの勢いを失っていた。
やがて父が言った。
「莉緒」
「はい」
「お前は、この人でいいのか」
莉緒は背筋を伸ばした。
「この人がいいです」
その声は震えていなかった。
「悠斗さんは、私を白河莉緒としてだけじゃなく、ちゃんと私として見てくれます。仕事で疲れた日も、泣きたい日も、何もできない日も、そばにいてくれる人です」
莉緒は父をまっすぐ見た。
「私、この人と一緒に幸せになりたいです」
父は長く目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その声は先ほどよりも少し柔らかかった。
母が静かに言った。
「悠斗さん」
「はい」
「あの子は、小さい頃から人前では泣かない子でした」
莉緒が母を見る。
「芸能界に入ってからは、もっと泣かなくなりました。私たちにも、大丈夫、大丈夫って言ってばかりで」
母の声が震える。
「だから、あの子が泣ける場所になってあげてください」
悠斗は胸が熱くなった。
「はい。必ず」
その時、双子の妹たちが身を乗り出した。
「お姉ちゃんを泣かせたら許しません」
「でも、泣きたい時に泣かせないのも許しません」
悠斗は思わず目を瞬かせた。
莉緒が吹き出した。
「二人とも、難しいこと言うね」
「お姉ちゃんのことだから当然」
「旦那さんなら、それくらい分かってもらわないと」
悠斗は真剣に頷いた。
「分かりました。心に刻みます」
双子の妹たちは顔を見合わせた。
「真面目だ」
「お姉ちゃん、この人、本当に真面目だね」
「だから好きになったの」
莉緒がそう言うと、妹たちは一斉に赤くなって騒いだ。
張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
その後、莉緒の母が用意してくれた食事を囲んだ。
父は多くを語らなかったが、帰り際に悠斗へ言った。
「莉緒を頼む」
短い言葉だった。
悠斗は深く頭を下げた。
「はい」
玄関を出た後、莉緒は目元を拭っていた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「泣いています?」
「泣いてません」
「泣いています」
「少しだけです」
莉緒は笑った。
「家族に認めてもらうって、こんなに嬉しいんですね」
悠斗はそっと言った。
「次は、僕の家族です」
「はい」
「緊張しますか?」
「ものすごく」
「大丈夫です」
「どうしてですか?」
「僕が隣にいます」
莉緒は少し照れたように笑った。
「じゃあ、頑張ります」
翌週末。
今度は、莉緒が悠斗の実家を訪れた。
玄関前で、莉緒は深呼吸を繰り返していた。
手には菓子折り。
服装は清楚なブラウスとスカート。
テレビの白河莉緒ではなく、瀬名家へ挨拶に来た一人の女性として、彼女はそこに立っていた。
「悠斗さん」
「はい」
「変じゃないですか?」
「とても綺麗です」
「そういう意味ではなくて」
「ちゃんとしています」
「本当に?」
「はい」
莉緒は不安そうに頷いた。
悠斗が玄関を開ける。
中から母の声がした。
「いらっしゃい」
リビングには、父、母、姉、兄が揃っていた。
全員が莉緒を見た瞬間、空気が少し固まった。
テレビや雑誌で見たことのある白河莉緒が、目の前にいる。
だが莉緒は、深く頭を下げた。
「初めまして。白河莉緒です。いえ……瀬名莉緒です」
その言い直しに、悠斗の胸が強く鳴った。
「悠斗さんと結婚いたしました。本日はご挨拶に伺いました」
母は目を丸くしていた。
姉は莉緒をじっと見ていた。
兄は腕を組んで、少し警戒した表情をしている。
父だけが、静かに頷いた。
「座ってください」
「ありがとうございます」
莉緒は緊張した様子で座った。
悠斗は隣に座る。
母がお茶を出す手が、少し震えていた。
「本当に……テレビの方なのね」
母が思わず言う。
莉緒は少し困ったように笑った。
「はい。でも今日は、テレビの人としてではなく、悠斗さんの妻として来ました」
その言葉に、姉の綾乃が少し表情を変えた。
「莉緒さん」
「はい」
「悠斗のこと、ちゃんと分かっていますか?」
「姉さん」
「大事なことだから聞かせて」
綾乃は真剣だった。
「悠斗は真面目です。真面目すぎるくらい。自分が我慢すればいいと思うところがあります。あなたが有名人だから、たぶん余計に遠慮します」
莉緒は静かに聞いていた。
「だから、悠斗だけに背負わせないでください」
悠斗は姉を見た。
その言葉は厳しかったが、そこには弟を思う気持ちがあった。
莉緒は深く頷いた。
「はい。私も、悠斗さんに甘えてばかりにならないようにします」
兄の直樹が口を開いた。
「芸能人と結婚するって、普通じゃない。週刊誌とか、ネットとか、そういうのに巻き込まれる可能性もあるんだろ」
「はい」
「悠斗が傷つくこともある」
「分かっています」
「それでも結婚したのは、どうしてですか」
莉緒は少しだけ手を握りしめた。
悠斗は隣にいたが、口を挟まなかった。
これは莉緒自身の言葉で伝えるべきだと思った。
「私は、ずっと白河莉緒として生きてきました」
莉緒は静かに話し始めた。
「ファンの方に応援していただいて、仕事もいただいて、たくさんの人に支えられてきました。それは本当にありがたいことです」
家族は黙って聞いている。
「でも、いつの間にか、弱いところを見せられなくなっていました。疲れても大丈夫と言って、傷ついても笑って、恋愛も結婚も、自分には遠いものだと思っていました」
莉緒の声が少し震えた。
「そんな時、悠斗さんは私を商品としてではなく、一人の人間として見てくれました」
莉緒は悠斗を見た。
「この人の隣なら、白河莉緒じゃない私も生きていけると思いました」
母が目元を押さえた。
父は静かに目を閉じていた。
莉緒は深く頭を下げた。
「ご心配をおかけすることもあると思います。すぐに公表できない結婚です。普通の夫婦のようにはいかないことも多いと思います。それでも、悠斗さんを大切にします。どうか、よろしくお願いいたします」
長い沈黙があった。
最初に口を開いたのは、母だった。
「莉緒さん」
「はい」
「悠斗のこと、よろしくお願いします」
莉緒の目に涙が浮かぶ。
「はい」
父も静かに言った。
「二人で決めたなら、二人で守りなさい」
「はい」
「ただし、困った時は一人で抱えるな。家族になった以上、こちらにも相談しなさい」
莉緒は驚いたように父を見た。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
姉の綾乃は少し照れたように言った。
「今度、普通にご飯食べに来てください。テレビの人じゃなくて、悠斗の奥さんとして」
「はい。ぜひ」
兄の直樹は最後まで難しい顔をしていたが、やがて悠斗に向かって言った。
「お前、ちゃんとしろよ」
「分かってる」
「莉緒さんにも、ちゃんと頼れ」
悠斗は少し驚いた。
兄は視線を逸らしながら続けた。
「一人で格好つけるなってことだ」
「……ありがとう」
莉緒は隣で小さく笑った。
その日、瀬名家の食卓は不思議な空気に包まれた。
最初は全員が緊張していた。
けれど、母が莉緒の好きな食べ物を聞き、姉が仕事のことを尋ね、兄が週刊誌対策について妙に現実的な質問をし、父が静かにお茶を注ぐうちに、少しずつ会話は自然になっていった。
帰り道、莉緒は悠斗の隣でぽつりと言った。
「家族が増えるって、こういうことなんですね」
「そうですね」
「怖かったけど、嬉しかったです」
「僕もです」
「悠斗さんのお母様、優しかったです」
「緊張していたと思います」
「お姉さん、しっかりしていますね」
「昔からです」
「お兄さん、怖そうに見えて優しいですね」
「本人には言わないでください。照れます」
莉緒は笑った。
その笑顔は、心から安心したように見えた。
しかし、まだ最大の報告が残っていた。
事務所報告。
白河莉緒として所属する芸能事務所に、結婚を正式に伝える日だった。
数日後。
悠斗と莉緒は、都内にある事務所の会議室にいた。
莉緒のマネージャー。
担当役員。
広報担当。
そして事務所社長。
全員の視線が、二人に向けられている。
空気は、両家挨拶の時よりも重かった。
家族は、最終的には二人の幸せを見てくれた。
けれど事務所は違う。
莉緒は商品でもあり、看板でもあり、多くの仕事が動いている存在だった。
結婚は、彼女一人の人生だけで済む話ではない。
社長が静かに口を開いた。
「白河さん。すでに入籍している、ということで間違いありませんね」
莉緒は背筋を伸ばした。
「はい。瀬名悠斗さんと結婚しました」
会議室に沈黙が落ちる。
マネージャーは頭を抱えていた。
役員は資料に目を落としている。
広報担当は、今後の対応を計算するように表情を固くしていた。
「なぜ事前に相談しなかったのですか」
社長の声は厳しかった。
莉緒は唇を結んだ。
「申し訳ありません」
悠斗が頭を下げようとすると、莉緒がそっと手で制した。
ここは自分が話す場所だと示すように。
「順番を間違えたことは分かっています。仕事に影響があることも、事務所に迷惑をかける可能性があることも、理解しています」
莉緒は一度息を吸った。
「それでも、私はこの結婚を選びました」
社長は黙っている。
「私は、これからも白河莉緒として仕事を続けたいです。グラビアの仕事も、番組の仕事も、応援してくださる方への感謝も変わりません」
莉緒の声は震えていなかった。
「でも、白河莉緒としての人生だけでなく、瀬名莉緒としての人生も諦めたくありません」
悠斗は隣で、その横顔を見つめていた。
彼女は逃げていない。
芸能人としても、妻としても、真正面から向き合っている。
社長の視線が悠斗に向いた。
「瀬名さん」
「はい」
「あなたは一般の方です。白河莉緒と結婚することで、普通の生活を失う可能性があります。それを理解していますか」
「はい」
「彼女の仕事に影響が出る可能性もある」
「理解しています」
「ファンだったそうですね」
「はい」
会議室の空気が少し変わる。
そこは、誰もが気にしている部分だった。
ファンとタレントの結婚。
世間に知られた時、どう受け取られるか分からない。
悠斗は深く息を吸った。
「僕は、莉緒さんのファンでした。今も、白河莉緒さんの仕事を尊敬しています」
悠斗は真っ直ぐに言った。
「ですが、僕は莉緒さんを自分のものにしたくて結婚したわけではありません」
莉緒が悠斗を見る。
「僕は、莉緒さんが安心して帰れる場所でありたいと思っています。表に出るつもりはありません。彼女の仕事を邪魔するつもりもありません。必要であれば、僕の存在は当面伏せていただいて構いません」
マネージャーが顔を上げた。
悠斗は続ける。
「ただ、莉緒さんが一人で苦しむことだけは避けたいです。僕は、夫として彼女を支えます」
社長は長く黙っていた。
広報担当が資料を見ながら言った。
「現時点で外部に漏れている様子はありません。ただ、同居の頻度が増えれば、リスクは上がります」
マネージャーも言った。
「仕事のスケジュール管理、送迎、外出ルート、SNS投稿。かなり慎重にする必要があります」
役員が続ける。
「公表するなら時期を見極める必要があります。今の契約案件への影響も確認しなければなりません」
莉緒は一つ一つ頷いた。
「分かっています」
社長は椅子に背を預け、二人を見た。
「白河さん」
「はい」
「この結婚を後悔していませんか」
莉緒は迷わず答えた。
「していません」
「仕事を続ける覚悟はありますか」
「あります」
「瀬名さんとの生活を守る覚悟も?」
「あります」
社長は次に悠斗を見た。
「瀬名さん」
「はい」
「彼女は多くの人に支えられているタレントです。あなた一人の妻である前に、白河莉緒という名前で仕事をしている人間でもあります」
「はい」
「それを理解した上で、支えられますか」
「支えます」
悠斗は頭を下げた。
「莉緒さんの仕事を尊重します。その上で、彼女が瀬名莉緒として休める場所を守ります」
会議室が静まり返った。
やがて、社長が深く息を吐いた。
「分かりました」
莉緒の肩がわずかに震えた。
「結婚そのものを否定することはしません」
莉緒は目を見開いた。
「ただし、条件があります」
社長は指を折るように話し始めた。
「当面は非公表。事務所内でも共有範囲を限定します」
「はい」
「外出時の行動には十分注意すること。瀬名さんの情報は一切外に出さない」
「はい」
「公表時期については、仕事の状況を見て協議します」
「はい」
「そして、何かあれば必ず事務所に相談してください。二人だけで抱えないこと」
莉緒は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
マネージャーは大きくため息をついた。
「本当に心臓に悪い報告でしたよ」
「すみません……」
「でも」
マネージャーは莉緒を見て、少しだけ笑った。
「最近の莉緒さん、前より表情が柔らかくなったと思っていました。理由はこれだったんですね」
莉緒は頬を赤くした。
「それは……」
「瀬名さん」
マネージャーが悠斗を見る。
「莉緒さんを泣かせたら、事務所全員を敵に回すと思ってください」
悠斗は真剣に頷いた。
「はい。肝に銘じます」
広報担当が小さく笑った。
「その返事、本当に真面目ですね」
莉緒が少し誇らしそうに言った。
「悠斗さんは真面目なんです」
その一言に、会議室の空気が少しだけ和らいだ。
報告を終え、事務所のビルを出た時には、空が夕暮れに染まっていた。
莉緒はビルの前で立ち止まり、大きく息を吐いた。
「終わった……」
「お疲れさまでした」
「怖かったです」
「僕もです」
「でも、言えました」
「はい」
「ちゃんと、夫婦だって言えました」
莉緒の目に涙が浮かんだ。
悠斗は周囲を確認した。
人通りはある。
だから抱きしめることはできない。
手を繋ぐこともできない。
けれど、悠斗は莉緒の隣に立ち、静かに言った。
「帰りましょう」
莉緒が顔を上げる。
「どこに?」
悠斗は優しく微笑んだ。
「僕たちの家に」
莉緒の目から、涙が一粒こぼれた。
「……はい」
二人は並んで歩き出した。
人前では、少し距離を空けて。
けれど、心の距離はもう離れていなかった。
その夜。
悠斗の部屋には、温かい味噌汁の香りが漂っていた。
莉緒は部屋着に着替え、ソファに座っていた。
テレビでは、偶然にも莉緒が出演した番組の再放送が流れている。
画面の中の白河莉緒は、明るく笑っていた。
ソファの上の瀬名莉緒は、少し疲れた顔で笑っていた。
「不思議ですね」
莉緒が呟いた。
「何がですか?」
「テレビの中の私は、何も知らずに笑ってます。まさか数日後に結婚して、家族に挨拶して、事務所に報告してるなんて」
「人生は分からないですね」
「本当に」
莉緒は悠斗を見た。
「悠斗さん」
「はい」
「私、ちゃんと奥さんになれていますか?」
悠斗は少し考えた。
そして、首を横に振った。
莉緒の表情が不安に揺れる。
「なれていませんか?」
「違います」
悠斗は静かに言った。
「なるものじゃなくて、もう僕の奥さんです」
莉緒は息を止めた。
「上手に料理できるかとか、家事ができるかとか、そういうことで決まるわけではありません」
悠斗はテレビの中の莉緒を見て、それから隣の莉緒を見た。
「莉緒さんがここに帰ってきて、ただいまと言ってくれる。それだけで、僕にとっては世界で一番大切な奥さんです」
莉緒は何も言わなかった。
ただ、クッションを抱きしめて顔を隠した。
「……ずるいです」
「最近、それをよく言われます」
「本当にずるいんです」
声が少し震えていた。
悠斗はソファの隣に座った。
莉緒はそっと悠斗の肩に頭を預けた。
「今日、怖かったです」
「はい」
「でも、悠斗さんが隣にいてくれたから言えました」
「僕も、莉緒さんが隣にいてくれたから立っていられました」
「私たち、まだ秘密の夫婦ですね」
「はい」
「堂々と手を繋げないし、外で夫婦って言えないし、同じ家に帰るのも気をつけないといけない」
「はい」
「でも」
莉緒は顔を上げた。
涙の跡が残っている。
それでも、笑っていた。
「前より、秘密が怖くなくなりました」
「どうしてですか?」
「二人だけの秘密じゃなくなったからです」
悠斗は静かに頷いた。
巳波が知っている。
莉緒の家族が知っている。
悠斗の家族が知っている。
親友の拓真も知っている。
事務所も、条件付きで認めてくれた。
秘密はまだ秘密のままだ。
けれど、それはもう孤独ではなかった。
「莉緒さん」
「はい」
「これからも、大変なことはあると思います」
「はい」
「でも、一つずつ話しましょう。隠すためじゃなく、守るために」
莉緒は頷いた。
「はい」
「僕たちの生活を」
「私たちの家を」
「莉緒さんの仕事を」
「悠斗さんの日常を」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
その夜、二人は食器棚からそれぞれのマグカップを取り出した。
悠斗は紺色のマグカップ。
莉緒は白い猫のマグカップ。
中には温かいココア。
テレビの音を少し小さくして、二人は並んで座った。
「悠斗さん」
「はい」
「今度、みなとみらいに行きたいです」
「観覧車ですか?」
「はい」
「大丈夫なんですか?」
「すぐには無理かもしれません。でも、いつか」
莉緒はマグカップを両手で包み、優しく笑った。
「あの場所で、もう一度言いたいんです」
「何をですか?」
「私、あなたと結婚してよかったですって」
悠斗の胸が熱くなった。
「僕も言いたいです」
「何を?」
「莉緒さんと結婚できて、幸せですって」
莉緒は照れたように視線を逸らした。
「……やっぱりずるい」
「本音です」
「だから、ずるいんです」
窓の外には、夜の街の灯りが広がっていた。
遠くに、みなとみらいの観覧車があるわけではない。
けれど悠斗の心には、あの日の夜景がはっきりと残っていた。
観覧車の頂上。
震える声。
涙を浮かべた莉緒。
そして、自分が答えた言葉。
僕でよければ、あなたの夫にしてください。
あの約束は、今日、少しだけ現実に近づいた。
家族に報告した。
事務所にも報告した。
秘密の夫婦生活は、隠れるだけのものではなく、守りながら育てていくものになった。
「莉緒さん」
「はい」
「明日の朝ご飯、何にしましょうか」
莉緒は少し考えてから言った。
「卵焼きのリベンジをします」
「今日、美味しかったですよ」
「もっと上手くなりたいんです」
「では、僕は味噌汁を作ります」
「具は?」
「豆腐とわかめ」
「定番ですね」
「莉緒さんが好きなので」
莉緒は幸せそうに笑った。
「じゃあ、お願いします。旦那さん」
「はい、奥さん」
二人の声が、静かな部屋に溶けていく。
テレビの向こうの彼女は、もう遠い存在ではない。
けれど、白河莉緒として輝く彼女も、瀬名莉緒として隣で笑う彼女も、どちらも大切な彼女だった。
推しとファンだった二人は、夫婦になった。
秘密を抱えながらも、支えてくれる人たちに少しずつ認められた。
そして今、二人だけの小さな部屋で、新しい朝を待っている。
秘密の新婚生活は、まだ始まったばかりだ。
これから先、週刊誌に怯える日もあるかもしれない。
すれ違う夜もあるかもしれない。
白河莉緒としての仕事と、瀬名莉緒としての生活の間で、悩む日もあるかもしれない。
それでも、悠斗はもう迷わなかった。
莉緒が帰ってくる場所を守る。
莉緒が泣ける場所を作る。
莉緒が笑える朝を、一緒に迎える。
それが、推しだった彼女と結婚した自分にできる、夫としての最初の約束だった。
莉緒は悠斗の肩に頭を預け、静かに呟いた。
「これからも、よろしくお願いします」
悠斗はその手をそっと握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
窓の外で、街の灯りが瞬いている。
二つのマグカップから、白い湯気が上がっている。
そして、秘密の夫婦は今日も同じ部屋で、同じ明日を待っていた。
今回は、『推しのグラビアアイドルと結婚しました。』続編の後編です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、瀬名悠斗と白河莉緒が、秘密の夫婦として周囲へ正式に向き合っていく後編でした。
東雲巳波との直接の面会では、莉緒が結婚したことを改めて打ち明け、巳波はその幸せを静かに受け止めてくれました。
「秘密にすること」と「幸せを隠すこと」は違う。
その言葉は、芸能人として生きる莉緒にとって、大きな支えになったと思います。
そして、莉緒の家族への挨拶。
父、母、双子の妹たちは、最初こそ驚きながらも、悠斗が莉緒を一人の女性として大切にしようとしていることを知り、少しずつ受け入れてくれました。
続いて、悠斗の家族への挨拶。
莉緒は白河莉緒としてではなく、瀬名悠斗の妻として、真剣に想いを伝えました。
最後には、莉緒の所属事務所への報告。
芸能人の結婚、一般人の夫、秘密婚、ファンだった相手。
簡単に認められるものではありませんでしたが、二人は逃げずに向き合い、条件付きで秘密の夫婦生活を認めてもらうことができました。
この二人の結婚は、まだ公表されたわけではありません。
外では堂々と手を繋げない。
夫婦だと名乗れない。
同じ家に帰ることにも気をつけなければならない。
それでも、二人だけで抱えていた秘密は、少しずつ信頼できる人たちに支えられるものへ変わっていきました。
推しとファンだった二人が、夫婦として現実を歩き始める。
その最初の大きな一歩を描けた後編だったと思います。
もし人気が出ましたら、今後はさらに続編として、
初めての嫉妬編
週刊誌疑惑編
みなとみらい記念日編
莉緒の仕事復帰と夫婦のすれ違い編
悠斗が“白河莉緒の夫”として覚悟を試される編
なども描いていけたらと考えています。
評価、ブックマーク、感想などをいただけましたら、瀬名悠斗と白河莉緒の秘密の新婚生活を、また続けて書いていきたいです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




