――テレビの向こうの彼女が、今日から僕の奥さんです――
今回は、推しだったグラビアアイドルと結婚することになった青年の物語です。
テレビの向こうにいた憧れの人。
雑誌や番組で笑っていた彼女。
けれど、実際に出会った彼女は、完璧な芸能人ではなく、悩みも弱さも抱えた一人の女性でした。
舞台は、みなとみらいの観覧車。
夜景の中で交わされる、少し不思議で、少し夢のような告白から始まる秘密の夫婦生活です。
東雲巳波の知り合いという設定も少しだけ入れていますので、別作品との繋がりを感じながら読んでいただけたら嬉しいです。
それでは、テレビの向こうの彼女が、今日から奥さんになる物語をお楽しみください。
テレビの向こう側にいる人は、こちら側には来ない。
少なくとも、瀬名悠斗はそう思っていた。
画面の中で笑う彼女は、いつだって眩しかった。
週末の深夜番組。雑誌の表紙。駅の広告。書店に並ぶ写真集。コンビニの棚に置かれた週刊誌。
白河莉緒。
二十八歳。グラビアアイドル。
健康的な笑顔と、少し困ったように目尻を下げる表情で人気を集めている彼女は、悠斗にとって高校時代からの推しだった。
最初に見たのは、たまたまついていたバラエティ番組だった。
他の出演者が笑いを取りにいく中で、莉緒は少し遅れて笑っていた。派手に前へ出るわけでもなく、それでもカメラが向くと、ぱっと花が咲くように笑った。
その笑顔を見た瞬間、悠斗は思った。
この人は、すごく無理をして笑っている。
根拠なんてなかった。
ただ、画面の向こうで明るく振る舞う彼女の奥に、誰にも見せていない静かな寂しさのようなものを感じた。
それから悠斗は、白河莉緒を応援するようになった。
写真集を買った。雑誌を買った。出演番組を録画した。イベントにも、何度か足を運んだ。
とはいえ、悠斗は目立つファンではなかった。
大きな声で名前を呼ぶこともない。高額なプレゼントを贈ることもない。SNSで熱烈な投稿を繰り返すこともない。
ただ、節度を守って応援する。
それが悠斗なりの推し方だった。
だから、彼女と自分の人生が重なる日が来るなんて、考えたこともなかった。
あの日までは。
金曜日の夕方。
仕事を終えた悠斗は、横浜のみなとみらいへ向かっていた。
会社で使う展示会資料を、取引先に届ける用事があったのだ。用件自体は五分で終わった。だが、せっかく横浜まで来たのだから、少し歩いてから帰ろうと思った。
海から吹く風は冷たかったが、夜景は美しかった。
ビルの灯りが水面に揺れ、遠くには観覧車が見える。
コスモクロック。
大きな時計のように光るその観覧車は、何度見ても不思議な存在感があった。
「……一人で乗るものじゃないよな」
悠斗は小さく笑った。
その時だった。
「あの……すみません」
背後から声をかけられた。
振り返った悠斗は、息を止めた。
キャップを深く被り、マスクをして、黒いコートを羽織った女性が立っていた。
顔の半分は隠れている。
けれど、分かった。
目元だけで分かってしまった。
「白河……莉緒さん……?」
思わず名前を口にしてから、悠斗は慌てて頭を下げた。
「す、すみません。声に出してしまって」
女性は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく笑った。
「やっぱり、分かっちゃいますか」
その声は、テレビで何度も聞いた声だった。
けれど、テレビの時よりもずっと柔らかく、少し疲れていた。
「ファンなので……。でも、大丈夫です。誰にも言いません」
悠斗はすぐにそう言った。
莉緒は少しだけ目を細めた。
「ありがとう。あの、駅ってどっちでしたっけ? ちょっと道に迷っちゃって」
「駅なら、あちらです。桜木町の方ですか? みなとみらい駅ですか?」
「桜木町……かな。本当はマネージャーさんと合流する予定だったんですけど、少し歩いていたら分からなくなってしまって」
「送ります」
言ってから、悠斗はすぐに訂正した。
「あ、いえ、変な意味ではなくて。人通りの多いところまで案内します。そこからは離れますので」
莉緒はくすっと笑った。
「真面目ですね」
「よく言われます」
「じゃあ、少しだけお願いします」
二人は並んで歩き出した。
けれど、悠斗は距離を取った。近づきすぎないように。隣に立っていることすら恐れ多いような気がした。
莉緒はそれに気づいたのか、少しだけ歩調を緩めた。
「私のこと、知ってくれてるんですね」
「もちろんです。ずっと応援しています」
「ずっと?」
「高校生の頃からです」
「えっ。そんなに?」
莉緒の声が少しだけ明るくなった。
悠斗は照れながら頷いた。
「最初は深夜番組でした。莉緒さんが、クイズで間違えて、でもすごく楽しそうに笑っていて」
「ああ……あれ、黒歴史です」
「そんなことないです。僕は、あの時の笑顔に救われました」
莉緒が足を止めた。
悠斗も少し遅れて立ち止まる。
街の光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「救われた?」
「はい。あの頃、進路とか家のこととかで色々あって。毎日しんどかったんです。でも、莉緒さんがテレビで笑っているのを見たら、少しだけ気持ちが軽くなりました」
「……そっか」
莉緒は目を伏せた。
「私の笑顔でも、誰かの役に立てたんだ」
その言い方が、悠斗には少し引っかかった。
まるで、自分の笑顔には価値がないと思っているような言い方だった。
「役に立ったどころじゃありません」
悠斗は思わず言った。
「僕にとって、白河莉緒さんは……ずっと憧れでした。画面の向こうにいる、遠い人でした。でも、ただ綺麗だからとか、有名だからとかじゃなくて」
莉緒が顔を上げた。
悠斗は緊張で喉が乾くのを感じながら、それでも言葉を続けた。
「莉緒さんが頑張っている姿を見ると、自分もちゃんと生きようと思えたんです」
沈黙が落ちた。
観覧車の光が、ゆっくり色を変える。
莉緒は何かを言おうとして、けれど言えないまま、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
その時、彼女のスマートフォンが震えた。
莉緒は画面を見る。
「あ……巳波さんだ」
悠斗は思わず反応した。
「東雲巳波さんですか?」
「知ってるんですか?」
「はい。もちろん。莉緒さんと何度か雑誌で共演していましたよね」
「すごい。本当にファンなんですね」
「すみません。気持ち悪かったら」
「ううん」
莉緒は首を横に振った。
「嬉しいです。巳波さんは、私の相談相手なんです。芸能界のことも、プライベートのことも、ちゃんと聞いてくれる人」
そう言って、莉緒は電話に出た。
「もしもし、巳波さん。うん、大丈夫。今、迷子になってたところを親切な人に助けてもらって……え? 大丈夫、本当に怪しい人じゃないよ」
電話の向こうから、少し心配そうな声が漏れている気がした。
莉緒は悠斗をちらりと見た。
「うん。昔から応援してくれてる人みたい。すごく真面目な人。……え? 名前? 聞いてない」
莉緒はスマホを少し離し、悠斗に尋ねた。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「あ、瀬名悠斗です」
「瀬名悠斗さん」
莉緒が電話口に名前を伝える。
次の瞬間、彼女の目が少しだけ丸くなった。
「え? 青い便箋?」
悠斗の心臓が跳ねた。
青い便箋。
それは、悠斗がイベントのたびに莉緒へ送っていた手紙のことだった。
大げさな愛の言葉は書かなかった。
ただ、出演番組の感想や、写真集の好きなページ、無理をしすぎないでほしいということを、短く丁寧に書いていた。
いつも青い便箋を使っていたのは、莉緒が以前、青が好きだと話していたからだ。
「……もしかして、瀬名さんって」
莉緒が電話を切って、悠斗を見た。
「青い便箋の人?」
悠斗は顔が熱くなるのを感じた。
「覚えて……いたんですか」
「覚えてます」
莉緒の声は、さっきまでと違っていた。
少し震えていた。
「私、何度も助けられました。あの手紙に」
「そんな……僕はただ、感想を書いただけで」
「違うよ」
莉緒は首を横に振った。
「グラビアってね、褒められることも多いけど、傷つくことも多いんです。見た目のことを言われて、年齢のことを言われて、笑って受け流さなきゃいけないこともある。平気なふりをして、楽屋で泣いたこともあります」
悠斗は何も言えなかった。
テレビの向こうの彼女が、今、自分の前で本当の声を出している。
それが信じられなかった。
「でも、青い便箋の手紙だけは、いつも私を人間として見てくれていた」
莉緒はゆっくり言った。
「綺麗だった、可愛かった、だけじゃなくて。あの時の言葉がよかったとか、無理して笑っているように見えたから心配ですとか。私の心を見てくれていた」
「……勝手なことを書いてしまって、すみません」
「謝らないで」
莉緒は笑った。
その笑顔は、テレビで見るものよりもずっと弱くて、ずっと綺麗だった。
「私、今日、本当は逃げてきたんです」
「逃げてきた?」
「事務所で話し合いがあって。これからどうするか、って。グラビアを続けるのか、女優業に移るのか、年齢的にどう見せていくのか。みんな私の未来を考えてくれてる。でも、私の本音だけが、どこにもなかった」
莉緒は観覧車を見上げた。
「それで、少しだけ一人になりたくて、歩いてたら迷子になりました」
「……莉緒さんらしいですね」
「ひどい」
「すみません。でも、なんとなく」
莉緒は声を出して笑った。
その笑い声は自然だった。
悠斗はその瞬間、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
推しだから好きなのではない。
目の前にいる白河莉緒という一人の女性が、どうしようもなく愛おしかった。
「瀬名さん」
「はい」
「観覧車、乗りませんか?」
「え?」
悠斗は間の抜けた声を出した。
莉緒は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「迷子を助けてくれたお礼に」
「いや、それはお礼として大きすぎます」
「じゃあ、私が乗りたいから付き合ってください」
「でも、マネージャーさんは」
「連絡しました。少し遅れるって」
「でも、人に見られたら」
「変装してるし、平日の夜だし、大丈夫です。それに」
莉緒は小さな声で言った。
「今、一人になりたくないんです」
その一言で、悠斗は断れなくなった。
二人は観覧車乗り場へ向かった。
チケットを買う時も、ゴンドラに乗り込む時も、悠斗の心臓はずっと忙しく動いていた。
向かい合って座ると、妙な沈黙が流れた。
ゴンドラがゆっくり上昇していく。
みなとみらいの夜景が、少しずつ足元へ沈んでいくように見えた。
「瀬名さん、緊張してます?」
「しています」
「正直ですね」
「嘘をつける状況ではないので」
「私と二人きりだから?」
「それもあります」
「それも?」
「観覧車が苦手です」
莉緒は目を丸くしたあと、吹き出した。
「先に言ってくださいよ」
「莉緒さんが乗りたいと言ったので」
「無理してくれたんですか?」
「少しだけ」
「優しいんですね」
「優しいわけでは」
「優しいです」
莉緒は窓の外を見た。
赤レンガ倉庫の灯り。海の黒。ランドマークタワーの輪郭。車のライト。歩く人々。
そのすべてが、遠い世界のようだった。
「私ね」
莉緒がぽつりと言った。
「ずっと、誰かの推しでいることが怖かったんです」
「怖い?」
「推しって、綺麗なままでいなきゃいけない気がして。笑って、元気で、可愛くて、夢を壊さなくて。恋愛も、弱音も、老いも、疲れも、全部隠さなきゃいけない気がして」
悠斗は黙って聞いていた。
「でも、本当の私は、そんなに強くないです。家に帰ったら一人で泣くし、エゴサして落ち込むし、明日の撮影が怖くて眠れない日もある」
「はい」
「なのに、瀬名さんの手紙だけは、私が弱くてもいいって言ってくれている気がした」
莉緒は悠斗を見た。
「今日、偶然会えて、思いました。私、ずっとこの人に会いたかったんだって」
悠斗は何も言えなくなった。
ゴンドラはさらに高く上がっていく。
街の音が遠ざかる。
世界に二人だけが取り残されたような静けさだった。
「瀬名さん」
「はい」
「私のこと、今でも推しですか?」
悠斗は少し考えた。
それから、まっすぐに答えた。
「推しです」
莉緒の表情が少し曇る。
けれど悠斗は続けた。
「でも、それだけじゃありません」
「……それだけじゃない?」
「はい。今日、こうして話して、テレビの中の白河莉緒さんじゃなくて、目の前にいるあなたを知りました。弱くて、迷子になって、観覧車に誘って、でも本当はすごく寂しがり屋で」
「それ、褒めてます?」
「褒めています」
莉緒が小さく笑う。
悠斗は深く息を吸った。
「僕は、あなたのファンです。でも、今この瞬間からは、ファンとしてだけじゃなく、一人の人間として、白河莉緒さんを大切にしたいと思っています」
莉緒の目が揺れた。
観覧車が、頂上に近づいていく。
夜景が一番美しく見える場所。
時計の針が、空に触れるような高さ。
莉緒は両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「瀬名さん」
「はい」
「私、変なことを言います」
「はい」
「笑わないでください」
「笑いません」
「引かないでください」
「努力します」
「そこは引かないって言ってください」
「引きません」
莉緒は深呼吸した。
そして、観覧車が頂上に差しかかった瞬間。
彼女は、まっすぐ悠斗を見つめた。
「瀬名悠斗さん」
「はい」
「私を、推しじゃなくて、一人の女として見てくれますか?」
悠斗の心臓が大きく鳴った。
莉緒の声は震えていた。
けれど、その目は逃げていなかった。
「画面の向こうの白河莉緒じゃなくて、泣いたり、迷ったり、面倒くさかったりする私を見てくれますか?」
「……はい」
「私が芸能人でも、年上でも、世間に色々言われる立場でも、それでも隣にいてくれますか?」
「はい」
悠斗は迷わず答えた。
莉緒の瞳に涙が浮かぶ。
彼女は震える唇で、それでも笑った。
「じゃあ」
夜景の中で、莉緒は言った。
「私と、結婚してください」
時間が止まったようだった。
悠斗は言葉を失った。
観覧車の中。
みなとみらいの夜景。
テレビの向こうにいた推し。
ずっと憧れていた人。
その彼女が今、自分に結婚を申し込んでいる。
「……け、結婚?」
「はい」
「交際じゃなくて?」
「結婚です」
「順番が」
「おかしいですよね」
「かなり」
「でも、私、もう分かってるんです」
莉緒は涙をこぼしながら笑った。
「瀬名さんは、私を商品として見ない。夢として閉じ込めない。ちゃんと人として見てくれる。そんな人、芸能界にいても、なかなか出会えないんです」
「でも、僕は普通の会社員です」
「だからいいんです」
「お金持ちでもないです」
「自分で稼げます」
「有名でもないです」
「有名じゃない人と一緒にいたいです」
「莉緒さんの人生を背負えるほど、立派じゃありません」
「背負ってほしいんじゃないです」
莉緒は首を横に振った。
「一緒に歩いてほしいんです」
悠斗は膝の上で拳を握った。
怖かった。
嬉しさよりも先に、怖さが来た。
自分が彼女の人生を変えてしまうかもしれない。
彼女の仕事に迷惑をかけるかもしれない。
ファンに知られたら、彼女が傷つくかもしれない。
それでも。
それでも、目の前で勇気を出している彼女に、曖昧な言葉を返したくなかった。
「莉緒さん」
「はい」
「僕は、あなたを幸せにできると簡単には言えません」
「……はい」
「でも、あなたが泣く時に、隣にいることはできます。あなたが迷う時に、一緒に考えることはできます。あなたがテレビで笑った夜に、お疲れさまと言うことはできます」
莉緒の涙がまたこぼれた。
「僕でよければ」
悠斗は、ゆっくりと言った。
「あなたの夫にしてください」
莉緒は両手で口元を押さえた。
泣きながら、何度も頷いた。
「……はい」
ゴンドラがゆっくり下がり始める。
頂上で交わされた約束を、夜景だけが見ていた。
観覧車を降りた後、莉緒はしばらく何も言わなかった。
ただ、悠斗の隣を歩いていた。
手は繋がなかった。
人に見られるかもしれないから。
けれど、二人の距離は、乗る前よりも少し近くなっていた。
やがて、莉緒のマネージャーが迎えに来た。
黒い車の後部座席に乗る直前、莉緒は振り返った。
「瀬名さん」
「はい」
「連絡先、交換してください」
「もちろんです」
「あと」
莉緒は少し照れたように笑った。
「今日のこと、夢じゃないですよね?」
「僕の方が聞きたいです」
「じゃあ、夢じゃない証拠」
莉緒はスマートフォンを操作し、悠斗にメッセージを送った。
画面に表示された文字を見て、悠斗は固まった。
『今日から、婚約者さんですね』
悠斗が顔を上げると、莉緒はマスク越しでも分かるくらい笑っていた。
「おやすみなさい、悠斗さん」
初めて名前で呼ばれた。
それだけで、悠斗の胸はいっぱいになった。
「おやすみなさい、莉緒さん」
車が走り去っていく。
悠斗はしばらく、その場から動けなかった。
夜の横浜。
観覧車。
スマートフォンに残ったメッセージ。
すべてが現実離れしていた。
けれど、画面の中には確かに彼女の言葉があった。
今日から、婚約者さんですね。
その一文を見つめながら、悠斗は小さく呟いた。
「……テレビの向こうの人が、本当にこっちへ来た」
翌日。
悠斗はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
スマートフォンを何度も見た。
昨日の出来事が夢ではなかったことを確かめるために。
午前十時。
莉緒からメッセージが届いた。
『起きていますか?』
悠斗は即座に返信しそうになって、少しだけ時間を置いた。
重すぎると思われたら困る。
だが、三十秒後には耐えられず返信していた。
『起きています』
すぐに通話がかかってきた。
「おはようございます」
莉緒の声だった。
寝起きなのか、少しだけ掠れていた。
「おはようございます」
「昨日のこと、覚えてますか?」
「一睡もできないくらい覚えています」
「私もです」
電話の向こうで、莉緒が小さく笑う。
「朝起きて、まず巳波さんに電話しました」
「東雲さんに?」
「はい。そしたら言われました」
「何をですか?」
「莉緒ちゃん、勢いで人生決めたように見えるけど、たぶんずっと前から決めてたんだよって」
悠斗は言葉に詰まった。
莉緒は続けた。
「巳波さん、こうも言ってました。芸能人だからって、幸せになるのを諦めなくていいんだよって」
「……いい人ですね」
「はい。私の大事な先輩です」
莉緒は少し黙ったあと、真剣な声で言った。
「悠斗さん」
「はい」
「昨日の返事、後悔してませんか?」
「していません」
「本当に?」
「はい」
「私と結婚したら、普通の恋愛はできないかもしれません。外で堂々と手を繋ぐのも難しいし、しばらくは秘密にしなきゃいけない。仕事の都合で会えない日も多いです。週刊誌に追われる可能性もあります」
「はい」
「それでも?」
「それでも、昨日言ったことは変わりません」
電話の向こうで、莉緒が息を呑む気配がした。
「……悠斗さんって、ずるいですね」
「え?」
「そんなに真っ直ぐ言われたら、もっと好きになるじゃないですか」
悠斗の顔が熱くなる。
「莉緒さんの方がずるいです」
「私?」
「昨日からずっと、心臓に悪いです」
「ふふっ」
その笑い声を聞いて、悠斗はようやく少しだけ現実感を得た。
彼女は本当にいる。
画面の中ではなく、電話の向こうに。
その日の夕方、二人は再び会った。
場所は横浜の小さなカフェだった。
莉緒は個室を予約していた。
店に入ると、莉緒は昨日よりも少し落ち着いた服装で座っていた。薄いベージュのニットに、紺のスカート。テレビで見る華やかさとは違う、柔らかな雰囲気だった。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
向かい合って座ると、莉緒は一枚の紙を取り出した。
「これ、巳波さんに言われて作りました」
「何ですか?」
「結婚前に話し合うことリスト」
悠斗は思わず笑った。
「東雲さん、しっかりしていますね」
「すごくしっかりしてます。勢いだけで結婚すると、あとで大変だからって」
「それは確かに」
紙には、生活費、住む場所、仕事、親への挨拶、事務所への報告、秘密にする範囲、将来のことなどが丁寧に書かれていた。
悠斗はその一つ一つに、真剣に答えた。
収入は多くないこと。
都内の小さな賃貸に住んでいること。
家族にはいずれきちんと話したいこと。
莉緒の仕事は続けてほしいこと。
自分の存在が邪魔になるなら、表に出なくてもいいこと。
すると、莉緒は少し怒ったように眉を寄せた。
「邪魔なんて言わないでください」
「すみません」
「悠斗さんは、私の人生の邪魔じゃありません」
「はい」
「むしろ、私がちゃんと私でいるために必要な人です」
悠斗は胸が熱くなった。
カフェの窓の外では、夕暮れがゆっくり街を染めていた。
話し合いは二時間以上続いた。
恋人らしい甘い会話よりも、現実的な話ばかりだった。
けれど悠斗には、それが嬉しかった。
夢ではなく、現実として二人の未来を考えている証拠だったから。
数日後。
莉緒は事務所に、結婚を前提にした相手がいることを伝えた。
当然、最初は反対された。
相手が一般人であること。
出会いがファンとタレントであること。
タイミングが突然すぎること。
仕事への影響。
世間の反応。
問題はいくつもあった。
それでも莉緒は引かなかった。
「私は、白河莉緒としての人生だけじゃなく、私自身の人生も大切にしたいです」
そう言い切った彼女に、最終的に事務所側も条件付きで認めることになった。
当面は非公表。
親しい関係者だけに報告。
仕事は続行。
悠斗は表に出ない。
そして、何かあれば必ず相談する。
莉緒からその報告を聞いた時、悠斗は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どうして悠斗さんが頭を下げるんですか?」
「莉緒さんが、僕との未来のために戦ってくれたからです」
「違います」
莉緒は優しく言った。
「私が、私の幸せのために戦ったんです」
それから一か月後。
二人は婚姻届を出した。
場所は横浜市内の区役所だった。
証人欄には、莉緒の相談相手である東雲巳波の名前と、悠斗の親友の名前が記されていた。
提出する直前、莉緒は婚姻届をじっと見つめた。
「本当に出しますよ?」
「はい」
「もう戻れませんよ?」
「戻るつもりはありません」
「私、面倒くさいですよ?」
「知っています」
「まだ全部は知らないはずです」
「これから知ります」
莉緒は泣きそうな顔で笑った。
「悠斗さん」
「はい」
「私を、奥さんにしてください」
「はい」
悠斗は婚姻届を窓口に差し出した。
係の人が書類を確認する。
ほんの数分の手続きだった。
けれど、悠斗にとっては人生で一番長い時間に感じた。
やがて、係の人が穏やかに言った。
「受理いたしました」
その瞬間、白河莉緒は瀬名莉緒になった。
テレビの向こうの彼女が、今日から僕の奥さんになった。
区役所を出ると、空は綺麗に晴れていた。
莉緒は周囲を確認してから、ほんの一瞬だけ悠斗の手を握った。
指先が触れる。
それだけで十分だった。
「旦那さん」
莉緒が小さく呼んだ。
悠斗は胸がいっぱいになりながら答えた。
「はい、奥さん」
莉緒は照れたように笑った。
「変な感じ」
「僕もです」
「でも、嬉しいです」
「僕も、嬉しいです」
二人は並んで歩き出した。
手はすぐに離した。
人目があるから。
秘密の夫婦だから。
けれど、心の距離はもう離れなかった。
その夜。
悠斗の部屋の小さなテレビには、莉緒が出演する番組が映っていた。
収録済みの番組だった。
画面の中の莉緒は、いつものように明るく笑っていた。
共演者にいじられて、少し頬を膨らませて、それから楽しそうに笑う。
今までと同じ白河莉緒。
推しのグラビアアイドル。
けれど、悠斗の隣には、部屋着姿の莉緒本人が座っていた。
「自分の番組を旦那さんと見るの、恥ずかしいですね」
「僕は幸せです」
「そういうことを真顔で言わないでください」
「本当なので」
莉緒は赤くなって、クッションで顔を隠した。
テレビの中の莉緒が笑う。
隣の莉緒も笑う。
悠斗は、その両方を見ながら思った。
画面の向こうの人は、こちら側には来ない。
ずっとそう思っていた。
でも、違った。
彼女は画面の向こうから来たのではない。
最初から、同じ世界で生きていたのだ。
ただ、出会うまでに少し時間がかかっただけで。
「悠斗さん」
莉緒がクッションから顔を出す。
「はい」
「これから、大変ですよ」
「分かっています」
「秘密も増えます」
「はい」
「会えない日もあります」
「待ちます」
「私、たまに泣きます」
「隣にいます」
莉緒は黙った。
それから、ゆっくり悠斗の肩に頭を預けた。
「……推しと結婚して、後悔してませんか?」
悠斗はテレビを見た。
画面の中で笑う彼女。
隣で少し震えている彼女。
どちらも、同じ白河莉緒だった。
「後悔していません」
悠斗は静かに答えた。
「僕は、推しと結婚したんじゃありません」
「え?」
「僕は、莉緒さんと結婚したんです」
莉緒は何も言わなかった。
ただ、悠斗の肩に額を押しつけた。
少しして、小さな声が聞こえた。
「……そういうところ、本当にずるい」
悠斗は笑った。
テレビの音が部屋に流れる。
外では、遠くの街の灯りが瞬いていた。
みなとみらいの観覧車で交わした約束は、もう夢ではない。
これから先、二人にはたくさんの困難が待っているのだろう。
秘密の結婚。
芸能界。
一般人の夫。
推しとファンだった過去。
世間に知られた時、祝福だけでは済まないかもしれない。
それでも、悠斗はもう怖くなかった。
隣に彼女がいる。
それだけで、どんな夜も越えられる気がした。
「莉緒さん」
「はい」
「明日、朝ご飯は何がいいですか?」
莉緒は顔を上げた。
少し驚いたあと、ふわりと笑った。
「卵焼き」
「甘いのとしょっぱいの、どちらが好きですか?」
「甘いの」
「分かりました」
「あと、お味噌汁」
「具は?」
「豆腐とわかめ」
「了解です」
莉緒は嬉しそうに目を細めた。
「奥さんっぽい会話ですね」
「旦那さんっぽく頑張ります」
「じゃあ、私は奥さんっぽく応援します」
「そこは作ってください」
「グラビアアイドルに朝から料理を求めますか?」
「奥さんに聞いています」
莉緒は一瞬固まり、それから照れたように笑った。
「……じゃあ、一緒に作ります」
「はい」
テレビの中で、白河莉緒が笑っている。
その隣で、瀬名莉緒が笑っている。
悠斗は、その幸せを静かに噛みしめた。
推しは、遠い存在だった。
憧れで、救いで、光だった。
けれど今は違う。
彼女は同じ部屋で笑い、同じ食卓を囲み、同じ朝を迎える人になった。
テレビの向こうの彼女が、今日から僕の奥さんです。
そして僕は、今日から彼女の帰る場所になる。
そう心に誓いながら、悠斗は隣にいる莉緒の手を、そっと握った。
今度は、人目を気にしなくていい。
この部屋の中だけは、二人だけの世界だから。
莉緒もまた、悠斗の手を握り返した。
「悠斗さん」
「はい」
「私、幸せになってもいいんですよね?」
悠斗は迷わず答えた。
「はい。もちろんです」
「一緒に?」
「一緒に」
莉緒は目を潤ませながら、笑った。
「じゃあ、これからよろしくお願いします。旦那さん」
悠斗も笑った。
「こちらこそよろしくお願いします。奥さん」
テレビの向こうにいた彼女は、もう遠い人ではない。
推しだった彼女は、世界で一番大切な人になった。
そして、みなとみらいの観覧車から始まった秘密の夫婦生活は、静かに、けれど確かに動き出した。
【後書き】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、平凡な会社員・瀬名悠斗と、人気グラビアアイドル・白河莉緒が、みなとみらいの観覧車で想いを交わし、秘密の夫婦になるまでを描きました。
「推し」と「ファン」だった二人が、ただの憧れではなく、一人の男性と一人の女性として向き合っていく物語です。
この二人は、結婚して終わりではなく、結婚してからが本当の始まりだと思っています。
次回は、
新婚同居編・前編/後編
莉緒が悠斗の部屋に少しずつ荷物を運び、初めて本当の夫婦生活を始めるお話。
こちらを二話構成で描けたらと考えています。
また、もし人気が出ましたら、その後の続編として二話ずつの短い章で続けていけたらと思っています。
たとえば、
東雲巳波相談編・前編/後編
莉緒が巳波に結婚生活の悩みを相談し、芸能人として、妻としての幸せを考えるお話。
事務所報告編・前編/後編
莉緒が事務所に結婚を伝え、悠斗も一般人の夫として覚悟を決めるお話。
両親挨拶編・前編/後編
悠斗の家族、莉緒の家族へ結婚を報告し、それぞれの反応を描くお話。
初めての嫉妬編・前編/後編
莉緒の仕事現場で共演者との距離に悠斗が少し嫉妬し、莉緒もまた悠斗を大切に思っていることを伝えるお話。
週刊誌疑惑編・前編/後編
二人の関係が世間に知られそうになり、秘密の夫婦生活が大きく揺れるお話。
みなとみらい記念日編・前編/後編
告白の場所である観覧車へもう一度行き、夫婦として改めて想いを確かめ合うお話。
評価、ブックマーク、感想などをいただけましたら、瀬名悠斗と白河莉緒の秘密の夫婦生活を、さらに続けて書いていきたいです。
瀬名悠斗と白河莉緒の物語を、最後まで見守っていただきありがとうございました。




