第41話 ハルトはやっぱり頭がいいのニャ
呼吸は浅い。ルナの魔力が染み付いた空気が、肺に重い。
それでも、前脚の先に触れていたものを、しっかり抱きかかえた。
古い日記帳。表紙に薄く残る聖印が、微かに光っている。
『……聖女さまの、日記。』
ページを開く。文字は古く、ところどころ掠れているけれど、確かに読めた。
ルナを封印した夜の記録。そして——封印の方法。
弱体化の呪いのかけ方。詳細な術式。必要な手順。核となる存在の役割。あちしの目が、急速に頁を追う。
『……これだ。これがあれば、もう一度封じられるニャ。』
一時的に、胸の奥が熱くなった。希望のようなものが、小さく灯る。
だけど、読み進めるうちに、その熱は徐々に冷えていった。
日記に記されている方法は、当時の状況を前提としたものだった。
聖女さま本人の、神の祝福による神聖力。
一万の心臓を食らっても、まだ安定しきっていなかったルナの力。
そして、自ら進んで「呪いの核」になることを受け入れた、あの頃の自分。
今は、どれも欠けている。
聖女さまはもういない。
グランディック家の血は、確かに残っているけれど、当時ほどの純度はない。
ルナはすでに父親と妹の心臓を得て、呪いを侵食し始めている。
そしてあちし自身も、既に呪いに力を弱体化されている身だから、同じように「核になる」ことはできない。
日記の方法は、基本的に❝猫又という種族全体の力を弱めること❞で成立していた。もう一度それをかけるには、聖女と、呪いの核になる強い猫又の存在が、最低でも必要になる。
『……この方法は、今は使えないニャ。』
悔しさが、胸の奥に広がる。せっかく手がかりを見つけたのに。方法がわかったのに。ルナを封印することは出来ないとわかっただけだった。
日記帳を、静かに閉じる。あちしの耳が、くたりと垂れた。
『……だからといって、諦めるわけにはいかない。ハルトを、子どもたちを、守る方法を、別で見つけなきゃいけないニャ。』
そして最後に、聖女さまの言葉が思い出される。
「この祝福は、あなたが再び誰かを『守りたい』と願ったときにしか動きません。そして、あなたが『自分一人が犠牲になろうとした』瞬間に、力を失います。」
日記の方法は、結局のところ、あちしが大きな負担を引き受ける形で成立した。
核となり、種族全体の弱体化を引き受ける。それは『一人で犠牲になる』道だ。
だけど聖女さまがおっしゃった、あちし一人が犠牲になった場合、力を失うという祝福とは、相反するものだ。
九本の尻尾に、わずかに力が戻る。銀の毛並みが、闇の中で微かに光った。
『聖女さまは、あちしに祝福を残してくれた。「大切な人たちが、共に立てるように」って。なら、その道を探すニャ。一人で核になる道じゃなく、みんなで守る道を。』
地下の空気は、相変わらず重い。ルナの魔力が、今も肌にまとわりついている。今のあちしでは、ルナにかなわないと思い知らされる。
でも、あちしは日記帳をしっかり抱え、ゆっくりと立ち上がった。
『……帰ろう。ハルトに、話さなきゃ。ハルトとなら、正しい道が見つかるかも知れないニャ。』
次に進むべき道は、まだ見えない。だけどそれでも、❝日記通りにはできない❞と知った今、かえって選択肢が一つ、はっきりした気がした。
古い封印方法に頼るのではなく。新しい、守るための封印を、作り上げること。
あちしは九本の尻尾を軽く振り、暗い通路を来た方へと歩き出した。屋敷に戻ったのは、夜がかなりふけた頃だった。
ハルトは書斎で、もう起きていた。明かりを灯したまま、あちしの帰りを待っていたらしい。ドアを開けた瞬間、ハルトが顔を上げる。
「ミミ……!大丈夫かい。顔色がかなり悪いようだ。」
「……少し、無理をしたニャ。でも、ルナのアジトを見つけたニャ。そこでこれ、見つけたの。」
あちしは抱きかかえていた古い日記帳を、机の上に置いた。表紙の聖印が、ランプの光を受けて薄く光る。ハルトがそっと日記帳を手に取る。
「これは……?」
「聖女さまの日記ニャ。ルナを封印したときの記録と、封印の方法が書いてある。」
ハルトの目が一瞬、明るくなった。しかし、あちしはすぐに首を横に振った。
「……使えない。この方法は、今は実行できないのニャ。」
ゆっくりと説明をする。当時の封印は、聖女さまの神聖力と、まだ安定しきっていなかったルナの力、そしてあちしが自ら「呪いの核」になることを受け入れた状態で、初めて成立したものだったこと。
今はそのどれもが欠けていること。
そして、聖女さまの祝福が❝あちしが一人で犠牲になる道❞を拒む性質を持っていること。
ハルトは頁を丁寧に追いながら、あちしの説明に耳を傾けていた。読み終えたあと、ハルトは静かに日記を閉じた。
「……確かに、これは無理だな。」
納得したように、深く息を吐く。
「聖女さまが未来も誕生するかはわからないし、弱体化の呪いの核になれる程、強い猫又が生まれると、聖女さまは思っていなかったんだと思うのニャ。だからきっと、聖女さまがあちしにかけた祝福は、別の封印方法に必要なことなんだと思うのニャ。」
ハルトはしばらく考え込むように、窓の外を見た。それから、ゆっくりとあちしの方を向き直った。
「……ミミ。もしかして、こういうことなんじゃないのかな?」
「え?」
「聖女さまは、君に『一人で何とかしろ』とは言っていない。むしろ逆だ。『大切な人たちと共に立て』と残した。君の大切な人は、誰?」
ハルトの声は、静かで、しかし確かな響きを持っていた。
「ハルトと、ランディスと、リリアナなのニャ。」
「僕らの血には聖女の力が宿っている。ひとりひとりでは、聖女さまのような力は使えないけれど、僕らの心臓ひとつでルナの弱体化の封印が弱まるくらいの力は持っているわけだ。」
「どういうことニャ?」
「君にかけられた聖女さまの祝福。そして、僕らに流れる聖女の血。そして、君にとって大切な僕ら。それがルナを封印する為の鍵なんだと思う。」
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