第34話 ルナの狙いは何なのニャ?
その日から、グランディック伯爵家の屋敷の空気は少しずつ変わっていった。
朝の食卓で、リリアナがパンを持ったまま、小さな声で言った。
「……お姉ちゃん。ゆうべ、黒い猫の夢を見たの。」
あちしの手が、一瞬止まる。
「黒い猫……?」
「瞬きしないで、ずっと私を睨んでて、カリカリ窓を引っ搔いて、中に入ってこようとするの。その音がどんどん大きくなって、怖くて、目が覚めちゃった。」
ランディスもナイフとフォークを置いて、真剣な顔になった。
「うん。僕もだよ。同じ夢を見た。赤い目をしてて……窓の外から、こっちを見てた気がする。中に入ろうとしてたのも同じ……まるで本物みたいだったよ。」
ハルトとあちしの視線が、静かに交差する。二人とも、すぐに何も言わなかった。ただ、ハルトが優しく子どもたちの頭を撫でて、
「ただの夢だよ。大丈夫。僕とミシェルがいるから」
とだけ言った。
午後、庭で遊んでいるときも、あちしは意識して子どもたちから離れなかった。ボールを投げながらも、常に周囲の気配を探っている。
夕方近く、使用人の一人が庭の端で何かを見つけて、ハルトを呼びに来た。あちしもそれについて行くことにする。
「……これは?」
ハルトがそれを見て驚く。鋭い爪で無数に傷付けられた、大きな石。こんなものに傷をつけられるのは、魔物だけだ。動物じゃ、石に傷はつけられないニャ。そしてそのそばに、黒い毛が、数本落ちていた。
しかも、その近くの石には、うっすらと赤い魔力の残滓が残っている。あちしはそれを見て、背筋がぞわっとする感覚を覚えた。
『……ルナ、ニャ。わざとあちしたちを怖がらせる為に、痕跡を残してるのニャ。』
屋敷に戻った後で、ハルトにもすぐに伝えた。ハルトは眉をひそめながらも、落ち着いた声で言った。
「子どもたちには、まだ詳しく言わないでおこう。ただ、絶対に一人にしない。夜も、部屋の前に誰か立つようにさせるよ。」
その夜から、あちしはほとんど眠らなくなった。
人間の姿で子どもたちの部屋を見回り、気配を感じればすぐに猫又の姿に戻って屋敷の周囲を巡る。森の精霊たちにも声をかけた。
「黒い猫又が、また近づいてるよ……。」
「屋敷の周りを、ゆっくりと回ってる気配がする……。」
精霊たちの声は、いつもより小さかった。ルナのことを恐れているのがわかる。精霊は良質な魔力が好きだけど、ルナの魔力は毒々しいから、精霊からすると、触れると何か影響があるかも知れないと、恐れているのかも知れないニャ。
『……姿は見せない。あちしたちを焦らしてるだけニャ。いつでも手を出せるんだと、脅して、おびえさせるために。』
あちしはあれから何度も森の端まで行ったけど、ルナの本体は一度も現れなかった。ただ、黒い毛と赤い残滓だけが、毎日のように増えていく。
そして、使用人にも、黒い猫を見ただの、夢に見ただの、言う人が増えるようになっていった。
一方、ヴィルヘルムもまた動き始めていた。
ある日の午後、使用人の一人が慌てた様子でハルトに報告してきた。
「ご主人さま……ヴィルヘルムさまが、またいらしていて。最近、下の者たちに『屋敷の様子はどうだ』『夜に変な音はしないか』『この屋敷が呪われている噂を聞いてな』などと、あれこれ尋ねておられるようです。」
あちしはそれをハルトの横で静かに聞いていた。最初にあちしの魔法で、この屋敷が呪われていると言って逃げて行ったのは、ヴィルヘルムニャ。
だからあいつがそう言ってくるのは、少しも不思議じゃない……けど、あんなに怖がって逃げていったのに、また来るなんておかしいのニャ。
ルナとどこかでつながっていたりしないんだろうか。屋敷の情報を集めようとしている気もするニャ。
ハルトもそう感じたのか、すぐに使用人たちに指示を出した。
「ヴィルヘルムには、必要以上に何も話すな。特に子どもたちの行動や、夜の警備については一切だ。」
それでも、貴族としての立場上、完全に追い返すことはできなかった。
「貴族」であり「親戚」という建前がある以上、無碍には扱えないものらしい。
ハルトは書斎で、何度も地図を広げてはため息をついていた。
「領地の守りを固めたいが……私設の騎士団を、領地戦以外で動かすには国の許可が必要だ……せいぜい警戒させる程度……どうしても限界がある。それにあまり大々的に動くと、却って周囲に不審がられるかもしれない。」
あちしは隣に座り、静かに言った。
「……ハルト一人で抱え込まないでください。あちしも、一緒にいるニャ。」
ハルトが顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「ああ。君がいてくれるだけで、かなり違うよ。」
その言葉が、胸に温かく染みる。
夜になると、更に二人でよく書斎で過ごすようになった。
ハルトが書類を整理する間、あちしは猫又の姿で窓辺に座り、外の気配を探る。
時々、ハルトが後ろから近づいてきて、そっと耳を撫でる。
「……無理しすぎるなよ、ミミ。」
「ハルトこそ、ニャ。」
そんな短い会話が増えていった。以前より、明らかに距離が近い。
『……一緒に守る、って言ってくれた。本当に、一人じゃないニャ。』
それでも、不安は消えない。
子どもたちは昼間は元気に遊んでいるがけど、夜になると時々「また黒い猫が出た気がする」と訴えってくる……。あちしは必ずそばにいて、頭を撫でて眠らせる。
ある夜、リリアナが半泣きで目を覚まし、あちしの部屋にやって来て言った。
「お姉ちゃん……黒い猫、また来たよ。窓の外に、赤い目が……。」
あちしはリリアナの部屋に行くと、すぐに窓を開け、外に出て周囲を探った。気配はある。でも、姿はない。ただ、窓枠に黒い毛が一本、引っかかっていた。
『……どうして直接手を出さずに、怯えさせようとするニャ?子どもたちが疲弊して、あちしが心臓を差し出すのを待っているのニャ?その方が強くなれるから。』
あちしはリリアナを抱きしめたまま、静かに呟いた。
「大丈夫。お姉ちゃんが、絶対に守るから。」
その夜も、あちしはほとんど眠らなかった。猫の姿の時はほぼ日中寝てるけど、猫又のあちしは、殆ど寝なくても問題ない。
ハルトも、書斎の明かりを消さずに待っていてくれた。
「……こちらが待つばかりでは、いつか消耗してしまうな。」
二人で静かに座り、外の闇を見つめながら、同じ決意を胸に秘めていた。
『……次に動くのを待ってるばかりじゃ駄目ニャ。あいつの根城を突き止めてやるのニャ。』
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