第31話 代わりに心臓を差し出すニャ?
「お前の九本の尻尾の心臓なら、それだけで十分。グランディック伯爵家の人間たち三人分以上の価値があるわ。私は完全体になるだけでなく、それ以上の力を手に入れる為の贄を、一気に賄える。」
「……何が言いたいニャ。」
「簡単よ。グランディック伯爵家の人間たちを殺されたくなければ、お前が身代わりになりなさい。お前の心臓を私に差し出せば、私はハルトにも、ランディスにも、リリアナにも、一切手を出さない。約束するわ。」
空気が凍りついた。あちしの頭の中が、真っ白になる。
『……身代わり、ってことニャ?あちしの心臓を渡せば、ハルトたちは助かる……?』
ルナの言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでくる。
ハルトの優しい笑顔。「ミミがいてくれると助かる」と耳を撫でてくれた手の温もり。
ランディスが「お姉ちゃん!」と駆け寄ってくる声。
リリアナが膝の上で眠るときの小さな寝息。
全部、守らなきゃいけないものだ。
あちしが何千年も一人で生きてきた中で、初めて手に入れた、大切なものだ。
『でも……心臓を差し出したら、その関係もすべて終わるニャ。あちしは死ぬ。
でも、みんなは生きられる。どうしたらいいニャ……?』
逆に、拒んだら?
ルナは本気でハルトたちを狙ってくる。
あちしがどれだけ強くても、ルナはすでにハルトのお父さんと妹さんの心臓を得て、おそらくかなり力を増している。
守りきれなかったら……全部失う。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
『……みんなを守るために、ここに来たニャ。人間の姿で、ハルトたちのそばにいるニャ。なのに……みんなを守るために自分を差し出せと言われてる。』
尻尾が小刻みに震える。耳がぴくぴくと動く。喉の奥で、かすれたように小さな声が漏れた。
「……本当に、手を出さないニャ?」
「本当よ。私は欲しいものが手に入れば、無駄なことはしない。お前の心臓さえあれば、グランディック伯爵家の人間たちには興味がなくなるもの。」
ルナが唇の端をニイッと吊り上げつつ、首を傾げる。
「どうする?可愛い九尾さん。自分の命と、あの優しいご主人さまたちの命。どちらを選ぶの?」
あちしは何も言えなかった。
頭の中で、ハルトの声が繰り返される。
「君がいてくれると、本当に助かる。」
子どもたちの笑い声。
「ミシェルお姉ちゃん、ずっと一緒にいてね」
それを守るために、自分を差し出すのか。
それとも、戦って、守れなかったときの最悪を想像するのか。
涙が、いつの間にか目の端に溜まっていた。
『……どうすればいいニャ。どうすれば、みんなを守れるニャ……。どうすれば、みんなと一緒にずっと一緒にいられるニャ。』
風がざわざわと、不穏に葉を揺らす音だけが響いていた。
あちしはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……今夜は、帰らせて欲しいニャ。」
ルナの赤い瞳が、わずかに細められる。
「──逃げるの?」
「違う。答えを出す前に、みんなの顔を見たいニャ。最後に……ちゃんと見ておきたい。」
ルナはしばらく沈黙したあと、軽く肩をすくめた。
「いいわ。一夜だけ待ってあげる。明日の夜、またここで会いましょう。そのとき、はっきりとした答えを聞くから。来なければ、こちらから動くわよ。」
彼女はそれだけ言い残すと、黒い影のように森の闇へ溶けていった。気配が完全に消えたあと、あちしは石の上に力なく座り込んだ。
九本の尻尾が、ぐったりと地面に広がる。
『……明日の夜までに、決めなきゃいけないニャ。自分を差し出すか。それとも、戦うか。』
涙を拭い、立ち上がる。
足取りは重かったけれど、屋敷の方へと歩き出した。夜明け前の空が、薄く白み始めていた。屋敷に戻ると、ハルトはまだ書斎にいた。
明かりが灯っている。
あちしは人間の姿に戻り、静かにドアを開けた。
「ミミ?急に出かけて、帰りが遅いと思ったから、ずっと待っていたんだよ?」
ハルトが驚いた顔で顔を上げる。書類の山の向こうから、優しげな視線が向いてくる。
「……少し、眠れなくて。散歩してきました。」
「顔色が悪いようだけど。大丈夫かい?」
ハルトが立ち上がり、近づいてくる。いつものように、頭に手を伸ばしかけて、途中で止めた。あちしは自分から一歩踏み込み、その手に自分の頭を預けた。
「……撫でてくれますか。今は、それだけでいいので。」
ハルトは少し驚いたあと、優しく頭を撫でてくれた。
温かい指先が、銀色の髪の毛を優しく梳く。
『……この感触を、失いたくないニャ。でも、失わないために、自分を失うことになるのかも知れない。』
あちしは目を閉じた。
胸の奥で、まだ答えは出ていない。でも、少なくとも今夜は──この温もりを、しっかりと胸に刻んでおこうと決めた。
「ありがとう、ハルト。……少し、楽になりました。」
「無理するなよ。何かあったら、ちゃんと話してくれ。」
「はい。」
嘘をついている自分が、少しだけ苦かった。窓の外では、夜が終わりかけている。
明日の夜まで、あと一日しかない。あちしはハルトの手の温もりを感じながら、心の中で静かに呟いた。
『……どうか、みんなを守れる答えが見つかりますように。』
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