第28話 抜かれた心臓
ヴィルヘルムが門の外へ転がり出てから、もう五日が経っていた。
屋敷には、あの騒がしい男の影も声も届かなくなり、庭には再び穏やかな陽光が降り注いでいた。
朝の食卓。リリアナがあちしの隣を陣取り、ランディスが向かい側でパンを頬張っている。ハルトが優しく微笑みながら、お茶を飲んでいる。
「最近、静かだね。いいことだ。」
「ええ。子どもたちも、安心して遊べますから。」
あちしがそう答えると、リリアナがぱっと顔を輝かせた。
「ミシェルお姉ちゃん、今日も一緒に遊ぼうね? ずっと一緒にいてね!」
「僕も!お姉ちゃんがいないと、つまんないもん。」
ランディスが勢いよく頷く。あちしは二人の頭を順に撫でて、小さく笑った。
「……はい。もちろん今日も、一緒にいますよ。」
午後は庭でボール遊び。今度はボールが勝手に跳ねることもなく、ただ三人で笑い合いながら投げ合うだけの、普通の楽しい時間だった。
ハルトも仕事の合間に窓から顔を出し、時々手を振ってくれる。
夕方近くになり、ハルトがあちしたちを庭まで迎えに来ると、子どもたちが突然真剣な顔になった。
「お父さま!ねえ、聞いて!」
ランディスが書斎から出てきたハルトの袖を引く。
「ミシェルお姉ちゃんを、本当の家族にしてほしいの!お姉ちゃんがずっとここにいてくれたら、リリアナも僕も、もっと嬉しいよ。」
リリアナもハルトの足に抱きついて、上目遣いに訴える。
「うん!お姉ちゃんがお母さんみたいで……あ、でもお姉ちゃんでいいから!ずっと一緒がいいの!」
ハルトは一瞬、言葉を失った。
「ほ、本当の家族……?」
ハルトの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。子どもたちの無邪気な言葉が、思わぬ方向に頭の中で広がってしまったらしい。
「ミシェルと……結婚、する、ということか……?いや、まだ早いんじゃ……だが妻はもう亡くなってだいぶ……。」
ハルトは一人で何やらぶつぶつ言っている。ハルトは慌てて咳払いをし、視線をそらしながら言った。
「そ、それは……まだ早い話だな。ミシェルさんは、あくまで妹としていてくれているだけだから……うん、家族、という意味では、とっくに本当の家族なんじゃないか?その……。」
言葉がうまく続かない。耳まで赤くなっているハルトを見て、あちしは少しだけ首を傾げた。
「……とりあえず、今はミシェルさんがいてくれるだけで十分だ。二人も、あまり無理を言わないようにな」
ハルトはそう言って、なんとか笑顔を取り繕った。子どもたちは「えー」と不満そうにしつつも、素直に頷いた。
夜。子どもたちが寝静まったあと、ハルトがあちしを書斎に呼んだ。
ランプの明かりだけが揺れる静かな部屋。ハルトは書類の山を前に、少し浮かない顔をしていた。
「ミシェル、少し話があるんだ。ちょっとここに座ってくれないか?」
「はい、」
あちしがすすめられた向かいの椅子に座ると、ハルトは深く息を吐いた。
「父の死亡届が、まだ下りない。教会が検分に時間がかかっているらしい……理由を聞いてみたら、どうにも不自然なんだ。」
ハルトの声が、普段より低くなった。
「父の体は、馬車ごと崖から落ちたように潰れていた。なのに、心臓だけが……綺麗に取り除かれていたそうだ。まるで、最初からなかったかのように。」
あちしは静かに聞き入った。そのことは、すでに知っている。先に教会の死体安置所を調べたときに、祭司たちの会話で聞いた話だ。妹さんの体にも、同じ痕跡があったことも。
「それだけじゃない。二年前に亡くなった妹の体も、同じだったらしい。事故でひどく損傷していたから当時は気づかなかったが、今になって報告があった。妹の心臓も、なかったんだ。まるで最初からなかったかのように。」
ハルトは手元のペンを強く握りしめた。
「妻は心臓が残っていた。なのに、父と妹だけが……意図的に抜かれたように。これが本当に事故なのか、僕にはどうしても信じられない。」
部屋に重い沈黙が落ちる。
「最初に心臓が抜かれて、それから死んだ……とハルトは考えているということですか?」
「それもありうると思っている。」
表面上は、ただ静かに頷いた。グランディック伯爵家は、過去に聖女を輩出した血筋だと話していた、教会の祭司たち。それが何か関係しているのかもしれないと思った。
「……心配ですね。でも、一人で抱え込まないでください。私にできることがあれば、言ってください。」
ハルトが顔を上げ、少しだけ柔らかく笑った。
「ありがとう、ミミ。君がいてくれると、少しは楽になる。子どもたちのことも、仕事のことも……君が支えてくれているおかげだ。」
彼はあちしの頭に手を伸ばしかけて、途中で止めた。いつもこうして書斎で二人きりになると、昔のように頭を撫でてくれるようになったのに、どうしたんだろう?あちしはちょっぴり寂しくなって、すねたようにハルトを上目遣いに見上げて睨んでしまう。
それを見たハルトが、ふっと微笑んで、あちしの頭を撫でてくれた。ニャ。ハルトに撫でられると、とっても幸せなのニャ!
「今夜は、もう少しだけ一緒にいてくれないか。書類を整理する間、側にいてくれるだけでいい。」
「はい。どこにも行きません。」
ランプの明かりが二人を優しく包み、書斎には穏やかな時間が流れた。窓の外では、夜の風が木々を揺らしているだけ。ヴィルヘルムの姿も、不穏な気配も、今はどこにもない。あちしはハルトの隣で静かに座りながら、心の中で小さく呟いた。
『……この穏やかな日々を守りたいニャ。そのために、心臓の件も、ちゃんと調べてみよう。』
グランディック伯爵家の夜は、今日も静かに、温かくふけていくのだった。
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