第9話「黒塗りの馬車」
帝都の夜は深く、雪は音もなく降り積もって石畳を白く覆い隠していく。
運河沿いの裏道を抜け、ルカは建物の陰に身を隠しながら、バルドウィン伯爵の屋敷がある小高い丘の方角へと歩を進めていた。
ヒートによる熱は波のように押し寄せては引き、ルカの思考を白く濁らせようとする。
その度に、ルカは舌を噛み、痛覚で無理やり意識を現実へと引き戻していた。
口の中に広がる鉄の味が、ルカの生存本能を辛うじて繋ぎ止めている。
深夜の帝都は静まり返っており、人影はほとんどない。
だが、ルカの体から漏れ出す熟しきった花のような甘い香りは、冷たい雪の空気の中でも際立って強く、遠くまで漂っていきそうだった。
もし、夜回りの治安維持隊や、夜の街を徘徊するアルファのゴロツキに見つかれば、今のルカに抵抗する術は皆無に等しい。
ルカは自身の外套の襟を深く立て、鼻と口を覆い隠すようにして、少しでも香りが漏れないように必死に息を殺して歩いた。
『ギルベルト……どうか、生きていて』
祈るような思いで足を前に出し続ける。
丘の麓にある高級住宅街に差し掛かった頃、前方から蹄の音と車輪が雪を踏みしめる音が聞こえてきた。
ルカはとっさに近くの路地の暗がりへと身を潜め、壁に背中を押し付けて息を潜めた。
ガス灯の黄色い光に照らされて姿を現したのは、装飾の少ない黒塗りの大型馬車だった。
御者台には、雨具を深く被った二人の男が座っている。
その馬車の側面には、銀色の鳥の紋章が鈍く光っていた。
バルドウィン伯爵の私兵団の馬車だ。
ルカの心臓が激しく跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
馬車はルカが潜む路地のすぐ近くで速度を落とし、車輪をきしませながら一時停止した。
御者の男たちが何やら低い声で言葉を交わしている。
距離が近く、ルカの耳にもその会話の断片が届いてきた。
「おい、こんな雪の夜に、あの怪我人を地下牢へ運ぶのか? もう虫の息だったぞ」
「伯爵様の命令だ。あの暗殺者はオメガの居場所を知っているはずだ。明日の朝までに吐かせろとよ」
「しかし、あれだけ血を流してちゃ、拷問の途中でくたばっちまうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちそうになった。
彼らが話しているのは、間違いなくギルベルトのことだ。
彼はまだ生きている。
だが、地下牢へ運ばれ、拷問を受ける寸前の状態にある。
もし夜が明けるまで放置すれば、彼は確実に死んでしまうだろう。
ルカの胸の奥で、恐怖と絶望が入り混じった冷たい風が吹き荒れた。
だが、同時に、微かな希望の光がルカの脳裏を閃いた。
あの馬車は、これから伯爵の屋敷の地下牢へ向かうのだ。
屋敷の正面ゲートから侵入することは不可能に近いが、あの馬車に潜り込むことができれば、屋敷の内部、しかも彼がいる地下牢の近くまで一気に近づくことができるかもしれない。
『やるしかない……!』
ルカは壁から身を離し、短く息を吐き出した。
ヒートで震える足に力を込め、馬車が再び動き出すタイミングを見計らう。
御者が手綱を打ち鳴らし、馬がいななきを上げて前進し始めた瞬間、ルカは路地の暗がりから雪の降る通りへと飛び出した。
足音を殺し、馬車の後部へと必死に駆け寄る。
黒塗りの車体の後部には、荷物を載せるための小さな足場と、身を隠すのにちょうどいいトランクの出っ張りがあった。
ルカは凍える手で車体の装飾金具を掴み、泥にまみれた足を足場へと引っ掛けた。
馬車が速度を上げる振動で、ルカの体が振り落とされそうになる。
ルカは歯を食いしばり、車体にへばりつくようにして身を屈めた。
雪が顔に吹き付け、冷たい風が外套の隙間から入り込んで体温を奪っていく。
だが、ルカは金具を握る手を絶対に離さなかった。
馬車は丘を登る石畳の道を、一定の速度で進んでいく。
ルカの体から放たれるオメガの香りは、雪の冷気と馬車の車輪が跳ね上げる泥の匂いにかき消され、御者たちに気づかれることはなかった。
どれほどの時間が経ったのか、ルカの手の感覚が完全に麻痺し、意識が遠のきかけた頃、馬車は高くそびえ立つ鉄格子の門の前で停止した。
バルドウィン伯爵の屋敷の裏門だ。
警備の私兵が松明を持って近づき、御者と二言三言言葉を交わした。
「通れ。地下牢への扉は開けてある」
重い鉄の門が開く軋み音が響き、馬車はゆっくりと屋敷の敷地内へと滑り込んだ。
ルカは金具を握る手に最後の力を込め、息を殺して周囲の様子を伺った。
馬車は広大な庭の裏側を通り抜け、石造りの古い建物の入り口で完全に停車した。
ここが地下牢への入り口らしい。
御者が馬車から降りる音が聞こえた瞬間、ルカは足場から雪の積もる地面へと音もなく滑り降りた。
そして、建物の壁沿いにある深い暗がりへと瞬時に身を隠す。
御者たちが入り口の重い木の扉を開け、中へと入っていく。
ルカは壁に張り付き、荒い呼吸を雪の中に溶かすように静かに整えた。
入り口には見張りが一人立っているが、松明の光が届かない死角にいるルカには気づいていない。
『ギルベルト……今、行くから』
ルカは懐の短いナイフの柄を握りしめ、暗闇の中で決意に満ちた瞳を光らせた。
ヒートの熱は依然としてルカの体を焼き尽くさんばかりに猛威を振るっているが、その熱は今や、ルカを前に突き動かすための原動力へと変わっていた。
彼が流した血の代償を、ルカ自身の手で取り戻すための孤独な潜入が、今まさに始まろうとしていた。




