第8話「冷たい水路」
地下の隠し通路は、帝都の古い下水道網の一部へと繋がっていた。
空気はひどく淀んでおり、ドブの臭いとカビの入り混じった湿気が鼻を突く。
足元は膝下まで泥水に浸かり、一歩足を踏み出すごとに粘り気のある汚水が重く絡みついてきた。
光は一切なく、完全な漆黒の中で、ルカは壁の冷たく濡れたレンガの感触だけを頼りに、水路の奥へとゆっくりと進んでいた。
ヒートの熱は依然としてルカの体を苛んでおり、下腹部の奥からせり上がる疼きと、全身の皮膚が粟立つような敏感な感覚が、一歩ごとに体力をごっそりと奪っていく。
冷たい泥水が太ももを濡らしていても、体内の熱は一向に引く気配を見せず、ルカの呼吸は荒く、浅いものになっていた。
『彼を、助けなきゃ……早く、早く……』
ルカの頭の中には、血まみれになって引きずられていったギルベルトの姿が焼き付いて離れなかった。
バルドウィン伯爵の屋敷は、帝都の中心部にある小高い丘の上に建っている。
オメガを収集し、私兵団を使って裏社会でも悪名を轟かせるあの冷酷な男が、捕らえたギルベルトにどんな惨い仕打ちをするか想像するだけで、ルカの胃の腑は恐怖で握り潰されそうになった。
ギルベルトがルカを守るために盾になったのだ。
今度は、ルカが彼を守らなければならない。
ルカは握りしめた短いナイフの柄を、自分の手のひらに食い込むほど強く握り直した。
刃の重みだけが、ルカが恐怖に飲み込まれそうになるのを繋ぎ止める錨だった。
どれほど暗い水路を歩き続けたのか、時間の感覚はとうに失われていた。
時折、頭上の鉄格子の隙間から、帝都の街灯の薄暗い光と、みぞれの冷たい雨粒が落ちてくる場所があった。
そのわずかな光の下を通り過ぎるたびに、ルカは自身の惨めな姿を水面に映し出されたように感じた。
服は泥とススで汚れ、顔は涙と灰で黒く汚れ、肩で息をするたびに甘い香りが空気中に撒き散らされている。
もしこの水路にネズミ以外の生き物がいたら、ルカは一瞬で捕食される無力な獲物でしかなかった。
「はぁ……はぁ……っ」
ルカの足が泥に深く沈み込み、バランスを崩して壁に肩を強く打ち付けた。
レンガの粗い表面で頬を擦り剥き、鋭い痛みが走る。
ルカはその場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、冷たい壁に額を押し当てて荒い息を整えようとした。
限界だった。
特注の薬が完全に切れ、ヒートが本格的に始動したオメガの体は、本来であれば安全な場所で身を潜め、嵐が過ぎ去るのを待つしかないほど脆弱になる。
歩くことすら奇跡に近い状態で、ルカの意識は幾度となく途切れそうになっていた。
『ギルベルトの匂いが……恋しい』
ルカの脳裏に、あの雨上がりの森の清冽な香りが鮮明に蘇る。
彼がそばにいてくれれば、この身を焦がすような熱も、孤独の恐怖も、すべて和らぐはずなのに。
ルカは彼に触れたいという強烈な衝動に駆られ、両手で自分自身の肩をきつく抱きしめた。
だが、そこにあるのは冷たく濡れた自分の服の感触だけで、彼の大きく温かい手はどこにもなかった。
涙が再び溢れ出し、泥水の中にポタポタと落ちて波紋を広げる。
ルカは嗚咽を漏らしながら、自身の弱さを呪った。
なぜ自分は、彼のように強くないのか。
彼が血を流している間、自分はただ震えて泣いていることしかできない。
だが、泣いている暇などないのだ。
ルカは壁にすがりつき、顔を上げて水路の先を見据えた。
遠くの闇の向こう側に、小さな半円形の出口の光が見え隠れしている。
帝都の外れ、旧市街の運河へと繋がる排出口だ。
あそこまで行けば、地上に出られる。
ルカは壁から身を離し、再び重い泥水の中へと足を踏み出した。
足の感覚はとうに麻痺し、ただ機械的に前へ前へと体を押し進める。
出口の光が少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
排出口の鉄格子は古く錆びついており、ルカが体重をかけて押し込むと、嫌な金属音を立てて外側へと開いた。
外の空気は冷たく、みぞれはすっかり雪に変わって、運河の黒い水面を白く染めようとしていた。
ルカは排出口から這い出し、運河沿いの石畳の上に倒れ込んだ。
全身の泥水が石畳に冷たいシミを作り、雪がルカの熱を持った頬に落ちて瞬時に溶けていく。
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込むと、煙とカビの匂いがようやく消え去り、冬の鋭い冷気が体の中に流れ込んできた。
「着いた……」
掠れた声が口から零れ落ちる。
ルカは空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、微かに月明かりが運河を照らしている。
ここからバルドウィン伯爵の屋敷までは、まだかなりの距離がある。
しかも、ルカの体からは依然としてオメガの甘い香りが強烈に放たれており、街中を歩けばすぐに誰かの嗅覚を刺激して気付かれてしまうだろう。
だが、ルカの瞳に迷いはなかった。
ヒートの熱に侵され、泥に塗れたみすぼらしい体であっても、彼を救うという決意だけが、ルカの心臓の鼓動を力強く打ち鳴らしていた。
ルカは石畳に手をつき、震える足でゆっくりと立ち上がった。
手の中のナイフを外套の内側に隠し、ルカは雪の降る帝都の闇の中へと、孤独な足跡を刻み始めた。




