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最強暗殺者に拾われた没落オメガの古書店主。絶望の夜から一転、狂信的な溺愛と絶対の盾で守られ極上の番となる  作者: 水凪しおん


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第7話「燃え殻の残骸」

 地下倉庫の天井からは、上の階で爆ぜる木材の破片と火の粉が赤い雨のように容赦なく降り注いでいた。

 煙の匂いは鼻腔を突き刺すほどに濃く、喉の奥が焼け付くような痛みをもたらしている。

 ルカは壁に背を預け、震える膝を必死に伸ばして立ち上がろうとした。

 下腹部から全身へと這い上がるヒートの熱は、燃え盛る周囲の温度と混ざり合い、ルカの意識を不規則に揺さぶり続けていた。

 甘く重い自身のフェロモンが煙に混じって空気中に溶け出しているのが、ひどく恐ろしかった。

 だが、それ以上に恐ろしいのは、石段の向こう側から聞こえてくる金属の激しい衝突音が、少しずつ少なく、弱くなってきていることだった。

 ギルベルトが倒れたのではないか。

 その想像だけで、ルカの心臓は冷たい手で鷲掴みにされたように激しく縮み上がった。

 ルカは震える右手でギルベルトが落とした予備の短いナイフを強く握りしめた。

 皮肉なことに、刃の冷たさだけが、今この瞬間ルカを現実に繋ぎ止める唯一の感覚だった。


『行かなきゃ……彼を、一人にしてはいけない』


 煙に咽びながら、ルカは壁伝いに石段の方へとよろよろと足を踏み出した。

 隠し通路の奥に広がる安全な闇が、背後から手招きしているように感じたが、ルカは二度と振り返らなかった。

 石段を一段上るごとに、熱気はさらに凄まじさを増し、皮膚を焦がすように叩きつけてくる。

 古い書物が焼ける独特の匂いと、インクが焦げる酸っぱい刺激臭が、ルカの肺を容赦なく満たしていった。

 一階の店内に顔を出した瞬間、ルカの目に飛び込んできたのは、見慣れた古書店が地獄の業火に飲み込まれた凄惨な光景だった。

 天井まで届いていた巨大な書架は半ばから折れ曲がり、無数の本が炎を纏って床に散乱している。

 長年磨き上げてきた木製のカウンターも、今は黒焦げの炭の塊と化していた。

 そして、その惨状の中心に、黒い外套を血と泥で汚したギルベルトの姿があった。

 彼はすでに片膝を床につき、荒い息を吐きながらも、周囲を取り囲む五人の私兵を鋭い眼光で睨みつけていた。

 彼の周囲には、すでに動かなくなった私兵が何人も転がっている。

 だが、多勢に無勢の代償はあまりにも大きく、ギルベルトの体には無数の切り傷が刻まれ、黒い布地が赤黒く変色していた。

 特に右の太ももから流れる血は深刻で、床の石畳に小さな水たまりを作っている。


「しぶとい男だ。だが、もう限界だろう」


 私兵を率いる隊長が、冷酷な笑みを浮かべて剣の切っ先をギルベルトの喉元に向けた。

 ギルベルトは顔を上げ、隊長の顔に唾を吐き捨てるようにして低く唸った。


「限界など……まだ来ていない」


 その声は掠れていたが、死地に立つ者の凄みが宿っていた。

 ギルベルトが再び短剣を構えようと残された力を振り絞ったその時、隊長の後ろに控えていた一人の私兵が、長柄の槍のようなものでギルベルトの背中を強かに打ち据えた。

 鈍い音が響き、ギルベルトの体が前方に崩れ落ちる。

 ルカの喉の奥から、声にならない悲鳴が引き裂かれた。

 咄嗟に飛び出そうとしたルカの足元で、焼け落ちた天井の梁が轟音を立てて床に叩きつけられた。

 炎の壁がルカとギルベルトの間を分断し、オレンジ色の熱波がルカの顔面を焼き尽くさんばかりに押し寄せる。

 ルカは顔を腕で覆い、炎の向こう側を必死に透かし見た。

 倒れたギルベルトの髪を乱暴に掴み上げ、隊長が何かを怒鳴っている。

 煙のせいで声はよく聞こえなかったが、ギルベルトの両手が背後に回され、太い縄で厳重に縛り上げられていくのが見えた。

 彼らはギルベルトを殺さずに、生け捕りにしたのだ。

 なぜだ。オメガの居場所を吐かせるためか、それともバルドウィン伯爵の個人的な余興のためか。

 理由はわからなかったが、ギルベルトが連行されていく事実だけが、ルカの目の前で残酷に展開されていた。

 私兵たちは煙にむせながら、縛り上げたギルベルトを引きずるようにして、壊れた入り口から外の冷たいみぞれの中へと消えていった。

 炎の壁がさらに勢いを増し、ルカのいる場所にも火の手が迫ってくる。


『ギルベルト……っ!』


 ルカは炎の向こう側へと手を伸ばしたが、熱気に阻まれて前へ進むことができない。

 ヒートの波が再び激しくルカの体を襲い、立っていることすらままならなくなった。

 目の前が真っ白に点滅し、膝が床に崩れ落ちる。

 このまま炎に焼かれて死ぬのも悪くないかもしれない。

 彼がいない世界で、一人きりで逃げ延びて生きながらえるよりも、ここで燃え尽きてしまったほうがずっと楽だ。

 絶望がルカの心を黒く塗りつぶそうとしたその時、鼻腔の奥に、炎の匂いとは全く違う、微かな香りが届いた。

 雨上がりの深い森の香り。

 ギルベルトが、ルカを守るためにその身に纏わせていたアルファのフェロモンが、煙の向こう側でまだ微かに漂っていたのだ。

 その香りは、ルカの体内に眠るオメガの生存本能を強烈に刺激し、同時に彼が最後に残した言葉をルカの脳裏に鮮明に蘇らせた。


「生きろ。何があっても」


 彼の声が、耳の奥で反響する。

 ルカの頬を、熱い涙が止めどなく伝い落ちた。

 ここで死ぬことは、彼が命を懸けて守ろうとしたものを、自分自身で無に帰すことを意味する。

 彼がルカに託したのは、ただ逃げ延びるだけの命ではない。

 生き抜いて、そして彼を迎えに行くための命だ。

 ルカは唇を強く噛み締め、血が滲むほどの痛みでヒートの朦朧とした意識を強引に引き裂いた。

 手の中の短いナイフを杖代わりにして、炎の隙間を縫うように這いずり、地下倉庫への石段へと転がり落ちた。

 隠し通路の重い石の扉を閉めると、炎の轟音は嘘のように遮断され、冷たく淀んだ暗闇がルカを包み込んだ。

 ルカは冷たい石の床に倒れ込み、肩を震わせて泣いた。

 父の思い出も、平穏な日常も、そして何よりも大切なギルベルトも、すべてが奪われた。

 だが、絶望の底で燃え上がる小さな炎は、決意という形を変えてルカの胸の奥で静かに、そして確実に熱を放ち始めていた。

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