第6話「炎の中の決別」
地下倉庫はカビと古い紙の匂いが充満しており、光の届かない漆黒の闇に包まれていた。
ギルベルトはルカを抱きかかえたまま、急勾配の石段を足音も立てずに駆け下りていく。
上の階からは、私兵たちの怒号と、炎が木材を爆ぜるパチパチという乾いた音が壁越しに響いてきた。
ルカの古書店が、父との思い出が詰まった場所が、無残にも焼かれていく。
だが、今は悲しんでいる余裕などなかった。
ヒートの熱はさらに激しさを増し、ルカの視界はぐらぐらと揺れ、息をするたびに肺が焼け付くように熱かった。
全身の皮膚がひりひりと敏感になり、ギルベルトの服越しに伝わる体温すらも、甘い痛みを伴ってルカの神経を刺激する。
「ギルベルト……熱い、息が……」
ルカは彼の胸元に顔を押し当て、苦しげに喘いだ。
ギルベルトは石段を降り切ると、ルカの体をそっと床に下ろし、暗闇の中でも正確に壁のレンガを一つ押し込んだ。
ゴゴゴ、と低い地鳴りのような音を立てて、壁の一部が回転し、人一人がようやく通れるほどの狭い隠し通路が姿を現した。
かつてルカの父が、万が一の事態に備えて作っておいた地下水路へと続く脱出路だった。
奥からは冷たく淀んだ空気と、下水特有の生臭い匂いが漂ってくる。
「ここを行け。水路に沿って進めば、街の外れに出られる」
ギルベルトはルカの肩を掴み、通路の奥へと押しやろうとした。
しかし、ルカは壁に手をついて踏みとどまり、振り返ってギルベルトの腕を強く握りしめた。
「あなたは……? 一緒に来てくれないの……?」
暗闇の中でも、ギルベルトの灰色の瞳がルカを見つめ返しているのがわかった。
その瞳には、これまでに見たこともないほどの深い切なさと、覚悟の色が宿っていた。
「俺が一緒に行けば、奴らは匂いを追って必ずここまで来る。俺が上で囮になる。その間に、お前は逃げろ」
ギルベルトの言葉の意味を理解した瞬間、ルカの心臓が氷の刃で貫かれたように冷たくなった。
囮になるということは、あの多勢の武装した兵士たちをたった一人で食い止めるということだ。
いくら彼でも、生きて戻れる保証はない。
いや、十中八九、命を落とすだろう。
「だめだ……! そんなの、絶対にだめだ! 私を置いていかないで!」
ルカは子供のように首を横に振り、ギルベルトの胸元にしがみついた。
ヒートの熱で力が入らないはずの手指が、彼の服を破らんばかりの力で握りしめている。
もしここで彼を失えば、自分は一生後悔する。
父の恩などという言葉で片付けられないほど、ギルベルトという存在はルカの中で大きなものになっていた。
「ルカ」
ギルベルトの声が、暗闇の中で低く、そしてひどく優しく響いた。
彼はルカの両手をそっと引き剥がし、自分の手で包み込んだ。
そして、もう片方の手でルカの熱を持った頬に静かに触れた。
硬く、タコだらけの指先が、信じられないほど愛おしげにルカの肌を撫でる。
「俺の命は、十五年前に一度終わっていたはずのものだ。それをお前の父親が拾い、お前が今日まで生かしてくれた。だから、俺の命は……お前を守るために使うのが、一番正しい」
ギルベルトの親指が、ルカの目尻からこぼれ落ちた涙をそっと拭った。
アルファの強い森の香りが、ルカの甘い香りを包み込むようにして優しく混ざり合う。
その香りは、別れを告げるための鎮魂歌のように、ルカの胸の奥を深く、深くえぐった。
「生きろ。何があっても」
ギルベルトはルカの額に自身の額をコツンと当て、ほんの数秒だけ目を閉じてその温もりを刻み込んだ。
そして、踵を返し、ルカを置いて石段の方へと歩き出した。
「いやだ……! ギルベルト、行かないで!」
ルカが叫びながら手を伸ばしたが、ギルベルトは振り返らなかった。
彼が石段を駆け上がると同時に、地下倉庫の天井が焼け落ちたのか、凄まじい轟音が響き渡り、大量の火の粉と煙が階段を下りてきた。
ギルベルトの背中が、赤黒い炎の向こう側へと完全に消えていく。
ルカの視界は涙で完全に歪み、声にならない絶叫が喉の奥で引き裂かれた。
上の階からは、剣と剣が激しくぶつかり合う音と、男たちの怒声が聞こえてくる。
ギルベルトがたった一人で、私兵団の群れに突っ込んでいったのだ。
熱気と煙が隠し通路の中にまで入り込み始め、ルカは咳き込みながら壁に寄りかかった。
ヒートの熱と絶望感で意識が遠のく中、ルカは暗闇の中でただ一人、震える膝を抱えてうずくまった。
彼が命を懸けて作ってくれた逃げ道。
ここを進めば、自分は助かる。
だが、その先に彼がいない世界を生きることに、何の意味があるというのか。
『彼を……見捨てられない』
ルカの胸の奥で、恐怖を上回るほどの強烈な感情が炎のように燃え上がった。
それは、オメガとしての本能などではなく、一人の人間として、彼という存在を深く愛し始めているという確かな自覚だった。
ルカは床に落ちていた、ギルベルトが落とした予備の短いナイフを震える手で拾い上げた。
刃の重みが、手のひらを通して痛いほどに伝わってくる。
ルカは隠し通路の奥へは進まず、涙を手の甲で乱暴に拭い、燃え盛る石段の方へとゆっくりと顔を向けた。




