第5話「迫り来る足音」
冬の足音が本格的に近づき、帝都の空は鉛色の雲に覆われる日が多くなっていた。
古書店の中は冷え込みが厳しく、ルカは小型の石炭ストーブをカウンターの脇に引っ張り出して火を入れた。
赤い炎が鉄の格子越しに揺らめき、微かな石炭の匂いと温かい空気が店内をゆっくりと満たしていく。
ルカとギルベルトの距離は、あの夜を境に劇的に縮まることはなかったが、互いに向ける視線や空気感には確かな変化が生まれていた。
ギルベルトが淹れてくれる不格好なお茶をルカが微笑みながら受け取り、ルカが本の埃を払う姿をギルベルトが静かに見守る。
言葉は少なくとも、二人の間には穏やかで温かい水脈のようなものが確かに流れていた。
しかし、その平穏な時間は長くは続かなかった。
***
ある日の午後、空が急に暗くなり、みぞれ混じりの冷たい雨が降り始めた頃だった。
ストーブの前で冷えた指先を温めていたルカの耳に、遠くから規則正しく金属が触れ合う音が聞こえてきた。
軍靴が石畳を踏み鳴らす重い音と、腰に下げた剣の鞘が鎧にぶつかる音。
それも、一人や二人の足音ではない。
十人、いやそれ以上の集団が、統率の取れた足取りでこの路地裏に向かって近づいてきている。
ルカはストーブから手を離し、息を殺して店の入り口へと視線を向けた。
書架の陰に座っていたギルベルトもまた、すでに立ち上がっていた。
彼の灰色の瞳は先ほどまでの穏やかさを完全に消し去り、氷のように冷たく鋭い刃の色に変わっている。
ギルベルトは音もなくカウンターに近づき、ルカの肩をそっと押してしゃがみ込ませた。
「音を立てるな。息を潜めろ」
耳元で囁かれた低い声に、ルカはコクりと頷き、両手で自身の口をきつく塞いだ。
足音は古書店のすぐ外でピタリと止まった。
窓ガラス越しに、黒い雨具を羽織った男たちの影がいくつも揺らめいているのが見える。
胸元には、銀色に輝く鳥の紋章。
バルドウィン伯爵の私兵団だ。
先日撃退した三人のような下っ端ではない。完全武装した精鋭部隊が、この小さな店を完全に取り囲んでいた。
「ここだ。裏路地のネズミが隠れ住む場所は」
雨音に混じって、金属質の冷酷な声が響いた。
私兵団を率いる隊長の男の声だった。
ルカの心臓が、肋骨を突き破らんばかりの勢いで激しく警鐘を鳴らし始める。
手足から一気に血の気が引き、ストーブの熱など全く感じられないほどに身体が芯から冷え切っていく。
薬が切れて数日が経過し、ルカの体からはオメガの甘い香りが隠しきれないほどに漏れ出していた。
熟しきった花のような、強烈で抗いがたいフェロモン。
このみぞれの中でも、犬のように鼻の利くアルファやベータの私兵たちには、その香りが確実に届いているはずだ。
ルカの体内に眠るヒートの予兆が、恐怖に呼応するようにして一気に目を覚まし始めた。
下腹部の奥から、燃えるような熱の塊がせり上がってくる。
関節の力が抜け、立っていることすら困難になり、ルカはカウンターの陰で床に座り込んでしまった。
浅く荒い呼吸を繰り返すたびに、甘ったるい香りがさらに濃く周囲に放たれる。
『だめだ……こんな時に、ヒートが』
ルカは自身の体を抱きしめ、必死に熱を抑え込もうとしたが、本能の波は理性を容易に飲み込んでいく。
ギルベルトは短剣の柄に手をかけ、入り口の扉を鋭く睨みつけていた。
彼自身の強靭なアルファの精神力をもってしても、至近距離で放たれるルカの濃密なフェロモンは劇薬に等しかった。
ギルベルトの呼吸がわずかに荒くなり、雨上がりの森の香りが、獲物を威嚇する獣のように鋭く重いものへと変化していく。
彼は本能の衝動を理性の奥底に鎖で縛り付け、ただルカを守るという一つの目的のためだけに意識を研ぎ澄ませていた。
「突入しろ。中にいるオメガは生け捕りだ。傷一つ付けるな」
隊長の号令とともに、強化された真新しい木の扉が、重い槌のようなもので激しく打ち破られた。
木っ端が床に散乱し、冷たいみぞれが店内に容赦なく吹き込んでくる。
先陣を切って踏み込んできた三人の私兵が、剣を抜いて店内を見回した。
だが、彼らの視線がルカを捉えるよりも早く、黒い影が床を滑るようにして飛び出した。
ギルベルトだ。
彼は一切の躊躇なく、先頭の男の懐に潜り込むと、剣を振り下ろす隙も与えずに短剣の柄で顎をカチ上げ、脳震盪を起こさせて無力化した。
続く二人が左右から斬りかかってくるが、ギルベルトは背中を反らせて刃を躱し、流れるような動きで二人の膝の裏を正確に蹴り抜いた。
鈍い音とともに、男たちが床に崩れ落ちる。
だが、倒れた兵士の背後から、さらに五人の完全武装の男たちがなだれ込んでくる。
狭い店内は、あっという間に刃の閃きと殺気で埋め尽くされた。
多勢に無勢。
いくらギルベルトが凄腕の暗殺者であっても、この数を同時に、しかもルカを庇いながら相手にするのは限界があった。
敵の剣がギルベルトの外套をかすり、黒い布が裂ける。
ルカは恐怖とヒートの熱で意識が混濁しそうになる中、懸命に首を振り、震える声で叫んだ。
「逃げて、ギルベルト……! 私のことは、もういいから……っ」
その声は涙に濡れ、かすれていた。
自分が捕まれば、彼は助かるかもしれない。
これ以上、恩人の息子だからという理由だけで、彼を死地に向かわせるわけにはいかなかった。
だが、ギルベルトは振り返ることなく、目の前の敵を冷徹に捌きながら短く答えた。
「黙っていろ。お前を置いていくくらいなら、ここで死ぬ」
その言葉には、一切の迷いも恐怖もなかった。
ただ純粋な決意だけが、鋼のような強さで響いていた。
敵の波状攻撃を凌ぎながら、ギルベルトは少しずつ後退し、ルカのいるカウンターの方へと距離を詰めていく。
彼は敵の剣を短剣で弾き返し、その反動を利用してカウンターを飛び越えると、ルカの体を片腕で力強く抱き起こした。
「立てるか。地下の倉庫に隠し通路があるはずだ。そこへ向かう」
ギルベルトの腕の力強さと、間近で香る森の匂いが、ルカの薄れかけていた意識を強引に現実へと引き戻した。
ルカはギルベルトの肩にすがりつき、よろめく足に無理やり力を込めて立ち上がった。
敵の部隊がカウンターを迂回して迫ってくる。
ギルベルトはルカの体を庇うようにして背中に回し、最後の抵抗としてストーブを足で強く蹴り倒した。
真っ赤に燃える石炭が床に散らばり、古い絨毯や散乱した紙束に引火して、瞬く間に炎と煙が店内に広がっていく。
私兵たちが炎に怯んで足を止めたその一瞬の隙を突き、ギルベルトはルカを抱えたまま、店の奥にある地下倉庫への重い扉を蹴り開けた。




