第4話「孤独に触れる夜」
帝都の夜は早く、夕暮れの鐘が鳴り終わる頃には路地の奥まで濃い藍色の闇が染み込んでいく。
ルカの古書店も例外ではなく、分厚いガラス窓の向こう側はすっかり黒に塗りつぶされていた。
店じまいの札を裏返し、真鍮のランプに火を灯すと、オレンジ色の丸い光がカウンター周辺だけを柔らかく浮かび上がらせる。
外の冷え込みは日増しに厳しくなり、隙間風が古い木枠を鳴らすたびに、ルカは肩をすくめてカーディガンの前を掻き合わせた。
奇妙な共同生活が始まってから、十日が過ぎていた。
ギルベルトは昼間は店の一角で彫像のように気配を消し、夜になれば店の周囲を音もなく見回るという日課を繰り返している。
二人の間に交わされる言葉は驚くほど少なかったが、それは決して居心地の悪い沈黙ではなかった。
ルカにとって、背後に常に彼がいてくれるという事実は、薬が切れかけている不安を少しだけ和らげてくれる確かな拠り所になりつつあった。
カウンターの奥で帳簿の整理をしていたルカは、ふと羽ペンの動きを止め、視線を上げた。
ギルベルトはいつも座っている書架の陰の肘掛け椅子ではなく、今日は少し明るい場所に立って、自身の装具の手入れをしていた。
黒い革の外套は壁のフックに掛けられ、薄手の黒いシャツ一枚の姿になっている。
彼が愛用している二振りの短剣を、油を染み込ませた布で丹念に磨き上げる微かな摩擦音が、静寂に包まれた店内に規則正しく響いていた。
ランプの光が、磨き上げられた鋭利な刃の表面で鈍く反射する。
その光の軌跡をぼんやりと目で追っていたルカは、ギルベルトがわずかに身をよじった拍子に、シャツの背中から透けて見える無数の傷跡に気がついた。
『すごい数の傷……』
思わず息を呑み、ルカは羽ペンをインク瓶の横にそっと置いた。
シャツの薄い生地の上からでもはっきりとわかるほど、彼の背中や肩甲骨のあたりには、刃物で切り裂かれたような古い傷の盛り上がりが幾筋も走っている。
どれも致命傷になってもおかしくないほど深く、そして決して一つや二つではなかった。
暗殺者という過酷な世界で彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたのか、その痕跡が雄弁に物語っているようだった。
その中の一つ、左肩の付け根あたりにある一際大きな傷跡に視線が引き寄せられた時、ギルベルトの手の動きがふと止まった。
彼は刃から布を離し、ルカの視線に気づいたようにゆっくりと振り返った。
灰色の瞳が、ランプの光を吸い込んで静かにルカを捉える。
覗き見してしまったような罪悪感に駆られ、ルカは慌てて視線を逸らそうとした。
「あの、ごめんなさい……じろじろ見るつもりは、なかったんです」
消え入るような声で謝罪すると、ギルベルトは短剣を鞘に収め、革のベルトごとテーブルの上に置いた。
彼は怒るでもなく、不快感を示すでもなく、ただ淡々とした口調で答えた。
「気にするな。見られて困るようなものではない」
そう言いながら、彼は自身の左肩を右手で無意識のうちに軽く押さえた。
その仕草が、古傷が痛んでいることを隠そうとしているように見えて、ルカは胸の奥がちくりと痛んだ。
ここ数日の冷え込みは、古傷を持つ者にとって決して優しいものではないはずだ。
ルカはカウンターの下にある小さな薬箱を引き出し、その中から白い陶器の軟膏壺を取り出した。
薬草をすり潰して作った、鎮痛と保温の効果がある手製の塗り薬だ。
「もしよかったら、これ……使ってみませんか。古い傷が痛む時に塗ると、少しだけ楽になるんです」
ルカはカウンターの前に歩み出て、軟膏壺を両手で包み込むようにして差し出した。
ギルベルトはルカの手元を無言で見つめ、それから再びルカの顔へと視線を移した。
彼の表情からは感情を読み取ることはできなかったが、警戒しているわけではないことだけはわかった。
数秒の沈黙の後、ギルベルトは静かに頷き、ルカが差し出した壺を受け取る代わりに、椅子に腰を下ろしてシャツのボタンを外し始めた。
「頼めるか。背中は手が届きにくい」
予想外の言葉に、ルカの心臓が大きく跳ねた。
人に触れることも、触れられることも極端に避けてきた暗殺者が、自分に背中を預けようとしている。
それは、彼がルカに対して明確な信頼を示した証拠だった。
ルカは緊張で喉を鳴らしながら、小さく頷いた。
ギルベルトがシャツを肩から滑り落とすと、ランプの光に照らされた彼の背中があらわになった。
引き締まった筋肉の上に刻まれた無数の傷跡は、服の上から見ていたよりもずっと生々しく、痛々しかった。
ルカは震える指先で軟膏を掬い取り、ギルベルトの左肩にある一番大きな傷跡にそっと触れた。
冷え切っていた彼の肌に触れた瞬間、ギルベルトの体がわずかに強張り、そしてすぐにゆっくりと力が抜けていくのがわかった。
ルカの体温と、軟膏に含まれる薬草のすんとした清涼な香りが、二人の間の空気を優しく満たしていく。
ルカは傷跡の形をなぞるように、慎重に、そして丁寧に軟膏を塗り込んでいった。
硬く盛り上がった皮膚の感触が指先から伝わってくるたびに、彼が背負ってきた孤独と痛みがルカの胸に流れ込んでくるようだった。
「ひどい傷ですね……ずっと、痛かったんじゃないですか」
ぽつりとこぼれたルカの問いかけに、ギルベルトはしばらく黙っていた。
呼吸の音だけが静かに重なる中、やがて彼は低い声で口を開いた。
「もう十五年も前の傷だ。痛みはとうに忘れたと思っていたが、この季節になると、時折思い出す」
十五年前。
ルカがまだ七歳の頃だ。
その頃から、彼はこうして命の削り合いをしていたのかと思うと、ルカの手の動きが少しだけ止まった。
「俺は裏街の孤児だった。生きていくために短剣を握り、人を殺める術だけを教え込まれた」
ギルベルトの独白は、誰に聞かせるわけでもない、ただ自分自身の過去を確認するような淡々とした響きを持っていた。
ルカは軟膏を塗り終えても手を離すことができず、そのまま彼のごつごつとした肩甲骨に手のひらを添え続けた。
ギルベルトの体から漂う雨上がりの森の香りが、ルカの鼻腔をくすぐる。
それは以前よりも少しだけ甘さを帯び、ルカの体内に眠るオメガの微かな熱を静かに揺り起こそうとしていた。
「この傷を負った時、俺は路地裏で死にかけていた。冷たい雨が降る夜だった」
彼の言葉に、ルカの心臓が別の理由で早鐘を打ち始めた。
十五年前の雨の夜。
没落する前の貴族の屋敷で、父が血まみれの少年をこっそりと運び込み、必死に手当てをしていた記憶が、脳裏にふっと蘇ったのだ。
あの時の少年が、まさか。
「俺を拾い、手当てをしてくれたのは、通りすがりの貴族の男だった。彼は俺の素性を知っても、決して見捨てようとはしなかった」
ギルベルトは背中を向けたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「その男の息子が、お前だ、ルカ」
名前を呼ばれ、ルカは息を呑んだ。
彼がなぜ無報酬で護衛を買って出たのか、その全ての謎が一つに繋がった瞬間だった。
ギルベルトは、父の恩を返すために、ずっとルカを見守り続けていたのだ。
暗殺者として血塗られた道を歩みながらも、たった一つの光を忘れないように。
ルカの目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ち、ギルベルトの背中に落ちた。
冷たい水滴の感触に気づいたギルベルトが、ゆっくりと振り返る。
ルカは両手で顔を覆い、しゃくり上げるのを必死に堪えていた。
ギルベルトは何も言わず、ただ不器用な手つきでルカの細い手首を掴み、そっと顔から手を離させた。
彼の指先は硬く、少し冷たかったが、ルカにとってはどんな言葉よりも温かく感じられた。
『独りじゃなかった。ずっと、守られていたんだ』
孤独に凍えていたルカの心に、ギルベルトの存在が深く、静かに根を下ろした夜だった。




