第3話「奇妙な共同生活」
翌朝、三日ぶりに帝都の空から分厚い雲が去り、薄水色の空から柔らかな陽の光が差し込んでいた。
ルカは店の奥にある小さな寝室で、鳥のさえずりとともに目を覚ました。
昨夜の出来事が恐ろしい悪夢だったのではないかと思い、慌ててベッドから身を起こす。
しかし、衣服のまま眠ってしまったせいで生じた布の皺と、微かに残る身体の痛みが、それが現実であったことをはっきりと告げていた。
ルカは寝癖のついた髪を手で押さえながら、恐る恐る寝室の扉を開けて店の中へと足を踏み出した。
すると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
木製のカウンターの向こう側にある小さな台所で、黒衣の男、ギルベルトが立っていたのだ。
彼は昨日と同じ黒い衣服のままだったが、不器用な手つきで小さな鉄瓶を火にかけ、お湯を沸かしていた。
カチャカチャと陶器のカップがぶつかる音が、静かな店内に響く。
全身黒ずくめの凄腕の暗殺者が台所に立つ姿はひどく不釣り合いで、ルカは思わず立ち止まってその様子を見つめてしまった。
「起きたか」
背中を向けたまま、ギルベルトが低い声で言った。
その声のトーンは昨日と同じく平坦だったが、不思議と威圧感は感じられなかった。
「あ、はい……おはようございます」
ルカが戸惑いながら挨拶をすると、ギルベルトは火を止め、二つのマグカップにお湯を注いだ。
そして、片方のカップをカウンターの上にコトリと置く。
「飲め。体を温めたほうがいい」
差し出されたカップからは、白く細い湯気が立ち上っていた。
ルカは恐る恐る近づき、両手でカップを包み込むようにして持ち上げた。
指先からじんわりと熱が伝わり、冷え切っていた手のひらが心地よく解れていく。
カップの中には、ルカが戸棚の奥にしまっていた安物の茶葉が入れられていた。
一口すすると、少し煮出しすぎたのか渋みが強かったが、喉の奥を通って胃に落ちていく温かさが、ルカの張り詰めていた神経をゆっくりと緩めてくれた。
「あの……ありがとうございます」
ルカが小さな声で礼を言うと、ギルベルトは何も言わずに自分のカップに口をつけ、視線を外の通りへと向けた。
応急処置を施された木の扉の隙間から、朝の明るい光が筋になって床に落ちている。
奇妙な共同生活は、こうしてひっそりと始まった。
ルカは普段通りに古書店の営業を始めることにした。
表向きにはいつもと変わらない日常を装わなければ、バルドウィン伯爵の追っ手に居場所を悟られてしまうかもしれないという恐怖があったからだ。
ギルベルトは店の営業中、奥の書架の影にある古い肘掛け椅子に深く腰を下ろしていた。
手には分厚い歴史書を開いているが、その視線が文字を追っていないことは明らかだった。
彼は本を読んでいるふりをしながら、常に店の入り口と窓の外に意識を向け、周囲の気配を鋭く探り続けていた。
その警戒の仕方は、狩りの機会を待つ猛禽類のように静かで隙がなかった。
午前中、数人の常連客が店を訪れて本を探していったが、ギルベルトの存在に気づく者は誰もいなかった。
彼は気配を完全に消し去る術を心得ているらしく、息遣いさえも周囲の空気に溶け込ませていた。
ルカは客の対応をしながらも、時折ちらりとギルベルトの方へ視線を送ってしまった。
彼がなぜ自分を守るのか。
報酬も求めず、ただここにいるだけでいいと言う彼の真意がわからなかった。
だが、彼が放つ雨上がりの森のような香りが、不思議とルカの心を落ち着かせてくれるのも事実だった。
***
午後になり、客足が途絶えた店内に静かな時間が訪れた。
ルカはカウンターに座り、買い取った古書の汚れを柔らかい布で丁寧に拭き取っていた。
その時、ルカは自分の身体に再び不快な熱が帯び始めていることに気がついた。
昨夜飲んだ薬の効果が完全に切れかかっているのだ。
指先がわずかに震え、呼吸が浅くなる。
皮膚の表面から、あの熟しきった花のような甘い香りが、じわじわと空気中に漏れ出し始めていた。
『どうしよう。薬はもう、残っていないのに』
ルカは額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、焦りに唇を噛んだ。
自分がオメガであることを、ギルベルトはすでに知っているはずだ。
だが、オメガのフェロモンはアルファの理性を狂わせるほどの強い力を持つ。
もしこのまま香りが強くなっていけば、いくら彼が理性的な男であっても、本能の衝動を抑えきれなくなるかもしれない。
恐怖と羞恥で顔が熱くなり、ルカは布を握りしめたまま動けなくなってしまった。
その時、静寂の中でかすかに衣擦れの音が響いた。
書架の影に座っていたギルベルトが、本を閉じて立ち上がったのだ。
ルカの肩がびくっと大きく跳ねる。
ギルベルトの真っすぐな視線が、ルカの方を捉えていた。
彼の鼻先が微かに動き、空気中に漂う甘い香りを敏感に感じ取っているのがわかった。
ルカは息を呑み、思わず後ずさろうとして椅子から立ち上がった。
「来ないで……」
掠れた声が口から零れ落ちる。
しかし、ギルベルトはルカの方へは向かってこなかった。
彼はゆっくりとした歩調で店の入り口の方へ歩いていくと、木枠の窓に手をかけ、重いガラス戸を静かに外側へと押し開けた。
冷たく澄んだ秋の風が、一気に店内へと流れ込んでくる。
風はルカの体から漂う甘い香りを掬い上げ、店の外へと素早く散らしていった。
古書の埃っぽい匂いと混ざり合いながら、香りは薄まり、やがて気にならないほどにまで消え去った。
ギルベルトは窓を開けたまま、背中を向けて外の通りを見つめている。
彼は何も言わなかった。
ルカの身体の変化についても、その香りがもたらす意味についても、一切口に出すことはなかった。
ただ、不快な熱に浮かされるルカのために、静かに風の通り道を作ってくれただけだった。
その無言の気遣いに、ルカの張り詰めていた心が音を立てて解けていくのを感じた。
オメガとしての自分を蔑むこともなく、また欲望の対象として見ることもなく、ただ一人の人間として守ろうとしてくれる。
その不器用な優しさに触れ、ルカの胸の奥底に、彼に対するかすかな信頼の芽が静かに息吹いていた。
窓から吹き込む風は冷たかったが、ルカの心の中には、今まで感じたことのない小さな温もりが灯り始めていた。




