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最強暗殺者に拾われた没落オメガの古書店主。絶望の夜から一転、狂信的な溺愛と絶対の盾で守られ極上の番となる  作者: 水凪しおん


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第2話「黒衣の暗殺者」

 私兵の男たちは、突如として現れた黒衣の男の存在に全く気がついていなかった。

 息をする音さえ消し去るような圧倒的な静けさと、そこに在るだけで周囲の酸素を奪い取るような濃密な殺気。

 ルカの腕を掴んでいた男が、首筋に当てられた冷たい鋼の感触に気づき、ぎょっとして息を呑んだ。

 わずかでも動けば、その鋭利な刃が喉笛を容易に切り裂くであろうことは誰の目にも明らかだった。


「な、なんだお前は……」


 顎髭の男が腰の剣に手をかけながら、震える声で怒鳴りつけた。


 しかし、黒衣の男は一切の言葉を発しない。

 深く被ったフードの奥から覗く、氷のように冷たく鋭い瞳だけが、無機質に私兵たちを見据えている。

 次の瞬間、黒衣の男の手が目にも止まらぬ速さで動いた。

 ルカを掴んでいた男の手首を刃の峰で激しく打ち据え、同時にその膝裏を深く蹴り上げる。


「ぐあっ」


 男は短い悲鳴を上げてルカの手を離し、崩れ落ちるように床に這いつくばった。

 解放されたルカは、ふらつく足取りで壁際へと後ずさり、荒い呼吸を繰り返しながら目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。

 顎髭の男と残るもう一人の私兵が、激昂して剣を抜き放ち、黒衣の男に向かって斬りかかる。

 狭い店内だというのに、男たちは本棚を傷つけることも厭わず大振りに剣を振り回した。

 ルカが思わず目を閉じた瞬間、金属同士が激しくぶつかり合う甲高い音が店内に響き渡った。

 薄目を開けると、黒衣の男は軽やかな身のこなしで私兵たちの剣筋を完全に見切り、いとも簡単に刃をすり抜けていた。

 彼は相手を殺すことはせず、手にした短剣の柄や自身の肘、膝を正確に急所へと叩き込んでいく。

 無駄な動きは一切なく、まるで流れる水のように滑らかで、そして残酷なまでに精密な体術だった。

 鳩尾に重い一撃を食らった顎髭の男が、白目を剥いて床に倒れ伏す。

 残る一人も、横腹を強打されて呼吸を奪われ、床の上で苦悶の表情を浮かべてうずくまった。

 ほんの数十秒の出来事だった。

 先ほどまでルカを絶望のどん底に突き落としていた屈強な男たちが、今はただの動けない肉の塊となって床に転がっている。

 黒衣の男は短剣に付着した汚れを素早く払い落とし、音もなく鞘に収めた。

 荒れた呼吸一つ漏らさず、彼は床に倒れる男たちを一瞥すると、冷ややかな視線を入り口に向けた。

 這いつくばっていた男たちが、這うようにして開け放たれた扉から雨の降る外へと逃げ出していく。

 彼らが暗闇の向こうへと消え去ると、店内には再び雨の音だけが戻ってきた。

 破られた扉から冷たい風が吹き込み、ランプの炎を激しく揺らしている。

 ルカは床にへたり込んだまま、壁を背にして全身を小刻みに震わせていた。

 助かったという安堵よりも、目の前の黒衣の男が放つ圧倒的な存在感に対する畏怖が勝っていた。

 男がゆっくりと振り返り、ルカの方へと歩み寄ってくる。

 その歩みにはやはり足音がなく、まるで幽霊のようだった。

 彼が近づくにつれて、ルカの鼻腔に強烈な香りが流れ込んできた。

 雨上がりの深い森の奥底を思わせる、清冽で、ひんやりとしていて、それでいて胸の奥を強く締め付けるような香り。

 アルファのフェロモンだ。

 それも、ただのアルファではない。

 極めて純度が高く、ルカのようなオメガの防衛本能を根底から揺さぶるような、圧倒的な力を持った香りだった。

 ルカは息を止め、両手でぎゅっと自分の肩を抱きしめた。

 この男もまた、自分をオメガとして狙っているのではないか。

 恐怖で声が出ないルカの前に、黒衣の男が静かに立ち止まる。


『殺される……あるいは、奪われる』


 ルカがきつく目を閉じた時、男は片膝を突いてルカと同じ目線にまで視線を下げた。

 そして、フードをゆっくりと背後に脱ぎ去った。

 現れたのは、整った顔立ちの中に深い影を宿した、鋭い眼差しを持つ男だった。

 前髪の隙間から覗く灰色の瞳は、冷酷な暗殺者のそれでありながら、不思議と静かで澄み切っていた。

 男はルカに触れようとはせず、一定の距離を保ったまま、低い声で短く告げた。


「怪我はないか」


 その声は、耳の奥に心地よく響く、深く落ち着いた音色だった。

 ルカは驚いて目を開け、男の顔を恐る恐る見つめた。

 彼の目には、私兵たちが浮かべていたような下品な欲望や、オメガを蔑むような色は微塵も存在しなかった。

 ただ純粋に、ルカの安否を確認しているだけの、真っすぐな視線だった。

 ルカは言葉を失ったまま、小さく首を横に振った。


「そうか」


 男は静かに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、壊れた扉の方へと歩いていき、床に散らばった木片を無言で拾い集め始めた。

 その背中を見つめながら、ルカはようやく乾いた唇を開いた。


「あなたは……誰ですか。どうして、私を」


 ルカの震える声が店内に響く。


 男は木片を拾う手を止めずに、背中を向けたまま短く答えた。


「ギルベルトだ」


 それだけを言うと、ギルベルトは再び作業に戻った。

 暗殺者という言葉が似合うその恐ろしい出で立ちとは裏腹に、彼が木の板を拾い集める手つきは、どこか不器用で慎重だった。

 ルカは壁伝いにゆっくりと立ち上がり、乱れた衣服を整えた。

 オメガの甘い香りはまだルカの体から漏れ出しているはずなのに、ギルベルトはそれに気づかないふりをしているのか、全く気にする素振りを見せなかった。


「その……助けていただいて、ありがとうございます」


 ルカが深く頭を下げると、ギルベルトは振り返り、灰色の瞳でルカを見つめた。


「礼には及ばない。今日から俺が、お前の護衛になる」


 突然の宣言に、ルカは目を丸くして彼を見返した。

 護衛。そんなものを雇う金など、この寂れた古書店には一銭もない。

 ルカが戸惑いの表情を浮かべると、ギルベルトはその心を読んだかのように言葉を続けた。


「報酬は不要だ。ここにいさせてくれるだけでいい」


 それ以上は何も語ろうとせず、ギルベルトは壊れた扉の枠に木の板を当てはめ、雨風をしのぐための応急処置を黙々と進めていった。

 ルカは呆然とその姿を見つめることしかできなかった。

 なぜ彼が自分を守ろうとするのか、全く見当もつかない。

 しかし、彼から漂う雨上がりの森のような香りは、ルカの恐怖で縮み上がっていた心を、少しずつ穏やかに解きほぐしていくような不思議な温かさを持っていた。

 外の雨は一向に止む気配を見せず、冷たい風が時折隙間から吹き込んでくる。

 だが、店内に立ち込めていた死の恐怖はすでに消え去り、奇妙な静寂と、名前も知らない男の大きな背中だけがそこにあった。

 ルカはカウンターの奥に腰を下ろし、毛布を引き寄せて肩から被った。

 ギルベルトは扉の修理を終えると、店の一角にある暗がりへと身を沈め、まるで彫像のように動かなくなった。

 言葉を交わすこともなく、二人はただ雨の音だけを聞きながら、長い夜が明けるのを静かに待ち続けた。

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