第1話「雨の夜の訪問者」
登場人物紹介
◆ルカ
帝都の裏通りでひっそりと古書店を営む二十二歳の青年。没落貴族の末裔であり、希少な男性オメガであることを隠して生きている。特注の薬でフェロモンを抑えているが、最近はその効果が薄れつつある。本を愛し、平穏な日常だけを望んでいる。
◆ギルベルト
全身に黒衣をまとった凄腕の暗殺者。屈強な体躯と鋭い眼差しを持つアルファ。過去にルカの父親に命を救われた恩義から、ひそかにルカを見守り続けてきた。無口で感情をあまり表に出さないが、その不器用な行動には深い優しさが滲んでいる。
◆バルドウィン伯爵
帝都で強い権力を持つ貴族。希少なオメガを収集するという悪趣味な欲望を持ち、手段を選ばない冷酷な男。ルカの存在に目をつけ、私兵団を使って執拗に彼を狙う。
帝都の空を分厚く覆う灰色の雲は、もう三日も途切れることなく冷たい雨を降らせていた。
無数の雨粒が黒い石畳を打ち据え、低い濁音を立てて路地の奥へと流れていく。
分厚いガラス窓を伝い落ちる水滴の向こう側で、街灯の薄暗い光がぼんやりと黄色く滲んでいた。
ルカは店の奥にある木製のカウンターに身を預け、冷え切った指先を組んで静かに息を吐き出した。
『いつまで降り続くのだろう』
心の中でつぶやきながら、視線を店内へとゆっくり巡らせる。
天井まで届く木張りの書架には、無数の古書が隙間なく詰め込まれていた。
すり切れた革表紙、日焼けして変色した布装丁、金箔の文字が剥がれかけた背表紙。
古い紙とインクが発する独特の匂いが、湿気を帯びた空気と混ざり合って店内を満たしている。
ルカにとって、この匂いは何よりも心を落ち着かせてくれるものだった。
カウンターの上に置かれた真鍮のランプが、オレンジ色の炎を小さく揺らしている。
その温かな光だけが、薄暗く冷え切ったこの空間で唯一の救いのように思えた。
ルカは両手で自身の細い二の腕を抱え込み、小さく身震いをした。
季節外れの寒さのせいだけではない。
体の芯からじんわりと湧き上がってくるような、不快な熱が皮膚の下を這い回っている。
胸の奥で心臓が不規則に早鐘を打ち、呼吸をするたびに肺が重くきしむような感覚があった。
ルカは引き出しから小さなガラスの小瓶を取り出し、コルクの栓を震える指で引き抜いた。
中には濁った緑色の液体が、ほんのわずかだけ残っている。
裏路地の怪しげな薬師から大金を払って手に入れた、オメガのフェロモンを抑え込むための特注の薬だった。
瓶の縁に唇を押し当て、顔を上に向けて最後の一滴まで喉の奥に流し込む。
舌を刺すような強烈な苦みと、泥水を煮詰めたような泥臭い味が口いっぱいに広がった。
思わず顔をしかめ、ルカは口元を手の甲で強く拭った。
薬を飲んでも、体内の奥底から滲み出してくる微かな甘い香りは完全に消えてはくれなかった。
熟しきった白い花のような、あるいは雨に濡れた果実のような、ひどく甘ったるい匂い。
自分が希少な男性オメガであるという、呪いのような証だった。
この帝都において、男性のオメガは極めて数が少なく、裏社会や一部の歪んだ権力者たちの間では高値で取引される標的となっている。
もし自分がオメガだと知られれば、このささやかで平穏な古書店の日常は一瞬にして崩れ去ってしまう。
だからこそ、ルカは没落貴族の末裔という身分すら隠し、目立たないように息を潜めて生きてきた。
だが、ここ数日は薬の効果が明らかに薄れてきている。
年齢とともに身体が変化しているのか、それとも粗悪な材料が混ざっていたのかはわからない。
不安と恐怖が冷たい泥のように胃の底に溜まり、ルカは深くため息をついた。
夜もすっかり更け、外の通りからは馬車の車輪の音も人々の話し声も完全に消え失せている。
聞こえるのは、ただ単調に降り続く雨の音だけだった。
店じまいの準備をしようと、ルカがランプのつまみに手を伸ばしたその時だった。
***
ドン、と重い音が店の入り口から響いた。
ルカの肩が大きく跳ね上がり、ランプに伸ばしていた手が宙で止まる。
雨音を切り裂くような、乱暴で無遠慮な音だった。
風のいたずらかとも思ったが、すぐに二度、三度と連続して木の扉が打ち鳴らされる。
誰かが外から力任せに扉を叩いているのだ。
営業時間はとうに過ぎているし、こんな嵐のような夜更けに客が来るはずもない。
心臓が警鐘を鳴らすように激しく鼓動を始め、手足の先から急速に血の気が引いていくのがわかった。
「開けろ。中にいるのはわかっているんだ」
雨音に混じって、低く野太い男の声が響いた。
その声には、有無を言わさぬ威圧感と、獲物を追い詰めた狩人のような残忍な響きが含まれていた。
ルカは息を呑み、足音を立てないようにゆっくりと後ずさりをした。
扉の鍵はしっかりとかけてある。
しかし、古い木製の扉と錆びついた真鍮の鍵穴では、力自慢の男が本気を出せばすぐに破られてしまうだろう。
「返事がないなら、こちらから入らせてもらうぞ」
直後、すさまじい破砕音とともに、分厚い木の扉が内側に向かって弾け飛んだ。
蝶番が悲鳴を上げて引きちぎられ、木片が床の石畳に散らばる。
外の冷たい雨風が一気に店内へと吹き込み、数冊の古書が床に叩き落とされた。
ランプの炎が激しく揺らぎ、ルカの恐怖に引きつった影を壁に大きく映し出す。
踏み込んできたのは、黒い革の外套を羽織った三人の大柄な男たちだった。
靴の裏についた泥で床を汚しながら、遠慮なく土足で店内に上がり込んでくる。
彼らの胸元には、銀色の糸で刺繍された鳥の紋章が鈍く光っていた。
バルドウィン伯爵の私兵団だ。
帝都でも有数の権力と財力を持ち、そして希少なオメガをコレクションするという悪趣味な噂が絶えない冷酷な貴族。
その手先が、なぜこんな路地裏の古書店に現れたのか。
疑問を抱くよりも先に、本能的な恐怖がルカの身体を支配した。
先頭に立つ顎髭を生やした男が、ランプの光に照らされたルカの顔を見て下品に唇を歪めた。
「お前がこの店の主だな。悪いが、少し同行してもらうぜ」
男の言葉には、拒否権など一切存在しなかった。
ルカは喉の奥がカラカラに乾き、声が出ない。
必死に後ずさろうとするが、背中はすでに硬い木製のカウンターにぶつかっていた。
男がゆっくりと近づいてくる。
濡れた革の匂いと、泥の匂い、そして汗の饐えた匂いが混ざり合ってルカの鼻を突いた。
「抵抗するなよ。俺たちも手荒な真似はしたくないんでね」
そう言いながら、男は太い腕を伸ばしてルカの肩を掴もうとした。
ルカはとっさに身をよじり、男の腕をすり抜けてカウンターの横へと逃げ出そうとした。
しかし、背後に回り込んでいた別の男に腕を乱暴に掴み上げられ、無理やり引き戻される。
「痛っ……」
思わず短い悲鳴が口から漏れた。
手首を握る男の力は圧倒的で、骨が軋むほどの痛みが走る。
恐怖と痛みで息が詰まり、ルカの体から隠しきれなくなっていたオメガの甘い香りが、ふわりと色濃く空気に溶け出した。
その香りを嗅ぎつけた男たちが、ハッとして動きを止める。
「おい、こいつ……マジでオメガじゃねえか」
顎髭の男が、信じられないものを見るように目を丸くした。
そして次の瞬間、その目はギラギラとした欲望の色に染まった。
「伯爵様がお喜びになるぞ。こんな上玉が、こんな路地裏に隠れていたとはな」
男の荒い鼻息がルカの顔にかかり、胃の底から強い吐き気がせり上がってきた。
絶望が黒い波のように押し寄せ、ルカの視界が涙で滲む。
逃げ道はない。
誰にも助けを呼ぶことはできない。
このまま捕らえられ、あの恐ろしい伯爵の慰み者にされる運命なのだと、ルカはきつく目を閉じた。
だが、その男の手がルカの頬に触れようとした瞬間だった。
店内の奥深く、ランプの光が届かない真っ暗な書架の隙間から、まるで夜の闇そのものが抜け出してきたかのように、一つの黒い影が音もなく滑り出た。
足音も、衣擦れの音すら一切なかった。
気づいた時には、黒衣に身を包んだ長身の男が、ルカを掴んでいた私兵の背後にピタリと立っていた。
銀色に煌めく冷たい刃が、男の首筋に音もなく添えられる。
その瞬間、店内の空気が一気に凍りついたように冷たくなった。




