第10話「死線の底へ」
バルドウィン伯爵の屋敷の裏手、地下牢へと続く石造りの建物の入り口には、松明の赤い光がぼんやりと揺れていた。
雪は依然として音もなく降り続き、ルカの肩や髪を白く染め上げている。
冷気は容赦なく体温を奪っていくはずだったが、ルカの体内で荒れ狂うヒートの熱は、外気の冷たささえも鈍い痛みに変えてしまうほど強烈だった。
膝が震え、関節という関節がひどく重く、呼吸をするたびに肺が焼け焦げるような感覚に襲われる。
そのたびに、ルカは自身の唇を強く噛み、血の味で無理やり意識を明瞭に保ち続けた。
『しっかりしろ……ここまで来て、倒れるわけにはいかない』
ルカは壁の暗がりに身を潜めたまま、入り口に立つ一人の見張り兵をじっと観察した。
男は退屈そうに槍を壁に立てかけ、寒さをしのぐために両手を擦り合わせている。
先ほど馬車で到着した御者たちが地下へと降りていったきり、周囲に他の兵の気配はない。
ルカの武器は、ギルベルトが落とした予備の短いナイフ一本のみ。
剣術の心得などなく、ましてや武装した兵士と正面からやり合える体力など微塵も残っていない。
力でねじ伏せることは不可能だ。
だとしたら、どうすればいいか。
ルカは懐に手を入れ、ナイフの柄を握りしめた。
そして、自分自身の体から強烈に漏れ出し続けている、オメガの甘い香りに意識を向けた。
普段であれば、絶対に隠し通さなければならない忌まわしい呪い。
しかし今、この圧倒的に不利な状況下において、この香りだけが唯一の武器になり得るかもしれない。
ルカは深く息を吸い込み、外套の襟をわずかに開いて、熱を持った首筋を外の空気へと晒した。
冷たい風が、ルカの体温で温められた熟した花のような香りを掬い上げ、見張り兵の方へと運んでいく。
数秒後、両手を擦り合わせていた男の動きがピタリと止まった。
男は鼻をヒクつかせ、獲物の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、周囲をキョロキョロと見回し始めた。
「……なんだ、この匂いは。どこから……」
男の独り言が、雪に吸い込まれるように小さく響く。
その声には、明らかな戸惑いと、本能から来る抑えきれない欲情の色が混じっていた。
ルカは壁の陰から、わざと足音を立てて一歩だけ雪の上に踏み出した。
サクッ、という微かな音が静寂を破る。
「誰だ! そこにいるのは!」
見張り兵が槍を構え直し、松明の光が届くギリギリの暗がりへと鋭い視線を向けた。
ルカはフードを深く被ったまま、よろめくような足取りで男の視界の端を横切り、建物の側面のさらに深い影へと身を隠した。
男の目に映ったのは、小柄で華奢なシルエットと、そこから漂う強烈なオメガの香りだけだ。
「まさか……逃げ出したのか?」
男は仲間を呼ぶことも忘れ、槍を片手に持ったまま、ルカが消えた暗がりへと吸い寄せられるように歩みを進めてきた。
オメガのフェロモンがもたらす理性の麻痺が、彼の警戒心を完全に奪い去っていた。
ルカは壁に背中をぴったりと押し付け、ナイフを逆手に構えて息を殺した。
男の重い足音が、雪を踏みしめながら徐々に近づいてくる。
三歩、二歩、一歩。
男が角を曲がり、ルカの隠れている影へと無防備に踏み込んできたその瞬間だった。
ルカは残されたすべての力を両足に込め、壁を蹴って男の懐へと飛び込んだ。
男が驚いて目を見開いたが、声を発するよりも早く、ルカはナイフの柄の底で男の顎の先端を正確に、そして渾身の力で下から突き上げた。
ゴッ、という骨が響く鈍い音が鳴る。
ギルベルトが古書店で襲撃者を無力化した時の動きを、ルカの脳裏に焼き付いていた記憶を頼りに模倣した一撃だった。
男は短い呻き声を上げ、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
雪の上に倒れた男はピクリとも動かない。
完全な脳震盪だ。
「はぁ……はぁ……っ」
ルカはナイフを取り落としそうになるのを必死に堪え、膝をついて荒い呼吸を繰り返した。
心臓が破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされ、冷や汗が背中を伝い落ちる。
人を傷つけることなど、これまでの人生で一度たりとも経験したことがなかった。
指先が小刻みに震え、胃の底からせり上がる吐き気を飲み込む。
だが、ここで立ち止まっている暇はない。
ルカは男の腰から大きな鉄の鍵束を外し、入り口の重い木の扉へと向かった。
蝶番の軋む音を最小限に抑えながら扉を押し開けると、カビと鉄錆、そして微かな血の匂いが混じった淀んだ空気が、ルカの顔を撫でた。
松明の光が壁に沿って等間隔に灯され、地下へと続く長い螺旋階段を不気味に照らし出している。
ルカは音を立てないように、震える足で一段ずつ階段を下りていった。
下へ行けば行くほど空気は冷たく、そして重くなっていき、ルカの体内のヒートの熱との落差が激しさを増す。
『ギルベルト……お願いだから、無事でいて』
螺旋階段を下りきった先には、太い鉄格子で仕切られた空間がいくつも並ぶ、広大な地下牢が広がっていた。
ほとんどの牢は空だったが、一番奥の、ひときわ重厚な鉄格子が嵌められた牢の前に、二人の私兵が立っているのが見えた。
そして、その牢の中から、低く掠れた男の呻き声と、肉を打つ鈍い音が微かに聞こえてきた。
ルカの心臓が、恐怖でぎゅっと収縮した。
あの声は、間違いない。
ルカは壁の陰に張り付き、牢の様子を伺った。
鉄格子の向こう側、天井から吊るされた太い鎖に両手首を縛り付けられ、半ば宙吊りの状態にされている黒衣の男。
ギルベルトだった。
彼の黒いシャツは無残に引き裂かれ、むき出しになった背中や胸には、真新しい鞭の跡と切り傷が無数に刻まれている。
床には黒褐色の血溜まりが広がり、彼の息の根がいつ止まってもおかしくないほどの凄惨な光景だった。
その前に立っているのは、豪奢な毛皮のコートを羽織った初老の男。
バルドウィン伯爵だ。
彼は血塗れの革鞭を手に持ち、嗜虐的な笑みを浮かべてギルベルトを見下ろしていた。
「さあ、吐け。あの希少なオメガはどこへ隠した? お前のような薄汚い暗殺者が庇う義理などないだろうに」
伯爵の冷酷な声が、地下牢に反響する。
ギルベルトは顔を上げず、乱れた前髪の隙間から床を見つめたまま、血の混じった唾を伯爵の足元に吐き捨てた。
「……誰が、お前のような……豚に……」
掠れきった声だったが、そこには一切の屈服の意志はなかった。
伯爵の顔が怒りで赤黒く染まり、彼は革鞭を大きく振りかぶってギルベルトの傷だらけの胴体を容赦なく打ち据えた。
パァン、という乾いた破裂音とともに、ギルベルトの体が鎖ごと大きく揺れる。
彼は歯を食いしばり、声帯から悲鳴が漏れるのを必死に堪えていたが、その反動で右太ももの深い傷から再び鮮血が噴き出した。
ルカの視界が、怒りと絶望で真っ赤に染まった。
自分が逃げ延びるために、彼がこんな目にあっている。
オメガの香りを放って見張りをおびき寄せた時のような冷静さは、もはやルカの頭の中から完全に消え去っていた。
『許さない……絶対に、許さない!』
ルカはナイフを握り直し、壁の陰から飛び出そうとした。
しかし、その瞬間、ギルベルトが不意に顔を上げ、鉄格子の向こう側からルカが潜んでいる暗がりへと、真っ直ぐに視線を向けた。
血と汗に塗れた灰色の瞳が、ルカの存在を正確に捉えている。
彼は驚いたようにわずかに目を見開き、そしてすぐに、微かな首の動きで「来るな」と制止の合図を送ってきた。
ルカの足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まる。
「どうした? ついに幻覚でも見え始めたか?」
伯爵が嘲笑いながら、再び鞭を振り上げようとした。
ルカは唇から血が滲むほど噛み締め、呼吸を止めた。
ギルベルトが求めているのは、ルカの無謀な突撃ではない。
彼を確実に救い出すための、一瞬の隙だ。
ルカはナイフを握る手に力を込め、冷たい石の壁に背中を押し当てながら、その「一瞬」を待つために自身のヒートの波を極限まで押し殺した。




