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最強暗殺者に拾われた没落オメガの古書店主。絶望の夜から一転、狂信的な溺愛と絶対の盾で守られ極上の番となる  作者: 水凪しおん


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第11話「暗闇の反逆」

 地下牢の空気は、血の匂いと湿ったカビの臭気が混ざり合い、息をするだけで肺が重く沈むようだった。

 バルドウィン伯爵の振り上げた革鞭が、再びギルベルトの傷だらけの背中を無慈悲に打ち据える。

 乾いた破裂音が石壁に反響し、ルカの心臓をそのたびに鋭くえぐり取った。

 ギルベルトの体は鎖に吊るされたまま力なく揺れ、もはや抵抗する気力すら残っていないように見えた。

 だが、彼の灰色の瞳だけは、暗闇の奥で確かにルカの存在を捉え、静かな警告の光を放ち続けていた。

 ルカは壁の陰に身を潜め、震える手でナイフの柄を強く握りしめた。

 ヒートの熱は容赦なく下腹部から全身へと這い上がり、ルカの理性を焼き尽くそうと猛威を振るっている。

 全身の関節が軋み、視界は不規則に明滅していた。

 だが、ここで倒れるわけにはいかない。

 彼がルカに送った「来るな」という視線は、決して諦めから来るものではない。

 暗殺者として幾多の死線を潜り抜けてきた男が、一瞬の逆転の機会を狙っている証拠だった。

 ルカはその意図を汲み取り、自身の存在をオメガのフェロモンという劇薬に変えて解き放つ覚悟を決めた。


「もういい。こいつは使い物にならん。夜が明けたら、広場で首を刎ねろ」


 伯爵が苛立たしげに鞭を床に放り投げ、毛皮のコートの襟を正しながら吐き捨てた。

 牢の前に立っていた二人の私兵が、短く「はっ」と返事をする。

 伯爵が牢に背を向け、出口へと続く通路の方へ歩き出そうとしたその瞬間だった。

 ルカは外套の襟を大きく引き下げ、ヒートによって最高潮に達したオメガの香りを、淀んだ地下の空気中に一気に解放した。

 熟しきった花と、雨に濡れた果実を煮詰めたような、強烈で抗いがたい甘い匂い。

 それは、閉ざされた地下牢という空間において、瞬く間に高濃度の毒ガスのように充満していった。

 アルファやベータの理性を根底から狂わせ、生存本能よりも先に性的な衝動を呼び覚ます呪いの香り。

 伯爵の足がピタリと止まり、二人の私兵も同時に顔を上げた。


「……なんだ、この匂いは」


 伯爵の鼻がヒクヒクと動き、その顔に浮かんでいた冷酷な表情が、みるみるうちに醜い欲望の色へと塗り替えられていく。

 私兵たちもまた、槍を持つ手がだらりと下がり、呼吸が荒くなり始めていた。

 彼らの視線が、匂いの源であるルカが潜む暗がりへと一斉に釘付けになる。

 ルカは壁から身を離し、フラフラとした足取りで通路の中央へと姿を現した。

 外套のフードが後ろに滑り落ち、汗で額に張り付いた金糸の髪と、熱に浮かされた瞳が松明の光に照らし出される。


「お前は……! あの古書店の……!」


 伯爵の声が、驚愕と歓喜でひっくり返った。

 自ら探していた希少なオメガが、まさか自分の足元から転がり込んでくるとは思いもしなかったのだろう。

 彼は血塗れの暗殺者のことなど完全に忘れ去り、よだれを垂らさんばかりの顔でルカへとよろよろと歩み寄ってきた。

 私兵たちも、主人の命令を待たずにルカの方へと吸い寄せられていく。

 彼らの意識は、完全にルカというただ一つの標的に固定された。

 それが、ギルベルトが求めていた「一瞬の隙」だった。


 ルカから強烈なフェロモンが放たれた瞬間、鎖に吊るされていたギルベルトの体から、それまで抑え込んでいたアルファの圧倒的な覇気が爆発的に立ち昇った。

 雨上がりの深い森の香りが、地下牢の血の匂いとカビの臭気を一瞬で駆逐し、冷たい刃のような威圧感となって空間を支配する。

 ギルベルトは縛られていた両手首の関節を自ら外し、超人的な柔軟性と腕力で鎖の拘束を強引に引きちぎった。

 金属の輪が弾け飛ぶ甲高い音が鳴り響いた時には、彼はすでに床に音もなく着地していた。


「なっ……!?」


 伯爵が背後の異音に気づいて振り返ろうとしたが、遅すぎた。

 ギルベルトは外れた手首の関節を瞬時にはめ直すと、床に落ちていた私兵の剣を足の甲で跳ね上げ、空中で見事に掴み取った。

 二人の私兵の背後に、黒い死神のような速度で接近する。

 剣の柄頭で一人目の後頭部を正確に打ち抜き、倒れ込むその体を盾にして、振り返った二人目の顎を膝蹴りでカチ上げた。

 一瞬の躊躇もない、精密機械のような制圧劇。

 二人の私兵は悲鳴を上げる間もなく、床の血溜まりの中に沈んだ。

 残るは、恐怖で腰を抜かし、尻餅をついたバルドウィン伯爵ただ一人。

 ギルベルトは剣の切っ先を伯爵の喉仏に突きつけ、氷のように冷たい視線で見下ろした。


「命乞いをするなら、聞いてやってもいいぞ」


 掠れた、しかし地獄の底から響くような声だった。

 伯爵は顔面を蒼白にし、唇をガチガチと震わせて後ずさりしようとするが、背中はすでに冷たい石壁にぶつかっていた。


「ま、待て……! 金ならいくらでも出す! そのオメガもくれてやる! だから命だけは……!」

「お前の薄汚い金などいらん。そして、彼は最初からお前のものなどではない」


 ギルベルトは剣の腹で伯爵の側頭部を容赦なく打ち据え、完全に意識を刈り取った。

 伯爵の巨体が崩れ落ち、地下牢には再び静寂が戻った。

 ギルベルトは剣を放り捨て、荒い息を吐きながらルカの方へと振り返った。

 ルカは壁に寄りかかり、ヒートの熱で立っているのもやっとの状態だった。

 ギルベルトが無事だったという安堵感と、限界を超えた体の負担が一気に押し寄せ、ルカの膝の力が完全に抜けた。


「ルカ……!」


 ルカの体が床に崩れ落ちる寸前、ギルベルトが血まみれの腕でルカの体をしっかりと抱き止めた。

 彼の体温と、雨上がりの森の香りがルカを包み込む。

 ルカは彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「バカな真似を……俺が逃げろと言ったはずだ」


 ギルベルトの声は呆れたようだったが、その腕はルカの背中を壊れ物を扱うように優しく撫でていた。

 ルカは涙と鼻水で彼の胸元を汚しながら、震える手で彼の背中に回した。

 そこにある無数の生々しい傷跡に触れ、さらに激しく涙が溢れ出す。


「だって……あなたが、死んじゃうと思ったから……置いていけるわけ、ないじゃないか……!」


 ギルベルトは少しだけ目を伏せ、ルカの熱を持った頬に自身の手のひらを添えた。

 彼の指先は冷たく、そして酷く震えていた。

 彼もまた、ルカを失う恐怖と戦っていたのだ。


「……すまない。お前に、こんな恐ろしい思いをさせて」


 二人は血とカビの匂いが漂う地下牢の中で、互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合った。

 ヒートの熱はまだルカの体を苛んでいたが、彼がそばにいてくれるという絶対的な安心感が、その熱を少しずつ穏やかなものへと変えていくのを感じていた。

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