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最強暗殺者に拾われた没落オメガの古書店主。絶望の夜から一転、狂信的な溺愛と絶対の盾で守られ極上の番となる  作者: 水凪しおん


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番外編「陽だまりの古書店」

 長く厳しかった冬がようやく終わりを告げ、帝都の街路樹には淡い緑色の若葉が一斉に芽吹き始めていた。

 冷たい雪解け水は運河を勢いよく流れ下り、石畳の通りには春の暖かな日差しがたっぷりと降り注いでいる。

 帝都の中心から少し外れた、穏やかな職人街の一角。

 日当たりの良いレンガ造りの建物の1階に、新しく作られた小さな木製の看板が風に揺れていた。

 看板には、ルカの亡き父がかつて使っていた店の名前が、不器用ながらも力強い文字で彫り込まれている。

 ガラス張りの扉を開けると、真新しい木の匂いと、古い紙が放つ独特の甘い香りが混ざり合った、心地よい空気が鼻腔をくすぐった。

 ルカはカウンターの内側で、高く積み上げられた本の中から一冊を抜き出し、羽ペンで丁寧に帳簿へと記録をつけていた。

 焼け落ちた元の店から持ち出せたものは何一つなかったが、ギルベルトがこれまでに暗殺の仕事で蓄えていた莫大な資金をすべて投じて、こうして新しい古書店を構えることができたのだ。

 ルカの首元には、シャツの襟の隙間から微かに覗く、ギルベルトが残した番の印の痕があった。

 今ではもう、あの不快な特注の薬を飲む必要はない。

 ルカの体から放たれるオメガの香りは、ギルベルトのアルファの香りによって完全に覆い隠され、守られているからだ。

 誰かの目を怯えることもなく、自分自身のままで平穏に生きることができる。

 その事実が、ルカの心を春の陽光のように明るく照らしていた。


「ルカ、上の棚の修繕が終わったぞ」


 店の奥から、低く落ち着いた声が響いた。

 振り返ると、無地の白いシャツにゆったりとした黒いズボンを身につけたギルベルトが、木槌と釘を片手に持って歩いてくるのが見えた。

 かつて全身を黒衣で包み、血の匂いを漂わせていた凄腕の暗殺者の面影は、今の彼からは微塵も感じられない。

 髪は少し短く切り揃えられ、鋭かった灰色の瞳の奥には、ルカだけに向ける深い温かさと穏やかな光が宿っている。

 彼が近づいてくると、雨上がりの森の香りがふわりとルカを包み込んだ。


「ありがとう、ギルベルト。あの棚、少しグラグラしてて気になっていたんだ」

「重い本を並べるなら、もっと太い釘で固定したほうがいい。他に直すところはないか」

「うーん、今のところは大丈夫かな。少し休んだらどう? 朝からずっと力仕事ばかりしてくれているし」


 ルカが微笑みながら言うと、ギルベルトは静かに頷き、木槌をカウンターの隅に置いた。

 彼は店の奥にある小さな給湯室へと姿を消し、しばらくすると、二つのティーカップを載せたお盆を持って戻ってきた。

 カップからは、琥珀色の紅茶の湯気が立ち上り、芳醇な茶葉の香りが店内に広がっていく。

 ギルベルトが淹れる紅茶は、昔の不格好だった味とは違い、今ではルカの好みに合わせた完璧な濃さと温度になっていた。

 彼がどれほどルカのことを注意深く観察し、喜ばせようと努力しているかが、その一杯のお茶から痛いほど伝わってくる。


「いただきます」


 ルカはカップを両手で包み込むように持ち、一口すすると、体の芯からじんわりと温かさが広がっていった。

 ギルベルトはルカの隣にある丸椅子に腰を下ろし、自身のカップには口をつけず、ただルカがお茶を飲む姿を静かに見つめていた。

 その視線はどこまでも優しく、そして少しだけ過保護だった。

 ルカが少しでも咳き込んだり、重い本を持とうとしたりすれば、彼は瞬時に立ち上がって手を貸そうとする。

 あの雪の夜、ルカを一度失いかけた恐怖が、彼の中に深い傷として残っているからだということを、ルカはよくわかっていた。


「ギルベルト、そんなに見つめられると、お茶が飲みにくいんだけど……」


 ルカが少し照れくさそうに言うと、ギルベルトはハッとしたように視線を外し、カップに口をつけた。


「すまない。お前が目の前で笑っていることが、時々、現実ではないような気がしてな」

「もう。私はどこにも行かないよ。あなたのそばに、ずっといるんだから」


 ルカは羽ペンを置き、空いている手でギルベルトの大きな手をそっと握った。

 彼の手のひらにある硬いタコの感触は、ルカにとって何よりも安心できる道しるべだった。

 ギルベルトはルカの指を優しく絡め取り、その手の甲に自身の唇をそっと押し当てた。


***


 午後になると、常連客が何人か店を訪れた。

 近所の老婦人が料理の本を探しに来たり、若い学生が安価な辞書を求めてやってきたりと、店の中は穏やかな活気に包まれた。

 ギルベルトは接客こそルカに任せているものの、ルカの背後で静かに立ち、誰かがルカに無礼な態度をとらないよう、目立たないように目を光らせていた。

 その様子がまるで主君を守る騎士のようで、ルカは時折客の背後で小さく吹き出してしまうのを堪えなければならなかった。


***


 夕暮れ時、西日が店の窓ガラスをオレンジ色に染め上げる頃、客足が途絶えて再び店内に静かな時間が訪れた。

 ルカは窓辺に立ち、外の通りを行き交う人々をぼんやりと眺めていた。

 平和で、退屈で、そして何よりも愛おしい日常。

 背後から近づいてきたギルベルトが、ルカの腰に両腕を回し、広い胸にルカの背中をぴったりと引き寄せた。


「疲れたか?」

「ううん、全然。あなたが手伝ってくれるから、毎日すごく楽しいよ」


 ルカは彼の腕に自身の手を重ね、後ろに頭をもたせかけた。

 ギルベルトの体温が背中越しに伝わり、うなじの印の場所が甘く疼くのを感じる。

 彼はルカの髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「俺もだ。短剣を捨て、こうして本に囲まれた日々を過ごすことになるとは、昔の俺には想像もできなかった。お前が、俺に人間らしい生き方を教えてくれた」

「私が教えたんじゃないよ。ギルベルトの中に、最初から優しい心があったからだよ」


 二人は窓辺に立ったまま、沈みゆく夕日を静かに見つめ続けた。

 古い過去の痛みは完全に消え去ったわけではない。

 だが、互いの痛みに寄り添い、支え合うことで、その傷跡は生きるための確かな糧へと変わっていた。

 明日の朝も、同じように彼が淹れたお茶の香りで目を覚まし、共に店を開ける。

 そんな当たり前の未来が約束されていることが、二人にとっては何よりも得難い奇跡だった。

 ルカはギルベルトの腕の中でゆっくりと振り返り、彼の灰色の瞳を真っすぐに見つめ返した。

 言葉は必要なかった。

 二人の唇が静かに重なり合い、春の夕暮れの古書店に、温かく甘い時間が静かに流れていった。

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