エピローグ「永遠を綴るページ」
秋の深まりとともに、帝都の夜は冷たい風を伴って早々に訪れるようになっていた。
古書店の営業を終え、表の看板を店内にしまい込んだルカは、厚手のカーテンを引いて外の寒気を遮断した。
店内には、カウンターの脇に置かれた石炭ストーブから微かな赤い光が漏れ、木がパチパチとはぜる心地よい音が静かな空間を満たしている。
天井から吊るされた真鍮のランプが、二人の居場所だけを円形に明るく照らし出していた。
店の奥にある広めの革張りソファに、ルカとギルベルトは並んで腰を下ろしていた。
ルカは足を伸ばしてギルベルトの膝の上に頭を乗せ、彼の太ももを枕にして横になっている。
ギルベルトの手には、古びた革表紙の旅行記が握られており、彼は低い、落ち着いた声でそのページをルカに読み聞かせていた。
「『南の海は、帝都の空とは比べ物にならないほど深く澄んだ青色をしている。そこには、一年中枯れることのない白い花が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って街中を包み込んでいる……』」
彼の声は、耳の奥をくすぐるような深い響きを持っており、ルカにとってどんな音楽よりも心地よい子守唄だった。
ルカは目を閉じ、彼が描写する南の国の風景を頭の中で思い描きながら、自身の髪をゆっくりと撫でるギルベルトの手の感触を楽しんでいた。
彼の手のひらは大きく、かつては人を殺めるための道具だった硬い指先が、今では世界で一番優しくルカの髪を梳いている。
「ねえ、ギルベルト」
「なんだ?」
ルカが不意に目を開けて声をかけると、ギルベルトは朗読を止め、視線を本からルカの顔へと移した。
ランプの光に照らされた彼の灰色の瞳には、穏やかな愛情が溢れている。
「いつか、その本に書いてある南の海に、二人で行ってみたいな。一年中花が咲いているなんて、素敵だと思わない?」
ルカの言葉に、ギルベルトは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
「そうだな。お前が行きたいのなら、どこへでも連れて行く。店のことは、数週間くらい休んでも構わないだろう」
「本当? 約束だよ」
「ああ、俺はお前に嘘はつかない」
ギルベルトは本をソファの脇のサイドテーブルに置き、ルカの頬を手の甲でそっと撫でた。
ルカは彼の手のひらに顔をすり寄せ、その温もりを独り占めするように深く息を吸い込んだ。
彼から漂う雨上がりの森の香りは、ルカの心をどこまでも穏やかに鎮めてくれる。
出会ったばかりの頃の、あの張り詰めたような殺気と孤独の匂いは、今では完全に消え去っていた。
「あなたがいてくれて、本当によかった」
ルカの口から、ふわりと言葉がこぼれ落ちる。
それは、毎日のように感じていることだが、こうして静かな夜を迎えるたびに、言葉にして伝えずにはいられなくなるのだ。
ギルベルトは少しだけ表情を引き締め、ルカの瞳を真っすぐに見つめ返した。
「俺の方こそ、お前に救われた。あの雨の夜、お前の父親に命を拾われてからずっと、俺はただ恩を返すためだけに生きてきた。だが……今は違う」
ギルベルトの指先が、ルカのうなじにある番の印を優しくなぞる。
その触れ方に、ルカの体が小さく震えた。
「俺は今、俺自身の意志で、お前を愛している。お前と共に生きる未来が、俺にとってのすべてだ」
彼の不器用で真っすぐな告白に、ルカの胸の奥が熱くなり、視界が涙で滲んだ。
ルカはゆっくりと身を起こし、ギルベルトの首に両腕を回して彼を強く抱きしめた。
ギルベルトの太い腕がルカの背中を包み込み、互いの鼓動が重なり合う。
ストーブの火が静かに揺らめき、二人の大きな影が書架の並ぶ壁に映し出されていた。
古い本たちが静かに見守る中、ルカはギルベルトの首筋に顔を埋め、彼の肌に自身の唇をそっと押し当てた。
オメガとしての呪いも、血塗られた暗殺者の過去も、すべてはこの瞬間のために用意された長い序章に過ぎなかったのだと、ルカは心から信じることができた。
二人の間に言葉はもう必要なかった。
ただ、互いの体温と香りを確かめ合い、静かな夜の闇の中で深く、深く結びつき合うだけだ。
これからの人生のページには、恐怖も絶望も書き込まれることはない。
ギルベルトという絶対的な光に守られながら、ルカの綴る物語は、永遠に続く穏やかな愛情の言葉だけで埋め尽くされていくことだろう。
窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい風が吹いていたが、二人の小さな古書店の中には、決して冷めることのない確かな春の温もりが満ちあふれていた。




