第13話「夜明けの雪と二つの体温」
打ち捨てられた古い倉庫の重い鉄扉を押し開けると、長い間人の出入りがなかったことを示す埃の匂いと、ひんやりとした古い石材の冷気がルカの鼻腔を撫でた。
外の世界では、夜明けの青白い光が雪に反射して帝都の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていたが、窓板が打ち付けられた倉庫の内部は、まだ深い夜の底に取り残されたように薄暗かった。
ギルベルトはルカの肩を抱き寄せたまま、自身の重い足を引きずるようにして倉庫の奥へと進んでいく。
彼の呼吸はかすれ、一歩踏み出すごとに右の太ももからこぼれ落ちた血の滴が、乾いた石の床に黒い斑点を作り出していた。
ルカはギルベルトの腰に腕を回し、彼が倒れ込まないように必死に体を支え続けた。
自分自身の体内では、オメガとしての本能が呼び起こす強烈な熱の波が暴れ狂っているというのに、彼から伝わってくる体温は雪のように冷たく、それがルカの胸を鋭くえぐった。
部屋の隅には、彼がかつて使っていたと思われる古い木箱と、その上に無造作に畳まれた毛布が置かれていた。
ギルベルトはその木箱の脇に力なく腰を下ろし、壁に背中を預けて長く重い息を吐き出した。
「ギルベルト……傷を、見せて。早く血を止めないと」
ルカの震える声が、静まり返った倉庫の中に響く。
ギルベルトはうっすらと目を開け、血の気を失った唇の端にわずかな笑みを浮かべた。
「平気だ。これくらいの傷……昔に比べれば、どうということはない」
強がる彼の言葉を遮るように、ルカは自分が羽織っていた伯爵の毛皮のコートを床に放り投げ、ギルベルトの前にひざまずき、彼の引き裂かれた黒いシャツをそっと押し開いた。
薄暗い中でもはっきりとわかるほど、彼の体には無数の新しい傷が刻まれていた。
特に背中から脇腹にかけての鞭の痕は皮がめくれ上がり、赤黒い血が止めどなく滲み出している。
ルカは躊躇することなく、自分が着ていた薄手のシャツの裾を両手で力任せに引き裂いた。
布が裂ける鋭い音が響き、ルカは細長い布切れを作ると、それをギルベルトの一番出血のひどい右太ももの傷口にきつく巻き付けた。
「痛っ……」
ギルベルトが微かに顔をしかめ、喉の奥でくぐもった呻き声を漏らす。
「ごめんなさい、痛いですよね……でも、こうしないと血が止まらないから」
ルカの目から大粒の涙がこぼれ落ち、ギルベルトの傷だらけの肌に冷たい水滴となって落ちていく。
ルカの指先はかじかんで真っ赤になっており、恐怖とヒートの熱で小刻みに震え続けていた。
懸命に布を結び終えると、ルカは次々と自分の服を破り、ギルベルトの胴体や腕の傷口にも応急処置を施していった。
冷たい石の床にひざまずきながら、血にまみれた彼の手当てをするルカの姿は、まるで神に祈りを捧げるかのように切実だった。
すべての包帯を巻き終えた時、ルカは限界を超えた体の脱力感に襲われ、そのままギルベルトの胸元に崩れ落ちるように額を押し当てた。
その瞬間、ルカの体内でくすぶっていたヒートの熱が、一気に臨界点を突破した。
腹部の奥底から突き上げるような甘い疼きが全身の神経を駆け巡り、呼吸をするたびに熟しきった花のような強烈なフェロモンが空気中に溶け出していく。
ルカの視界は白く霞み、自身の意志とは無関係に、ギルベルトの服を握りしめる手に力がこもった。
「ルカ……」
ギルベルトの低い声が、頭上から降ってくる。
彼の手がゆっくりと持ち上がり、ルカの汗ばんだ背中を大きな手のひらで包み込んだ。
彼から放たれる雨上がりの森の香りが、ルカの甘い香りを迎え入れるように色濃く立ち昇り、冷え切った倉庫の空気を二人の匂いだけで満たしていく。
ルカは喘ぐように息を吸い込み、ギルベルトの胸元に顔を擦り付けた。
彼の肌の温度、筋肉の硬さ、そして脈打つ心臓の鼓動。
そのすべてが、オメガであるルカの本能を激しく揺さぶり、ただ一つの存在を求めるようにと脳を焼き尽くしていく。
「ギルベルト……私、もう……おかしくなりそう……熱くて、苦しいよ」
ルカの口から、甘く掠れた懇願の言葉がこぼれ落ちた。
ギルベルトはルカの肩を抱き上げ、自身の膝の上にそっと座らせた。
彼の灰色の瞳には、これまでの冷徹な暗殺者の欠片など微塵もなく、ただ目の前で熱に苦しむ青年を救いたいという、切実な深い愛情だけが満ちていた。
彼は血と泥で汚れた手で、ルカの額に張り付いた金色の髪を優しく後ろへと撫でつけた。
その手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うようにどこまでも慎重だった。
「俺が、お前を楽にする。だから……怖がらないでくれ」
ギルベルトの顔がゆっくりと近づき、彼のひんやりとした唇が、ルカの熱を持った額にそっと触れた。
その小さな接触だけで、ルカの体の中を雷のような痺れが走り抜けた。
ギルベルトは額からこめかみ、そして涙で濡れた頬へと、慰めるように何度も何度も口づけを落としていく。
そのたびに、ルカの口から小さな吐息が漏れ、彼にしがみつく腕の力が強まっていった。
やがて、二人の視線が交わり、互いの呼吸が完全に重なり合う。
ギルベルトの唇が、ルカの震える唇を優しく、しかし確かな熱を帯びて塞いだ。
ルカの背骨の奥が甘く痺れ、すべての思考が白い光の中へと溶け出していくのを感じた。
彼の舌がルカの口内を丁寧に巡り、ヒートの熱によって乾ききっていた粘膜を潤していく。
血と鉄の味がわずかに混じるその口づけは、過酷な夜を共に生き抜いた二人の、魂を削り合うような深い繋がりを証明していた。
ルカは彼にすべてを委ね、自身の体重を完全に彼の広い胸へと預けた。
ギルベルトの大きな手が、ルカの背中から腰へと滑り降り、熱を持った肌を直接撫で上げる。
彼の手のひらにある硬いタコの感触が、ルカの敏感になった神経を心地よく刺激し、苦痛だったはずの熱が、甘く切ない快感へと塗り替えられていく。
古い毛布の上に身を横たえられ、ルカはギルベルトの重みを全身で受け止めた。
彼の傷を痛めないように気を配りながらも、互いの体温を少しでも多く共有しようと、二人は隙間なく肌を密着させた。
雨上がりの森の香りと、熟した花の香りが完全に一つに溶け合い、新しい匂いを生み出している。
ギルベルトの唇がルカの首筋を這い下り、柔らかなうなじの皮膚に顔を埋めた。
アルファの本能が、運命の番としてオメガに印を刻むことを強く求めているのだ。
ルカは恐怖を感じるどころか、早く自分を彼だけのものにしてほしいという抑えきれない願いを胸に抱き、自ら首を反らせて彼の唇を迎え入れた。
「ルカ……俺の、たった一つの光だ」
ギルベルトの掠れた囁きが耳元をくすぐり、直後、うなじに鋭い痛みが走った。
彼の歯が皮膚を突き破り、深く、そして甘く噛みついたのだ。
その痛みは一瞬にして圧倒的な充足感へと変わり、ルカの魂の最も深い場所に、ギルベルトという存在が永遠に刻み込まれたことを実感させた。
孤独と恐怖に怯えていた日々は終わりを告げ、ルカの心に温かく揺るぎない平穏が満ちていく。
倉庫の隙間から差し込む朝の光が、重なり合う二人を優しく照らし出していた。
***
帝都の裏社会を支配していたバルドウィン伯爵の悪行の証拠は、数日後に治安維持隊の手によって明るみに出た。
伯爵は失脚し、二度と太陽の光を見ることのない深い牢獄へと繋がれたという。
ルカを縛っていたオメガとしての呪いは、ギルベルトという絶対的な盾と愛情を得たことで、もはや隠す必要のない、互いを結びつける証へと変わっていた。
過去の血塗られた運命を捨て去った暗殺者と、すべてを失ってから本当の愛を見つけた青年。
二つの孤独な魂は、静かに降り積もる雪のように、どこまでも純粋に一つに溶け合っていった。




