第39話:静かな日常(嵐の前)
朝は、いつも通りに訪れた。
窓から差し込む光も。
遠くで鳴く鳥の声も。
何一つ、変わらない。
「……」
けれど。
何かが、決定的に違う。
それは、すぐに分かる。
視界に——何もない。
あの表示も。
数値も。
選択肢も。
どこにも存在しない。
「……」
静かに、瞬きをする。
待ってみる。
何かが浮かぶのではないかと。
習慣のように。
だが。
何も起きない。
「……」
小さく、息を吐く。
「……本当に、消えましたのね」
呟きは、軽い。
だが。
その意味は、重い。
「……」
身支度を整える。
鏡の中の自分は、変わらない。
整えられた髪。
揺るがない姿勢。
だが——
どこか、違う。
「……」
廊下に出る。
使用人とすれ違う。
「おはようございます、お嬢様」
「ええ、おはようございます」
返す。
自然に。
だが、その直後。
わずかに、言葉に詰まる。
「……」
続きが出てこない。
以前なら。
次に何を言えばいいか。
すぐに分かった。
最適な一言が。
自然に。
だが今は——
「……失礼いたします」
使用人が、先に下がる。
「……」
取り残される。
ほんの一瞬。
それだけのこと。
だが。
胸の奥に、小さく残る。
「……」
歩き出す。
違和感を抱えたまま。
だが——
それは、消えない。
残る。
そのまま。
「……」
ふと、足を止める。
振り返る。
もう誰もいない廊下。
ただの風景。
「……」
小さく、呟く。
「……やり直せないから——覚えている」
言葉は、静かに落ちる。
だが。
確かに、意味を持つ。
「……」
かつてなら。
今のやり取りは、消えていた。
些細な違和感は、なかったことになる。
最適な会話だけが残る。
「……」
だが今は違う。
不完全なやり取りも。
言い損ねた言葉も。
全部、残る。
消えない。
「……」
それは、不便だ。
確かに。
だが——
どこか。
否定できない感覚がある。
「……」
中庭へ出る。
風が、通り抜ける。
いつもと同じ景色。
だが。
どこか、鮮明だ。
「……」
足音がする。
振り向く。
アルトがいる。
変わらない。
いつも通りの距離。
いつも通りの表情。
「……」
自然に、言葉が出る。
「そこ、通してくださる?」
「……どうぞ」
短い返答。
それだけ。
「……」
すれ違う。
それで終わるはずの会話。
だが。
なぜか、足が止まる。
「……」
振り返る。
アルトも、少しだけ足を止めている。
偶然。
ただのタイミング。
「……」
言葉が、浮かぶ。
予定にはないもの。
準備していないもの。
「……今日は、静かですのね」
「……そうですね」
間。
少しだけ、長い。
だが、不快ではない。
「……」
続かない。
続けられない。
それでも。
なぜか——
離れがたい。
「……」
ふと。
アルトが言う。
「さっき、言いかけてやめましたよね」
「……」
一瞬、固まる。
図星。
何も言い返せない。
「……」
だが。
そのまま、口を開く。
言い直せないから。
そのまま、出すしかない。
「……ええ」
「少し、言葉を選び損ねましたの」
正直に。
飾らずに。
「……」
アルトは、わずかに視線を外す。
「別に、そのままでもよかったんじゃないですか」
「……」
その一言で。
胸の奥が、揺れる。
「……」
完璧じゃなくてもいい。
整っていなくてもいい。
そのままでいい。
「……」
小さく、息を吐く。
ほんの少しだけ。
肩の力が抜ける。
「……」
気づく。
この時間。
このやり取り。
どこにも最適化されていない。
予定にもない。
意味もない。
だが——
残る。
「……」
心の中で、言葉が浮かぶ。
「これは……消えない」
確信ではない。
だが。
感覚として、分かる。
この時間は。
もう、失われない。
「……」
しばらくの沈黙。
だが、苦ではない。
むしろ——
心地よい。
「……」
やがて、アルトが歩き出す。
「では」
「ええ」
それだけで、別れる。
だが。
その後も。
感覚は、残り続ける。
「……」
視線を前に戻す。
今度は、別の方向へ。
足を進める。
「……」
廊下の先。
王子と出会う。
偶然。
ただの、タイミング。
「おはよう、レティシア」
「おはようございます、殿下」
礼をする。
自然に。
「……」
だが。
次が、出てこない。
ほんの一瞬。
沈黙が落ちる。
「……」
王子も、少しだけ言葉に迷う。
「……今日は、天気がいいね」
「ええ、とても」
ぎこちない。
完璧ではない。
どこか、噛み合っていない。
「……」
だが。
その違和感が、消えない。
残る。
そのまま。
「……」
かつてのような。
滑らかな会話ではない。
最適な距離でもない。
だが——
「……」
それでも、成立している。
人として。
会話として。
「……」
ふと、思う。
「……この人も、“結果”じゃない」
評価ではなく。
選択肢でもなく。
数値でもない。
ただの——
人。
「……」
王子が、穏やかに微笑む。
少しだけ、ぎこちなく。
だが。
確かに、自分の意思で。
「……」
その表情を、見る。
以前とは違う形で。
理解する。
「……」
世界は、変わっていない。
だが。
すべての意味が、変わっている。
「……」
一歩、踏み出す。
未来は、見えない。
だが。
進める。
自分で。
「……」
その先に、何があるかは分からない。
だが。
それでいい。
そう思える。
「……」
風が、通り抜ける。
静かに。
何も導かずに。
ただ、そこにあるだけの世界。
その中で——
物語は、続いていく。
(第39話 終)




