第30話:余波(壊れた世界の始まり)
音が、なかった。
あれほど張り詰めていた空気が、嘘のように。
庭園は、ただ静かだった。
風が戻る。
葉が揺れる。
夜が、ゆっくりと進んでいく。
「……」
立ち尽くしたまま。
動けない。
先ほどまでの出来事が、まだ体の中に残っている。
言葉。
視線。
衝突。
——そして。
消えたもの。
「……」
ゆっくりと、視界を巡らせる。
何もない。
いつもの庭園。
整えられた花々。
規則正しい配置。
だが。
“あったはずのもの”が、ない。
「……」
無意識に、目を凝らす。
探してしまう。
あの表示。
あの数値。
あの選択肢。
——何も、出ない。
「……」
息を吸う。
わずかに、重い。
何かが、決定的に欠けている。
それは便利さではなく。
もっと根本的なもの。
——指針。
「……」
足を動かす。
一歩。
踏み出す。
いつもなら。
その先は決まっていた。
誰に会うか。
何を話すか。
どの順番で進めるか。
すべて。
最適な形で。
だが——
今は違う。
「……」
足が、止まる。
次が、決まらない。
進めない。
どちらに行けばいいのか。
何をすればいいのか。
分からない。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
不安。
焦り。
そして。
空白。
初めての感覚。
今まで、一度も経験したことのない状態。
「……どうすれば、いいのですの?」
言葉が、零れる。
誰に向けたものでもない。
答えを持たない問い。
今までなら。
すぐに出ていた。
最適解が。
最善の行動が。
だが。
今は——
何もない。
「……」
ゆっくりと、呼吸を整える。
落ち着こうとする。
考えようとする。
——初めて。
“考えて動こう”としている。
今までは違った。
考える前に、答えがあった。
迷う前に、道があった。
それに従えばよかった。
それで、すべては上手くいった。
「……」
だが。
もう、それはない。
選択肢も。
数値も。
保証も。
何も。
「……」
視線を上げる。
少し離れた位置。
王子が立っている。
変わらず。
整った姿で。
静かに、こちらを見ている。
「大丈夫かい」
穏やかな声。
いつも通り。
変わらない距離感。
変わらない言葉。
「……ええ」
反射的に答える。
滑らかに。
自然に。
——“そう答えるのが正しい”ように。
「少し、疲れているように見える」
優しい声音。
配慮。
気遣い。
完璧な対応。
「無理はしないでほしい」
言葉が、整っている。
無駄がない。
心地よい。
——はずなのに。
「……」
どこか、遠い。
届いているのに。
残らない。
流れていく。
形を持たないまま。
「……ありがとうございます」
言葉を返す。
正しく。
過不足なく。
それで、会話は成立する。
問題は、ない。
——なのに。
「……」
小さな違和感が、残る。
消えない。
説明できないまま。
そのとき。
別の気配。
視線をずらす。
影の中。
少し離れた場所に。
アルトがいる。
何も言わず。
ただ、立っている。
変わらず。
曖昧なまま。
何も決めず。
何も提示せず。
ただ、そこにいる。
「……」
目が合う。
一瞬。
何も起きない。
言葉もない。
動きもない。
だが。
なぜか。
そちらの方が、はっきりと“感じられる”。
「……」
胸の奥が、わずかに動く。
小さく。
確かに。
理由は、分からない。
だが。
さっきまでの“空白”とは違う。
何かがある。
形にならないままの、何かが。
「……」
視線を戻す。
王子。
完璧な存在。
変わらない正しさ。
そして。
アルト。
曖昧な存在。
変わらない不確定。
どちらも、変わっていない。
変わったのは——
自分の方。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
整理しようとする。
だが。
まだ、まとまらない。
考えが、形にならない。
ただ、分かる。
今は。
もう。
以前と同じようには動けない。
動いてはいけない。
「……」
一歩、踏み出す。
慎重に。
確かめるように。
その一歩は。
どこにも導かれていない。
誰にも決められていない。
自分で選んだ、一歩。
——初めての。
「……」
その小さな変化に。
自分でも気づかないまま。
世界は、静かに変わり始めていた。
予測できない。
保証もない。
だが。
確かに進んでいる。
どこへ向かうかも分からないまま。
それでも。
止まってはいない。
「……」
夜が、深くなる。
静かなまま。
だが。
確実に、違う世界の中で。
物語は、続いていく。
(第30話 終)




