第17話:転換点②「何回目だ?」
廊下の隅。
人の気配は、ほとんどない。
窓から差し込む光が、床に細く伸びている。
その中に、ふたり。
動きはない。
音もない。
ただ、静かに時間だけが流れている。
「……」
アルトが、壁に寄りかかるように立っている。
いつもと同じ位置。
同じ距離。
同じ無表情。
——何も、変わらない。
はずなのに。
なぜか。
この沈黙は、少しだけ重かった。
「……あなたは」
口を開く。
何を聞くか、決めていない。
ただ、言葉が出る。
「あなたは、どうして——」
続けようとして。
その瞬間。
アルトが、わずかに視線を上げる。
そして。
静かに、言った。
「何回目だ?」
——止まる。
時間が。
空気が。
思考が。
すべてが、一瞬で凍りつく。
「……」
言葉が出ない。
呼吸が、浅くなる。
胸の奥が、強く締めつけられる。
今の一言が。
あまりにも、正確すぎて。
あまりにも、直接的すぎて。
逃げ場が、ない。
「……何を、仰っているの?」
ようやく、声を出す。
形だけ整えた言葉。
だが。
わずかに、揺れている。
アルトは、答えない。
ただ、こちらを見ている。
静かに。
まっすぐに。
見透かすように。
「……」
心臓の音が、うるさい。
鼓動が、速くなる。
視界の端が、わずかに揺れる。
——違う。
これは。
そんなはずはない。
「……違う」
小さく、呟く。
自分に言い聞かせるように。
「これは、最適化で——」
言葉が続かない。
途中で、止まる。
なぜなら。
その説明が。
今、この瞬間において。
まったく意味を持たなかったから。
最適化。
正しい選択。
効率的な進行。
すべてが、正しいはずだった。
間違っていないはずだった。
——それなのに。
どうして。
この一言で、崩れるのか。
「……」
息が詰まる。
否定しようとする。
言葉を探す。
だが。
何も、出てこない。
隠していたはずのもの。
見えないはずのもの。
それが。
いとも簡単に。
突きつけられている。
回数。
繰り返し。
やり直し。
——すべてを、前提にした問い。
知られている。
気づかれている。
否定できない。
「……」
視線を逸らせない。
アルトの目が、離さない。
逃がさない。
追い詰めるわけでもなく。
ただ、そこにあるだけで。
すべてを暴く。
静かに。
確実に。
「……」
何も言えない。
何も否定できない。
その沈黙を。
アルトは、そのまま受け取る。
そして。
もう一度、口を開いた。
「それで、満足ですか」
短い問い。
だが。
あまりにも重い。
胸の奥に、深く沈む。
響く。
逃げ場なく。
繰り返しの先にあるもの。
最適化の結果。
完成した関係。
——それで。
満足しているのか。
「……」
答えようとする。
言葉を探す。
だが。
見つからない。
見つかるはずの言葉が。
どこにも、ない。
“はい”と言えば、嘘になる。
“いいえ”と言えば、否定になる。
どちらも、選べない。
選べるはずの世界で。
選べなくなっている。
その事実が。
何よりも、はっきりと突きつけられる。
「……」
喉が、動かない。
声が、出ない。
ただ。
沈黙だけが、続く。
長く。
重く。
逃げ場のないまま。
そして。
その沈黙こそが。
答えになっていた。
——満足していない。
——それを、否定できない。
「……」
視界が、わずかに歪む。
何かが、崩れていく。
今まで支えていたもの。
正しさ。
最適化。
そのすべてが。
音もなく、崩れ始めている。
止められない。
戻せない。
やり直せない。
——この瞬間だけは。
どこにも逃げられない。
「……」
アルトは、何も言わない。
追い詰めることもない。
ただ。
問いを置いただけ。
それだけで。
すべてが、崩れた。
静かに。
確実に。
取り返しのつかない形で。
(第17話 終)




