第18話:選択の停止
静寂が、残っている。
あの一言のあと。
何も変わっていないはずの廊下が。
どこか、違う場所のように感じられた。
——「何回目だ?」
その言葉が、まだ消えない。
耳の奥に、残っている。
反響するように。
「……」
足が、動かない。
その場に立ち尽くしたまま。
アルトは、もう何も言わなかった。
ただ、あの問いだけを残して。
沈黙の中に、溶けている。
「……」
視線を落とす。
自分の手。
何度も繰り返してきた動作。
慣れきった動き。
——セーブ。
ほんのわずかに、指先を動かせばいい。
それだけで。
この瞬間は、固定される。
間違いは、なかったことにできる。
言葉は、選び直せる。
問いも、なかったことにできる。
——簡単なこと。
「……」
呼吸が、浅くなる。
ほんの少し。
指先が、震える。
やればいい。
いつも通りに。
迷う必要はない。
今までも、そうしてきた。
間違えたら、戻る。
ズレたら、修正する。
それだけで。
すべては、最適化される。
——だから。
「……戻れば、楽ですわ」
口にする。
確認するように。
事実として。
戻ればいい。
この問いも。
この沈黙も。
この感覚も。
すべて、消せる。
最初から、なかったことにできる。
何も知らなかった自分に戻れる。
正しい選択だけを積み重ねる自分に。
——それが、一番いい。
そのはずなのに。
「……」
指先が、止まる。
動かない。
あと少しで届くはずの動作が。
なぜか、できない。
胸の奥に、引っかかるものがある。
小さくて。
曖昧で。
形もないもの。
それでも。
確かに、そこにある。
「……」
目を閉じる。
思い出す。
あの問い。
あの視線。
逃げ場のない、あの一瞬。
——「何回目だ?」
あれは。
なかったことにしていいものなのか。
消してしまっていいものなのか。
なかったことにして。
何も知らないまま。
また同じように進んで。
——それで。
本当に、いいのか。
「……」
ゆっくりと、目を開ける。
視界は、変わらない。
廊下も。
光も。
静けさも。
すべて、そのまま。
だが。
自分の中だけが、変わっている。
ほんのわずかに。
だが、確実に。
「……戻った先に」
小さく、呟く。
問いをなぞるように。
「……何がありますの?」
答えは、出ない。
想像はできる。
今まで通りの流れ。
正しい選択。
完璧な結果。
——そして。
何も残らない結末。
「……」
指先を、ゆっくりと下ろす。
セーブは、しない。
ロードも、しない。
ただ、そのまま。
この瞬間に、留まる。
初めて。
自分で。
止まる。
「……」
怖い。
ほんの少し。
いや。
確かに。
怖い。
間違えるかもしれない。
失敗するかもしれない。
取り返しがつかないかもしれない。
——それでも。
戻らない。
戻れないのではなく。
戻らないと、選んだ。
「……」
静かに、息を吐く。
胸の奥に、わずかな重さが残る。
だが。
それは。
今まで感じてきた“軽さ”とは違っていた。
消えない。
削れない。
そのまま、そこにある。
不完全なまま。
曖昧なまま。
それでも。
確かに、残るもの。
「……」
一歩、踏み出す。
何も変えずに。
何も戻さずに。
このまま、進む。
正しいかどうかは、分からない。
間違っているかもしれない。
それでも。
今は——
それを、選ぶ。
(第18話 終)




