第16話:崩壊前夜
朝の光が、静かに差し込む。
整えられた部屋。
乱れのない空気。
規則正しい一日の始まり。
——変わらない。
何もかもが、いつも通り。
「……」
鏡の前に立つ。
映る自分は、完璧だった。
表情も。
姿勢も。
細部に至るまで。
——問題はない。
そう、思う。
思う、はずなのに。
胸の奥に、わずかな違和感が残っている。
消えないまま。
朝の支度を終え、廊下を歩く。
視線が集まる。
評価は変わらない。
好意も、尊敬も、揺らいでいない。
——すべて、順調。
中庭に出る。
そこに、王子がいた。
「おはよう」
柔らかな声。
穏やかな笑み。
何一つ、欠けていない。
「ごきげんよう」
自然に返す。
距離も、角度も、最適。
会話が始まる。
天候の話。
講義の話。
未来の話。
すべてが、流れるように続く。
淀みはない。
迷いもない。
完璧な進行。
——そして。
何も、残らない。
「……」
王子が微笑む。
優しく。
誠実に。
心から。
それは、分かる。
分かるのに。
胸の奥は、静かなまま。
波一つ立たない。
「……嬉しい、ですわ」
口にする。
言葉としては、正しい。
だが。
その実感は、伴っていない。
王子は満足そうに頷く。
それでいい。
それが、正しい反応。
——正しい関係。
会話が終わる。
別れの挨拶。
振り返らずに歩き出す。
その背中を見送りながら。
小さく、息を吐く。
「……」
何も、残っていない。
時間も。
言葉も。
感情も。
すべてが、通り過ぎただけ。
——完璧に。
そのまま、廊下を進む。
次の予定は、ない。
決める必要も、ない。
ただ、歩く。
足が止まる。
視線の先。
壁際に、ひとり。
アルト。
いつものように、静かに立っている。
何もしていない。
何も求めていない。
ただ、そこにいる。
「……」
少しだけ、迷う。
声をかけるか。
通り過ぎるか。
どちらも、選べる。
どちらも、間違いではない。
——だから。
選ぶ。
「あなた」
声をかける。
アルトが、こちらを見る。
変わらない表情。
だが。
その視線に触れた瞬間。
胸の奥が、わずかに揺れる。
「……何か」
短い返答。
それだけ。
それだけなのに。
なぜか。
空気が、変わる。
「……少し、話をしてもよろしいかしら」
「構いません」
即答。
迷いがない。
だが。
押しつけもない。
ただ、受け入れるだけ。
「……」
何を話すか、決めていない。
選択肢もない。
最適解もない。
それでも。
言葉が出る。
「今日は、天気が良いですわね」
ありふれた話題。
意味のない会話。
——のはず。
「……そうですね」
短い返答。
それだけ。
それ以上、広がらない。
それなのに。
沈黙が、重くならない。
途切れない。
消えない。
ただ、そこに残る。
「……」
胸の奥に、小さな動きが生まれる。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
さっきとは違う。
王子といたときには、なかったもの。
揺れ。
不安定さ。
予測不能な何か。
「……」
言葉にできない。
だが。
消えない。
残る。
時間が、ゆっくりと流れる。
何も起きていない。
何も進んでいない。
それでも。
確かに、ここにある。
実感が。
「……」
ふと、気づく。
胸の奥に、わずかな温度があることに。
ほんの少しだけ。
確かに、感じるものがある。
「……どうして」
小さく、呟く。
理解できないまま。
納得できないまま。
ただ、比べてしまう。
さっきの時間と。
今の時間を。
完璧で、正しくて、何も残らないもの。
不完全で、曖昧で、何かが残るもの。
どちらが、正しいのか。
どちらが、選ぶべきなのか。
分からない。
分からないまま。
ただ、揺れる。
「……正しいのは、どちらですの?」
答えは、返ってこない。
アルトは、何も言わない。
ただ、そこにいる。
沈黙のまま。
変わらずに。
それでも。
その沈黙が。
なぜか。
否定されなかった。
消されなかった。
そのまま、残る。
曖昧なまま。
揺れたまま。
——崩れる直前のまま。
(第16話 終)




