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フラッシュバック・ユニット




 1




 ……なんだ、結局はそういう結末か。


 期待以上のものではなかったなと、アイシィ・クライドハイカーは振り返った。

 結局のところ、男が女を犯して刺した、それだけの話であり、たった一行で端的に報告できる出来事であった。拉致も強姦も殺人も自刎も……下界を遍く走査していれば、やがて誰しもが「取り立てて注目するようなものではない」事柄であることに気が付いてしまう。そうした傾向は長く働いている天使ほど顕著に現れる……先の退屈をなんやかんやで二時間近くもぼうっと眺めていた選択にアイシィは欠伸をふかすより他になかった。


 ……もっとこう、ズガーン!とかいう波乱のひとつでも欲しかったな。


 アイシィがそのような考えに至ったのは、今しがた人間界で悶着を起こした二人について、先に寿命が尽きるのが男の方だったためである。

 男が女を縛り、人気のないところまで運ぶとなれば十中八九、過程はどうあれ殺すであろうとアイシィには過去の類似例から容易に想像ができていた。そして、当事者達の寿命がほぼ同時刻に尽きるとあれば、これはもう無理心中に他ならない。事実、加害者である男はその後、所持したナイフで自らの首を貫き命を絶った。

 だが、今回の状況において圧倒的な優位を有しているはずの男の方が、僅差とは言え女よりも先に寿命が尽きる……ここにアイシィは興味を抱いた。強姦殺人からの自殺というありふれた内容ではなく、別の要因が影響することによって一層ドラマティックな展開が見られるのではないかと、心のどこかで微かに期待していたのだ。

 しかしながら、蓋を開けてみればお約束通りの内容であった。

 男が女を二つの意味で刺し、仕舞いには自身をも刺して果てる。

 ところが、女が悉く急所を避ける一方で、男は的確に致命傷を負った。

 よって、二人の寿命が尽きる瞬間が訪れるにあたり、男の方がほんの僅かに早かったという、ただそれだけのことであった。


 ……ちぇっ、まぁ、これもなんとなく予想できたことだけどさ。


 アイシィの職歴はそのような期待外れを平気でぼやく程度には長い。

 多くの血生臭い現場を見下ろした経験の中には、条理にそぐわぬではないかと注目させる事例が全くないとは言わない。そして、その際に抱く淡い期待と興奮が実にあっけなく裏切られる回数が増すばかりであることについてはわざわざ言うまでもない。


「……終わりました?」

 ぽつりと、震え声が聞こえた。

 アイシィの隣に座して問うた者はチエル・ガーランドという幼い天使である。チエルは全身を毛布で包み込んでいて、防災頭巾のように畳まれた先端部から表情のみがうかがえる。彼女の丸々とした瞳の本来の大きさは、先の下界の惨状をぼやけさせるために今は扁平に絞られていた。

「ん~、終わったよ。女の方は全身の刺傷による失血死で、男の方は地面に置いたナイフの上に倒れ込んだことによる頸椎断裂の、んんと……まぁ、即死扱いでいいや」

「そうですか……うぅ……」

 チエルはアイシィが見届けた結末について伝え聞き、戦慄したようである。

 全身から体液がとめどなくごぼごぼと吹きこぼれる死体……

 金属片が喉頭隆起(のどぼとけ)を突き抜けて項部(うなじ)から生える死体……

 どちらもアイシィにとっては見慣れたモノだ。しかしながら、ことチエルに関しては「はい、そうですか」と容易に受け流せるものではなかったに違いない。

 チエルは頭から被っていた毛布を更に強く巻き込んで防衛姿勢を取った。外敵から身を守るためのものではなく、内より精神を脅かす恐怖を抑え込むための儀式であり、オマジナイなのだと……当人が以前にそう語っていたことをアイシィは思い出した。

 アイシィは毛布に包まれて丸くなっている隣の天使を見つめた。チエルの百三十八の背丈も、赤錆色の髪も、深紅の虹彩も、今は延々の大地にそっくり隠れてしまい、カーペットに転がされた毛玉さながらであった。

 チエルの先輩にあたるアイシィは呆れたわけではなく、不思議に思っていた。対象者の片方が凶器を有し、もう片方が自由意思のひとつも与えられずにされるがままとあらば、そこに鉄錆のにおいが生じずに済むということはまずない。この推測は経験の多寡に依らず直感から導き出せそうなものであった。

血液恐怖症(ヘモフォビア)だってのに、どうして今日の仕事をわざわざ見学しに来るのかねぇ」

「克服するには慣れが必要だって、先輩がそう言ってたじゃあないですか」

「まぁねぇ。それで、少しは改善したりしたの?」

 聞かなくてもなんとなくわかるけどと、アイシィは続けた。それを聞いたチエルはただでさえ小さいその身体を更に丸め込み、余計に小さくなった。

 チエルは天界に生まれて今年で七年目となる天使であった。少し前に二百五十歳を迎えたアイシィからすれば、チエルのような新米天使は身体的にも精神的にも小粒もいいところである。

 隣で丸まった小さな背中を毛布越しに上からさすりつつ、アイシィは続けた。

「無理しなくたっていいんじゃないの。天使にも得手不得手があるんだし。血がNGでも、別の割り当てを担当すればいいだけじゃない」

「……でも」

「そのあたりはドラグヘッドも配慮してくれるって。と、言うよりも、配慮してやれって私がアイツから言われたんだけどさ……おおっと、これは口にしない方が粋ってもんかな」

「……それでも」

 アイシィ先輩みたいになりたいんですと、チエルがか細い声で返答した。

「それじゃあ、ひとつ、先輩からのアドバイスをあげよう。無理せず、無茶せず、無謀をせず。この()()が肝心だよ。それを踏まえた上でなお諦められないってのなら……また見学してもいいよ、ちびちゃん」

「……はい」

「よし。それじゃあ、後は私がやっておくから、今日はもう帰ったかえった。嫌なことは夢の中に忘れておいで」

 チエルが毛布を羽織ったまま立ち上がり、ゆっくりとその場を離れた。血を見て気分が悪くなったのであろう、彼女の足取りは重い。小さな背中が延々の大地の起伏のひとつに紛れた後、アイシィはもうひとつ大きな欠伸を残した。


 ……ちびちゃんには、ちょっと早過ぎたかもしれないね。


 アイシィは心中呟いたが、だからと言ってチエルのことを低く評価しているわけではない。

 実際、先の人間界における「よくある揉め事」を、血液恐怖症にもかかわらずチエルは途中までは直視できており、強姦においてぱたぱたと滲んだ出血に関しても薄目ではあったがどうにか耐え忍んでいたようである。彼女が遂に視線を完全に逸らしたのは、性欲ではなく殺意が発散される最中、赤く染まった粘り気のある脂肪が乳房からびゅるっと噴出したところからだが、そこまではどうにか奮闘していたチエルの気概というものをアイシィとて一息に無下にしてしまうつもりなどなかった。

 ただし、本当にこの仕事を生涯のものとして身につけさせるべきか……前途有望な若い天使を前にするとき、アイシィの頭には決まって同じ一問が過る。仕事仲間が増えれば無論のこと歓迎するつもりではあるものの、それは同時に、能天気に生きる大多数の天使たちが面するものとは異なる、この仕事特有の困難を覚悟させることを意味している。


 ……とりあえず、私もアイツに報告してくるかな。


 ぐだぐた考えていても仕方ないと、アイシィは延々の大地にあけた穴を適当に塞いで立ち上がりつつ大きく背伸びをした。その拍子に薄氷の如き透明感を有した青い長髪が背筋を掠め、こそばゆさに身を軽く捩る。髪留めと被服の意義を少し認めた後、その場を離れ、アイシィは自らが籍を置く工場へと歩き出した。


 天界……それは人間界とは完全に区分されたもうひとつの世界である。

 かつて人間は空を見上げ、雲の上の見えざる地点に、神とその御使いの存在を本気で信じていた。根拠はどこにあったのか。それは、昨今の天界の方針が確立する以前、天使は頻繁に下界に降り、その存在を隠そうともせずに人間と話し、触れ、干渉し合っていたために他ならない。

 だが、今や事情が変わっていた。人間は科学を神とし、非科学を悪魔とみなした。空より上を、成層圏より上を、星より上を観測できる科学の目で頭上を見つめ、やはり天使などいなかったと、彼らの方から結論付けて距離を置いたのである。

 しかし、それも当然のことであった。天界から人間界を覗き込むことはできるが、その逆、即ち、人間界から天界を仰ぎ見ることはできない。どれだけ世界の理を人間が解明しようと、二つの世界の立場が横並びになることはない。そのような不平等の間柄にあるからこそ、人は天を敬い、天は人を慈しんでいたのである。

 その天界の存在意義……それは、人間に寿命を与え、生を充足させるためにある。

 天界には俗に「工場」と呼ばれる巨大な樹木が散見される。それら工場の根本からは、人間界にて生きる者それぞれに向けて不可視の管が伸びている。寿命供給ラインと呼称されるその管の内部を寿命が伝い、彼らの命を常に後付けし続けることで、肉体や精神、環境の状況などに大きく左右されつつも、彼らがそれなりの時間を生きることができるように延命しているのである。

 そのようにして生かされた人間にもいずれは最期が訪れる。彼らの肉体は時間と共に急速に劣化し、工場から注がれる寿命を受け取ることはできても、十分に取り込むことができなくなるのである。

 人間がその身に取り込める寿命の割合のことを、天界では寿命定着率と呼んでいる。この値が1に近ければ、人の身は配られた寿命を余すことなく取り込むことができるが、数が小さくなるにあたり後付けされる寿命の量は減少し、0になれば配分された全てを取りこぼして無駄にすることになる。

 つまり、寿命定着率が0になることは、これまでの人生で貯め込んだ命の残量がそのまま余命になることと同義である。寿命定着率が低下し、満足に寿命の後付けが機能しなくなった人間は、健康な期間に蓄えた寿命を消費し続け、全てを使い切ったその瞬間、果てる。

 人間に寿命を与えることが工場の役であれば、人間の寿命が尽きる瞬間を見届けることが天使の役であった。

 人間は自らの意志によって生死を決定することはできず、超常の存在によって否応なく生命維持装置を取り付けられているのである。そのようにして人間を「勝手に生かしている」以上、人生が終焉を迎える瞬間は、誰にも気付かれず孤独に終わらぬよう、せめて天界からその最期を見届ける。それが天使が人間に対して持つ義務であり、誠意であり、原罪でもあった。

 果てなく続いて人間界との境界線を成す延々の大地。

 如何なる場合にも平等を徹して寿命を配分する大樹。

 人間の最期を見届けるための天使。

 これらの存在によって天界はその形を成し、人間には見えざる空の彼方で、常に下界を見守っているのである。


 天界における大樹のひとつであり、自らが所属する工場でもある、時雨の大樹へとアイシィは足を運んだ。

 その木陰には一体何人の天使が同時に横たわり休息できるのか……

 その幹と枝には合わせて何枚の葉がぶら下がっているのか……

 それらを数えようとする物好きが現れない程度には各大樹は巨木であり、壮大であった。

 アイシィは先の地点から時雨の大樹へと向かいはしたが、目的地は別にあった。

 延々の大地が作る薄桃に落ちる広大な木陰を通過し、更に歩を進めると、深夜二時を過ぎて星空が真上を包む頃合いにもかかわらず、真昼の日差しから受けるかのような熱の放射があり、アイシィが目的地に近付くほど鮮烈に感じられる。さながら、冷房を利かせた施設内から屋外へと身を乗り出す瞬間に感じる温度差のような熱波に眼をやられぬよう、片腕を防塵ゴーグル代わりに構えながらアイシィは前へ、前へと割り進んだ。一歩ごとに熱波は厚みを増し、やがて、気を抜けば途端に吹き飛ばされてしまうのではないかと思わせるまでに激烈となった。

 しかし……熱感はとある境界線を跨ぐと急速に縮退を始めた。そこから二、三歩もすると打って変わったかのような無風と、ここ以外の場所に一様に広がっている穏やかな夜の気温が再び周囲に満ちた。初めから、何事もなかったかのように。

「ほーこくのおじかんだよー、ドラグヘッド」

 アイシィは自らと同じく時雨の大樹に所属している上級天使の名を呼んだ。その際、平手の扇でわざとらしく頬を仰ぎながら声を掛けたが、彼の者はアイシィの身を案ずることも気に掛けることもせずに直ちに本題を催促した。

「待っていたぞ、アイシィ・クラウドハイカー。あの二人の顛末はどうなった」

 その声は金属がぶつかり合う甲高い響きと、中身の詰まった砂袋が地面に落ちる鈍い響きが混ざったかのようなものだった。並の天使では到底醸せぬ威厳が込められた、腹の底まで震わせるような重厚感……


 アイシィの正面に座すは巨大な龍であった。座高の時点で五メートルを越すその身体は、人間界における和洋の混在した様相である。

 上半身は群青に染まる甲殻が鎧のように覆う西洋の龍の姿を成していた。肩より伸びる二本の腕が延々の大地を掴み、彼の背から上がもたれぬよう支えている。頭部もまた甲殻に囲まれた鋭い輪郭を端々に有し、眼を保護するかのように眼窩の上下を挟む張り出した突起は、目尻から後頭部へと長く続き、更に後ろの位置で結びついて左右一対の角を形成している。その発達した二本の角は、彼が天界にて果たす役割の大きさを象徴しているかの如く、厳かに飾られていた。

 対して、下半身は東洋の竜と言えよう。強靭な筋肉によって形作られた一本の長い身体には、甲殻よりも可動域に優れた鱗による被膜が成されている。その長大な下半身は何段にもとぐろを巻き、彼の上半身を安定させるべく、延々の大地の一点にずしりと、静かに腰を下ろしていた。

 そして、彼は燃えていた。全身を覆う甲殻と鱗からは、天使から時間と共に分離する生命エネルギーとは別の、威圧感とも呼ぶべき気迫が溢れ出している。その強大な圧は周囲を爆熱で震わせながら、彼の海より深い群青を覆い隠すかのように、対照的な深紅の焔で全身を包んで盛らせていた。

 彼の名はドラグヘッド・ワイルドファイアと言う。アイシィを含めた時雨の大樹に属する天使たちを取りまとめる、上級天使と呼ばれる存在の一人である。一部の天使が上級天使へと昇格する際、その姿形は人の型から大なり小なり変化する。ドラグヘッドは前者の典型的一例であった。


「まぁ、想定通りって感じ」

 下界の悶着を思い起こしながら、アイシィは率直な感想を伝えた。

「原因は」

「特にこれってのはなかったけどね。男の方が離婚を切り出されて、理由を聞くために食い下がったら女の方がついついぽろっと『お仕事』の本音を漏らした。で、男がカッ!となってドンッ!」

「怨恨か。確かに申請内容通りだ。死因は」

「男は自殺。持参した果物ナイフで頸椎がぶつり。即死だね。運が良い」

「女の方は」

「こっちは運が悪い。失血による多臓器不全だけど、致命傷がどれかわかんなかったよ。十四か所もめった刺しにされてたからね……あっ、」

 十四か所の刺し傷だぞ!……と、アイシィはかつて人間界で一時的な流行りを見せたテレビゲームのセリフを真似する口調で言い直したが、ドラグヘッドは笑わなかった。双角それぞれの根元にあたる二股の間からは角の先端よりもなお鋭利な視線が伸び、正面でおどけるアイシィを刺している。

 魁偉な容貌とは裏腹にドラグヘッドの性格は夕凪を思わせるものであった。去り行く者は可能な限り穏やかにその時を迎えて然るべきだと……残念ながらそのような最期を迎えられなかった者に関しても、せめてもの鎮魂の意を示すことが礼節であると……彼は口癖のように常々繰り返している。

 それだけに、人間の最期の様子を軽んじるような態度はドラグヘッドの目に余って映るのであろう。アイシィの軽口は彼の精神の水平線に漣を立てる要因となったらしい。

「惜しいなぁ。もうワンセット頑張ってたら二十八か所の刺し傷でぴたり賞だったのに」

「傷は負わぬに越したことはない。余計な外傷を期待などするな」

「はいはい、相変わらず真面目なことで……」

 アイシィはぱたぱたとドラグヘッドの脇まで歩み寄り、彼のとぐろからはみ出していた尻尾の先端に腰かけた。先細りの不安定な部分ではあったが、彼女は持ち前の優れた平衡感覚を発揮し、絶妙なバランスで姿勢を制御しながら、ゆらゆらと宙で揺れた。


 ドラグヘッドの身体は頭部を除いてその全体が炎上しているが、実際に炎が滾っているわけではなく、その本質は周囲の天使たちに働きかける精神的な圧力の顕現である。

 要は、荘厳たる巨龍の姿となった彼と相対する際に受ける畏敬の念が鮮明な幻影になり、目に見える形で天使たちには感じられるというものであった。故に、ドラグヘッドから同心円状に広がる熱も、圧も、無意識にそう感じるというものであり、全身に纏う深紅の炎についてもまた、そこにあるように見えるだけであって、そもそも実体というものは存在しないのである。

 そのことをドラグヘッドの同期でもあり長い付き合いにあるアイシィはよく理解していたため、触れるもの全てを灰燼と化さんとばかりに猛る彼の身体に平気な顔をして寄りかかったり、悪びれもなくちょっかいをかけることも日常茶飯事であった。


 ドラグヘッドは延々の大地を薄く伸ばして作った紙に先のアイシィの話を記録し、報告書を一通用意した。

「後は署名だけだ。お前と……」

 ドラグヘッドは途中で台詞を打ち切った。今回の依頼の担当者はアイシィとチエルだが、近くに後輩の姿がないことに彼は今となって気が付いたらしい。

「チエル・ガーランドはどうした」

「あぁ、そうそう。ちびちゃんは気分が悪くなったみたいだから先に休ませたよ」

「そうか。もう一か月以上経つが、ふむ、やはり適性は薄いか……」

「チエルなのに『血』が見『える』とダメなのは、ちょいと名前負けしてるかな」

「お前から見て、どうだ。ダメそうか」

 ドラグヘッドの問いに対し、アイシィは一旦保留していた問答を再び巡らせた。

 ダメそうという表現を、向いていないという意味に捉えるのであれば、アイシィから評するにあたってチエルは間違いなくダメそうであった。

 しかし、向いているかいないかではなく、意欲があるかないかという捉え方をするのであればアイシィが下した先の評価は一転する。チエルはこの仕事に向いてはいないかもしれないが、同僚としてぜひとも迎え入れて共に働きたいと思わせる魅力を有していた。

「ん~……血液恐怖症は確かにちと厳しいけど、それ以外は極めて優等生だからなぁ。今後のご健闘をお祈りします……って、このまま元の工場に帰すのは惜しいよ」

「同意見だ。特に、本人から望んで研修に来ているという点は別格だ。人員不足の解消のためにも、この部署に長く勤めることのできる天使が今は欲しい」

「もう暫くは『見』でいいと思うよ。メンバーが増えればその分、私の負担も減るしね」

「そうだな……いつも助かる」

「じゃあ、今日はもう寝ていい?」

「あぁ、後は別の者に割り振ろう」

 やった、と呟きながらアイシィは背中の翼を広げた。

 肩甲骨下部から具現化した両翼は、ぱきぱきと音を立てつつ根本から成長し、八の字を描くように斜め下の二方向へと垂れる。周囲の空気に含まれる水分が凝結し、白煙となって背に漂う。アイシィの翼は氷のように冷たいものであった。

 アイシィは今日の寝床を求めるべく時雨の大樹へと向かうため空へと舞いあがった。その拍子にドラグヘッドを真上から眺める形となり、彼を中心とする円形の全容が改めて視界に収められる。

 フラッシュバック・ユニット極東管轄。

 ドラグヘッドが統括する部署が目下に広がっていた。


 有史以前、人間の死因は限られていた。

 狩りに敗れ逆に喰われる者……

 崖から滑落して朽ちる者……

 木と鉄で打ちのめし合い果てる者……

 単純な力の作用が彼らの生命を脅かす唯一の原因であった。

 しかし、時が流れ、人間がその身に余る知識を得始めると死因は多様化した。自らの利のために他を虐げる術を求め始めた人間は、道具を考案し、物理を崇め、科学を友とした。

 そして、死ではなく、死に至る過程こそに真の威力と恐怖が宿っていることを学び、その効果の極大化を追求した産物が拷問である。

 水よりも油が高温になることを知ればそちらを浴びせ……

 致命傷までは至らぬ部位を見つけては優先的に切り離し……

 流れても耐えられる血液量を求めては一本でも多く血管を破る……

 天使は意図的に患おうとしない限り怪我も病気もしない。その中には精神面の動揺によるものも含まれていると考えられていたが、これまでに想像も及ばなかった残忍なる手段によって凄惨を極めた最期を直視することで、後の人間界で心的外傷後ストレス(PTSD)と名付けられる障害に近い影響が天使にも及ぶことが判明した。

 しかし、どのような過程を経た最期であれ、人間の寿命が尽きる瞬間を見届けることは天使の存在意義であり、これを欠くことはできない。

 フラッシュバック・ユニット……通称FBUは、中世欧州において拷問が異常な発達を見せる過程で、初めて組織された天界の役職である。

 対象者が死に至るまでの過程を厭わない天使が集い、肉塊と組織片が飛び散るような……薬品で原型を留めぬ形に変形させられるような……異物を捻じ込まれ内側から全身をかき混ぜられるような……そのような人間の最期を見たくないという天使たちの仕事を一時的に請け負い、代わりに見届ける。それが、FBUの役割であった。

 彼女たちが受け持つ最期は何も拷問によるものだけではない。人力では到底及ばぬ機械による衝撃……皮膚を焼き、骨を溶かすまでの劇薬の曝露……それらに巻き込まれた人の身が綺麗であったためしはない。技術の発展は死に様の多様化とも言えた。

 FBUの価値は時代を経るごとに高まり、なくてはならない存在へと相成ったが、人間界全土で繰り広げられた二度の世界大戦が契機となり、FBUは衰退の一途を歩むことになる。

 化学兵器による甚大なる苦悶を伴う死……

 生物兵器による無差別かつ大量の死……

 核兵器による放射線被曝からの想像を絶する死……

 立て続けに繰り広げられた二度の大殺戮と、進化した死の形はFBUを疲弊させ、崩壊させた。所属する天使たちはいつ終わるとも知れぬ残酷なる致死の嵐を見つめ続けたことで、一人、また一人と離脱し、世界大戦が一応の終結に至った頃には、もはや組織として満足に機能できるほどの構成員が残らなかったのである。

 それでも、人間界は危うい形を維持して、現在も回っている。

 それでも、なお新たな死因が生まれ、人は死ぬ。

 そうであるならば、天使もまた、人類が絶滅する最後の刻が訪れるまで、彼らを見守り続ける必要がある。

 現在のFBUは清純な天使たちの心身を庇うべく、凄惨が予期される仕事を数少ない構成員で肩代わりしていた。

 働きを労うにはほど遠い「天界の汚れ仕事」とのレッテルを陰で貼られながら……




 2




「――……さぁ、張ったはった」

「んんん、じゃあ、ボクは八にするッス」

「私は十五。まぁ、これくらいがせいぜいだろう。アイシィはどうする」

「甘いあまい、二人とも。私はねぇ、百にしようか」

「えぇぇ……今回はないと思うッスよ」

「各停なんだぞ。そこまでいくわけがないって」

「いいや、私の直感がビンビンにおっ勃ってるんだからそれを信じる」

「アイシィパイセンは逆張りが好きッスねぇ」

「今回は私とタムの一騎打ちかな……――」


「おはようございます、先輩方。お仕事中ですか?」

 翌日の正午少し前のことである。

 離れからチエルの挨拶が聞こえ、アイシィは視線を向けた。

 わせわせと裸足を前後させて駆け寄るチエルの小走りは、延々の大地の起伏に時折体勢を崩し、愛らしさを感じさせども危なっかしさもまた誘う動きであった。アイシィの隣で横になっている悪友二人も同じ心境であろうか、孫でも眺めるかのように頬は緩ませるも、眼差しはチエルの足元を確実に意識しており、どこかでそそっかしさに足を取られるのではないかと内心そわそわしているに違いない。

「おはよう、ちびちゃん。昨日はよく眠れた?」

「すぐには寝付けませんでしたけど、今はもうすっかり大丈夫です!」

「そりゃあ良きことで……そうだ、ちびちゃんはどれくらいだと思う?」

「何の話ですか?」

「あの人間、どれくらいになると思うよ」

 穴の先にうかがえる人間界の一点をアイシィが指すと、チエルは隣に座り込み、示す先をじっと見つめた。


 アイシィ一行が眺めていた先は都心の一角であった。高層ビルが隙間なく立ち並ぶ大都会の合間を縫うように線路が走る。さながら、人体に埋め込まれた動脈と毛細血管の関係性のように、複線と単線が入り乱れ、複雑な網目のように街の中に張り巡らされている。

 血管網の関所に値する駅のひとつにアイシィは注目していた。

 午前九時半のプラットホームは通勤ラッシュのピークを超えてはいたものの、それでもなお多くの客によって騒々しく、ものの数分後には訪れる次の電車を今か今かと待ち望み、落ち着きがない。

 ホームを左右に分離するように、中央には緑色の簡素な椅子が一直線上に並んでいる。もう間もなくに次の電車が来るとあって殆どの椅子は空いていたが、ひとつにはまだ客が座っていた。

 その男性の頭頂部は少し薄く、今は後退している前髪がかつて生えていたであろう額の部分には油が浮いて艶めいている。黒いビジネススーツで上下を固めているが、ネクタイは締めておらず、手荷物もない。

「……四十、後半でしょうか。四十七くらいじゃないでしょうか」

「ふぅむ、なるほど。年齢と見たか。それも趣があっていいね」

 アイシィは満足した。チエルの観察眼は悪くない。

 実際、あの対象者は二か月後に四十七回目の誕生日を迎える予定であった。

「歳の話じゃないんですか」

「あれっ、ちびちゃんはこのゲームのこと知らなかったっけ。これはね……」

「タイムリミットだ、静かにしてくれ。集中するんだから……!」

 アイシィと同じ姿勢で寝転がっていた金髪の天使はお喋りを制止しながら、穴に上半身を突っ込まんばかりに人間界を凝視している。その合図を受け、アイシィと、その反対側の白髪の天使も口を閉ざしたことで、チエルもまた質問を保留して人間界をのぞくことに意識を向けた。

 金髪の天使が進行を仕切る。

「カウントダウン、始めるよ。二十、十九、十八……」

 初老の男性は椅子から立ち上がった。

 正面を横切る線には三十秒後に次の電車が停止してドアが開く。

 運行計画図(ダイアグラム)が秒単位で守られる、この国の鉄道網だからこそ、アイシィたちのゲームは成立する。


「十七、十六、十五、十四……」

 立ち上がった男性は電車を待つために並ぶ列のいずれの最後尾にもつかない。

 ただ、突っ立って、動かなかった。


「十三、十二、十一、十……」

 左奥から甲高い制動音が響いた。

 次の電車が速度を落としながら線路の上を滑る。


「九、八、七、六……」

 先頭車両がプラットホームに顔を出す。

 速度はかなり落ちている。


「五、四……えっ、ちょっ……とっ?!」

 男性が振り返り、反対側の車線を正面に捉えた。

 列を作って並ぶ人々の隙間の一か所に着目した後、目を固く閉じ、走り出す。


 ――……二秒後、右から快速急行が突入した。

 猛烈な速度で通過する鉄塊と衝突することにより、蛋白質で構築された赤い筋肉は瞬時に爆ぜて繊維状に分断し、全身を内側から支えていた骨子は粉体へと圧壊する。

 砕け散った肉と骨は内部に詰まっていた体液と混ざり、攪拌されながら、車体が運んできた空気によって膨れ、電車の操縦席を包むように押し出されつつ進行方向へと破裂する。

 衝撃によって関節から引き抜かれた四肢は枝木のように吹き飛び、線路から驚くほど離れた地点までばらばらに投げ飛ばされてゆく。その一方で、とりわけ重たい胴体部分はフロントガラスと、車掌席と乗客席を隔てる窓をも突き破りながら、赤い体液の跡をローラースタンプのように引き延ばしつつ、ごろごろと先頭車両の中程まで転がり込んだ。

 同時に、歯や爪といった強固な一部は散弾銃から射出されたかの如き勢いで周囲に飛び散り、人や物を問わず車内外を汚染し、脂身混じりでぐずぐずとした肉体を接着剤の代わりとして、事故現場周辺に所構わずへばり付いた。

 第一関節から捻じ切れた指先の判子……

 湯葉のようにふやけた頭皮に絡みついた髪……

 散った体液に絡め取られる、偶々そこに落ちていた羽虫の死骸……

 それらはホームを抜ける列車風で冷やされ、赤い煮凝りとなって広がっている……――


「そぉら、見たことか! 絶ぇッ対に、快急の方に突っ込むと思った!!」

「うっ、そォ……こんなことってある?」

「どんな眼してたらこんなの予想できるんッスか……」

「だから甘いって言ったんだよ、私は。ちゃんと反対車線のダイヤも考慮しなきゃ」

「ちぇっ。それじゃあ答え合わせ……は、もう必要ないな」

「数えるまでもないッスもんね」

「いやぁ、悪いね、二人とも」

 アイシィは上機嫌に勝利を謳い、彼女の悪友二人は想定外の結末を前にしてただ素直に賭けの敗北を受け入れるばかりだ。

 そこで、ふとアイシィは血液恐怖症の新米天使の様子を気に掛けた。

 チエルは理解不能と誰からの目にも分かる顔付きで下界と、アイシィたち先輩の姿を交互に眺めていたが、ややあって、案の定気分が悪くなったらしい。ふらりと脱力して上半身が左へと傾いでゆくと、背中からは延々の大地とよく似た薄桃色の左翼が飛び出して地面との突っ張り棒の代わりを果たした。がくんとした衝撃が頭を揺らし、それでチエルは我に返ったようである。

「大丈夫、ちびちゃん? 顔色が悪いけど」

「へいき……平気、ですけど……えっ、と、何をしていたんですか……?」

「退屈な天界の日々に潤いを与える、ちょっとしたゲームだよ」


 アイシィと悪友二人によるこのゲームのルールは至極単純なものであった。

 自らが担当する人間の死因が凄惨たるものになると天使が予想した段階で、その対象者の最期を見届けるという仕事はFBUへと転送される。その性質上、委託される頻度の最も多いものは、この後の展開が予想しやすい自殺であり、その中でも一等多いケースが投身自殺である。

 誰しもが、潰れてペースト状になった人間の姿など見たくない……そのような単純な理由によってFBUへとこの手の依頼がよく投げられていたのである。それは逆に、FBUに所属する天使からしても、頻繁に出会う退屈な内容であるということを意味していた。アイシィたちはこのようなつまらない仕事をどうにか楽しむべく、先のゲームを考案したのである。

 その内容は即ち、高速車両によって轢死するであろう対象者がどれだけのパーツに分解するか、その数を事前に予想して正確さを競い合うニアピンレースであった。

 公共機関への、特に列車への投身自殺とあれば、対象者の寿命の収束予測と運行ダイヤグラムを照らし合わせることで、誤差なく死の到達する瞬間を予測することができる。そのような場合に限り、アイシィを含めた件の三人組は一堂に会して頭を突き合わせ、果たしてその対象者が幾つの肉片に成るか予想し合っていたのである。


 さて、人間が――その時には既に物体と称した方が適しているだろうが――複数に弾けたとして、その数の答え合わせを如何にして行うかだが、

「ちなみに今回の部品数は百八だったぞ。よかったな、ニアピン賞もくれてやる」

 それは、進行を仕切っていた金髪の小さな天使、バリスタ・ヴェイパーが担っていた。

 バリスタの背丈は百四十に満たず――もっとも、当人は百四十台だと公言して決して譲ることはないが――、体型は幼く、童顔であるが、齢は先月で二百五十を数えており、即ちアイシィと同期である。

 天使の外見はある程度の成長後にほぼ固定され、以降は平均して三百余年の生涯をその姿で過ごすことになるが、ところで、彼女は幼くして発育が止まった自らの容姿に不満を隠さなかった。

 何故か。それは同期であるアイシィが百七十の恵まれた長身と、メリハリのある大人びたプロポーションを有しているがため、二人が並ぶと必ずと言ってよいほど、バリスタの方がアイシィのもとへ預けられた研修中の新米天使であると勘違いされるためであった。

 だが、バリスタの外側はともかくとして、有する技量については少なくともアイシィに明らかに劣るといったところはなく、特に眼に関してはFBU内部はおろか、天界全体を参照してなおも相当な上層に位置している。

 バリスタの眼と瞬間視力は天界の中でも特筆すべき水準にあり、その超反応によって、視界内に降り注ぐ雨粒の総数や、公園の砂場に敷き詰められた砂粒の総数すらも一瞬の内に数え上げることができた。

 そのような眼を持つバリスタであるからこそ、列車に轢かれて粉微塵となった人体の総数すらも、やはり瞬きひとつの間にきっちりと認識することができ、彼女たちのゲームを公平に進行させる審判役を担うことができていたわけである。

 合わせてバリスタには、人体欠損に対する優れた耐性が備わっていた。

 死の中でも凄惨な部類に入る轢死や爆死……その中でも遺体が原型を留めないまでに損壊する――俗に、ネギトロと例えられる状態になる――ものに関して、彼女は驚異的な平静を保つことができる。

 空を流れる雲をぼうっと眺めるように、赤く四散する人体を視界に納め続ける様子は、彼女が上級天使としての素質を有さないにもかかわらず、昇格の特例をカミサマに打診したくなるとドラグヘッドに評されるほどであった。


「今回の分のチケット、できたッスよ~」

 新雪を思わせる真白な短髪を頭に乗せたもう一方の天使は、足元の延々の大地をちぎって細工を施していたが、たった今その作業を終えた。

 彼女はタムタム・フォギィという名である。

 齢は今年で百と二年であり、アイシィとバリスタの同期ではなく、一回り以上若い。しかしながら彼女もまた、FBU極東管轄においては相当に活躍する天使の一人であった。

 百六十ほどの全身は浅い褐色の肌で包まれており、頭髪の白と対照を成すことで遠目からでもよく目立つ。しかし、健康的な色合いの反面、その恰幅は良いとは言えず、指や腰、手首、足首など、各所のくびれについては下手をすれば折れてしまうのではないかと心配されるまでに細い。

 タムタムの首もまた同様にして華奢ではあったが、そこにはヘッドホンと、一端にコードで巻き付けられた携帯音楽プレーヤーが常に吊られているため、他の部位と比べると傍から診察する分にはシルエットばかりは幾分立派であった。

 このヘッドホンと音楽プレーヤーはアイシィが度重なる出張のひとつの際、彼女の対象者から譲り受け、人間界から天界へと手土産として持ち帰ってきたものである。アイシィは暫くこれらを使っていたものの、天界にいる限りは新たに音楽を追加する機会が絶対に訪れないことと、元来の飽きやすさが働くことで、着用する機会は自然と減り、遂には存在すら忘れるようになっていた。

 そこに、FBUへと新たな天使が迎え入れられた。それがタムタムであり、アイシィは配属祝いという名目でこの一式を当時の彼女に押し付けたのである。以降、彼女は飽き性のアイシィとは逆にいたくこの玩具を気に入ったらしく、肌身離さず身に着けている次第である。

 そのタムタムだが、彼女は長引く苦痛を進んで受け入れていた。

 病か怪我か、原因は問わない。地獄の業火で熱された窯底でのたうつかの如き苦痛と汚濁に塗れ、それでも直ちには息絶えることができず、生よりも死にすがるほどの絶望を長々と噛み締めながら、朽ちる。そのような不幸に襲われた哀れな対象者の死を、お気に入りのヘッドホンから流れるクラシックの音に鼻歌を合わせながら、最初から最後まで平気な顔で見届けられる天使はFBUにも珍しく、故にタムタムが有するその耐性への需要も大いにあった。


 即死を受け持つ「水蒸気の(ヴェイパー)」バリスタ。

 苦悶を受け持つ「霧の(フォギィ)」タムタム。

 そして、ほぼ全ての死に方を許容できる「雲の(クラウドハイカー)」アイシィ。

 FBU極東管轄の彼女たち三人は、その名から「掴みどころのない異端児」として知られ、尊敬と信頼と、表には出されない畏怖を、その他大勢の一般天使から向けられ、本人たちの気付かぬところで欲しいままとしていた。


「どーもどーも、有難く頂戴するよ」

 アイシィは翼を発現させ、タムタムから受け取ったチケットを左側の羽の隙間に納めた。

 先のゲームの報酬はこのチケットであった。とは言っても天界全土に流通しているようなものではなく、彼女たちが必要に応じて都度手作りするものであり、実際には三人の中で最も手先が器用なタムタムが制作を毎回担っている。

 FBUに所属する天使の主たる仕事は、他の天使が本来担当していた「眼に負えない」凄惨な最期を肩代わりすることだが、それがいつ依頼されるのか、人間と担当天使の都合に完全に依存していることから予想のしようがない。例えば、稼働中のミキサー車に足を滑らせるような大惨事をその天使が我慢して見届けることもあれば、口にした餅を喉に詰まらせて窒息するようなほぼほぼ外傷のない綺麗な死に方ですらFBUに投げる天使もい

る。

 依頼内容の死因があまりにも軽微であれば各統括長がそもそも棄却するが、こと極東管轄の統括長であるドラグヘッドにおいては彼の性格上、どのような些事であろうともその殆どをFBUとして受け入れている。故に、実際に働くアイシィ一行においては、他の管轄と比すると、仕事の総量も多ければ、退屈な仕事の割合も多いと言えた。

 加えて、他の天使たちと同じように、アイシィ一行にもまた個人的な事情というものがある。心の準備が事前に十分と得られる一般業務と異なり、その全てが五月雨式であるFBUの仕事とあらば、当人の気分と依頼内容が噛み合わないことも多々あった。

 そのような折に先のチケットが使用される。アイシィとバリスタとタムタム、この三人の間に限定ではあるが、彼女たちは仕事が面倒だと感じた際、手持ちのチケットを延々の大地へと返却する代わりに、別の二人のどちらかにその仕事を押し付けていた。要は仕事の又貸しである。

 アイシィたちに仕事を割り振るドラグヘッドの立場からすれば、預かり知らぬ内に行われる勝手な担当の変更は歓迎すべきものではないだろう。だが、賞品なしに賭け事は盛り上がらない。そして、天界にはまともな物品も金品もないとあらば、それに代わるモノをどうにか創造する他にない。かのような制約の中では「仕事の押し付け合いの正当な理由たるもの」が、やはり最も妥当かつ手頃な付加価値と成り得よう。


 アイシィがチケットを片付けた直後、彼女の翼に熱が伝わった。とんとんとん……と拍動のように背中が叩かれ、意味のある情報を伝達している。発信者はドラグヘッド。最後の一文まで待たずとも内容は仕事の依頼で間違いなかった。

「それじゃあ、早速こいつを使わせてもらおうか」

 アイシィは一度収めたチケットを再び手に取り、ひらひらと扇いだ。

「何か用事でもあるわけ?」

「いんや、全くないけど。今日は意味もなく有休が欲しい気分」

「次の仕事はそんなにつまんないやつなんッスか」

「ちょい待ち、えっと……火災か。じゃあ、焼死かな」

「収束予想はいつなの」

「十六分後。こんなに早いってことはガスに巻かれる方が可能性が高い……かな。それともウェルダンになるまで蒸し焼きかもしれない。現場を見ないと何とも言えないなぁ」

「じゃあ、ボクが受けるッス」

 よろしく、と言いながら、アイシィは先ほど出来上がったばかりのチケットを崩し、足元に撒いて適当に踏み均した。

「んっ、待てまて、火災か……丁度良いや。ちびちゃん、タムの仕事ぶりでも見学してたらどうよ」

「タムタム先輩のお仕事を、ですか?」

「そうそう。投げといて言うのもなんだけど火災はまぁまぁ面白いよ。似たようなシチュエーションでも、対象者の取る行動次第で死因がころころ変わって予測できないからね。焼死とは言っても脱水か中毒か窒息か、それ以外の外傷由来も当然あり得るし」

「焼けて息絶えるのは全て焼死ではないんですか」

「違うねぇ。そもそも正確には焼死なんてものはないんだよ。全身が火傷で覆われて脱水になって臓器不全に陥るのが、焼死のイメージに最も近い死に方かな」

「まるで、別の過程があるかのような」

「へぇ、鋭いね。さすが期待の新人だ。炎による直接的な死としては臓器不全が中心だけど、そこから負った火傷による間接的な死に着目するなら傷口からの感染症がメインになるね。後は煙に巻かれての窒息か中毒。見事なBBQに成る前にこっちでポックリの方がかなり多いよ」

「なるほど……だから、そう長くない内に亡くなる今回は窒息が第一候補ってことですね」


 ……うんむ、理解力に富んだ、やはり良くできた新人じゃあないか。


 アイシィは今一度、チエルの同席をタムタムに尋ねた。

 タムタムはアイシィの提案に二つ返事で了承し、膝を立てて座り込んだ正面にチエルを抱え込みながら、先の賭けのためにあけていた穴を二人で覗き込み、ドラグヘッドの依頼で指示された人間界の火災現場を一緒に観察し始めた。

 今度こそ、とアイシィが翼を格納しようとしたところで、またも背中に信号が届いた。

 念押しの再送だろうと気にかけなかったが、内容が全く別の一件であると読み取れたことで集中せざるを得ないと同時に、溜息をこぼさずにはいられなかった。

「我らがボスからまた言伝だよ。今度は……発破解体中の工事現場? 寿命の収束予測は二十三分後」

「へぇ。今時珍しい。この国で純粋な爆死だなんてな」

「そうとも限らない。吹っ飛んできた瓦礫で自分の頭もブッ飛ぶのかもしれないし、仕事場に不倫相手が押しかけてきて包丁で刺されるのかも」

「後者なら死に際は地味だけど見所がありそうだ。それで、どうする?」

「しゃあない、使うよ……ちぇっ、二枚持ってたのにどっちもこれでパァか」

 アイシィは閉じかけていた左の翼に再度手を潜らせ、どれだけ前に開催したゲームで得た報酬かも思い出せない、もう一枚のチケットを取り出した。

 長い期間を氷の翼の中で待っていたことにより、チケットは完全に凍り付いて石のように硬い一枚板となっていた。全体には霜がびっしりと堆積し、元々の状態と比べて何倍にも分厚さが増している。先と同じように砕こうとアイシィは手に力を込めたがその硬さに断念し、溶けたら延々の大地に戻すよう、バリスタへと投げて寄越した。

「わぉ。この時期に涼を得るにはピッタリ。下界に降りるつもりなんかサラサラないが」

「常に冷凍庫を担いでる気持ちが分かる? 気持ちよく昼寝してる時に翼がはみ出して、背中にペタッって氷が押し付けられる感覚」

「フツーの身体って素晴らしいって、その翼を見るたびにしみじみ感じ入るよ」

「そりゃ良かった。それじゃあ、私は優雅な昼寝に興じ……あぁ、もう……」

 アイシィは辟易し、でき得る限りの迷惑面で、キッ、と背後を睨んだ。

 背中は再三となるドラグヘッドからの信号によって叩かれていた。しかもその内容はFBU本部――統括長であるドラグヘッドの正面が便宜的にそう呼ばれている――への呼び出しであったため、どうあれ当人であるアイシィ本人が向かわねばならない。

 本部からこちらを望遠しているであろうドラグヘッドに見せつけるように、アイシィは大きな溜息をついた。


 ……依頼する順番がおかしいじゃあないか、順番がさぁ。


 滑稽なまでに予定が狂う様子が可笑しいのかくっくっと笑うバリスタと、お気の毒サマとでも言いたげな視線を向けるタムタムとチエルに見送られながら、アイシィはのそのそと、わざとゆっくり歩いてFBU本部へと向かった。




 3




「どういうつもりなのさ」

「何の話だ」

「可愛い部下の予定を弄んで、楽しい?」

「お前たちの意地の悪いお遊びと比べれば些細なものだろう」

 ドラグヘッドの視線は燃え盛る全身とは対照的に随分と冷ややかなものであった。深紅の宝石を思わせる眼球を一度アイシィへと向けた後、彼は書類の一枚が掴まれた手元へと再び視線を落とした。


 彼の全身同様その瞳もまた燃えている。それも、全身を覆う幻影とは異なり、実体と熱を有した確かな炎が滾っている。その特異な「燃える瞳」は、ドラグヘッドが昇格する際、カミサマに望み、得られたとのことだ。

 ドラグヘッドは眠らない、否、眠る必要がない。彼は二十四時間三百六十五日、ただ一人で質実に部下への指示と管理をこなしている。

 人手不足が最たる要因ではあれども、FBU極東管轄にいつまで経っても副統括長が就任しない理由は、ドラグヘッドの能力と勤勉によるところにもあった。建前とは言えど極東管轄本部という大層な名称を付けられたこの場が、今は彼の他にアイシィしか認められないがらんとした状態であるのも、そのような現体制が少なからず関係している。


「意地の悪い、って……はッ、それはまた心外だね。人間界からは天界の様子なんて知りようがないのに、私たちが遊んで誰が迷惑を被るってのさ」

「死に対する向き合い方が薄れることを、私は心配しているのだ。それがFBUに属する天使だとしてもな」

「そう思うなら、上級天使サマのお言葉って名目で禁ずればいいじゃない」

「強いるのでは意味がない。お前たちが自発的に止めることに価値があるのだ」

「かぁ~っ……そりゃあ、期待するだけ無駄ムダ、って言っておくよ」


 天界における死生観は概ね一致しており、変わらない。

 死とは状態でしかない。水が温度によって氷や水蒸気となるように、生は何らかの刺激によって死という状態に変化する。熱したヤカンの口から蒸気が噴き上がる様子に人間が感傷を得ないように、人間が生から死へと移行しても天使が胸を痛めることはない。

 一般的な天使たちは人間の死を嫌うのではない。死んだ状態の身体が赤黒く醜悪な肉塊へと度々崩れ、そのべちゃべちゃとした見た目が不快であると、単にそれだけの話である。

 対象となる人間を長い期間――場合によって大きな差があるが、極端な例では十数年以上も――天界から見守る一般天使であれば、その対象者の死に際に多少の情を向けることも極稀にあり得るが、ことFBUに属する天使においてそのような心情が湧き上がることはない。彼女たちは別の誰かから依頼された人間の最期「だけ」を見届ける。その流れ作業に情の一欠片など入りようも、入れようもなかった。

 故に、全般的に情に乏しい天使たちの中でも、FBUに属する天使――特に、「掴みどころのない異端児」などと呼ばれるアイシィたち――にとって、人間の最期に対して真摯だとか、敬意だとか、所謂キレイな態度は向けようがなく、むしろ業務の差支えに成り得る要因だと迷惑がるきらいすらあった。

 だが、それでもFBU極東管轄統括長であるドラグヘッドは、人間の寿命が尽きるその瞬間に天使たちが清く向き合うことを常に重要視しているようであった。

 天使の存在意義は、人間が孤独に終わらぬようその最期に寄り添うことにある。その事実上唯一の仕事に対する関心も真剣さも失くしてしまえば、天使は上から言われるがままに下を見つめるだけの置物となってしまう。

 ドラグヘッドは天界が機械人形だけになることを憂いているらしく、自らのかかわる天使たちのメンタルケアと合わせ、彼女たちが天使らしく居られるように配慮していた。その中にはFBUに所属する天使も――当然ながらアイシィたちも――含まれているとのことだ。

 だが、当の「掴みどころのない異端児」はドラグヘッドの親心に耳を貸す気などなかった。上級天使である彼とは立場こそ違えど同期であるアイシィとバリスタの二人は特に顕著であり、彼からの忠告を不真面目にあしらってばかりいる。複雑な立場故、アイシィは事あるごとに無用な反発をせずにはいられないのである。


「こんな、なぁんにも無い天界で、どうにか憩いのひと時を求めるのは至極もっともなことだと私は思うけどね」

「ならば昇格を受け入れよ。上級天使に成ればやることも増える」

「その分、できることも減るでしょ。例えば、二本の足で延々の大地に立ったり……」

 アイシィはドラグヘッドの目の前まで歩み寄り、とぐろを巻いた一番下の段をぺちぺちと叩き、

「自分の手で背中を掻いたり、ね」

 次いで、彼の尻尾の先に跨ると、そこから手を伸ばして背面を包む甲殻の隙間の一か所に差し込んでくすぐった。

「ぬぅっ、止めよ、そこはっ……!」

「昇格したら自分がどんな姿になるか、なんとなーく想像はできてるけどさ。今が一番ラクでいいよ」

 関節と甲殻の構造上、腕の届かない背中の一部をくすぐられ、どうにか痒みを抑えようとしているのであろう、ドラグヘッドはもぞもぞと身をよじっている。尾の先端から飛び降りたアイシィは彼の奮闘を正面に立ちながら、視線だけはちらりと自らの背中へ向けた。


 ……きっと私は、氷を取り込んだ意匠と成るに違いない。


 アイシィは背中に腕を伸ばし、身体の奥底に格納している翼の脈動を、今一度手のひらに感じた。


 天使は二つに大別される。

 ひとつは、人間界の見守りといった一般的業務を行う、所謂普通の天使。

 もうひとつは、彼女たち普通の天使を纏め上げて面倒を見る上級天使である。

 全ての天使が上級天使に昇格するわけではない。カミサマの手によって天界に生れ落ちた時点で、その天使には上級天使に成れるか、成れないか、一種の素質のようなものが既に決められている。

 上級天使の素質を有する天使は、天界にて研鑽を積み、適正な頃合いになると、カミサマの判断のもと昇格して上級天使と成る。その姿形はカミサマのインスピレーションと、当人の希望を鑑みて決定され、人型から大きく変わることもあれば、一部の変化に留まる場合もある。

 アイシィは上級天使の素質を有して生まれた天使である。

 彼女はドラグヘッドと互いに手を取り合いながら、同じ工場の近くに、同じく上級天使の素質を有し、同じ日、同じ時刻に、生れ落ちた。二人は同じ工場に配属され、同じ上級天使の世話となり、同じく学び、同じ様に成長した。

 だが、百五十年前の、ドラグヘッドが上級天使へと昇格したその日、アイシィは同じ上級天使にはならなかった。機会が訪れたことをカミサマから告げられはしたものの、昇格に関しては受け入れずに保留したのである。

 全く同じ境遇で天界に生れ落ちた二人であったが、その性格ばかりは正反対であった。天使としての責務を重要視する勤勉家のドラグヘッドとは異なり、アイシィは天使としての生き方を重要視している。

 このつまらない空の上で如何にして楽しく過ごすか……アイシィの行動原理は常にその一点にあり、良く言えば生を謳歌し、悪く言えば短絡であった。それ故に、のらりくらりと昇格を躱しては木端役員であり続けている。

 かつては気が変わったか否かをカミサマからそれとなく聞かれたりもしていたが、近頃では代理人としてドラグヘッドがその旨を時々アイシィに尋ねていた。彼はアイシィを昇格させる特権をカミサマから預かっており、いつでも彼女を上級天使へと押し上げることができるとのことだ。

 ただ、最も重要な要因である本人の希望が一向に述べられない以上、ドラグヘッドもこの特権を持て余しているに違いない。十分すぎるほどの経験を身につけており、加えて気心の知れる長い付き合いのアイシィは、ドラグヘッドからすればまさにFBUの副統括長にうってつけの材とのことだが、やはりアイシィは上位役職ではなく、一番下での指示待ちを望んでいた。


「それに、ただでさえ人手不足だってのに、私が昇格したら火の車に油を注ぐことになっちゃうよ。それでもいいワケ?」

「だからこそっ、お前にFBU所属希望者を……チエル・ガーランドを任せたのだ。お前の代役として働ける天使かどうかを見極める為にも、な」

 痒みが徐々に和らいできたらしく、ドラグヘッドは身をよじる動きを抑えながら話を再開した。

「あぁ、その件だけどさ。ちびちゃんには火事場の担当が向いてると思うんだよね」

「根拠は」

「火元が近くにあれば傷口は焼き塞がって血は蒸発する。ガスで窒息死なら赤色の血よりも青色の肌を見ることになる。知っての通り、火災は死因がギリギリまで断言しにくいからよくここ(FBU)に投げられるしさ。だから、少し限定的にはなるけど火災現場専門なんてどうかなって」

「ふむ、なるほど……」

「血の色が一瞬でも目に入ったらダメってワケじゃあないのは今日までの様子で大体分かったしさ。生きたまま棺桶に入れられて火葬されるような大惨事でも、ちびちゃんなら意外と平気な顔で見届けられるかもしれないよ」

「後輩の事をよく見ているではないか。お前に任せた判断は間違っていなかったようだ」

「よせやぁい、褒めてもチケットが返ってくるワケじゃああるまいに……」

 ドラグヘッドから予想外の称賛を受けたアイシィは、口ではそう返しながらも悪い気はせずにいた。

 元来、アイシィは面倒見がよい天使であった。偏屈者ばかりが集うFBUの中でも比較的社交的な部類であり、この部署を時折訪れる一般天使との窓口として割付けるには不足のない働きをしていると言える。

 ただ、少しばかり飄々とした――良い方向に捉えれば身軽で、悪く評するならば真剣さが希薄な――食えぬ性格が目につくようだが、今日までの功労を考慮すればそれもまたFBUにおいては許容される範疇にあった。

「労いの言葉だけでは不服か」

「香りだけだとお腹は膨らまないよ。甘い果実がないんじゃあ、ねぇ」

「そう言うだろうと思っていたからな、仕事を用意したのだ……出張の代行だ、行けるか」


 ……意地が悪いのはどっちだか、そういう話は最初にしなくちゃあ。


 話を終わりまで聞く前の段階で、アイシィの目は既に爛々としていた。


 出張とは、天使が人間界へと降りることを指す。

 その理由はただひとつ。寿命の供給を止められた人間に対して、これ以上の命の猶予が追加されなくなったという事実を説明するためである。

 人間は工場から伸びる寿命供給ラインを介し、寿命を常に後付けで得ることによって延命し続けている。この配分は人種、性別、年齢、貴賤、その他あらゆる差別なく、工場による機械的な平等のもとで一律に行われている。人間の余命の長さを左右する要素は寿命定着率であって、寿命自体の配分量によるものではない。

 だが、工場による完璧な寿命の配分を天使は意図的に乱すことができる。それは即ち、特定の人間へと配られる寿命の流れを根本から止めてしまうことに相当する。

 生きる希望を見出せず惰性のまま寿命を浪費し続ける者……心身に酷く不調を抱えることで寿命定着率が極端に機能しなくなっている者……そのような人間へと接続された寿命供給ラインのバルブを選択的に閉じることにより、それ以外の大多数の人間へと配分される寿命の総量を僅かにでも増やす。

 そのためにも、人間界を定期的に観察し、寿命を配るに値しない人間を選定して上へと報告する……それが、人間の最期を見届けること以外の、天使の数少ない仕事であった。

 さて、これ以上寿命を得ても無意味とみなされた人間への供給を停止したとして、天使はその旨を当人へと説明するために人間界へと赴く。それが、寿命を受け取れない状態にされた人間に対する、せめてもの誠意であるためだ。

 だが、この人間界への出張を快く思わない天使も多い。理由は幾つか存在するが、最たる例は「人間界での飛翔に自信がないため」というものである。

 天使は自前の翼によって空を駆ける。だが、天界での飛翔よりも、人間界での飛翔の方がその難度は格段に上昇する。人間界の大気に満ちるある種の粘り気が、天界では自在に飛び回れる天使であっても、一度延々の大地よりも下側に降りたならば途端に自在を失わせて不格好にさせる要因であった。

 そのため、出張は寿命を止められた人間を担当している天使本人が必ずしも向かう必要はない。人間界での飛翔に自信を持つ別の天使に出張を委託することはよくある話であった。

 多くの天使は出張を――と言うよりも、人間界そのものを――あまり好まない。天界からのぞく分には退屈凌ぎに丁度良いと考える者は多いようだが、実際に下界へと降り立つとなると先述した大気の粘度や面倒に思う気持ちが障壁となり、誰しもが溜息混じりに延々の大地を掘って出入口を作っている。

 だが、アイシィは出張を大変好んでいた。今日までに人間界へと降りた総数は優に三桁を数え、そう遠くないうちに四桁に到達するであろうことも現実味を帯びてきている。

 アイシィには出張の機会を断るなどという選択は欠片もなかった。どう考えても、天界よりも人間界の方が退屈凌ぎには事欠かないであろう……手間や危険よりも娯楽を優先する性格であったがためだ。


「行けるか、だって? 行くに決まってるよ! んもう、焦らしたがりのドラゴンだなぁ、我が上司は」

 アイシィはたちまち機嫌を直してドラグヘッドの尾に腰かけると、先ほどくすぐった彼の背の部分を懇ろに撫でた。その手のひら返しにドラグヘッドは呆れたようだが別段ぼやくこともなく、手元の書類に再び視線を落とし、今回の出張における主要人物のプロフィールを読み上げた。

有國翔(アリクニ ショウ)。三十九歳。男性。『強い自殺願望による寿命定着率の機能不全により』寿命供給ラインを停止。寿命収束時刻、八月二十二日十二時四十五分十三秒」

「んっ、自殺志願者の寿命供給ラインを止めたの?」

「そのようだな。この男の寿命定着率は0と見なして差し支えないまでに低下していたとのことだ」

「へぇ……珍しい。自殺したがりの決意だけで自発的に定着率を下げるなんてさ。どれだけ世間がイヤになったんだろうねぇ」

「人の心は移ろうものだ。良い方向にも、悪い方向にもな」

「まっ、私は人間界に降りられるのなら何でもいいけどね……っと」

 アイシィにとって、これから死にゆく者の身の上などどうでもよい情報でしかない。望むは人間界へと降りる口実であり、対象者がどのような理由で心身を痛めたかについては、トレーディングカードの下部に添えられたフレーバーテキストと同程度に、本質には影響しないものであった。

 アイシィはドラグヘッドの尾から飛び降りると、風圧に乱れた薄青の髪を手櫛でさっと整え、さて行かんと意気込んだ。

「おい、待て」

 その背中をドラグヘッドが呼び止める。

「何さ。今更、やっぱり無し……ってのはカンベンしてよ」

「服を着てから降りろ」

「っはぁぁぁ……かさかさして動きにくくなるから要らないってのに」

「忘れたとは言わさんぞ。以前の出張で……」

「あぁ、あぁ、はいはいハイ、わかりました、わかりましたよ、言うこと聞きますヨ……」

 アイシィは地面を突いていた足先を収め、工場の方角を望遠した。巨大な木陰を抜けた更にその先に、寝転がったバリスタと、チエルを膝に抱えたまま談笑しているタムタムの姿が確認できる。

 先ほどまでアイシィも座っていたその場所には、延々の大地を撚り集めて作った簡易的なハンガーラックが立てられている。鉄棒状のその一脚は、就寝時にタムタムがヘッドホンを引っ掛ける他に、アイシィが人間界へと降りる際に着込むワンピース型の服――この衣服もまた延々の大地を薄く伸ばして成形したものである――を吊るす役割も担っている。

 アイシィは暫し遠景を眺めた後、その場で少し髪を弄り、

「……これじゃあ、ダメ?」

 両方の乳房を隠すように横髪を正面へと垂らしてダメもとで確認を取ったが、ドラグヘッドからは相槌ひとつ返ってこない。

「……はいはい、着替えてきますよ。おぉ、怖いねぇ、服フェチってのはさ……」

 アイシィの嫌味にも耳を貸さず、ドラグヘッドはしっしっと、蚊でも追い払うかのような手つきで悪友たちのもとへと一旦戻るよう指示したため、彼女もまたこれ以上の悪態はつかずに一先ずの目的地へと進路を定めた。




 4




「――……おっ、帰ってきた。堅物上司に絞られでもしたの」

「いつもの他愛もない雑談だよ。そっちはどうだったの。ちゃんと爆死した?」

「心筋梗塞でバタン、で、終わり。死体の具合をちょいと透視したけどさ、血管はガチガチで血液はドロドロの典型的な高血圧だったよ。FBUに投げる前に対象者の体調くらい考慮して死因を予測してもらいたいもんだ」

「名も知らぬ依頼元天使の名誉のためにも一応言っておくけど、バリスタほどの眼じゃなきゃそこまで細かくは透視できないよ」

「どうしたよ、急に褒めたりなんかして。なんか良いことでもあったのか」

 曰く退屈な一仕事を終えて仰向けに転がっていたバリスタを横切り、アイシィはハンガーラックへと歩み寄る。吊り下げられた服の一着を手に取って身体の正面で掲げると、彼女は意図を汲んだらしく、「あぁ、はいはい」とおざなりに頷いた。


「出張ッスか、アイシィパイセン」

 膝の上に座るチエルにヘアアレンジを施していたタムタムは、視線をアイシィへと向けつつも、指先の作業は止めることなく尋ねた。

「まぁね。チケット二枚の犠牲は無駄にはならずに済んだワケよ」

「下界に降りるなら、こいつを充電してきて欲しいッス」

「先輩をパシりに使うとは、図太い後輩も居たもんだ」

「使えるモノは何でも使えって、その先輩に教わった気がするんッスけどね」

「『眠り虎(ヴォルトラ)』のところに行けばいつでも充電してもらえるだろうに」

「あの上級天使のところまで毎回行くの、地味に遠いッスからねぇ」

「それに、近寄ると静電気のせいで髪の毛がこうなるからね……っと」

 タムタムが身に着けているヘッドホンと音楽プレイヤーを片手に取るついでに、アイシィは彼女の白い頭髪をくしゃくしゃと弄って爆発させた。跳ねた頭頂部を見上げながらタムタムは「わざわざやんなくてもいいッスよ……」と独り言ち、ぶんぶんと頭を振った勢いで元の髪型へと戻している。

「…………」

「んっ。どうしたの、ちびちゃん。そんなに見つめちゃってさ」

 チエルからの熱視線にアイシィは気付き、感想を促した。

「……あっ、いえ……その、とても似合っていたので、つい」

「こっちの後輩は嬉しいこと言ってくれるね。ちびちゃんもその三つ編み、似合ってるよ」

 延々の大地を加工したワンピースは薄すらと桃色をたたえた白で出来ており、アイシィの薄青の長髪と組み合わさることでパステルカラーのツートーンを構築している。膝上数cm程度の丈からは長い脚がすらりと伸びており、単に裸体でいる時よりも相対的に見て、アイシィのプロポーションを更に優れたものへと映えさせた。

「いつ見ても……人間のオス受けしそうな外見だよな」

 バリスタはアイシィの容姿を世俗的に表現したが、その表現が的外れではないことを示す一件が過去にはあった。

 それはアイシィにとっては何気ない、これが何度目だったかも曖昧な、ありきたりの出張のひとつになるはずであった。しかしながら二十年以上前のその出張の折、アイシィは偶然と気紛れの末に人間の男と一線を越えることになったのである。




 *




 その男は世間一般的に見て恵まれた容姿ではなかった。ずんぐりとした骨格に過分な脂肪。思春期特有の面皰は早い内からぶつぶつと生まれ、それでいて何時まで経っても治まらず、長い学生時代の中で苛められたことのない期間の方が少なかったことは確かである。

 そのような境遇の男ではあったが性格までは存外腐らなかった。彼の人生の防腐剤として働いたのは幼馴染である一人の女の存在である。

 幼少期より読者モデルとして誌面の片隅を彩るその女が一声かければ、男へと突き立てられるクラスメイトたちの嘲弄は――少なくとも、人気者である彼女の目が届く範囲において――ぴたりと止んだのである。根本的解決ではないことは彼女自身理解していたが、それでも手助けを繰り返したのは、いつの日か大成してかつてを振り返る機会が訪れた時、記者やファンに対して一点の曇りなき過去を話せるようにしたいという利己的な理由があったためである。

 男は女の本心を知らぬままに庇われ続けた。その庇護を無下にはすまいと教養を磨き、彼女のためにも決して俯かなかった。

 女は自己満足のために男を庇い続けた。献身的な素晴らしい人物であるという評価を将来得るための先行投資であった。

 裏表錯綜するどこまでも食い違った関係であったが、心理学で扱われるところの単純接触効果を切り口に、二人の間の歪みは純粋な形状へと次第に矯正されることになる。男は真摯に……女は誠実に……本人同士ですらいつの間にと思うほど自然と、二人は恋仲となった。


 それから時が流れ、二人が齢三十となる年の初めの頃である。

 男はそこそこ大きな企業に入社し着々とキャリアを積み重ねていた。女はキッズモデルの経験と実績を生かすことでなおも服飾モデルとして活躍していた。

 多忙な生活は共に居られる時間を一日の内で僅かなものにしていたが、それでも二人に不満はなかった。帰宅すれば最愛の者が待っている……それ以上に望むべくが他にあるものかと双方ともに納得していた。

 その慎ましやかな納得の上で男は僅かに背伸びをした。花が好きだという女のために予定を詰めて揃え、最盛を迎えて咲き誇る八重桜を見に行こうと長距離ドライブを計画したのである。観光雑誌を前に二人で肩を並べてあれもこれもと予定を練るひと時……男が笑ったのはその日が最後になった。


 四月中程の当日。不慮の交通事故に巻き込まれたことによって最愛のパートナーを失い……それでいて、運転席に座っていた男自身はかすり傷程度の軽傷で済み……彼を真っ直ぐに立たせていた支柱は根元から折れることになる。自責と失意に精神を焼き切られ、男は廃人に近い状態となって日々を過ごしていた。

 俺も彼女と共に死ぬことができたなら……死ねなくとも、二度と起き上がれぬ昏睡に陥ることができたなら……この現実とは距離を置くことができたのに……と、男は常々死にたがっていたが、死ねなかった。

 自死を選べば、自らの親族にも、失った彼女の遺族にも、背を向けることになる。自分だけ生き残ったくせにその命を自分で捨てたのかと、侮蔑の眼差しを向けられるに違いない。

 男は死に救済を求めて手を伸ばしながらも、握り込めない恐怖に支配されていた。包丁の刃に反射する蛍光灯の冷たい光を見るたびに……輪にしたタオルのごわつく手触りを感じる度に……それらがもたらしてくれる瞬間の苦痛と永劫の安寧など、考えも出来ぬほどの胸の締め付けに襲われてしまい……やがて男は死ぬための努力をも放棄したのである。

 男は過ぎ行く時間が自らの命を運び去る瞬間を切望していたが、身体は皮肉にも健康そのものであった。精神面の衰弱による寿命定着率の低下は、肉体面の健全によって相殺され、彼は文字通りの生きる屍として、意に反して延命され続ける余生を過ごす他になかったのである。


 そのような折、男を担当していた天使は遂に彼の寿命供給ラインの停止を進言した。申請は滞りなく受理され寿命は配分されなくなった。その旨を当の担当天使の代わりに伝えるため下界へと降ったのが、アイシィである。

 天から舞い降りたという存在を目の当りにし……その天使が髪色を除き、今は亡きパートナーをどこか彷彿させる容姿であったことで……男は年甲斐もなく号泣した。

 男は自室の中央にて跪き、喉が裂け、声に血が滲むまで、懴悔した。

 そのあまりに痛々しく、直視に堪えぬ憔悴を哀れんだアイシィは、眼前で這いつくばる男を胸に抱き、彼が束の間の安息を得られるよう共に布団へと潜り……口ぶりだけは男の最愛の人のそれを真似て――圧壊した助手席にすり潰されて挽肉となった彼のパートナーの最期を見届けたのは、FBUとして委任を受けた他ならぬアイシィであった――……一夜を明かした。

 二か月後、男は残された寿命を使い果たして亡くなった。

 あの夜以降、二度と訪れることのなかった彼女が、もう一度降りてきてくれるいつかを心の拠り所としながら……




 *




「私も野次馬としてのぞいてたけどさ、あの一晩は……アっハッ、傑作だったよ! 天界のトップ3には入る大事件だったな!」

 アイシィが人間界にて繰り広げたかつての騒動を思い出したらしく、バリスタはけたけたと笑った。天使らしからぬ下卑たにやけ面を隠そうともせぬまま、「まっさか、人間と一発キメ込むたぁ誰が想像するもんか」とバリスタは茶化した。

「ボクはまだFBUにいなかったから詳しくは聞いてないッスけど……どうだったんッスか、人間の、そのぉ……味というか、なんというか」

「別段、良いもんじゃあなかったよ。途中も、後も、異物感がずうっと気になって仕方がなかったし」

「そうなんッスか。ボクはてっきり、これ以外考えられなくなるような極上の快楽なんだろうなって勝手に思ってたッス」

「そりゃあ、下界の薄い本の読み過ぎだって。ハマりにハマる中毒者の存在まで否定するつもりはないけどさ」

 アイシィは服越しに下腹部を二、三度さすり、「まぁ、私には合わなかったね」と端的な感想に留めた。

「あのぅ、何の話でしょうか」

「あぁ、ちびちゃんにはまだ早いかな、うん」

「隠されると気になってしまいます……」

「私が服を着て下界に降りないといけなくなった理由のお話だよ」


 人間と()()()()()()を果たした一件の翌日、天界へと戻ったアイシィはドラグヘッドに叱責され、今後は服を着てから人間界へと降りるよう誓いをたてることになった。彼曰く、不用意に性を意識させるような格好で人間と接触するなとのことである。

 積極的に誘ったつもりはひとつもなく、成り行きと偶然の結果であるとアイシィは反論したものの、ドラグヘッドの豪炎がこれ以上猛々しく不健康な赤に染まることを憂いたことにより、彼女は渋々ながらも今後の身の振りようを宣言した。

 その宣言は誓約書の形で現在もドラグヘッドの手元に保管されているため、上司の目に炎が灯っている以上、アイシィもまた自らの記した誓いに則って出張へと赴かざるを得ない。せめて書面として残さなければよかったと、彼女は出張の度に後悔していた。


「すくすくと成長したら、それこそちびちゃんも服を着なきゃ下界に降りられなくなるかもね。発育が悪かったら、まぁ必要ないかもしれないけど」

 ちらりとアイシィが視線を配ると、「マニアにはウケるかもよ」と、バリスタは平らな胸に手を添えながら自虐に聞こえる調子で応えた。

「僻むなひがむな、こればかりはカミサマのみぞ知るところなんだからさ」

「いいから、さっさと堕天しろ、色情天使(インフォマニア)

「I see」

「……何だって?」

「この了解の挨拶、流行らないかな」

「心配すんな、流行らせない」

「そりゃあ、残念」

 アイシィはヘッドホンを首に、音楽プレイヤーを腰近くの小物入れに、それぞれ位置を決めると、悪友二人と新米天使の見送りを背に、延々の大地にあけた穴から人間界へと飛び降りた。

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