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揺るがぬこころ




 1




 有國翔はズボンが汚水に塗れることも構わずに腰をついた。

 ばしゃんっ、と、室外機の排水が作る水溜まりに尻が浸り、数瞬遅れて生温い液体が染み込み始める。濡れている部分の境界線はじわりじわりと、皮膚感覚が追える速度で侵襲して面積を広げてゆく……やがて、繊維の隙間に吸い上げられた汚水は股間まで至り、翔は幼き頃に失禁した経験を想起した。


 小学校低学年の初夏……

 帰省先の田舎の非日常に身を委ね、一人遠出をしたその帰路にて……

 一時間に数本もないバスのひとつを取り逃し……

 次の便を待つまでの空白期間に耐え切れず……

 翔はバス停の前にて盛大にズボンを濡らしたことがあった。

 数分後にバスがやって来ると親切な車掌はぐすぐすと泣きじゃくる彼をあやし、自宅最寄りのバス停まで送り届けた。

 その時に車掌から貰ったパインアップル飴の味を、翔は今でもやたらと鮮明に舌先へと浮かばせることができる。


 長く振り返ることもなかった古い記憶が、齢三十九を過ぎて暫くが経つこの頃となってふと回想されたのである。

 翔は地面を擦りながら後退り、背中をビルの壁面へと貼り付けた。これ以上後退できない現実を日陰のために冷ややかなコンクリートの感触から得てはいたものの、それでも尚後ろへ下がろうと地に付けた両手に力を込めて背後を目指す。その力強さは背中を壁沿いに持ち上げて座高を少しばかり高くさせた。


 ……何故、どうして、こんなことが。

 ……嫌だ、俺は死ねない、まだ死ねない。

 ……こんなところで死ぬワケにはいかない。


 翔は右手のすぐ傍に空き缶がひとつ転がっていることに気が付き、咄嗟に手に取ると正面へと投げつけた。この判断が吉と出るか凶と出るか考えての行為ではない。目の前の脅威を排するための、投擲に優れた人間特有の本能的行動。

 中身のないアルミ缶は情けない速度で前へと進み、対象物に音もなく当たると、地面へと落ちてもう幾ばくか聞き取りやすい高い音を鳴らしながら、からんころんと転がった。

 武器と呼ぶには粗末すぎる文明的なゴミを投げつけられた相手は不機嫌そうに顔をしかめながら、飲み口に不衛生なぬめりを残す缶を拾い上げている。


 翔の瞳にその一人は人の形に映りこそすれど、受ける印象は人のそれではなかった。

 陶磁器のように滑らかな、傷ひとつない皮膚……

 水晶が埋め込まれたかのような眼窩……

 固体のように個を成し、液体のように流れ、気体のように溶け合う髪……

 美術彫刻の如き完成度をどこか思わせつつも、翔の眼前の一人はそれすらも超越した極致にあった。

 言い表すならば、完全無欠。

 物事を美醜の一次元で評価するならば、その一人を構築する全ては、考え得る限りの最大限の美に寄っていた。指先の形状……関節の折り目……瞼の厚さ……爪の色……どれもが、翔が今までの現実において目にした中と、虚構の上に描いた中で、最も素晴らしいものであった。

 だからこそ、翔は恐怖した。目の前の一人は確かに人の形をしてはいるものの、人であるとは思えなかったのである。あまりに精錬された無駄のひとつない完璧な造形が、自然の生み出す生命的な揺らぎすらも取り除いており、生物が持つはずの0と1の中間要素がそこには含まれていないように感じさせた。

 そして、翔は直感した。

 目の前のコレは、人を模した別物だと。

 俺を殺しに来た、()()だと。

 それは論理的思考を常とする翔にとっては通常到達し得ない結論のようでもあるが、そこに存在するものを第一に信仰する現実的側面を考慮するならば、行き着く先としてはむしろ妥当とも言えた。翔はこの瞬間、図らずも無神論者からの脱皮を成したのである。


「あぁ~あ、ちょっと、もう……得体の知れない汁が付いちゃったじゃん。フレーバーをトッピングしてくれって注文した覚えはないんだけど」


 正面に立つ者は先の空き缶の底に残っていたであろう内容物の数滴が染みたワンピースの胸元を指先で摘み、ぱたぱたと扇いで乾かしている。もう片手に握られた空き缶へと視線を落とし、表面に印刷されたピーチネクターとの表記を認めると、「神の飲み物(ネクタール)、ねぇ。随分と自信家な商品開発部もいるもんだ」と、口先ばかりであろう感心を示した。


 その死神の物言いは、翔の空想上に住む同一の化物の言葉としては重みや威圧に欠けたものであった。上から下ではなく、横から横へと語りかける口調。そこには親し気を通り越した馴れ馴れしさのようなものがあり、よって翔の警戒心は狂乱に至る喫水線から薄皮一枚分の厚みだけ無理やり剥がされた。

 目の前の死神とは言語による意思の疎通が可能であろう……そこに翔は一縷の望みを見出そうとした。このまま無慈悲に殺されたくはなかった。


「おっ……お、お前の……望みは、なっ、なん……なん、だ」

「もっと落ち着いてハキハキ喋ってくれることかな。噛みまくってるせいでなんて言ってるのか、きっ、きっ、きっ……聞き取れないよ」

「すっ、すまない……っ……はぁッ……!」


 これ以上、死神の機嫌を損ねまいとする翔の懇願混じりの謝罪もまた、極度の緊張による過呼吸のために都度引っ掛かり、流暢ではなかった。

 委縮するばかりの翔を前に死神は暫し、ふむ、と顎に手を当てて考え込んでいたが、次の瞬間、


「ばァっ!!!」

「っッ…………――!!」


 両腕を斜め上へと勢いよく掲げ、ハロウィンの闇夜に菓子を強奪しようと襲い掛かる子どもかの如く、翔を驚かせた。

 翔は固く目を閉じ、揃えた両腕の内側に顔を押し付けた格好となり、びくりと全身を跳ね上げた次にはそのような姿勢の置物となった。唯一生きているのは握り締めている指先だけであり、かたかたと小刻みに震える動きを抑えることができずにいた。


「驚かせ甲斐があるねぇ。ちょっとゾクゾクしちゃったよ、ヤバイやばい」

「…………」

「おやおや、ズボンがびしゃびしゃだよ。水溜まりの上にコケて良かったね。それがエアコンの室外機から出たやつなのか、膀胱から漏れたやつなのか、傍目にはわかんないよ」

「…………」

「黙んまりは寂しいなぁ。さっきの口ぶりからして、私に何か聞きたかったんじゃあないの?」

「…………」


 片手に握ったままの空き缶を後ろへと放り投げ、死神は膝を軽く曲げて目線を下げた。保育士が児童と交流する時のように、あるいは、親戚が初対面の兄夫婦の子と向き合う時のように。

 そうして死神は翔が冷静さと呼べるものを取り戻して自発的に面を上げる時を、その場で屈んだまま待っていた。


 西暦2035年の八月十一日、午前十一時三十二分。


 大小のビルが作り出す裏路地には閑散とした寂しさを打ち消すかのように鋭い日差しが差し込み、この場のたった二人をほぼ真上から照らしている。

 さながら、舞台の演者を照らすスポットライトのように……




 2




「――……結局、俺はお前のことをどう呼べばいい」

「『異世界からの使者』でも『ダイナマイトボディの美女』でも、好きに呼んでいいよ。

ただ、まぁ、空の上では専らアイシィ・クラウドハイカーって呼ばれてるけどね」

「『雲を駆ける者(クラウドハイカー)』か……死神にしては大層な名だな」

「死神が実在していると思ってるワケ? 可愛いねぇ。地獄の窯底も、天国の楽園も存在しないよ。あるのはカミサマが作った天界と、暇を持て余した天使だけ」

「掃き溜めを酔狂が支配していることに違いはないだろう。だから、お前のことも『冷たい奴(アイシィ)』と呼ばせてもらう」

「いいねぇ、エンジンがかかってきたんじゃないの。ついさっきまで人見知りのハムスターみたいにぷるぷる震えてたってのに」


 翔は生来の口調と、それに伴う刺々しい不愛想を取り戻し、アイシィと対峙した。

 げつげつとした喉仏の見た目と乖離しない、水分不足を思わせるざらざらとした声質と低い声音。ハスキーボイスの原因は長年の喫煙歴からなる軽度のポリープ様声帯にあった。


 つい十分か十五分前まで、翔は科学に魅せられた一般人の一人であったが、その無防備な背中にアイシィが声を掛けたことにより、彼は理化学一神教から多神教への鞍替えに成功した。

 その変わり身の早さを、ある者は柔軟性に富むと評し、またある者は背徳ばかりの蝙蝠野郎と蔑むことだろう。だが、翔にとって他者からの評価などに価値はなかった。彼からすれば自身が納得できるかどうか……それこそがただひとつの絶対的な指標であり、信ずるに値する神が有すべき資格そのものであった。


 目の前の()()()()()が自身に対し、直接の危害を加えに降り立ったわけではないことと、これからもそのような手出しをすることがないと、朧気ながらも判断できたその瞬間、翔にとってこの異形は恐怖に類するものではなくなった。

 小学校で共に学んだ名も知らぬ級友の一人……

 中学で飲酒を薦めてきたどうしようもない不良の一人……

 高校にて授業中にもかかわらず大声で馬鹿騒ぎを繰り返していた下賤の一人……

 大学にて代筆ばかりを頼んでくる本末転倒な無能の一人……

 翔の中でアイシィはそれらと同族に区分された。

 ただ、そこにあるだけの、価値のない物体(オブジェクト)……


 翔はふん、と鼻を鳴らしてアイシィを今一度品評した。

 彼女の青白い髪はさながら氷の糸のようであるが、八月の気温と日差しに溶けることなく、ベタつきとは無縁の様相で下へと引かれて風に揺れている。その髪を乗せた小さな顔や、張られて丸みを帯びた双丘……引き締まった大腿の付け根やくびれた腰が衣服越しにも容易に想像できる魅惑的な体型……姿形を売り物とするモデルや役者としてならば、商品という面から見た価値については確かに発生するであろう。

 だが、天使の仕事について簡便ながら概要を聞いた時点で、翔はまず彼女らの存在そのものに心底価値がないと結論付けていた。


 ……人間を空の上から眺めることがこいつらの仕事だと。

 ……それも、その死に際を昼寝の合間の暇潰し感覚で見下ろす、と。

 ……こんなくだらない物体に怯えていた俺の早合点の方が怖くなるな。


 翔の口調は指数関数的に当たりを強くし、天使を自称するその物体への恐怖は当然のこと、敬意や感心の類に至っては得るよりも先に失う有様であった。


「……それで? お偉い天使サマがわざわざ下界に降りてきて、どうして俺に声を掛けたんだ」


 冷や汗が引っ込んで下がるばかりの体温をどうにかするためにも翔は尋ねた。興覚めと軽蔑が内側から後押しし、このままでは心身共に本当に風邪をひきかねないと錯覚すらさせていた。


「さっき、ちょろっと説明したそのまんま。キミの寿命がこれ以上伸びなくなったって事実を、親切にも伝えに来たってワケ」

「その理由は、俺が『自殺しようとしているから』って言ってたよな。それは本当のことか」

「逆に私が聞きたいことだよ。自殺したがりのせいで寿命定着率を使い物にならなくさせてるのに、どうして死神と対峙して取り乱したのかってところをね。そうまで死にたいのなら、むしろ諸手を挙げて歓迎してくれたっていいものをさ」

「質問に答えろ。俺はお前に殺されるのではなく、俺の望むタイミングでそう遠くないうちに死ぬ。それは間違いのない事実なんだな」

「寿命定着率が機能しなくなった原因を考えれば、最終的にはまぁそうなるのかねぇ。少なくとも私たちが手を下すことはないよ。天使が人間に直接危害を加えるのは禁忌に該当するからね」

「そうか。ならいい」


 翔は思い描いていた予定が崩される心配がないことを改めて確認すると、安堵に少し頬の緊張を解いた。強張っていた筋肉が緩み、眉間の皺も若干浅くなる。その運びで彼のありのままの全身像がビルの合間に差し込む白日の元に明らかとなった。

 百八十八の背丈に備わっている贅肉の削がれた長い四肢は食べかけの手羽先のようであったが、捨てるには未だ惜しいくらいの肉は残っている。その少量は実生活において誠に必要となる分だけが的確に用意されており、不健康というよりも機能美と呼んだ方がしっくりとこよう。

 僅かに窪みの影を作る痩せた頬と、黒目の左右と下方に余白を取る三白眼。枝毛混じりの髪は不愛想にまとめられ、頭部の輪郭線内から何本かが跳ねて飛び出している。

 眉間は緩んだとは言えども皺の跡が癖となって筋走り、同様にして顎先の肌にもまた些細なことでも寄せ集まることを示す証拠が刻まれている。刀を下ろした苦労多き牢人……風体はそのようにも例えられようか。


 翔の全身――特に顔付き――を、アイシィはしげしげと眺めていたかと思うと、ややあって話を切り出してきた。


「何でまたそんなに死にたがってるワケなのさ。言っておくけど、自殺願望だけじゃあ本来そう簡単に寿命定着率は下がらないんだよ。頭では死にたいと思っていても身体と本能が死を拒絶するからね。定着率が多少下がりはしても、0になることなんてそうそうない」 

「お前に何か関係でもあるのか」

「いんや、何も。ちょこっと興味が湧いたってだけ。死にたがりのくせに顔付きばかりは穏やかに見えたからね」

「放っておけ。天使とやらは人が生きようが死のうがどうでもいい存在なんだろう」

「まぁね。ただ、身体の不調のせいじゃあなくて、精神面の方向性による寿命定着率の低下が原因だ……ってとこは念押ししたくてね」

「何が言いたい」

「頭の中でどう考えてるのか知んないけどさ。もうちょいとばかり気楽に生きようとすればそれだけで長生きできるよって話。その時は私が工場のバルブを開いて、もう一度寿命を注いであげるからさ」

「余計な世話だ。もういいだろう、さっさと空の上に帰れ。それで話は終わりだ」


 翔はその場から立ち上がり、帰路に付くべく裏路地の先へと視線を向けた。

 ジーンズは日差しに熱されたアスファルトへともたれかかっていたことで少し水気を飛ばしていたが、乾いているとは到底言えない状態であった。生地の湿気った部分は乾燥時よりも濃い暗色となっており、濡れていることが遠くの者の目にも明らかである。

 翔は小さく舌打ちし、ジーンズの内側へと入れていた上着をたくし上げて露出すると、腰へと垂らすことによって濡れている部分を隠した。そのTシャツの生地もまた水を吸っていたが、元の白色のために変色は比較的目立ってはいない。

 その場凌ぎのカモフラージュを施し、翔は歩を進めて路地の先へと向かったが、


「ねぇ、ちょっと!」

 背中をアイシィに呼び止められ、顔だけを雑に振り向いて対応した。

「まだ、何かあるのか」

「わざわざ天界から降りて、大事な情報をお知らせに来た慈愛溢れる天使が目の前にいるんだよ」

「それがどうした」

「お茶の一杯、出してもバチはあたらないよ」


 ……こんなやつらに上から見張られているとは、人間も哀れなものじゃあないか。


 翔は呆れるばかりであった。同時に、かつて信じていた――無論、本心ではなく子ども心にという程度のものだが――天使という崇高な概念が、洗濯機に間違えて投入したポケットティッシュの屑かの如くぼろぼろと崩れ去り、その崩壊の様が不快を通り越して、ある種の可笑しさの段階にまで到達していることを認めた。

 翔は目の前の天使の提案を鼻で笑ったが……その拍子にきっかけや性質こそどうであれ、自分が相当長らくの間、笑っていなかったことを不意に自覚し……人類全般へと向けていた哀れみの一部は己の生き様にも向けられた。


「来客用のお茶はなくてもいいけどさ、せめてこいつを充電させてほしいんだよね」


 アイシィは首元に引っ掛けていたヘッドホンのコードを手繰ってポケットから音楽プレイヤーを摘まみ上げると、見せつけるように翔へと液晶画面を向けた。バッテリー残量は赤色で12%を示している。


「そんな人間くさいモノも天界にあるのか」

「いや、これは前の出張で別の人間から譲ってもらったやつ」

「充電するために毎回空から降りているのか」

「まさか。普段は『眠り虎』……あ~っ、えっと、まぁ、雷を操る偉い天使に充電してもらってるよ。ただ、そこまで行くのも距離があって結構面倒でね。私の後輩の労力削減のためにも、ここはひとつ協力してよ」


 翔は大きな溜息を吐くと、「手短に済ませろ」とだけ言い残し、以降は何を話しかけられようと無言を徹底して帰路に集中した。その背中の数歩後ろにアイシィがついて来る。

 翔にとって、自身の寿命がこれ以上伸びなくなったという情報には関心がなかった。彼にはそこから導き出せる間接的な部分――自殺によって死ぬ以上、自らの計画は確実に実行できるという保証――が重要であり、それはアイシィの口によってほぼ確定事項となった。

 そのささやかな満足が、心の玄関口からチェーンロックを外すまでは至らずとも、扉を少し押し拡げて外気を取り入れる隙間程度をこじ開けたことは間違いない。そうでなければ誰がこんな得体の知れぬ物体を、と……翔は己が対応をそう分析した。


 翔は後ろを歩く薄青髪の女が知り合いだとは思われぬよう――ついでに、自らの濡れ鼠の有様を衆目から隠すために――できるだけ人気のない通路を選択し、足早に自宅を目指した。




 3




 古びた三階建てアパートの端の一室、106号が翔の居住地であった。

 出入口の縁の金属部は全体的に錆びており、開閉の度にどこかがぱらぱらと剥がれて玄関口に茶色の粉を落とす。そこから生じた微かな隙間からか、夏場は蚊よりもなお小さな羽虫が侵入しているらしく、それら不届き者が室内に置かれた機材の文字通り不具合(バグ)とならぬよう、玄関扉には防虫剤を仕込まれたプレートが一枚貼り付けられている。


 踏み込んだ室内は一見して生家とは思えぬものであった。玄関マットや消臭剤、観葉植物、カレンダー……そのような、有っても無くても人によっては困らない雑貨のみならず、そもそも物というモノが殆ど見受けられない状態が広がっている。

 その内装を表すなら、夕刻に搬入が完了した転居先の夜である。そこから、荷物を詰め込んだ段ボール箱を全て取り払うことで、翔の部屋の大部分は再現できた。それほどまでに室内には何もなく、フローリングばかりが目立つ。


 ただ、空疎な室内とは似つかわしくないまでの重厚感を有す木製の机がひとつ設えてある。翔が中古品販売店で購入したその学習机は左と奥を壁にぴたりと付けており、一台のラップトップと数多くの書類、僅かな文房具、科学を題材とした専門誌が、傍目には乱雑に――当人としては最も使いやすい具合に――配置されている。

 その机の右隣には同じく木製の無骨なサイドテーブルが置かれている。上下二段に分かれている内、上段には大きな長方形の機械が鎮座し、下段には工具箱が蓋を開けっ放しにされた状態で用意されている。

 左の大きな机と、右の小さな机、それぞれから垂れ下がる無数のケーブルは足元でごちゃごちゃと絡まりながらも接続先のテーブルタップとどうにか手を取り合っており、今のところは安定して給電している状態にあった。


 翔の()()()から反対を向いた先の壁際には濃い藍色のソファ、兼、寝床が置かれ、それが室内の主たる全てであった。残りは風呂場やトイレ、洗面所、クロゼットなどに用意されているものの、どれもが最小限であり、とにかく、不要なものは排されたミニマリストの生活空間が広がっている。

 冷え冷えとした剥き出しのフローリングと、物干し台へと続く大窓の傍にそびえる直射日光を遮る木が、八月半ばにもかかわらず体感気温を低いものに感じさせるよう働きかけている。よって、翔は毎年のように冷房を付けるつもりも、窓を開け広げるつもりも起こさずにいた。


「う~ん、なんて言うか、こう……」

「不満があるなら今すぐ帰れ」

「いやいや、そうは言わないけどさ。65点!って感じだよね」

「天使でもサムターンの回し方くらい分かるよな。左に九十度だぞ」

「ゴメンって、余計な口は出さないよ。うん、よく見るとシンプルでいい部屋だね、こりゃ」


 たった今施錠したばかりの玄関扉を指して翔は迫ったが、アイシィは一歩早く室内奥へと入り込んでいた。翔は深追いしなかったが、代わりに別の事柄が目立ちそちらに着目せずにはいられなかった。


「おい、そのまま入るな」

 簡素な玄関から、同じく簡素な居間へと進んだアイシィの背を翔が制止する。

「タオルで足を拭け。部屋中を砂だらけにされたらたまったもんじゃない」

「おや、私の素足が気になるようで」

「服を着るのなら靴も履いてくるんだな。たとえ、天使に痛点がないんだとしても……」

「ちょい待ち。私が熱々のコンクリートの上をぺたぺた歩いてついてきたって、もしかしてそう思ってる?」

「どこか違うところでも」


 風呂場の手すりに掛けていたバスタオルを手にしながら翔は聞き返した。

 その疑問は言葉ではなく、その場で二十センチばかり浮上してフローリングに影を落としたアイシィの行動によって解消された。


「こう見えても気配り上手でね。キミの家を汚さないためと、私の足が焦げないように、下界に降りてからはずうっと薄っすら浮かんでいたんだけど、気付かなかった?」


 居間の隅に寄せられたソファにアイシィは腰を下ろし、足を組みつつ一方を差し出して左の足裏を晒した。傷や埃のひとつ付着していない滑らかなギリシャ型。彼女は小指から親指へと一本ずつ器用に屈伸させながら、長年の出張経験で身につけたという超々低空飛行の成果を得意気な顔付きでアピールしている。

 アイシィは足を組み替えて右の足裏も正面へとかざした。その際に服の裾が捲り上がり、二本の白い太腿の間から奥の暗がりへと、窓から取り込まれた光が一瞬差し込む。その運びで彼女の秘所が露わとなるかまでは咄嗟に判断できなかったものの、翔は視界の中心にアイシィを捉えることを止めて、自身の着替えを収めているクロゼットへと注目するためにさっと背を向けた。


 ……どうにも調子が狂うなと、翔は胸中でぼやいた。


 翔には女の裸体への耐性がないわけではない。ポルノサイトで動画像を流し見たこともあれば、実際に女と交わった経験も少ないながらある。露わな肢体や性器に逐一興奮するほど飢えているつもりはなかった。

 ただ、誰かを部屋に上げたことが相当久しくぶりであったがため、間近での衣擦れや所作のそれぞれがやたらと気にかかり、集中力を乱すのだ。


「ピュアっぴゅあの純粋ボーイだね、微笑ましい限り」

 翔の内面を知ってか知らずか、アイシィはそのようなちょっかいをかけてきた。

「純粋と呼べるほど小奇麗でも、少年なんていう歳でもない」

「キミを見ているとセロハンが頭をよぎるよ。色付きの膜みたいな、ちょっとした暇潰し(ガジェット)にピッタリなやつだけど、触ったことはある?」

「少なくとも、お前よりかはな」

「ピンっと張った清潔な一枚のまま飾っておきたくもなるし、後先も何も考えずにくしゃクシャくしゃぁ~ッ、って滅茶苦茶にしたくもなるし、不思議だよね」


 指先で空を揉みながらおどけるアイシィを前に、翔は今この瞬間まで抱いていた己の勝手な先入観を疑わずにはいられなくなって質問した。


「……お前、いくつだ」

「いくつ、って」

「空の上で何年、生きてきたんだ」

「へえぇ、女の子に年齢を聞いちゃうんだ」

「女も男もないだろう。人に非ず者には、特に」


 それもまた一理あると言わんばかりに、アイシィは翔の言い分を大きく頷きながら認めたようである。

 やがて、彼女は意地悪気な表情を浮かばせると、「何歳に見える?」と逆に問うた。


「質問に質問で返すのが天使とやらの常識なのか」

「言うだけ言ってみてよ。当てずっぽうでもいいからさ」

「……二十四、か、五、あたりか。見た目ばかりはな」

「んっ? どういう意味かな」

「精神年齢はそれ以下に思える、って意味だ」

「まぁ、誉め言葉ということにしようか。外側も中身も若く見積もってくれたことをね」


 アイシィはソファから足元のフローリングへと飛び降りた。艶やかなオーク材から冷感を得たのか、彼女は一度ふるりと身をよじった。その足をぺたぺたと鳴らし、翔の作業場の前へと進んでゆく。


「コンセント、借りるよ。あと充電ケーブルも。しっかし、まぁ随分と……ごちゃごちゃして見苦しいなぁ」


 作業場に散らかる書類や工具を眺めながらアイシィが呟いた。

 持ち主以外から見たならば、確かにこの机の上は混沌の渦中にあろう。しかしながらそれは第三者の直感に依る感想に過ぎず、現に翔にとってはこの形こそが最良のものであった。

 その揺るぎない事実をわざわざ訪問者に理解してもらうつもりはなく、代わりに翔は先の質問の解答を再度要求した。


「おい、答え合わせは無しか」

「年齢のこと?」

「聞きかけで話を打ち切るのは気分が悪い」

「キミが想像している十倍は夜を明かしているよ」

「何……」

「人間は年長者を手放しに敬うんだって? なら、私のことも存分に崇めるといいよ、少年クン(リトルボーイ)


 目当てとするケーブルを机の片隅に見つけたアイシィはその場で屈み、床に直置きされた分配機の空いた部分へとプラグを差し込んだ。もう一端を音楽プレイヤーの底に接続して給電が開始されたことを確認すると、彼女の興味はまたふらりと移ろいだようで、手持ちを机の上に投げ出した後、ふらふらと作業場の傍を観察し始めた。


 ……幼児のような振舞いのコレが、俺の数倍は生きているとはな。


 一般家庭としては珍しい工具や書籍に向かってはぁだのほぉだの感嘆をもらすアイシィの背を、部屋の対角にあるクロゼットの前から翔は眺めていた。

 合わせて、翔は自らの生涯において知った年上の人物を思いつくままに脳内で列挙した。勉学の師、上級生、職場の上司、テレビやラジオに出演する俳優や芸人……彼の中で最も親交が深かった一人を除いて、その中に大した顔は見当たらなかったが……誰しもが多少なりとも年相応の振舞いというものを認識し、周囲の目を気にしていたように思える。

 だが、つい先刻に会ったばかりの初対面を相手に無邪気な背を隠すことなく晒すコレは、誰かの視線などどうとも感じていませんといった態度であり、浮世はおろか人の常さえ確かに外れていると、翔は改めて分析を巡らせた。

 全人類に遍く潜在するはずの猜疑や自尊を持っているようには思えず、人間と天使という種族を境とした隔世の感を翔は受けると共に、今現在の自身のモノの見方がこの天使と決定的にかけ離れているわけでもないということを認めた。その漠然とした共感が、人間特有の猛毒を自分だけは有していないぞという驕りのようにも捉えることができたが為に、翔は誰に向けてということもなく小さく舌打ちした。


 翔は背後へと向けていた視線を外してクロゼットの扉を開いた。

 選ぶほどの種類はない。無地で飾り気のない単調な上着やズボンのどれもがフォーマルとでも、カジュアルとでも分類することができそうなものである。そのことは承知済みのためやはり選ぶことも、迷うこともないままに、乾いてさえいれば何でもよいと適当なハンガーへ手を伸ばし、湿った上下の替えを手にしようとした。


「――……『殻模型に始まる各方面から見た核構造において共通するは、その原子が有す

る核の安定性には歴然たる差が存在するということである』……――」


 背後の独り言に手を止めて、翔は面を振り返った。

 彼からすると知っていなければ非常識の部類に入る、原子核に関する基礎知識。

 作業場に平積みされた一冊をアイシィは眺めていた。人差し指一本でページを捲り上げては目に留まった部分を復唱するという、読書よりも観察に近い動き。しかしながら内容を見つめる眼差しばかりは関心から完全に遠ざかったものとは断言しづらいものであったがために、その様子に対し、翔はアイシィへと再び話しかけざるを得なかった。


「分かるのか」

「んっ、何が」

「核分裂可能物質について、知っているのか」

「かく……ブンレツ、カノウブッシツ?」

「あぁ、待て、言い直そう……核分裂性物質について知っているのか」

「どこを言い直したのさ。二つとも同じに聞こえたけど」

「……いや、いい。忘れてくれ」


 アイシィは目的とする語を手元の一冊の現在地から一枚ずつ遡って探しているようだが、その行動に翔は途端に興覚めして話を打ち切った。わざわざ調べなければ今の二つの違いも判らぬ以上、持ち合わせる知識量も即ちその水準であろうと容易に想像ができた為である。

 そもそもの話、非現実の集大成かの如き目の前の天使に、現実世界の――無論、人間である翔の目線からした実在ではあるが――理について意見を求めようとすること自体が、どこかずれた期待であった。声を掛けた後となってそのことに気が付いた翔は、半ば反射のように興奮した自らを恥じ、数秒前のやり取りを記憶から取り除く為にも、再び着替えへと集中しようとした。


「ねぇ、何を話そうとしてたの」

「だから、それはもういい」

「聞きかけで話を打ち切るのは……なんだったかなぁ~、さっき誰かさんがそう言ってた気がするんだけどなぁ~」


 何故なぜ期の真っ盛りの幼児さながら、ねぇねぇ、と会話を催促する背後へと今度は明確な意図を込めて翔は舌打ちを返した。しかしながらその威嚇は全く効果を成すことなく、次第に翔は延々黙っているよりかは、この幼児の知的好奇心を表層だけでも満たしてやる方が結果としてはどれだけか手間が少なくて済むのではないかと考えを改め、渋々と方針を転換した。


「天界とやらに学び舎があるかは知らないが……原子くらいは知っているよな」

「ん~、なんとなく。人間界で一番小さなモノだよね」

「やはり、この話は止めておくか」

「えぇっ、どうして」

「もう既に、最低限必要なはずの正しい知識が身についていないようだからな」

「それじゃあ聞くけど、人間界で一番小さなモノってなんなのさ」

「標準模型に含まれる素粒子の内で……クォークとレプトンにあたるものがそうだろうよ」

「ふぅん。ならもうひとつ。その素粒子とやらよりもなお小さいモノが絶対に存在しないって、自信を持って言える?」

「現在の理論上ではな。理論の破綻と更新はありふれた話だ」

「そう。絶対なんて断言できるものがない以上、正しい知識なんてものも厳密には存在しない。つまりはだね、聡明なキミも、愚昧な私も、いつ崩れるかも知れない土俵で相撲を取っているという意味では同じ立場ってワケよ。遊び場に作った盛土の上からじゃあ、周りを見下ろすにしたって少々低すぎやしないとは思わないかい?」


 アイシィの語る持論は翔が想定していた以上に食い込んだ。詭弁ではあれども、尺度の観点を度外視すれば否定しきることもできず、そして、天使と人間では時間に関する尺度が違うということは先の年齢の一件からして既に承知済みであった。今の今まで痴れ者として認識していた目の前の一人が瞬間、ともすれば己よりも条理に適っているのではないかと、翔には映ってしまったのである。

 それに伴い、胸の奥底の見えにくい部分に巣を張っていた人間らしい汚れが外気に晒され、先とは反面、翔は密かに安堵した。少なくとも、自らの有様を顧みることもせずに透明なマントを見せびらかす主君よりかは、どれだけか客観性を有しているではないかと自己評価できたためである。


 思いもよらぬ反省の機会を得て、数秒の沈黙の後、翔は解説を再開した。


「原子ってのは陽子と中性子で作られた原子核と、その周囲に分布する電子によって構築されている……()()()()()()な」

「なるほど。確かに、原子は人間界で一番小さなモノっていう、さっきの私の認識はズレていたみたいだね……()()()()()()

「一部の原子に外から別の中性子を与えてぶつけると、原子核が崩壊して別々の二つになることがある。これを核分裂と言うが……そうなる可能性がある物質は核分裂可能物質と呼ばれている。お前が調べようとしていた用語のひとつだ」

「それじゃあ、もう片方について詳しく」

「核分裂可能物質の内、付近の原子核と同程度のエネルギー量にまで減速された中性子……熱中性子と呼ばれるものだが……とにかく、その熱中性子の衝突でも核分裂を引き起こすような物質が核分裂性物質だ。つまり、核分裂可能物質よりも、核分裂性物質の方がより容易に反応すると言って概ね間違いない」

「なぁるほど。だから、さっきは言い換えたワケね。核分裂『性』物質の方が、人間界の世間一般的にはより身近だろうから」

「核分裂の際には熱と、幾つかの中性子が生み出される。新たに飛び出した中性子が近くの核分裂性物質に衝突して再び核分裂を起こすような状況下であれば、原料が尽きるまで反応は連鎖し続ける……膨大な熱と共にな」

「それを取り出して役立てるのが、この施設ってワケね」


 先ほどまで流し読みしていた本を片手に取り上げ、アイシィは表面をぽんぽんと叩いた。濃い茶褐色のハードカバーの表紙には「原子力発電所の構造と現状」という飾り気のない英題がフーツラ体で印刷されている。翔が何度も繰り返し読むことで、幾つかのページは癖になって開きやすくなっていた。


「分かりやすい解説どーもね。ただの頭でっかち(ファットマン)かとも少し疑っていたけど……キミの親切のおかげで知的好奇心は存分に満たされたよ」


 ふん、と翔は鼻で返事を差し向けながら完全に身体をクロゼットへと相対させて、今度こそ着替えるために湿った上下へと手をかけた。

 手元の無骨な一冊を机の上へと戻しながら作業場に散在する書籍を改めて順に眺めているアイシィの姿が、クロゼットの扉に貼られた鏡越しに窺える。


 ――……「原子力発電安全規制の歴史」……

 ――……「原子力プラント制御技術・下編」……

 ――……「エネルギー変換特性」……


 作業場に片付けている書籍はいずれも、癖のないページの方が少ないのではないかと思われるまでに翔が読み込んだものだ。内の幾つかについてはそれこそ一節を丸ごと諳んじることすらできる。そのような特に関心を寄せた数冊に至っては、古本屋が買取査定を拒むであろうほど見栄えが劣っていた。


「ついでと言っちゃあなんだけど、キミは大学で教鞭でも取ろうとしていたのかな」

「俺はそこまで賢くない」

「それじゃあ、この原子力発電所とやらに底知れぬ魅力を感じた化学オタクの一人って感じか」


 クロゼットに突っ込んだ手を今度は止めずに、「昔はな」とだけ翔は返した。

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