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プロローグ

 蒸し暑い中に深い闇が広がっていた。空には黒い雨雲が切れ間なく敷き詰められ、星の瞬きも、月の明りも、遮っている。霧のような雨が大気中にびっしりと充満し、そこにいる者の呼吸を無意識の内に浅く少ないものへとさせんばかりだ。


 時刻は深夜一時を過ぎていた。八月初旬のこの日、日本海側特有の湿度の高さとの相乗効果により、仮にも降雨であるにもかかわらず気温は三十度を上回っていた。熱帯夜と呼ぶにこれほど適した日はそうない。

 山間部には片道一車線の道路が続いている。薄いガードレールの切れ目毎にぽつぽつと立つ外灯が淡く照らしてくれなければ、この小高い山の外周を這うように伸びる長い一本道は、数歩先にも変わらず確かに存在しているのか、全く分かりようがなかった。

 山の斜面を左隣に巻き込んだ車線に黄色い二つの灯が並走している。紺色のミニバンの車体は闇夜に溶け込み、煌々と眩しいヘッドライトの軌跡だけが、今まさにその場を通り過ぎたことを辺りに知らしめんばかりに尾を引いている。緩やかなカーブに走る黄色い残光は見た者に蛇の印象を植え付けるようであった。外から見えぬところに牙を忍ばせた毒蛇のうねり……だが、過疎地域に用意された古臭い車道には遅い時間帯とあって、この車を除いたただの一台の気配も他にはない。

 車体周囲の霧雨は風切りによって弾かれ、ワイパーが動いていないにもかかわらずミニバンのフロントガラスは殆ど濡れていない。

 対して、路上は薄く湿っている。粒未満の細やかな雨が覆う程度では波紋も立たず、外灯の光に、ただ、てらてらとぬめる様はさながら油膜のようだ。

 その上をけたたましくもタイヤのゴムが通過する。白い泡が形作る轍は一瞬の内に後方へと置き去りにされ、エンジン音が遥か遠くとなった頃合いになってからようやく、我が至るべき運命を思い出したかのように弾けて消え始める……車は相当な速度を出していた。

 無風のため木々のさざめきはなく、湿った外気が昆虫の活動を休止させているため、一帯は完全な静寂に包まれていた。痛々しい無音を引き裂きながら鉄の獣は走り続け、ただ一心に目的地を目指す。


 山端を伝っていた道は徐々に高度を下げて地表へと接続する。なおも車は速度を落とさず、市街地であれば間違いなく速度超過で違反を切られるであろう勢いをそのままにしていたが、やがて不愛想な森林を貫く一本道へと進入し、その奥深くまで潜ったところでようやく速度を緩め、停止した。

 先ほどまで一応は整備されていたガードレールや外灯の類など一切なく、道路として最低限の管理のみが施されている。否、管理と呼んで差し支えないかは怪しいところでもある……道から左右どちらであれ少しでもはみ出したならば茶色い土が散乱し、先には無数の木々が待っている。折れた枝や散った葉が無造作に捨て置かれ、人の手がこの一帯を意図的に整備したのはいつ以来となろうか。自然の成すままが続き、暗がりの先にあるはずの果ては到底覗けない。

 車のエンジンが切られた。ガソリンの爆ぜる音はとろとろと鎮まり、胸を締め付けるような静寂が強調されてゆく。猛る心臓であった内燃機関(エンジン)は熱を失い、この無機物の獣の体温はやがて死体のそれと同じものとなった。路上駐車にもかかわらずハザードは焚かれていない……故に、音も、光もない。

 運転席のドアが開いた。降り立ったのはくたびれた男である。黒い上着にデニム生地の長ズボンを履いた、中肉中背。顔には黒縁の眼鏡がかけられているが、レンズにまとわりつく水滴を煩わしく感じ、地面に足を付けると同時に助手席へとそれを放り投げた。

 自動点灯した車内灯を頼りに男は車体側面を伝って後方へと回り込み、バックドアを高く押し上げた。そこからのぞく後部座席は左右共に背もたれが折り畳まれ、車内には外見よりも広い空間が確保されている。

 車体後方から上半身を突っ込んだ男は、後部座席に置かれていた袋をひとつ引きずり出した。キャンプに用いられるマミー型の寝袋である。しけた生地で織られた、形ばかりの廉価品……バックドアの縁までずらしたところ、内容物の重さによって寝袋の頭側が滑り落ち、鈍い音と共に地面へと接した。男は少し慌てたが、むしろこの状態の方が都合が良いと考えを改めた。寝袋を転がしてうつ伏せにした後、屈むようにして自身の肩を寝袋と地面の間に差し込み、立ち上がって担いだ。丁度、米俵を肩に乗せたような格好だ。

 男は運転席のドアも、バックドアも閉じることなく、左の未舗装地帯へと歩を進めた。

 ぱきぱきと枝を踏み割る音……

 ぐしゃりとぬかるむ泥の粘り気……

 揺れた雑草からはねる水飛沫の温度……

 一切合切気にかけることなく、厚い雲から時折透けるほんの僅かな月明かりを頼りに、男は一歩、また一歩と森の深みへと紛れてゆく。


 放置した車から遠く離れ、前後左右の方向感覚に麻酔が効き始める頃合いにて、闇夜にどれだけか目が慣れた男は立ち止まって周囲をうかがった。似通った樹木が粗雑に立ち並んでいる。誰も居るわけがないことを男は重々承知していた。人の気配を警戒したがための行動ではない。荷物を降ろす場所を探したのである。

 男は視界に入った最も太い木の一本に歩み寄り、その幹の根元が他と比べて比較的平坦であることを確認すると、肩に担いでいた寝袋を降ろした。

 寝袋の中心を走るファスナーが下ろされる。内側には女が入っていた。ミイラではない。身体は呼吸によって膨らみ、能動的に体温を作り出している、生きた女だ。ただ、身には何も付けておらず全裸である。撚られたタオルが口枷としてはめ込まれ、両手首は腰の後ろでガムテープに巻かれて一束にされている。

 この時期、この気温、この湿度の中……通気性の悪い生地に押し込まれていた女は汗にまみれ、脱水を引き起こしていた。目の焦点は的確ではなく、今の視界が深夜の森の影のために暗いのか、未だに寝袋の内側を見つめているために暗いのか、はっきりと認識できているとは思えない。車の振動に次ぎ、肩に担がれて運ばれた揺れによる三半規管の乱れが、女の憔悴に拍車をかけたのだろう。呻き声ひとつない沈黙が答えの代わりだ。

 寝袋内部に籠っていた熱気が湧き立つ。

 女の全身に迸る汗は、生命の危機に刺激されて噴出した、濃縮されたそれであった。平時よりも明確に強いにおいの汗が、後ろ手に拘束されたが故に閉鎖された腋窩にも、窮屈に曲がった状態を長く維持していた膝窩にも、滑らかな丘陵状に盛り上がった胸部の二つの間にも、池のように溜まっている。

 肢体から発せられる蒸されたにおいが空気中の水気と混ざり、男の鼻孔に届いた。

 男は屹立した。性的趣向ではない。生物的な本能を刺激されたが故に導かれた反射だ。

 ファスナーを一番下まで送ると、男はその女の腰に手を回して少し持ち上げた。その運びで女の足先が寝袋の下部から外れる。寝袋を下敷きにするように下ろされると、女の全身を隠すものが完全に失われ、仰臥位(あおむけ)の裸体が足元に転がった。


 その男の目的はただひとつであった。

 それが達成さえできればその他のあらゆる事象はどうでもよかった。

 しかし、今は当初の目標を果たす前に、満たさずにはいられぬ衝動があった。


 湿気をまとった衣擦れに遅れて、裸体が二つと並ぶ。

 組み合わさると同時にあがる苦悶交じりの悲鳴を他所に、男は横入りしてきた欲の発散ひとつのみに支配されていた。

 このときばかりは目的を忘れ、肉と悦だけが主人格を代替した。

 そこに尊ぶべきものは何もない。

 目先の快楽を追い求めるだけの、渇ききった、本能にのみ忠実な、力の発散。

 やがて、男が打ち震えると、二人分の荒い呼吸がそれぞれの喉奥から溢れるばかりとなった。

 静寂が引き返し、森が無音の耳鳴りに浸かり始める。

 だが、男の目的意識は変わらない。優先順位が再び入れ替わり、本来の形を取り戻した。


 男は目の前でぐたりと横たわる女の上へと跨った。萎れた肉欲が女の臍の上に寝そべり、その拍子に残留していた性の一滴がびゅっと飛び出して、彼女の痙攣する白い腹を汚した。

 男はその姿勢のまま手を伸ばし、後方に投げ捨てていた自らの上着を手繰り寄せ、内ポケットから一本を取り出した。

 粗雑な鞘に刃先を収めた、千円もしない安価な果物ナイフ。濡れた上着の生地に包まれていたそれは、鞘にも柄にも雨水が染み込むことで木製部分は薄暗く変色していたものの、剥かれて露出した刃の部分だけは、安物にしては上等な銀の輝きを保持していた。

 男は果物ナイフを両手で握って高く掲げた。切っ先は下を向いており、示す先は過度の疲労と苦痛によって半ば失神に近い状態にある女の身体であった。


 その男の目的はただひとつであった。

 それが達成さえできればその他の一切はどうでもよかった。

 満たさざるを得なかった衝動を吐き出し終えて、その目的は今、遂行される。


 振り下ろされた男の腕は女の右の乳房へと向かった。

 形のよい半球の下部へと縦向きの刃先が突き立てられる。

 男が想像していたよりも出血は随分と少なかった。代わりに、引き裂いた表皮と刃先の隙間からのぞく薄黄色の脂肪が目立った。

 柄を握っていた男の腕が乳房を遅れて叩き潰し、裂けた部分から赤みを帯びた脂が溢れだす。その光景は、頬に出来た面皰(ニキビ)に圧が加わることで古い角質が絞り出される様子とよく似ていた。

 刃が引き抜かれ、再び高く掲げられると、そこで本格的な出血が始まった。乳房と同時に傷付いた脇腹上部の一閃を、じわりと染み出した血が赤く縁取り、やがて、つつっと筋を残して女の側面を伝い、下に敷かれている寝袋の生地に染み込む。

 掲げられた腕は何度も振り下ろされた。

 何度も、何度も。

 刃物が刺さる音ではなく、柄を握る男の拳が女の身体を打つ、どんっ、と重々しい音が繰り返された。

 肋骨にぶつかりナイフの先端が打ち欠けようと。

 返り血が柄に付着してずるずるとしたぬめりを感じようとも。

 男は振り下ろす手を止めなかった。

 何度も、何度も、何度も。


 どれだけかが経ち、鈍い音は止み、男は天を仰いだ。

 黒がどこまでも続く曇天を暫し見つめ、そこで男は今日初めて笑った。

 その男は生涯初の恋に胸を焼かれた……

 この恋が一方的なものではないということを告げられた時には魂を焼かれた……

 一生をこの女のために捧げて幸せにすると誓った時には人生を焼かれた……

 その相手が結婚詐欺師であることを知った時、男は灰となった。

 自身の全てが燃え尽き、何もかもが立ち昇る陽炎の中にちらつく幻であったことを認めたその時、気付けば男は、生涯愛すと心に決めたその女と共に、深い森の奥底にいたのである。


 男は手にしていた果物ナイフを持ち替え、先端を上へと構えた。

 男はやはり笑みを浮かべたままであった。

 この先に待つは凶悪犯罪者として個人と関係の全てを晒し上げられ、見ず知らずの知識人気取りたちに人間性を徹底的に否定され、一切の自由と権利を剥奪され、やがて公衆の正義と期待の名のもとに首を吊られる己の姿であった。

 だが、男は己の人生を今この場で決めることができる。

 自らの手で決定することができる。

 そのような立場にいることを噛みしめ、誰にも縛られることなく行く末を定めることができる自由に愉悦が溢れ、抑えきれずにいた。

 己が望んだ通りに世界の全てを動かせることに無上の幸福を覚えていた。


 雨雲は発達し、霧雨はいつしか粒となって降り注いでいた。雨粒は急速に重みと数を増し、樹木の葉にぶつかり、弾ける音がざんざんと鳴り響く。集中豪雨の只中であった。

 男は高らかに笑い声をあげた。

 歓喜の叫びは地面に広がる血溜まりと雨音に溶け込み、誰にも届くことはなかった。

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