表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/72

新自転車泥棒 ――ホルムズが閉じた日、町は部品から消えた――

✦新自転車泥棒


――ホルムズが閉じた日、

  町は部品から消えた――


………


戦争は、ミサイルが落ちた日から

始まるんじゃない。

町の給湯器が、誰にも驚かれずに

消えた日から始まる。


ホルムズ海峡封鎖から四週間。


石油、LNG、ナフサ、エチレン、

肥料、建材、包装資材


――世界は「全部がない」

 のではなく、

 「一部だけが足りない」

 ことで静かに壊れ始めていた。


冷凍食品の中身はあるのに

包む袋がない。


家は建ったのに給湯器がない。


マンションは完成したのに

オートロックの基盤がない。


防犯を強めようとしても、

防犯カメラそのものが

盗まれていく。


東京郊外では、

ガードレールが夜のうちに

消え始めた。


多くの人々は、

まだ笑っていた。


「そんな泥棒もおるんじゃな」


と。


だけど、

それはただの始まりだった。


六十七歳のおじいちゃんは、

高校生の孫・ゆづきと

暮らしながら、


町が少しずつ

「部品取り」の対象になっていく

光景を見る。


泥棒が増えたのではない。


安さと効率だけを信じ、

在庫を持たず、

遠い国に任せすぎた社会が、

あまりにも泥棒に弱い形で

作られていただけだったのだ。


これは、

現代版『自転車泥棒』。


盗まれるのは自転車ではない。

暮らしそのものだ。


………


★目次


■序章 ホルムズが閉じた朝

■第一章 ガードレールの消えた坂道

■第二章 給湯器のない新築

■第三章 守る機械が先に盗まれる

■第四章 逆コスパ・ショック

■第五章 泥棒大会の町

■第六章 ゆづきの問い

■第七章 新自転車泥棒

■終章 入りにくい家、壊れにくい心


………


■序章 ホルムズが閉じた朝


ホルムズ海峡が閉じて、

四週間が過ぎた。


テレビは毎朝、

同じような映像を流していた。


黒い海。

細い海峡。


航路図の上を、

赤い矢印が何本も

止まったままになっている。


石油がどうだの、

LNGがどうだの、

備蓄がどうだの。


専門家は難しい顔で説明する。


けれど、

六十七歳のおじいちゃんには、

もうそんな話より

現実のほうが早かった。


近所のスーパーでは、

冷凍食品の棚に

妙な空白が増え始めていた。


中身はある。

しかし、袋がない。

袋はある。

だけど、ラベルがない。

ラベルはある。

だが、運ぶトラックが足りない。


世界は、

全部が止まったわけではなかった。

ただ、部分部分が抜けていた。


その小さな欠落が、

歯車の間に

砂を噛ませるみたいに、

社会全体を

ぎりぎりと鈍らせていた。


人の暮らしは、

思ったよりずっと脆い。


たった一つの部品。

たった一本の線。

たった一枚の基板。


それが足りんだけで、

家は完成せず、

店は開かず、病院も黙る。


世界はAIで変わると、

みんな言うてきた。


だけど今、

町を止めとるのは

アルゴリズムではない。


袋であり、線であり、

燃料であり、給湯器であり、

ガードレールだった。


おじいちゃんは

朝のニュースを消した。


台所でトーストを焼いとった

孫のゆづきが言うた。


「おじいちゃん、

 また暗い顔しとる」

「暗いんじゃない。

 ちょっと先を

 見よるだけじゃ」

「先なんか見んでもええよ。

 まず今日じゃろ」


おじいちゃんは苦笑した。


その“今日”が、

もう静かに崩れ始めとることを、

ゆづきはまだ知らんかった。


■第一章 ガードレールの消えた坂道


最初は

笑い話みたいじゃった。


東京の外れ。

高尾へ抜ける山道で、

ガードレールが消えた

という話が流れた。


「誰かが住んだんかのう」

「そんなもん盗んで、

 どうするんな」


人はみんな

半分笑いながらその話をした。


おじいちゃんも

最初はそうだった。

けれど、

笑えんことが一つあった。


ガードレールは、

金目の物じゃない。

あれは道路の一部だ。

安全そのものだ。


それが夜のうちに外されて、

トラックに積まれて、

どこかへ消える。


つまり町は、

もう「物」ではなく

「仕組み」を盗まれ始めとる

ということじゃった。


数日後、おじいちゃんは

ゆづきを乗せて

郊外へ走った。


本当に、曲がり角の外側が

ぽっかり開いとった。


そこにあるはずの

銀色の柵がない。


下をのぞけば、

落ちたらただでは済まん

斜面が広がっとる。


ゆづきが小さく言った。


「ほんまに無い……」


おじいちゃんは

ハンドルを握ったまま、

低くつぶやいた。


「泥棒は金を盗むんじゃない。

 町の骨を抜き始めたんじゃ」

「でも、なんでそんなもん盗むん」

「売れるからじゃ」

「買う人がおるん?」

「おる。買う人がおるけん、

 道がなくなる」


ゆづきは黙った。

その黙り方が、

妙に大人びて見えた。


その日から、

町の見え方が変わった。


ガードレールだけではない。

室外機、銅線、

太陽光のケーブル、防犯カメラ。


全部が「便利な設備」ではなく、

「次に消える部品」に見え始めた。


■第二章 給湯器のない新築


それから一週間後、

おじいちゃんの

古い知り合いから

電話がかかってきた。


地元の工務店をやっとる男で、

声がひどく乾いとった。


「笑うなよ。

 新築が完成せんのじゃ」

「何が足りんのじゃ」

「給湯器じゃ」


おじいちゃんは

思わず目を閉じた。


そんな時代が来ると、

頭では思うとった。


だけど、

こんなに早いとは思わなんだ。


「家は建っとるんじゃ。

 風呂もある。

 蛇口もある。けど湯が出ん。

 引き渡しできんのじゃ」

「正規ルートは?」

「半年待ちじゃ。

 いや、ほんまは半年で

 来るかどうかも分からん」


知り合いの声は

そこで一回止まった。

そして、もっと低い声になった。


「……おるんじゃ。

 こういう時に限って、

 “ありますよ”言う男が」


おじいちゃんは何も言わなんだ。


「怪しいよ。そりゃ怪しい。

 けど施主は怒るし、

 職人も足場も明日で終わるし、

 工期ずれたら信用が吹き飛ぶ。

 そしたらな、正しさより、

 今日を回す方が先になるんよ」


電話を切ったあと、

おじいちゃんは長いこと

座ったままじゃった。


泥棒が悪い。

それは当たり前じゃ。


けれど現実は、

そんなきれいな線では引けん。


盗む側も苦しい。

買う側も苦しい。

両方が苦しいから、

そこに阿吽の呼吸が生まれる。


「どこから仕入れたんですか」


その一言を、あえて聞かん。


聞かんことで回る現場がある。

聞かんことで完成する家がある。

聞かんことで守られる家族がある。


それがまさに、

現代版の『自転車泥棒』だった。


昔は自転車が無いと働けんかった。

今は給湯器が無いと引き渡せん。


おじいちゃんは急に、

寒いものが背中を

這い上がるのを感じた。


■第三章 守る機械が

     先に盗まれる


泥棒が増えた、

という言い方では足りなかった。


正確には、

守るための機械が

先に盗まれ始めたのだ。


オートロック。

防犯カメラ。

センサーライト。

モニター付きインターホン。

監視盤。録画機。


それまで人々は、

それらを「安心の象徴」だと

思うとった。


うちは

オートロックじゃけえ大丈夫。

カメラがついとるけえ大丈夫。

玄関に鍵をかけたけえ大丈夫。


おじいちゃんは、

その「大丈夫」が

いちばん危ういと思うとった。


ゆづきが

スマホを見ながら言うた。


「オートロックでも

 入られるってさ。

 宅配のふりとか、

 住人のあとをついて入るとか」

「設備は安心を売る。

 でも安心そのものは売っとらん」

「じゃあ、どうすればええん」

「入りにくい家にするしかない」

「ふわっとしとるなあ」

「ふわっとしとるんが現実じゃ。

 防犯に正解はない」


おじいちゃんは

本気でそう思うとった。


犬がええ家もある。

鎖がええ家もある。

近所の目が効く場所もある。

昼間でも人の気配を作った方が

ええ家もある。


金持ちの家にも、

貧乏人の家にも、

同じ防犯はない。


あるのは、

その家ごとの弱点だけだった。


そして有事では、

さらに厄介なことが起きる。


停電じゃ。


カメラは録る。

だけど、電気がないと

ただの箱になる。


オートロックは守る。

それでも、通信が切れれば

ただの板になる。


防犯を強めようと

すればするほど、

その防犯設備そのものが高騰し、

品薄になり、盗まれ、

市場で売られる。


おじいちゃんはその構図に、

笑えん皮肉を見た。


「防犯カメラを守るための

 防犯カメラが要る時代じゃな」


ゆづきは笑わなんだ。


■第四章 逆コスパ・ショック


おじいちゃんはゆづきに、

紙とペンを持って来させた。


「今日、大事なことを教えたる」

「また授業?」

「これは学校じゃ教えん」


おじいちゃんは

紙の真ん中に大きく書いた。


✲逆コスパ・ショック✲


「何それ」

「昔の正解が、

 今の地雷になることじゃ」


ゆづきは首をかしげた。

おじいちゃんは続けた。


「デフレの時代はな、

 安いのが正義じゃった。

 在庫を持たんのが賢い。

 遠い国に安う作らせるんが

 上手い商売。

 ジャストインタイムが美しい。

 みんなそう信じとった」

「うん」

「でも有事になると、

 それが全部裏返る」


おじいちゃんは紙に矢印を書いた。


安い → 脆い

在庫ゼロ → 全停止

外注 → 他国依存

早い物流 → 途切れる

効率 → 無防備


「オーストラリアがええ例じゃ。

 石油もガスも出るのに、

 精製や供給を外に寄せすぎた。

 平時はそれで儲かった。

 じゃけど今は、

 資源国なのにガソリン不足じゃ」

「……持っとるのに、使えんの?」

「そうじゃ。あるのに届かん。

 出るのに回らん。

 それを逆コスパ・ショック

 言うんじゃ」


ゆづきは静かに聞いとった。


「ジャストインタイムも、

 本来はすごい思想じゃ。

 でも部品が一個足りんだけで

 全部止まる。

 今の世界はな、

 “全体”が壊れとるんじゃのうて、

 “一部”が抜けることで

 全体が止まるように

 できとるんよ」


おじいちゃんはそこで、

はっきり言うた。


「泥棒が増えたんじゃない。

 コスパだけを信じた社会が、

 泥棒に弱すぎる形で

 できとっただけじゃ」


その時、

ゆづきの目つきが少し変わった。


学校の授業を

聞いとる顔ではなかった。


自分の未来の話として

聞いとる顔じゃった。


■第五章 泥棒大会の町


ホルムズ海峡封鎖から五週間。


町はだんだん

壊れ方を覚え始めた。


それまでは、異変は事件だった。

ニュースになった。

人は驚いた。怒った。


だけど、この頃になると、

異変はもう

日常の一部になり始めた。


工事現場から給湯器が消える。

学校の裏の室外機が消える。

人気のない駐車場から

充電ケーブルが切られる。

郊外の倉庫から燃料が抜かれる。

町中華の裏の

廃食油タンクが空になる。


そして一番怖いのは、

誰もそれに

長く驚かなくなったことだった。


「またか」


その一言で終わる。


町は慣れていく。

慣れながら壊れていく。


おじいちゃんはそれを、

「泥棒大会」と呼んだ。


腕っこきの泥棒だけが

やる時代ではない。


金に困った若者もやる。

仕事を切られた中年もやる。

外国の人もやる。

日本人もやる。

昨日までまじめじゃった者さえ、

やるかもしれん。


泥棒は職業ではなく、

生活苦の中で急に開く

非常口になっていく。


しかし、

その非常口の先にあるのは

救いではない。


町の崩壊だ。


おじいちゃんは

商店街を歩きながら思った。


泥棒が町を壊したんじゃない。

怪しいと知りながら、

みんなで少しずつ買ったんじゃ。


その考えに至った時、

おじいちゃんはひどく疲れた。


誰か一人を悪者にできた方が、

どれだけ楽か。


だけど現実は、

そんなに単純ではなかった。


■第六章 ゆづきの問い


夕方、停電が起きた。

計画停電ではない。

設備トラブルだと放送は言うたが、

誰も信じとらんかった。


町が暗くなると、

人の声が変わる。


車の音も、足音も、笑い声も、

全部が少しずつ尖る。


ゆづきは懐中電灯を持って、

おじいちゃんの横に座った。


「おじいちゃん」

「なんな」

「もし本当に、

 怪しい給湯器しか

 無かったら、

 買う?」


おじいちゃんは答えんかった。


「もしそのままじゃ、

 冬にお風呂にも

 入れんかったら?」


おじいちゃんは

長いこと黙っとってから、

低く言うた。


「……分からん」


ゆづきは驚いた顔をした。

おじいちゃんは苦笑した。


「若い頃のわしなら、

 絶対買わん言うたかもしれん。

 正しさで腹はふくれん、とか、

 格好つけたこと

 言うたかもしれん。

 でも今は、分からん」

「分からん、でええん?」

「ええんじゃ。

 こういう時に、

 簡単に正しい答えを

 出すやつほど危ない」


停電した窓の外で、犬が吠えた。

遠くでもう一頭吠えた。


おじいちゃんはその吠え声が、

妙に頼もしく思えた。


「ゆづき」

「うん」

「有事の防犯に正解はない。

 家ごとに違う。

 けど、

 無防備は答えにならん」

「それ、覚えとく」

「あともう一つ」

「何」


おじいちゃんは

暗い窓を見たまま言うた。


「入りにくい家は作れても、

 壊れにくい心を作る方が難しい」


ゆづきは黙っとった。

その沈黙は、

子どものものではなかった。


■第七章 新自転車泥棒


その夜、おじいちゃんは

ひとりで古い映画のことを

思い出しとった。


昔の映画『自転車泥棒』では、

自転車が生活の命綱じゃった。


盗まれた男は、

それを追いかけ、追いつけず、

最後には自分が盗む側に傾く。


あの映画の悲しさは、

泥棒が悪いことではない。


追い詰められた人間が、

じわじわと自分の正しさを

失うところじゃ。


今の時代、

自転車は一台ではない。


給湯器。室外機。銅線。

防犯カメラ。燃料。

オートロック。

ガードレール。


全部が現代の自転車じゃ。


暮らしを回す命綱。

仕事をつなぐ部品。

安心を形にした装置。


それが盗まれ始める。


盗まれた側も、

次には誰かの“自転車”を

買うかもしれん。


買った側は、

また別の欠落を町に生む。


この連鎖に入った時、

社会はもう元には戻らん。


おじいちゃんは暗がりの中で、

ノートに題名を書いた。


✲新自転車泥棒✲


そして、

その下にもう一行だけ書いた。


「コスパの勝者が、

 有事の最初の敗者になった」


外ではまだ、犬が吠えとった。

停電した町を、

誰かが歩いとる気配がした。


■終章 入りにくい家、

    壊れにくい心


停電は夜中に復旧した。

朝になると、

町は何事もなかったみたいな

顔をしとった。


パン屋は開いた。

コンビニも開いた。

信号も戻った。


だけど、

おじいちゃんには分かっとった。


元に戻ったんじゃない。

たまたま一晩、

持ちこたえただけじゃ。


ゆづきは学校へ出る前、

玄関でふり返った。


「おじいちゃん」

「なんな」

「うちも何か考えんといけんな」

「そうじゃな」

「犬は無理でも、

 できることはあるじゃろ」


おじいちゃんはうなずいた。


防犯に万能の答えはない。

犬がええ家もある。

鎖がええ家もある。

近所づきあいが効く家もある。

とにかく目立たせるしかない

場所もある。


しかし、

一つだけ確かなことがある。


家の中に入ってくる前に、

入りにくい家にするしかない。

それは防犯の話じゃ。


けれど同時に、

心の話でもあると

おじいちゃんは思うた。


安さ。効率。

見て見ぬふり。

今だけよければええという

小さな合理性。


そういうものが

入り込みにくい心を、

持てるかどうか。


それが最後には、

家より先に試される。


おじいちゃんは門の前に立ち、

朝の空を見上げた。


遠くの海峡で

止まった船のことを思うた。


だけど、

本当に止まるのは、

船だけではない。


人の正しさだ。


そして戦争は、砲弾より先に、

町の部品から始まる。


おじいちゃんは小さく息を吐いた。


「さて」


今日できることを、

今日やるしかない。


世界が壊れる時も、

暮らしは一日単位でしか

守れんのじゃから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ