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届かない世界の果てに ――AIはすべてを知っていた。でも、唐揚げは届かなかった。2036年、夏の終わり。高校1年生のゆづきは、冷蔵庫の前で未来の正体を知った――

✦届かない世界の果てに


――AIはすべてを知っていた。

 でも、唐揚げは届かなかった。

 2036年、夏の終わり。

 高校1年生のゆづきは、

 冷蔵庫の前で未来の正体を知った――


………


AIはすべてを知っていた。


世界の小麦相場も、

中東の航路リスクも、

アメリカの金利も、

近所の納豆の残量も。


でも、

唐揚げは届かなかった。


妹の靴も届かなかった。


薬も遅れた。


病院の予約も取れなかった。


そして高校1年生のゆづきは、

ようやく気づいた。


未来とは、

画面が賢くなることではない。


自分の冷蔵庫まで、

妹の足元まで、

家族の食卓まで、


本当に届くかどうかだ。


………


★目次


■第一章 

 冷蔵庫の前で、未来が止まった


■第二章 

 宝石のような唐揚げ


■第三章 

 電気の傘が揺れる夜


■第四章 

 本社から父の声が消えた 


■第五章 

 AI看板バブルと、消えた階段


■第六章 

 妹の靴と、届かない朝


■第七章 

 見せる消費から守る消費へ


■第八章 

 国境はバルブになった

■第九章 

 米国債の利息が、

 卵焼きに混ざった


■第十章 

 倉庫で走る人間たち


■第十一章 

 危機の連鎖 


■第十二章 

 AIは診断した。

 でも足は腫れていた


■第十三章 

 在庫は時間を買う保険だった


■第十四章 

 冷蔵庫を開けた夜


■第十五章 

 届くということ


❥Z世代のあなたへ


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ漫才風

 ――笑いの骨頂、

  ボケとツッコミ、

  そして少し涙――


………


■第一章 

 冷蔵庫の前で、未来が止まった


2036年、夏の終わり。


九州の古いマンションの一室で、

高校1年生のゆづきは、

冷蔵庫の前に立っていた。


朝の六時十二分。


台所の窓から入る光はまだ白く、

団地の外では、

セミの声が

最後の力を振り絞るように

鳴いていた。


ゆづきは冷蔵庫を開けた。


卵、二個。


豆腐、一丁。


冷凍ブロッコリー、少し。


玄米、昨日の残り。


冷凍唐揚げ、なし。


三日連続、なし。


ゆづきはスマホに向かって言った。


「今日の弁当、どうしよう?」


画面の中のAIは、

いつもの落ち着いた声で即答した。


「冷蔵庫内:

 卵二個、豆腐一丁、

 冷凍ブロッコリー、玄米。

 推奨メニュー、豆腐そぼろ弁当。

 卵は一個に制限してください」


「なんで?」


「理由。

 近隣スーパーの卵在庫変動率、

 プラス四十二%。

 午後入荷、未確定。

 卵の節約を推奨します」


ゆづきはため息をついた。


画面は完璧だった。


データは神様みたいだった。


でも、

唐揚げは三日連続で

配送遅延だった。


その時、

中学2年生の妹、

こはるが台所に入ってきた。


髪は寝ぐせで跳ね、

制服のリボンは

まだ結ばれていない。


こはるは

冷凍庫をガチャンと開けた。


「また唐揚げなし? マジで?」


「ごめん……」


「昨日も豆腐だったじゃん」


「今日は豆腐そぼろ」


「豆腐、そぼろになりすぎ問題」


こはるは

冷凍庫をのぞき込みながら、

口をとがらせた。


「AIに頼めばいいじゃん。

 なんでも知ってるんでしょ?」


ゆづきは苦笑した。


AIは知っていた。


世界の小麦相場も、

中東の航路リスクも、

アメリカの金利も、

近所の納豆の残量も、

学校までの雨雲の動きも、

数学の解き方も、

英単語の発音も。


でも、

AIは鶏を揚げてくれない。


トラックを運転しない。


スーパーの棚を埋めない。


こはるは冷蔵庫の前で、

大きくため息をついた。


「未来って、

もっと便利になるんじゃ

なかったの?」


ゆづきは卵を一つ手に取った。


小さくて、

軽くて、

でも今はやけに重く感じた。


その朝、

ゆづきは初めて思った。


未来とは、

画面が賢くなることじゃない。


自分の冷蔵庫まで、

本当に届くかどうかだ。


■第二章 

 宝石のような唐揚げ


その日の昼休み。


学校の購買部前は、

小さな戦場になっていた。


廊下の角まで列が伸び、

誰もが前の棚をのぞき込んでいた。


原因は、

たった一枚の札だった。


「本日入荷。

 唐揚げ弁当、残り五個」


五個。


たった五個。


それなのに、

まるで人気アイドルの

ライブチケットみたいに、

生徒たちの目が光っていた。


値札は六百九十八円。


昔は五百円だったと、

母が言っていた。


もっと昔は、

コンビニの唐揚げ棒を

百円台で買えたらしい。


こはるに話したら、

「昔は唐揚げが安くて、

 すぐ買えたんだ

 ……いいな」

と言っていた。


ゆづきは列に並びながら、

社会科の授業を思い出した。


先生は黒板に大きく書いた。


「唐揚げは、鶏肉ではない」


クラス中が笑った。


先生は笑わなかった。


「唐揚げは、世界です」


鶏には餌がいる。


餌には畑がいる。


畑には肥料がいる。


肥料には天然ガスがいる。


鶏舎には電気がいる。


冷凍には電気がいる。


運ぶには軽油がいる。


包むにはトレーがいる。


揚げるには油がいる。


売るには人がいる。


その全部がつながって、

ようやく一個の唐揚げになる。


その時のゆづきは、

大げさだと思った。


「唐揚げは唐揚げでしょ」


衣があって、

肉があって、

ちょっと濃い味で、

冷めてもおいしいやつ。


それだけだと思っていた。


でも今、

購買部の棚で光る唐揚げ弁当は、

本当に宝石みたいだった。


前の男子が一つ買った。


残り四個。


その前の女子が買った。


残り三個。


列が少しずつ進むたび、

ゆづきの心臓が速くなった。


こはるに持って帰ってあげたい。


朝、あんな顔をしていたから。


前の男子が二個買おうとして、

購買のおばちゃんに止められた。


「一人一個までね」


「妹の分なんすけど」


「みんな妹がおるんよ」


その言い方が、

妙にやさしくて、

妙に厳しかった。


最後の一個を、

ゆづきの前の女子が買った。


棚が空になった。


ゆづきはその空白を見つめた。


唐揚げが消えた棚は、

ただの棚ではなかった。


そこには、

世界のどこかで止まった船や、

値上がりした油や、

足りない運転手や、

高くなった電気代が、

透明な形で置かれているように

見えた。


ゆづきは小さくつぶやいた。


「戦争って、爆音じゃなくて

 ……お弁当が

 一個ずつ消える音で

 始まるんだ」


その言葉が、

彼女の人生のスイッチを入れた。


■第三章 電気の傘が揺れる夜


その夜。


リビングのテレビでは、

アメリカ大統領の

演説が流れていた。


AIデータセンター。

LNG。

原子力。

北極圏の鉱物。

中南米の港。

ホルムズ海峡。

航路支配。

エネルギー安全保障。


難しい言葉が、

画面の下を流れていく。


こはるは

ソファでごろごろしながら

言った。


「何言ってるか全然わからん」


父は黙ってニュースを見ていた。


母は食器を洗う手を止めたまま、

画面を見ていた。


ゆづきはスマホの充電器を見た。


AIは空に浮いているように見える。


でも本当は違う。


スマホにも電気。


学校のタブレットにも電気。


病院の診断AIにも電気。


冷凍庫にも電気。


スーパーのレジにも電気。


データセンターにも、

ものすごい量の電気。


こはるが言った。


「AIって、

 空気で動いてるんじゃないの?」


「電気食ってるの。すごい量」


「え、燃費悪い天才じゃん」


ゆづきは少し笑った。


でも、

笑えないことも分かっていた。


AIを制するには、

AIモデルだけでは足りない。


電気。

ガス。

石油。

鉱物。

港。

航路。

送電線。

変圧器。

データセンター。


それを握る国が、

次の世界を握る。


テレビの解説者が言った。


「アメリカは、

 AI時代の主導権を握るため、

 エネルギー供給網の再編を

 急いでいます」


こはるが聞いた。


「つまり、

 AIのために

 石油とかガスを

 取りに行ってるの?」


父が低い声で答えた。


「そういうことだな」


こはるは眉をひそめた。


「AIって、頭いいのに、

 結局ご飯めっちゃ食べるんだ」


「ご飯は電気だけどね」


ゆづきはつぶやいた。


その瞬間、

スマホに通知が出た。


「来月より

 電気料金単価が改定されます」


こはるが叫んだ。


「うちの電気代も、

 アメリカ大統領のせいなの?」


母が疲れた顔で言った。


「全部じゃないけど、

 少しはそうかもね」


ゆづきは思った。


うちのコンセントは、

家の壁についている。


でも本当は、

世界につながっている。


アメリカの演説にも、

中東の海にも、

遠いガス田にも、

米国債にも。


その夜、

電気の傘が、

少し揺れた気がした。


■第四章 

 本社から父の声が消えた


ニュースが終わったあと、

父が珍しく早く帰ってきた理由を

話した。


「本社の半分が、

 AI統合で再編対象になった」


リビングの空気が止まった。


こはるが首をかしげた。


「再編って、何?」


父は苦笑した。


「簡単に言うと、

 人を減らしたり、

 部署をまとめたり、

 仕事を

 AIに移したりすることだ」


「パパ、クビになるの?」


その言葉は、

あまりにもまっすぐだった。


母がすぐに言った。


「こはる」


でも父は、

怒らなかった。


「まだ分からない。

 俺は調整中らしい」


調整中。


その言葉が、

やけに冷たく聞こえた。


父の仕事は、

会社の本社で

商品企画や資料作成を

することだった。


ゆづきには、

具体的に何をしているのか

よく分からなかった。


でも父は毎日疲れていた。


会議。

資料。

修正。

確認。

また会議。

また資料。


夜遅くまでパソコンを開き、

何度も同じファイルを直していた。


父が言った。


「AIが議事録を作る。

 AIが資料の下書きを作る。

 AIが売上分析を出す。

 AIが会議の要点をまとめる。

 そうなると、会社は思うんだ。

 この人数、本当に必要かって」


ゆづきは胸がざわついた。


AIが奪うのは、

レジの仕事だけだと

思っていた。


工場や倉庫の仕事だけだと

思っていた。


でも違った。


AIは、

会議室の奥も見ていた。


同じ資料を

三人で直す本社社員も、

ちゃんと見ていた。


こはるが小さく言った。


「AI、怖い」


父は首を振った。


「AIが怖いというより、

 AIで会社のムダが

 見えるようになったんだ」


母が言った。


「それで、

 人がムダみたいに扱われるの?」


父は答えなかった。


その沈黙が、

答えみたいだった。


ゆづきは思った。


大人になれば安心だと

思っていた。


会社に入れば守られると

思っていた。


でも父だって、

毎日不安と戦っている。


未来は、

子どもだけを

試しているわけではない。


大人も、

毎日テストされている。


■第五章 

 AI看板バブルと、消えた階段


翌日、

進路指導の時間。


先生はいつものように言った。


「これからの時代は、

 AIを使える人材が求められます」


クラスの空気は重かった。


またそれか。


ゆづきはそう思った。


AIを使え。

AIに負けるな。

AIと共存しろ。

AI時代の人材になれ。


言葉だけが増えて、

答えは見えなかった。


放課後、

ゆづきは求人サイトを眺めた。


未経験歓迎。


AI活用経験者優遇。


業務改善経験必須。


データ分析スキル歓迎。


ゆづきはスマホを机に置いた。


「未経験歓迎なのに、

 経験必須って何?」


こはるが横からのぞいた。


「それって、練習なしで、

 いきなり

 本番やれってことじゃん」


「ほんとそれ」


昔の新人には、

練習仕事があった。


「ほんとそれ」


昔の新人には、

練習仕事があったと聞く。


議事録。

資料作成。

電話応対。

データ入力。

簡単な調査。

先輩の手伝い。


失敗して、

怒られて、

直して、

少しずつ仕事を覚えた。


でも2036年、

その多くをAIがやっていた。


新人が

最初に登るはずの階段が、

取り外されていた。


なのに会社は言う。


二階で働いてください。


ゆづきはノートに書いた。


「修行の階段が消えた」


同じ日、

ニュースでは

AIスタートアップの破綻が

報じられていた。


AIで月収百万円。

AIで未経験から起業。

AIで寝ながら収入。

AIで人生逆転。


そんな広告を出していた会社が、

次々と消えていた。


先生は言った。


「AIそのものが

 偽物なのではありません。

 偽物なのは、

 AIという名前だけで

 儲かると思った人間の方です」


ゆづきはその言葉を聞いて、

父の顔を思い出した。


本物のAIは、

会社のムダを見つける。


偽物のAIは、

人間の欲を見つける。


どちらにしても、

見つけられるのは人間だった。


■第六章 

 妹の靴と、届かない朝


新学期前日。


こはるの悲鳴が団地中に響いた。


「靴が……届かない!」


ゆづきは台所から飛び出した。


こはるはスマホを握りしめ、

画面を震える指で示した。


注文時には、

こう表示されていた。


「在庫あり」

「最短翌日配送」


でも今は違った。


「配送予定:未定」


理由欄には、

小さな文字が並んでいた。


港湾混雑。

部材入荷遅延。

燃料サーチャージ。

検査強化。

配送網調整中。


こはるは泣きそうな顔をした。


「在庫ありって

 書いてあったじゃん!」


ゆづきは何も言えなかった。


在庫あり。


それは画面の中の言葉だった。


現実の道路の上に、

靴はなかった。


こはるの古い通学靴は、

つま先が少しはがれていた。


白い靴の先が、

だらしなく口を開けている。


こはるはそれを見て、

唇をかんだ。


「ロゴとか、限定品とか……

 もう意味ないよね。

 明日、履ける靴が欲しいだけ」


その言葉が、

ゆづきの胸をえぐった。


昔は、

どこのブランドかが大事だった。


Nikeか。

Adidasか。

限定カラーか。

SNSで映えるか。


でも今、

妹に必要なのは、

明日の朝に履ける靴だった。


雨で滑らない靴だった。


ちゃんと届く靴だった。


ゆづきは引き出しを探し、

接着剤を見つけた。


「とりあえず、これ直そう」


「ダサい」


「でも明日履ける」


こはるは黙った。


ゆづきは

古い靴のつま先に

接着剤を塗った。


白い靴の傷口をふさぐように、

そっと押さえた。


一番高級なブランドは、

ちゃんと届くことだった。


一番頼れるデザインは、

明日も使えることだった。


■第七章 

 見せる消費から守る消費へ


休日。


ゆづきとこはるは、

ショッピングモールへ行った。


昔なら、

こはるはかわいい服を見て騒いだ。


「これ映える!」

「これ推しカラー!」

「これ限定!」


でもその日、

こはるが手に取っていたのは

違った。


軽いリュック。

防水スニーカー。

折りたたみ傘。

小型充電器。

常備薬ケース。

保温水筒。


ゆづきは聞いた。


「なんか、選ぶもの変わったね」


こはるは

少し恥ずかしそうに言った。


「だって、

 かわいいだけだと

 不安なんだもん」


その言葉は、

十四歳の女の子が言うには、

少し重すぎた。


でも、

2036年の中学2年生には、

自然な言葉だった。


物価は高い。


電気代も高い。


配送は遅れる。


薬も遅れる。


靴も届かない。


父の会社も揺れている。


学校の冷房も節電モードになる。


そんな中で、

消費は変わった。


見せる消費から、

守る消費へ。


限定品より、 

長く使えるもの。


ブランドより、

修理できるもの。


映える食べ物より、

保存できるもの。


高いスニーカーより、

滑らない靴。


かわいいだけのバッグより、

水筒と充電器と常備薬が

入るバッグ。


こはるは言った。


「私たち、ケチになったのかな」


ゆづきは首を振った。


「違うよ。

 守るものが増えたんだよ」


こはるは少し笑った。


その笑顔は、

子どもっぽくて、

でも少し大人だった。


ゆづきは思った。


未来の若者は、

夢を捨てたわけではない。


夢を守るために、

先に足元を固めているだけだ。


■第八章 

 国境はバルブになった


二学期の社会科の授業。


先生は世界地図を映した。


ウクライナ。

スロバキア。

ポーランド。

紅海。

ホルムズ海峡。

台湾海峡。

パナマ運河。


先生は言った。


「これからの世界では、

 国境はただの線では

 ありません。

 開いたり閉じたりする

 バルブです」


こはるなら、

きっとこう言うだろう。


「水道の蛇口みたいなやつ?」


その通りだった。


危なくなると、

国境は閉まる。


検問所が閉まる。


空域が閉まる。


港が詰まる。


保険がつかなくなる。


船が迂回する。


飛行機が減る。


貨物が遅れる。


日本には陸の国境がない。


だから日本人は、

国境の怖さを忘れがちだった。


でも先生は言った。


「日本の国境は、港と空港です。

 そして、保険会社と税関です」


ゆづきはノートに書いた。


島国に国境はないのではない。

港と空港が国境だった。


授業のあと、

購買部に行くと、

輸入チョコの棚が空いていた。


理由は、

物流遅延。


こはるが好きなチョコだった。


ゆづきはその空白を見た。


遠い国の国境は、

教科書の中だけではない。


チョコの棚にも現れる。


こはるの靴にも現れる。


唐揚げ弁当にも現れる。


そしてきっと、

まだ見えていない何かにも、

これから現れる。


■第九章 

 米国債の利息が、

 卵焼きに混ざった


ある朝。


ゆづきは卵焼きを作ろうとして、

値段にため息をついた。


「また卵、高くなってる」


父が新聞アプリを見ながら言った。


「米国30年債の利回りが

 高止まりしてるからな」


こはるが即座に反応した。


「卵焼きにアメリカ関係ある?」


父は少し笑った。


「あるんだよ」


「ないでしょ。卵だよ?」


父は箸を置いて説明した。


アメリカが

AIデータセンターを建てる。


発電所を作る。


LNGを売る。


軍事費を使う。


エネルギーを握る。


そのためにお金を借りる。


投資家は言う。


「三十年貸すなら、

 五%くらい払ってください」


すると

世界中の金利の

物差しが重くなる。


ドルが強くなる。


円が弱くなる。


輸入品が高くなる。


燃料が高くなる。


飼料が高くなる。


電気代が上がる。


配送費が上がる。


卵も高くなる。


こはるは卵焼きを見つめた。


「つまり、この卵焼きに、

 アメリカの利息が

 入ってるの?」


父はうなずいた。


「少しな」


こはるは真顔で言った。


「味しないのに高いとか最悪」


ゆづきは吹き出した。


でも、

笑いながら思った。


世界は本当に、

台所までつながっている。


米国債。

AI。

エネルギー。

円安。

飼料。

卵焼き。


全部、一本の線だった。


ゆづきは

卵焼きを一切れ弁当箱に入れた。


黄色い一切れが、

いつもより高く、

いつもより遠くから

来たものに見えた。


■第十章 

 倉庫で走る人間たち


夏休みの終わり、

ゆづきは学校の職業体験で、

物流倉庫へ行った。


そこは、

想像していた倉庫とは違った。


ロボットが走っていた。


棚が動いていた。


AIが在庫を読んでいた。


画面には配送予測が出ていた。


まるでゲームの中の

ステージみたいだった。


でも、

全部が自動ではなかった。


箱が破れる。


ラベルがずれる。


冷凍庫の温度が上がる。


機械が止まる。


トラックが遅れる。


そのたびに、

若い作業員が走った。


彼らはタブレットを持ち、

AIの画面を見ながら、

現場を直していた。


案内役の女性が言った。


「AIは便利です。

 でも現場を知らないと、

 AIの間違いに気づけません」


ゆづきは

その言葉を忘れられなかった。


AIに詳しいだけでは足りない。


現場を知らないと、

AIを使いこなせない。


医療を知ってAIを使う人。


介護を知ってAIを使う人。


物流を知ってAIを使う人。


農業を知ってAIを使う人。


電気を知ってAIを使う人。


下水やごみ処理を知って

AIを使う人。


そういう人が、

これから強い。


帰り道、

こはるからメッセージが来た。


「倉庫どうだった?」


ゆづきは返信した。


「AIより、人間がすごかった」


少し考えて、

もう一文足した。


「AIを連れて走れる人が、

 いちばん強い」


その日から、

ゆづきの進路希望欄は、

ただの空白ではなくなった。


■第十一章 

 危機の連鎖


九月のはじめ。


台風が九州に近づいた。


それだけなら、

毎年あることだった。


しかしその年は、

違った。


中東情勢が悪化していた。


ホルムズ海峡の通航は不安定。


燃料価格は上昇。


船の保険料も上昇。


九州の港では、

一部の貨物に遅れが出ていた。


そこへ台風が重なった。


テレビは言った。


「一部物流に

 影響が出る可能性があります」


大人たちは、

そういう言い方を好む。


影響。


可能性。


調整。


一時的。


でもスーパーの棚は、

もっと正直だった。


卵が少ない。


牛乳が少ない。


冷凍食品が少ない。


薬局の棚も、

ところどころ空いている。


母が言った。


「こはるの湿布、

 買っておこうか」


だがその日、

こはるは

体育の授業で足をひねった。


帰ってきた時には、

足首が腫れていた。


こはるは我慢していたが、

顔色が悪かった。


母はスマホでAI問診を開いた。


「痛みの場所を

 選択してください」

「腫れがありますか」

「歩行可能ですか」

「骨折リスクを判定します」


AIは即答した。


「整形外科の受診を推奨します」


しかし

近所の整形外科の予約は、

一ヶ月先だった。


別の病院も、

三週間先。


休日診療は、

台風対応で混雑。


こはるは言った。


「AIはすぐ見てくれるのに、

 先生には会えないんだね」


その言葉は、

ゆづきの胸に突き刺さった。


AIは頭だった。


でも社会には手足が必要だった。


そしてその手足は、

足りなかった。


■第十二章 

 AIは診断した。

 でも足は腫れていた


その夜、

雨は強くなった。


ベランダの物干し竿が揺れ、

窓ガラスに水が打ちつけた。


こはるの足は、

さらに腫れていた。


AIは冷静に言った。


「安静、冷却、圧迫、挙上。

 痛みが強い場合、

 医療機関へ」


分かっている。


全部分かっている。


でも、

湿布が足りない。


タクシーはつながらない。


病院の予約は取れない。


薬局は早じまい。


父は会社の再編対応で、

オンライン会議から

抜けられない。


母は

不安そうに時計を見ていた。


ゆづきは突然、

物流倉庫で知り合った

女性のことを思い出した。


職業体験の最後に、

その人は言っていた。


「困ったら連絡して。

 現場のことなら、

 少しは分かるから」


ゆづきは迷った。


こんなことで連絡していいのか。


でも、

こはるの足を見て、

迷いは消えた。


メッセージを送った。


「妹が足をひねりました。

 湿布とサポーターが

 手に入りません。

 どこか開いている薬局を

 知りませんか?」


返事は五分で来た。


「少し遠いけど、

 港近くのドラッグストアが

 まだ開いてる。

 配送の人たちが使う店。

 在庫あるか電話してみる」


十五分後。


「湿布あり。

 サポーター残り二つ。

 店長に取り置き頼んだ」


ゆづきは息をのんだ。


AIは診断した。


でも、

湿布を見つけたのは人間だった。


母が言った。


「行ける?」


ゆづきはうなずいた。


外は雨だった。


でも、

ゆづきは走った。


団地の階段を降り、

水たまりを踏み、

風にあおられながら、

ゆづきは思った。


AIは答えを出す。


でも答えを現実にするには、

誰かが走らなければならない。


■第十三章 

 在庫は時間を買う保険だった


翌朝、

こはるの痛みは少し引いていた。


サポーターを巻いた足を見て、

こはるは小さく言った。


「ありがと、お姉ちゃん」


ゆづきは笑った。


「次から体育で

 本気出しすぎないこと」


「無理。私、天才だから」


「足ひねる天才ね」


二人は笑った。


その日、

母は台所の棚を整理していた。


玄米。

乾麺。

缶詰。

高野豆腐。

乾燥わかめ。

味噌。

塩。

少しの油。

常備薬。

電池。

小さなポータブル電源。


こはるが言った。


「ママ、買いすぎじゃない?」


母は首を振った。


「買い占めじゃないよ。

 少しずつ回してるだけ」


昔の経営では、

在庫は悪だと言われていた。


倉庫代がかかる。


お金が寝る。


効率が悪い。


でも今は違った。


船が遅れる。


薬が遅れる。


電気代が上がる。


物流が詰まる。


国境が閉まる。


燃料が高くなる。


そんな時、

少しの在庫があるだけで、

数日考える時間ができる。


在庫とは、

物ではない。


時間だった。


こはるは

缶詰を一つ手に取った。


「これ、賞味期限いつ?」


「来年」


「じゃあ、

 忘れないように食べないとね」


母はうなずいた。


「そう。備蓄は、

 しまい込むものじゃない。

 回しながら暮らすもの」


ゆづきは棚を見た。


そこには食品だけでなく、

家族の落ち着きが並んでいた。


混乱しても、

今日と明日をつなぐ時間。


それが在庫だった。


■第十四章 

 冷蔵庫を開けた夜


停電の恐れがある夜。


ゆづきは再び冷蔵庫の前に立った。


外では風が鳴っていた。


スマホのAIに聞いた。


「おすすめメニューは?」


AIは答えた。


「豆腐と卵の味噌雑炊。

 保存食を優先。

 冷蔵庫開閉時間を

 短くしてください。

 停電リスクに備え、

 加熱調理は

 早めに完了することを

 推奨します」


こはるが横からのぞき込んだ。


「また豆腐かよ……」


ゆづきは笑った。


「豆腐は強いんだよ」


「豆腐、世界救いすぎ」


「たぶん、地味なヒーロー」


鍋に水を入れ、

玄米を加え、

豆腐を崩し、

卵を一つ落とした。


味噌がゆっくり溶けていく。


湯気が上がる。


父は黙って食卓に座っていた。


会社の再編は

まだ決まっていない。


母はスマホで

停電情報を確認していた。


こはるは足を伸ばしながら、

湯気を見ていた。


ゆづきは言った。


「私、AIを使って、

 ちゃんと届く世界を守る側に

 なりたい」


こはるが首をかしげた。


「なにそれ」


「頭と手足をつなぐ人」


「もっと分からん」


ゆづきは笑った。


「AIは頭。

 でも社会には、

 走る人、運ぶ人、直す人、

 支える人がいる。

 その間をつなぐ人になりたい」


こはるは少し考えた。


「かっこいいけど、

 地味じゃね?」


「地味でいい。

 大事なんだよ」


父が静かに言った。


「それは、

 これから一番必要な仕事かも

 しれないな」


ゆづきは驚いて父を見た。


父は疲れた顔で、

でも少し笑っていた。


外では世界が揺れていた。


金利。

国境。

エネルギー。

AIバブル崩壊。

会社の再編。

港の混乱。


でもこの台所には、

確かに

今日と明日をつなぐものが

あった。


豆腐。

卵。

味噌。

玄米。

家族。

湯気。


ゆづきは思った。


未来は、

画面の中ではない。


台所の中で始まっている。


■第十五章 

 届くということ


数週間後。


台風は過ぎ、

物流は少しずつ回復した。


すべてが

元に戻ったわけではない。


卵はまだ高い。


唐揚げ弁当はまだ少ない。


父の会社の再編も続いている。


港の遅れも

完全には解消していない。


でもその朝、

インターホンが鳴った。


こはるが玄関へ走った。


「来た!」


配達員が箱を差し出した。


こはるの靴だった。


注文から、

ずいぶん遅れて届いた白い靴。


こはるは箱を抱きしめた。


「来た……ほんとに来た!」


家族全員が笑った。


たかが靴。


でも、

たかがではなかった。


その一足には、

港があり、

船があり、

検査があり、

倉庫があり、

配達員があり、

燃料があり、

誰かの手があった。


ちゃんと届くという

当たり前が、

どれほど尊いかを、

ゆづきたちは

骨身にしみて知った。


その日の夜。


ゆづきはスマホを握りしめ、

AIに新しい質問を投げかけた。


「これから、

 私に何ができる?」


AIは答えた。


データと確率を。


必要な学科。

関連する仕事。

物流管理。

医療情報。

地域インフラ。

AI活用。

防災。

食品供給。

エネルギー。


画面には、

たくさんの未来が並んだ。


でもゆづきは、

すぐには選ばなかった。


スマホを置き、

冷蔵庫を開けた。


豆腐がある。


卵が一つある。


納豆がある。


味噌がある。


玄米がある。


乾燥わかめもある。


ゆづきは小さくうなずいた。


「今日も、つながってる」


画面の先ではなく、

ここから始まる。


誰かのところへ、

ちゃんと届くまで。


未来はまだ、

完成していない。


だから、

ゆづきは歩き出す。


AIを持って。


現場へ。


手足のある世界へ。


………


❥Z世代のあなたへ


君たちは、

AIに仕事を奪われる世代じゃない。


AIと一緒に、

壊れかけた「届く世界」を

修復する世代だ。


AIは頭脳になる。


でも、

手足は君たちだ。


AIは文章を書ける。


AIは絵を描ける。


AIは病名を調べられる。


AIは相場を説明できる。


AIは進路相談にも乗ってくれる。


でもAIは、

壊れたエアコンを直せない。


倒れたお年寄りを

抱き起こせない。


冷凍倉庫の異音を、

現場の勘で

聞き分けることはできない。


港で止まった荷物を、

汗をかいて

動かすことはできない。


妹の靴を、

明日の朝までに

必ず届けることもできない。


だからこれから強いのは、

AIに詳しい人だけじゃない。


医療を知ってAIを使える人。


介護を知ってAIを使える人。


物流を知ってAIを使える人。


農業を知ってAIを使える人。


電気、下水、ごみ、食品、

修理、建設を

知ってAIを使える人。


つまり、

現場を知り、

AIを道具にできる人だ。


これからの社会では、


有名な会社に入ったから安心、

ではない。


大企業の本社だから安全、

でもない。


海外ブランドだから価値がある、

でもない。


本当に大事なのは、


何が止まると人が困るのか。


何が届かないと

生活が崩れるのか。


どこに人の手が必要なのか。


どこに電気が必要なのか。


どこに在庫が必要なのか。


それを見る力だ。


AIは未来を教えてくれる。


でも、

未来を運ぶのは人間だ。


君の手だ。


君の足だ。


君の判断だ。


だから、

AIを怖がらなくていい。


でも、

AIだけを信じてもいけない。


スマホの画面と、

スーパーの棚と、

病院の待合室と、

駅の時刻表と、

家の冷蔵庫。


その全部を見てほしい。


未来は、

ニュースの見出しじゃない。


毎日の暮らしの中に、

少しずつ現れている。


画面が賢くなっても、

世界はまだ完成していない。


誰かのところへ、

ちゃんと届くまで。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ漫才風


 ――笑いの骨頂、

  ボケとツッコミ、

  そして少し涙――


ワトソン

「いやあ、ホームズさん。

 今回の事件、

 最初はAIの話かと思うたら、

 最後は唐揚げと豆腐でしたな」


ホームズ

「ワトソン君、

 そこが重要なんだよ。

 文明の正体は、

 唐揚げと豆腐に現れる」


ワトソン

「なんでやねん。

 名探偵が何を真顔で

 豆腐語っとるんですか」


ホームズ

「考えてみたまえ。

 唐揚げには鶏がいる。

 鶏には餌がいる。

 餌には畑がいる。

 畑には肥料がいる。

 肥料には天然ガスがいる。

 運ぶには軽油がいる。

 冷やすには電気がいる。

 包むにはトレーがいる」


ワトソン

「ちょっと待ってください。

 昼飯食べようと思うただけで、

 世界経済の講義

 始まりましたやん」


ホームズ

「そうだ。

 2036年の唐揚げとは、

 国際政治の最終答案なのだ」


ワトソン

「嫌な唐揚げですねえ。

 かじったら中から

 米国債利回り5%が

 出てくるんですか」


ホームズ

「出てくるとも」


ワトソン

「出てくるんかい!」


ホームズ

「さらに

 ホルムズ海峡の保険料、

 アメリカのLNG、

 中国市場の消費不振、

 Nikeの在庫、

 Walmartの本社削減、

 AIスタートアップの調整まで

 入っている」


ワトソン

「それ、

 唐揚げやなくて

 経済白書ですやん」


ホームズ

「しかし、白書は食べられない。

 唐揚げは食べられる。

 だから唐揚げの方が強い」


ワトソン

「妙に説得力あるのが

 腹立つなあ」


ホームズ

「ゆづき君は、

 そこに気づいた。

 AIは答えを届ける。

 しかし、

 唐揚げを届けるには人がいる。

 靴を届けるにも人がいる。

 薬を届けるにも人がいる。

 妹の足に湿布を貼るにも

 人がいる」


ワトソン

「つまり、最後は人間ですか」


ホームズ

「そうだ。

 AIは頭。

 人間は手足。

 どちらか一つでは、

 社会は歩けない」


ワトソン

「ほんなら、

 わしらも歩きましょうか」


ホームズ

「どこへ?」


ワトソン

「スーパーです。

 唐揚げ弁当が残っとるか

 確認に…」


ホームズ

「ワトソン君、

 実に現実的だ」


ワトソン

「名探偵も腹が減ったら

 推理できませんからな」


ホームズ

「ただし、

 唐揚げ弁当を見たら忘れるな。

 それは鶏肉ではない。

 世界そのものだ」


ワトソン

「分かりました。

 いただきます、世界」


ホームズ

「うむ。

 そして、残すな。

 在庫は時間を買う保険

 なのだから」


ワトソン

「最後まで経済講義かい!」


二人は笑った。


けれど、

その笑いの奥には、

少しだけ涙があった。


なぜなら、

ちゃんと届く世界は、

当たり前ではなかったからだ。


そして、

それに気づいた時、

人間はようやく、

目の前の一食に、

静かに手を合わせるのだった。


「…いただきます」

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