米がなくなった日 ――スーパーの棚が、日本人の本当の姿を見せた――
◆米がなくなった日
――スーパーの棚が、
日本人の本当の姿を見せた――
………
★プロローグ
棚の前で、日本が壊れ始めた
スーパーの白い照明は、
いつも通り明るかった。
明るすぎるくらいだった。
けれど、
その明るさの下で、
米コーナーだけが、
まるで戦場の跡みたいに見えた。
いつもなら、
五キロ袋、十キロ袋が
山のように積まれている場所。
「新米」
「特売」
「お買い得」
そんな札が
にぎやかに並んでいた場所。
そこに、
米はほとんど残っていなかった。
棚は白く、
広く、
空っぽだった。
ただ一袋だけ。
五キロの米袋が、
ぽつんと置かれていた。
その一袋を、
何人もの客が見つめていた。
誰も近づかない。
いや、
近づけなかった。
おばあさんが、
買い物カートの持ち手を
ぎゅっと握る。
制服姿の高校生が、
スマホを持ったまま固まる。
作業着の男が、
喉を鳴らす。
赤ちゃんを抱いた若い母親が、
一歩だけ前に出る。
その時だった。
スーツ姿の若い男が、
スマホを見ながら
米棚に近づいた。
画面には、
何かの通知が出ていた。
男は、
迷わなかった。
たった一袋の米に手を伸ばし、
鬼のような速さで持ち上げた。
そして、
買い物カゴに放り込んだ。
その音が、
妙に大きく響いた。
ドサッ。
赤ちゃんを抱いた母親が、
小さく声を漏らした。
「……あっ」
男は一瞬、
振り向いた。
母親の顔を見た。
赤ちゃんの顔を見た。
ほんの少しだけ、
指が震えた。
けれど、
米袋を戻さなかった。
誰も怒鳴らない。
誰も奪い返さない。
誰も泣き叫ばない。
だからこそ、
その場は恐ろしかった。
人間が
まだ礼儀を守っているのに、
心だけが、
少しずつ壊れ始めていた。
その光景を、
少し離れた場所で見ていた
男がいた。
六十七歳の、
元証券会社勤務の
おじいちゃんだった。
若い頃、
株価の暴落を見た。
バブルがはじける音を、
証券会社のカウンターの
向こうで聞いた。
リーマンショックの時には、
大人たちの顔から
血の気が引くのを見た。
コロナの時には、
マスクとトイレットペーパーが
消える棚も見た。
だが、
今日の米棚は違った。
株でもない。
紙でもない。
マスクでもない。
米だった。
人間が生きるための、
最後の白い粒だった。
おじいちゃんは、
低く、
震える声でつぶやいた。
「ここから……
日本が、静かに壊れていく」
隣にいた高校一年生のゆづきが、
その声を聞いた。
ゆづきは、
まだ十五歳だった。
世界の仕組みなんて、
ほとんど知らない。
米はスーパーにあるもの。
水は蛇口から出るもの。
電気はスイッチを押せばつくもの。
スマホで注文すれば、
たいてい明日には届くもの。
そう思っていた。
ゆづきは、
空っぽの棚を見つめたまま聞いた。
「おじいちゃん……
ただの米なのに、
なんでこんなに怖いの?」
おじいちゃんは答えなかった。
ただ、
最後の米袋を入れた男の背中と、
赤ちゃんを抱いた母親の
動かない顔を見ていた。
それから、
ゆっくり言った。
「米が消えたんやない」
「え?」
「信用が消え始めたんじゃ」
………
★目次
■第1話
米は「商品」ではなくなった
■第2話
公平か、奪い合いか
■第3話
スマホが始める戦争
■第4話
38%という残酷な数字
■第5話
江戸にはもう戻れない
■第6話
軽油が止まった日
■第7話
白い粒は来年の運命
■第8話
病院が先に折れる
■第9話
配給なき配給
■最終話
奪い合う前に、分け方を考えろ
★エピローグ
Z世代のあなたへ
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
………
■第1話
米は「商品」ではなくなった
その夜、
ゆづきの家では、
炊飯器の中の米が、
いつもより少なかった。
母親が、
しゃもじで
ご飯をよそいながら言った。
「今日は少なめにしようね」
いつもなら、
ゆづきは
文句を言ったかもしれない。
「えー、足りん」
でも、
その日は言えなかった。
夕方のスーパーの光景が、
頭から離れなかった。
最後の一袋。
スーツの男。
赤ちゃんを抱いた母親。
何も言えなかった周りの人たち。
母親が、
米びつを開けた。
底が見えていた。
白い米粒が、
ほんの少しだけ残っている。
その音がした。
カラ……
米びつの底に、
計量カップが当たる音。
ゆづきは、
その音を初めて怖いと思った。
母親は、
何でもないような顔をして言った。
「明日、買えるかな」
その言い方が、
かえって怖かった。
「明日、買いに行けばいい」
ではない。
「明日、買えるかな」
だった。
ゆづきはスマホを握った。
米の在庫通知アプリを開く。
近くのスーパー。
在庫なし。
ドラッグストア。
在庫なし。
ネット通販。
在庫あり。
ゆづきは少し安心した。
だが、
注文画面へ進むと、
そこには冷たい文字が出た。
「配送予定日:未定」
ゆづきは何度も更新した。
変わらない。
また更新する。
変わらない。
在庫ありなのに、
届く日は分からない。
それは、
あるようで、
ないのと同じだった。
翌日、
ゆづきはおじいちゃんに聞いた。
「米って、もう買えないん?」
おじいちゃんは、
すぐには答えなかった。
そして、
空っぽの米棚の写真を見ながら
言った。
「米はもう、
ただの『商品』や
なくなった」
「どういうこと?」
「昔は、
お金があれば買えた。
店に行けばあった。
ネットで頼めば届いた。
それが商品じゃ」
「じゃあ、今は?」
「今の米は、
日本という国を
信じられるかどうかの、
リトマス試験紙になったんじゃ」
ゆづきは首をかしげた。
「リトマス試験紙?」
「理科で習うじゃろ。
色が変わる紙じゃ」
「うん」
「米棚も同じじゃ。
社会が健康なら、
そこには米がある。
社会の血の巡りが悪くなると、
米棚の色が変わる」
「空っぽになるってこと?」
「そうじゃ」
おじいちゃんは、
ゆづきの目を見て言った。
「足りないものを、
ちゃんと公平に分けられるか。
それができる国かどうか。
米は、
それを試す紙になったんじゃ」
ゆづきは、
米びつの底の音を思い出した。
カラ……
その音は、
もう台所の音ではなかった。
日本という国の底に、
何かが当たり始めた音だった。
■第2話
公平か、奪い合いか
翌日、
ゆづきは
おじいちゃんの部屋に行った。
部屋は狭かった。
でも、
本と新聞の切り抜きと、
古いノートでいっぱいだった。
机の上には、
赤鉛筆で線を引かれた記事が、
山のように積まれていた。
「おじいちゃん、これ何?」
「昔の危機の記録じゃ」
「危機ばっかり見て楽しいの?」
「楽しくはない。
でもな、
人間は危機の時に
本当の顔が出る」
おじいちゃんは、
白い紙を一枚取り出した。
そこに、
丸いケーキの絵を描いた。
「ゆづき。
ここにケーキが一個ある」
「うん」
「でも、
食べたい人は十人おる」
「足りんじゃん」
「そうじゃ。
その時どうする?」
ゆづきは考えた。
「十等分する」
「それが公平じゃ」
「でも、めっちゃ小さいよ」
「小さくても、
みんなが少しずつ食べられる」
おじいちゃんは、
今度はケーキの絵に
大きなバツを書いた。
「では、
先生がこう言ったら
どうなる?」
『欲しい人は、
早い者勝ちです』
ゆづきは顔をしかめた。
「強い子が取る」
「足の速い子が取る」
「ずるい子が取る」
「泣いてる子は食べられん」
おじいちゃんはうなずいた。
「それが、
今の日本に近づいとる」
「米の話?」
「米だけやない。
灯油。
軽油。
薬。
肥料。
病院の予約。
配送枠。
全部じゃ」
ゆづきは、
スマホを見た。
そこに通知が来た。
「米・抽選販売
明日朝6時開始
上級会員優先」
ゆづきは思わず言った。
「上級会員って、何それ」
おじいちゃんは苦い顔をした。
「国が配給を決めん時、
企業が勝手に順番を決める」
「それってずるくない?」
「企業から見れば商売じゃ。
でも、社会から見れば、
命に近いものの順番を、
会員ランクで決めとることになる」
ゆづきは黙った。
おじいちゃんは言った。
「配給いう言葉は嫌われる。
戦争みたいじゃからな。
でも本当は、
配給とは、
豊かさを配る仕組みやない。
貧しさを、
公平に配る仕組みなんじゃ」
ゆづきは小さく言った。
「貧しさを公平に……」
「それができん国では、
貧しさが人を選び始める」
「どういう人が選ばれるの?」
「お金のない人。
情報の遅い人。
車のない人。
小さい子を抱えた人。
病気の人。
声の小さい人。
真面目に並ぶ人」
ゆづきの頭に、
昨日の母親の顔が浮かんだ。
赤ちゃんを抱いたまま、
「あ……」と声を出した母親。
誰も悪くなかった。
でも、
分ける人がいなかった。
だから、
一番静かな人が傷ついた。
■第3話
スマホが始める戦争
朝4時58分。
ゆづきは、
布団の中でスマホを握っていた。
眠い。
でも眠れない。
米の抽選販売が、
朝6時から始まる。
母親は言った。
「ゆづき、お願い。
スマホ得意でしょ」
得意。
その言葉が、
少しだけゆづきを
誇らしくさせた。
いつもなら、
スマホは遊ぶ道具だった。
動画を見る。
友だちと話す。
音楽を聴く。
ゲームをする。
でも今日のスマホは違う。
家族の米を取るための
武器だった。
5時59分50秒。
ゆづきの心臓が鳴る。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
5時59分58秒。
指が震える。
5時59分59秒。
画面を見つめる。
6時00分00秒。
押した。
「アクセスが集中しています」
もう一度押す。
「アクセスが集中しています」
もう一度。
「アクセスが集中しています」
画面が固まった。
ゆづきは息を止めた。
ページが切り替わる。
「受付終了しました」
時刻は、
6時03分。
三分で終わった。
ゆづきは叫んだ。
「うそじゃろ!」
SNSを開く。
そこは、
すでに地獄だった。
「上級会員が全部持っていった」
「転売ヤーだろ」
「外国人が買い占めてる」
「政府が隠してる」
「店員が裏で流してる」
「米がない国とか終わってる」
「並ばないやつが悪い」
「子どもがいる家庭を優先しろ」
「老人が買い占めるな」
「若者は我慢しろ」
「都会ばかり優先されてる」
怒りが、
光の速さで流れていく。
本当の情報もある。
嘘もある。
思い込みもある。
ただの悪口もある。
でも、
区別する前に、
心が焼かれる。
ゆづきはスマホを握りしめた。
「私、何も悪くないのに……
なんで?」
その日、
学校へ行く途中で、
ゆづきはおじいちゃんに会った。
おじいちゃんは、
ゆづきの赤い目を見て言った。
「寝てない顔じゃな」
「米、取れんかった」
「そうか」
「三分で終わった。
何もできんかった。
SNSは地獄じゃし。
みんな怒っとる。
俺も腹が立つ」
おじいちゃんは、
ゆっくり言った。
「これが令和の、
万人の万人に対する闘争じゃ」
「また難しいこと言う」
「簡単に言えば、
みんながみんなを敵だと
思い始める状態じゃ」
「でも、誰も殴ってないよ」
「血は流れてへん。
でも、
心は毎日傷ついとる」
ゆづきは黙った。
おじいちゃんは続けた。
「昔の戦いは、
刀や銃を持った。
今の戦いは、
スマホを持つ。
予約ボタン。
抽選販売。
在庫通知。
スクショ。
デマ。
罵倒。
スマホの中で、
人の心が削られていく」
ゆづきは、
自分のスマホを見た。
黒い画面に、
自分の顔が映っていた。
眠れず、
怒り、
不安にゆがんだ顔。
その顔が、
少し知らない人に見えた。
■第4話
38%という残酷な数字
その日の夕方。
テレビで政府の会見が流れた。
大臣が、
落ち着いた声で言った。
「日本の食料自給率は
三十八%です。
必要な対策を進めております。
国民の皆さまには、
冷静な行動を
お願いいたします」
ゆづきの母親は、
少しだけ安心した顔をした。
「三十八%あるなら、
少しは大丈夫なんかな」
ゆづきも思った。
三十八%。
ゼロではない。
三分の一以上ある。
そう思うと、
少しだけ息ができる気がした。
でも、
隣にいたおじいちゃんは、
テレビを見ながら眉をひそめた。
「その三十八%が、
一番残酷なんじゃ」
ゆづきは聞いた。
「なんで?
三十八%あるんじゃろ?」
おじいちゃんは、
台所にあった米袋を持ってきた。
「これは国産米じゃ」
「うん」
「では聞く。
この米は、
日本だけで作られたと思うか?」
「国産って書いてあるじゃん」
「米粒は日本で育った。
でも、
米を育てた田んぼにまいた
肥料は?
トラクターを動かした
軽油は?
乾燥機の電気は?
米袋の素材は?
精米機の部品は?
店まで運んだトラックは?」
ゆづきは黙った。
おじいちゃんは、
紙に大きく書いた。
肥料。
燃料。
包装。
機械。
物流。
電気。
「この三十八%はな、
外国の
酸素チューブにつながれた
重症患者みたいなもんじゃ」
ゆづきは息をのんだ。
「酸素チューブ?」
「病院のベッドに寝とる患者が、
自分で呼吸しとるように
見える。
でも実は、
チューブで酸素を送られとる。
チューブがある間は
生きられる。
でも、
チューブが切れたら、
一気に苦しくなる」
おじいちゃんは、
米袋を見つめた。
「日本の三十八%も同じじゃ。
輸入肥料のチューブ。
輸入燃料のチューブ。
輸入飼料のチューブ。
輸入ナフサのチューブ。
この四本が細ると、
三十八%は、
三十八%のまま立っていられん」
ゆづきは、
米袋が急に重く見えた。
ただの五キロではなかった。
その袋には、
世界中の油と肥料と
港と船がぶら下がっていた。
「じゃあ、
国産って言葉だけじゃ
足りないんだ」
「そうじゃ」
おじいちゃんは言った。
「これからは、
国産かどうかだけではなく、
その国産を動かしているものが
何かを見んといけん」
テレビではまだ、
「冷静な行動を」と言っていた。
でも、
ゆづきの心は、
もう冷静ではいられなかった。
■第5話
江戸にはもう戻れない
ネットでは、
ある言葉が流行り始めた。
「昔みたいに暮らせばいい」
「江戸時代は
三千万人でやっていた」
「贅沢をやめればいい」
「田舎に戻ればいい」
「自給自足すれば解決」
その言葉は、
ゆづきにも
少し魅力的に見えた。
都会のスーパーで
米を奪い合うくらいなら、
昔みたいに暮らした方が、
まだ人間らしい気がした。
ゆづきは、
おじいちゃんに言った。
「もういいじゃん。
質素に暮らせば。
江戸時代みたいにさ」
おじいちゃんは、
悲しそうに笑った。
「ゆづき。
江戸に戻る橋は、
もう燃えとる」
「そんなに無理?」
「無理というより、
戻り方を忘れたんじゃ」
おじいちゃんは、
ゆっくり話し始めた。
江戸時代の人は、
隣の顔を知っていた。
村で田んぼを守っていた。
山から薪を取り、
落ち葉を集め、
人のし尿を肥料にした。
暗くなれば、
本当に暗かった。
暑ければ汗をかき、
寒ければ耐えた。
病気になれば、
今みたいな病院も薬もない。
便利は少ない。
でも、
その不便の中で
生きる作法があった。
おじいちゃんは、
ゆづきに聞いた。
「お前、
隣の部屋の人の
名前を知っとるか?」
ゆづきは首を振った。
「停電したら、
どこで水を汲む?」
「分からん」
「トイレが流れんかったら?」
「……困る」
「米を育てる田んぼは?」
「ない」
「肥料を作れるか?」
「無理」
「薪を割れるか?」
「やったことない」
おじいちゃんは言った。
「昔に戻るというのは、
昔の知恵と、
昔の体と、
昔の共同体と、
昔の我慢を
取り戻すことじゃ。
人口だけ減らしても、
江戸には戻れん」
ゆづきは、
スマホを握った。
画面には、
江戸時代の暮らしを
美しく描いた動画が流れていた。
囲炉裏。
田んぼ。
夕焼け。
浴衣。
和食。
でも、
そこには臭いも、
病気も、
暗闇も、
飢饉も、
村のしがらみも
映っていなかった。
おじいちゃんは言った。
「日本が失ったのは、
人口やない。
三千万人で生きる
作法なんじゃ」
その言葉は、
ゆづきの胸に、
冷たい釘のように刺さった。
■第6話
軽油が止まった日
テレビは、
ガソリン価格の話ばかりしていた。
「レギュラーガソリンが高騰」
「家計に直撃」
「休日のドライブに影響」
「旅行控え広がる」
街の人は、
インタビューで言った。
「車に乗る回数を減らします」
「遠出はやめます」
「痛いですね」
ゆづきも最初は、
ガソリンが一番大変なのだと
思っていた。
でも、
おじいちゃんは違った。
「ガソリンも痛い。
でも本当に怖いのは、
軽油じゃ」
「軽油?」
「軽油は、
日本という体を
流れる血液じゃ」
おじいちゃんは、
紙に書き出した。
スーパーの商品を運ぶ
トラック。
農家のトラクター。
魚を運ぶ冷凍車。
建設機械。
バス。
学校給食の配送車。
ごみ収集車。
下水処理の汚泥を運ぶ車。
「ガソリンは、
自分の車が
動かなくなる話じゃ。
軽油は、
日本という国が
動かなくなる話じゃ」
その言葉の数日後。
ゆづきの近所のスーパーに、
新しい張り紙が貼られた。
「物流逼迫により、
一部商品の入荷が
大幅に遅れています」
米だけではなかった。
豆腐が少ない。
卵が少ない。
冷凍食品が少ない。
牛乳の棚が薄い。
パンの種類が減った。
おにぎりの入荷時間が
遅くなった。
学校でも、
給食の献立変更があった。
「本日の副菜は、
物流事情により変更します」
クラスの誰かが笑った。
「また物流かよ」
でも、
ゆづきは笑えなかった。
物流という言葉の裏に、
軽油が見えた。
トラックが見えた。
運転手が見えた。
倉庫が見えた。
港が見えた。
おじいちゃんの言葉が、
耳に残っていた。
戦争は、
爆発音で始まるとは限らない。
入荷遅延のお知らせで、
始まることもある。
■第7話
白い粒は来年の運命
ある日、
おじいちゃんは、
ゆづきに一枚の写真を見せた。
白い粒が、
山のように積まれている
写真だった。
「これ、何に見える?」
ゆづきは答えた。
「砂糖?」
「尿素肥料じゃ」
「肥料かあ」
ゆづきは、
少し気の抜けた返事をした。
肥料。
それは農家の話で、
自分とは遠い話に思えた。
おじいちゃんは、
写真を指で叩いた。
「これは、
来年の米そのものじゃ」
ゆづきは顔を上げた。
「肥料が米?」
「そうじゃ。
来年の米。
来年のパン。
来年の卵。
来年の肉。
来年の牛乳。
来年の学校給食」
おじいちゃんの声は、
いつもより低かった。
「農業には、
時間割がある。
肥料を入れる日。
種をまく日。
苗を植える日。
水を張る日。
収穫する日。
そこに遅刻したら、
あとから謝っても間に合わん」
「スマホの配送みたいに、
遅れてすみません、
じゃ済まないんだ」
「そうじゃ」
おじいちゃんは言った。
「稲は待ってくれん。
麦も待ってくれん。
トウモロコシも、
政府の記者会見を
聞いてくれん」
ペルシャ湾では、
肥料船が動けずに止まっている。
世界の尿素肥料の値段が
上がっている。
バングラデシュでは、
米の作付け前に
肥料不足が起きている。
それは、
遠い国のニュースに見えた。
だが、
おじいちゃんは言った。
「遠い国の畑で起きたことは、
半年後、
日本のレシートに出る」
ゆづきは、
白い粒の写真を見つめた。
それはもう、
ただの肥料ではなかった。
まだ炊かれていない米だった。
まだ焼かれていないパンだった。
まだ産まれていない卵だった。
まだ作られていない給食だった。
ゆづきは初めて、
未来が飢えるという感覚を知った。
■第8話
病院が先に折れる
ある夜、
ゆづきの祖母が体調を崩した。
母親は病院へ電話した。
だが、
電話の向こうの声は、
いつもと違っていた。
「申し訳ありません。
本日は
大変混み合っております」
「薬の一部が、
入荷未定になっております」
「検査については、
後日になる可能性があります」
母親の顔が青くなった。
ゆづきは、
初めて知った。
病院は、
いつでも
助けてくれる場所ではない。
病院もまた、
薬、
電気、
燃料、
人手、
使い捨ての医療材料、
配送に支えられている場所だった。
翌日、
おじいちゃんは言った。
「供給が崩れる時、
先に折れるのは医療じゃ」
「なんで?」
「病院は、
たくさんのものを毎日使う。
薬。
点滴。
注射器。
手袋。
酸素。
検査キット。
透析の部品。
冷蔵保管。
非常用電源。
どれか一つでも足りんと、
すぐ苦しくなる」
ゆづきは聞いた。
「食べ物より先に?」
「食べ物の不安と同時に、
医療が先に
悲鳴を上げることがある」
おじいちゃんは、
新聞の切り抜きを見せた。
レバノン。
旧ソ連。
燃料不足。
薬不足。
病院の機能低下。
平均寿命の低下。
ゆづきには
難しい言葉もあった。
でも、
一つだけ分かった。
社会は、
いきなり全部壊れるのではない。
先に、
弱いところからひびが入る。
病院。
高齢者施設。
学校給食。
物流。
農家。
小さな商店。
そして最後に、
普通の家庭。
おじいちゃんは言った。
「医療が折れると、
人は国家を
信じられなくなる。
でも、
本当の分水嶺はその次じゃ」
「次?」
「食料じゃ。
食料を公平に配れるかどうか。
そこを越えられん国は、
人の心が自然状態に落ちる」
ゆづきは、
祖母の薬袋を見た。
その白い袋もまた、
社会の薄い膜に見えた。
■第9話
配給なき配給
米の制限は、
いつの間にか
当たり前になった。
お一人様一点まで。
入荷未定。
抽選販売。
会員様優先。
配送地域限定。
病院・施設優先。
業務用契約優先。
政府はまだ、
「配給」とは言わなかった。
テレビも、
「配給」という言葉を避けた。
代わりに、
こう言った。
「購入制限」
「優先供給」
「流通調整」
「冷静な対応」
「市場機能の維持」
ゆづきは、
それらの言葉を聞くたびに、
気持ち悪くなった。
言葉だけが柔らかい。
でも実際には、
誰かが先に受け取り、
誰かが後回しになっていた。
ある日、
ゆづきの友だちが言った。
「うち、
親が会社の福利厚生で
米買えた」
別の友だちは言った。
「うちは
親戚が農家だから大丈夫」
別の子は言った。
「会員ランク高いから
抽選当たった」
また別の子は、
黙っていた。
その子の弁当箱には、
いつもよりご飯が少なかった。
ゆづきは、
おじいちゃんに聞いた。
「これって、
もう配給じゃないの?」
おじいちゃんは答えた。
「配給じゃ。
ただし、
国が決めた配給ではない」
「じゃあ、誰が決めてるの?」
「会社。
店。
アプリ。
会員制度。
住所。
契約。
情報の速さ。
金の強さ」
おじいちゃんは言った。
「これを、
配給なき配給という」
ゆづきは、
その言葉を何度も
心の中で繰り返した。
配給なき配給。
配給と言わない配給。
順番を決めないふりをして、
実は順番が決まっている社会。
おじいちゃんは言った。
「国が順番を決めん時、
別の誰かが順番を決める。
それが市場なら、
金のある者が先になる。
それがアプリなら、
情報の早い者が先になる。
それが企業なら、
契約の強い者が先になる」
ゆづきは聞いた。
「じゃあ、
どうすればいいの?」
おじいちゃんは、
少し黙った。
そして言った。
「誰に先に配るべきかを、
社会全体で話すしかない」
「でも、それ絶対もめるよ」
「もめる。
だから政治家は逃げる。
大人も逃げる。
テレビも逃げる。
でも、
逃げたら、
棚が勝手に答えを出す」
その夜、
ゆづきはスーパーへ行った。
米棚は、
また空だった。
だが、
そこには
新しい紙が貼られていた。
「次回入荷分は、
事前予約者のみの
販売となります」
ゆづきは、
その紙を見て思った。
国家は
まだ配給と言っていない。
でも、
棚はもう、
配給を始めていた。
■最終話
奪い合う前に、
分け方を考えろ
夜のスーパーは、
昼間よりも静かだった。
照明だけが、
やけに白く光っている。
ゆづきとおじいちゃんは、
空っぽの米棚の前に
立っていた。
そこにはもう、
米袋は一つもなかった。
代わりに、
何枚もの張り紙が
貼られていた。
「入荷未定」
「購入制限」
「事前予約制」
「抽選販売」
「転売防止のため
身分証確認」
ゆづきは、
その文字を見ていたら、
急に涙が出そうになった。
「おじいちゃん……
私たち、どうすればいいん?」
その声は、
自分でも驚くほど弱かった。
おじいちゃんは、
しばらく答えなかった。
そして、
空っぽの棚ではなく、
その前に立つ人々を見た。
疲れた母親。
黙って立つ老人。
スマホを更新する若者。
店員に詰め寄りそうで、
でもこらえている男。
泣きそうな子ども。
おじいちゃんは、
ゆっくり言った。
「現物を見る目を持て」
「現物?」
「画面やない。
畑を見ろ。
タンクを見ろ。
倉庫を見ろ。
港を見ろ。
トラックを見ろ。
肥料を見ろ。
軽油を見ろ」
ゆづきは黙って聞いた。
「米がどこから来るか。
肥料が何でできているか。
軽油が何を運んでいるか。
薬が何で包まれているか。
給食が誰によって
作られているか。
在庫が誰の手にあるか。
そこを見ろ」
ゆづきは、
スマホを握りしめていた手を
ゆるめた。
おじいちゃんは続けた。
「そして一番大事なことがある」
「何?」
「奪い合う前に、
分け方を考える勇気を
持つことじゃ」
「分け方……」
「赤ちゃんに先か。
お年寄りに先か。
病院に先か。
農家に先か。
学校給食に先か。
下水やごみ処理に先か。
物流に先か。
誰に先に回すのか。
これは苦しい話じゃ。
みんなが納得する答えなんて、
簡単にはない。
でも、
それを考えん国は、
静かに、
確実に、
心から崩れていく」
ゆづきは、
スマホをポケットにしまった。
画面の光が消えた。
その瞬間、
スーパーの白い照明の下で、
初めて現実の重さを感じた。
スマホの中には、
在庫通知がある。
噂がある。
怒りがある。
抽選がある。
でも、
スマホの外には、
畑がある。
港がある。
軽油がある。
肥料がある。
倉庫がある。
病院がある。
赤ちゃんがいる。
お年寄りがいる。
そして、
同じように不安な人たちがいる。
ゆづきは、
空っぽの棚を見つめた。
その棚は、
もうただの棚ではなかった。
日本人が、
これからどう生きるのかを
映す鏡だった。
奪い合うのか。
分け合うのか。
疑い合うのか。
話し合うのか。
誰かを押しのけるのか。
誰かを先に通すのか。
ゆづきは、
小さく息を吸った。
怖かった。
でも、
ただ怖がるだけでは
終われないと思った。
おじいちゃんは言った。
「危機はもう始まっとる。
でも、
考えることも、
今から始められる」
ゆづきはうなずいた。
米がなくなった日。
ゆづきは初めて知った。
本当に失ってはいけないものは、
米だけではない。
人が人を信じる力だった。
………
★エピローグ
Z世代なあなたへ
Z世代のあなたへ。
君たちは、
スクロールする指が速い。
検索も速い。
動画を見るのも速い。
情報を拾うのも速い。
でも、
これからの時代に必要なのは、
速さだけではない。
畑を見る目。
タンクを見る目。
倉庫を見る目。
港を見る目。
レシートの裏側を見る目。
米一粒の向こうに、
世界中の肥料と燃料と
人間の汗があることを知る目。
スマホの
「在庫あり」という文字だけを
信じるのではなく、
その在庫がどこにあり、
誰が運び、
何で包まれ、
どの燃料で届くのかを考える目。
不安を増幅する側になるのか。
現実を直視して、
未来を設計する側になるのか。
それは、
君たちの選択で決まる。
奪い合う世代になるか。
分かち合う世代になるか。
買い占めのボタンを
連打するだけの世代になるか。
足りない時の
分け方を考える世代になるか。
米がなくなった日、
日本人の本当の姿が棚に映った。
でも、
そこに映った姿を見て、
変わることはできる。
現実を見ること。
仕組みを知ること。
そして、
奪い合う前に、
分け方を考えること。
それができる君たちこそ、
次の日本の本当の資源になる。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
――笑いと涙の締め――
ワトソン
「ホームズ、
今回の事件、
犯人は誰なんですか?
最後の米袋を取った
スーツの男ですか?」
ホームズ
「違うね、ワトソン君」
ワトソン
「じゃあスーパーですか?
米を仕入れられなかった店が
悪いんですか?」
ホームズ
「それも違う」
ワトソン
「じゃあ政府ですか?
軽油ですか?
肥料ですか?
ホルムズ海峡ですか?
ナフサですか?
米袋ですか?
会員ランクですか?
抽選販売ですか?」
ホームズ
「君は相変わらず、
関係者を
全員逮捕しようとするね」
ワトソン
「だって、
全員怪しいじゃないですか!」
ホームズ
「今回の犯人は一人ではない。
だが一番大きな犯人は、
“足りない時でも
市場に任せれば何とかなる”
という思い込みだ」
ワトソン
「思い込み?
地味な犯人ですねえ」
ホームズ
「地味だが強い。
強盗は一軒の家を襲う。
思い込みは
一国の棚を空にする」
ワトソン
「でもホームズ、
配給なんて言ったら、
みんな嫌がりますよ」
ホームズ
「そうだ。
だから政治家は言わない」
ワトソン
「じゃあ誰が言うんですか?」
ホームズ
「スーパーだ」
ワトソン
「スーパー?」
ホームズ
「お一人様一点まで」
ワトソン
「あっ、それ配給や!」
ホームズ
「抽選販売」
ワトソン
「それも配給や!」
ホームズ
「会員様優先」
ワトソン
「めちゃくちゃ
配給やないですか!」
ホームズ
「そう。
国家が配給という言葉を
嫌がると、
市場がこっそり
配給を始める」
ワトソン
「ほな、
令和の配給切符は
スマホですか?」
ホームズ
「その通り」
ワトソン
「嫌な時代ですねえ。
ワシ、
スマホの充電切れたら
配給から脱落ですやん」
ホームズ
「その前に君は、
パスワードを忘れて
脱落するだろうね」
ワトソン
「やかましいわ!」
ホームズ
「だが、希望もある」
ワトソン
「どこに?」
ホームズ
「ゆづきのような若者が、
米袋の向こうに
畑を見ようとしたことだ」
ワトソン
「米袋の向こうに畑?」
ホームズ
「そうだ。
さらにその向こうに、
肥料があり、
軽油があり、
港があり、
倉庫があり、
人間の信用がある」
ワトソン
「昼ご飯が急に
社会科の授業みたいに
なりましたね」
ホームズ
「いいことだ。
茶碗一杯のご飯を、
世界の共同作業として
見られる者だけが、
次の時代を読める」
ワトソン
「ホームズ、
最後に一つだけ」
ホームズ
「何だね」
ワトソン
「結局、
どうすればええんですか?」
ホームズは少し黙った。
そして、
空っぽの米棚ではなく、
その前に並ぶ人たちを見た。
「奪い合う前に、
分け方を考えることだ」
ワトソン
「それだけですか?」
ホームズ
「それだけだ。
だが、
それが一番難しい」
二人は黙った。
スーパーの照明は、
いつも通り明るかった。
けれどその明るさの下で、
日本人は初めて
気づき始めていた。
米は、
ただの米ではなかった。
それは、
国家への信用であり、
社会契約であり、
人間が人間でいるための、
最後の白い粒だった。
終わり




