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子ども、無理じゃね? ――ホルムズ封鎖後、練馬の2LDKで未来を失った夫婦が、長野10万円古民家にまだ生まれていない子どもの部屋を作った話――

✦子ども、無理じゃね?


――ホルムズ封鎖後、

 練馬の2LDKで未来を失った夫婦が、

 長野10万円古民家に

 まだ生まれていない

 子どもの部屋を作った話――


………


ほんまに怖い戦争いうんは、

ミサイルで始まるんじゃない。


若い夫婦が、

子ども部屋にするはずだった

六畳間を見て、


「ここ、もう物置でいいよね」


と、

小さな声で言うところから

始まるんじゃ。


文明は、

AIで続くんやない。


株価で続くんやない。


金でも、

ロケットでも、

データセンターでもない。


まだ生まれていない子どもに、


「ここへ来ても大丈夫」


と言える場所が残っているかどうかで、

文明は続くんじゃ。


………


★目次


■第一章

 心電図が止まる音


■第二章

 ゴールデンウィーク明け、

 未来が腐り始めた


■第三章

 水3箱で、

 夫婦の距離が詰まる


■第四章

 40歳の求人サイトは、

 全部「再開未定」だった


■第五章

 ゲームの勇者は未来を救い、

 翻訳者は納期に殺される


■第六章

 家賃ゼロ、未来ゼロ


■第七章

 同盟が脅迫状になった日


■第八章

 もう産めない。

 この世界に連れてくるなんて

 虐待だ


■第九章

 五月一日の亡霊


■第十章

 敵対行為ではない、

 という敵対行為


■第十一章

 病院は、

 透明な袋から止まった


■第十二章

 コスパより、

 腐る前に食え


■第十三章

 長野10万円古民家、

 最後の賭け


■第十四章

 子ども部屋は、

 練馬ではなく長野にできた


■第十五章

 出生率とは、

 未来に「来てもいいよ」と

 言える場所の数だった


❥Z世代のあなたへ

 ――未来はバズらない


★あとがき

 ホームズとワトソンの、

 やすきよ漫才風締め


………


■第一章

 心電図が止まる音


ひろしは、

暗いリビングでスマホを握っていた。


画面には、

イーロン・マスクの

少子化に関する投稿が表示されていた。


文明は、

AIで続くのではない。


次の世代を産み、

育てる人間がいなければ、

文明は空っぽになる。


その言葉が、

ひろしの胸に刺さった。


ひろしは40歳。


元大手ITメーカーの

ソフトウェア管理職だった。


昔は、

会議で部下に指示を出し、

進捗表を見て、

システムの障害を冷静に

処理していた。


だが、

彼の心は会社で壊れた。


お局さんの冷たい声。


「普通、ここ気づくよね」


「前にも言いましたよね」


「管理職なのに、

 それで大丈夫なんですか」


その言葉は、

退職した後も、

耳の奥に残り続けた。


ひろしは、

自分が弱い人間だと思っていた。


でも本当は、

弱かったのではない。


毎日少しずつ削られ、

心の骨が見えないところで

折れていた。


今は就職活動中。


求人サイトを開いても、

40歳という数字が、

画面の向こうで

重たい扉になっていた。


妻のさおりは37歳。


大手ゲーム会社の翻訳担当として

働いていた。


年収はおよそ600万円。


数字だけ見れば、

まだ生活は破綻していない。


けれど、

練馬区の2LDKは、

家賃だけで月20万円だった。


年に240万円。


そこへ、

電気代、

通信費、

食費、

保険、

医療費、

税金、

日用品。


そして、

ひろしの就職活動にかかる

見えない不安。


さおりは、

隣のテーブルで

ノートPCを叩いていた。


画面の中では、

若い勇者が叫んでいた。


「この世界の未来は、

 俺たちが変えるんだ!」


さおりは、

そこで指を止めた。


しばらく、

画面を見つめた。


そして、

小さく笑った。


「……笑えるよね」


ひろしは顔を上げた。


「何が?」


「私たちが作ってる未来って、

 全部フィクションなんだなって」


ひろしは何も言えなかった。


ゲームの中では、

勇者が魔王を倒す。


失われた王国は復活する。


世界は救われる。


けれど現実の世界では、

ホルムズ海峡が詰まり、

原油が詰まり、

物流が詰まり、

電気が止まり、

求人が止まり、

病院の透明な袋まで

足りなくなろうとしていた。


ひろしは、

スマホの画面を見た。


文明は、

AIで続かない。


その言葉が、

もう一度、胸に刺さった。


出生率とは、

赤ちゃんの数ではない。


この世界に

子どもを連れてきても大丈夫だと、

若い夫婦が信じられるかどうか。


それを示す、

国の心電図なのだ。


そしていま、

その心電図は、

かすかに、

弱くなっていた。


………


■第二章

 ゴールデンウィーク明け、

 未来が腐り始めた


五月中旬。


ゴールデンウィークは終わった。


東京には、

まだ新緑の匂いが残っていた。


けれど、

空気は重かった。


ホルムズ海峡の事実上の封鎖から、

五十日ほどが過ぎていた。


政府は最初、

落ち着いた顔で言った。


「備蓄はあります」


「国民生活への影響を

 最小限に抑えます」


「必要な供給は確保します」


その言葉を、

多くの人が信じた。


信じたかった。


だが、

五月中旬になると、

計画停電が本格化した。


最初は、

平日昼間の二時間程度だった。


しかし、

それは少しずつ広がった。


午後二時から六時。


夕方。


夜間。


週末。


最初は特別だった停電が、

だんだん日常になっていった。


練馬のマンションにも、

停電アプリの通知が来た。


本日、

十四時から十八時まで、

計画停電を実施します。


さおりは、

その通知を見るたびに、

胸の奥が硬くなった。


在宅で翻訳をしている彼女にとって、

電気は空気のようなものだった。


Wi-Fi。


ノートPC。


外部モニター。


オンライン辞書。


クラウド保存。


チャットツール。


全部、

電気の上に乗っていた。


ひろしは、

スーパーから帰ってきた。


両手に重い袋を抱えていた。


額には汗がにじんでいた。


「今日、

 鶏肉がまた上がってた」


さおりは、

冷蔵庫を開けながら聞いた。


「どれくらい?」


「前より、

 100グラムで

 150円から200円くらい高い感じ」


「そんなに?」


「輸入野菜は、

 ほとんどなかった」


袋の中には、

少しの卵、

高くなった鶏肉、

豆腐、

乾麺、

レトルト食品が入っていた。


米は一人一点。


油も一人一点。


缶詰も一人一点。


棚には、

「入荷未定」

「数量制限」

「お一人様一点限り」

という紙が並んでいた。


さおりは冷蔵庫の中身を見た。


今日の停電は、

あと三十分で始まる。


冷蔵庫は止まる。


冷凍庫も止まる。


買ってきた肉を、

今夜食べるべきか。


明日に回せるのか。


冷蔵庫の中で何時間耐えられるのか。


夫婦の会話は、

そんなことばかりになっていた。


ひろしは言った。


「刺身、

 半額になってたけどやめた」


「なんで?」


「90代くらいの

 おばあさんに止められた」


「止められた?」


「停電ある日に

 刺身を買うんじゃないって。

 夕方じゃろ、暑いじゃろ、

 冷蔵庫止まるじゃろって」


さおりは、

少し笑いかけた。


でも笑えなかった。


そのおばあさんは、

たぶん正しい。


冷蔵庫が止まる時代に、

刺身の半額シールは、

お得ではなく危険信号になる。


午後二時。


照明が一度だけ揺れた。


次の瞬間、

部屋が暗くなった。


冷蔵庫のブーンという音が止まった。


Wi-Fiルーターの小さな光が消えた。


さおりのノートPC画面が暗くなり、

クラウド保存の表示が止まった。


画面の中の勇者のセリフは、

未保存のまま消えた。


「未来は、俺たちが変えるんだ!」


その言葉だけが、

さおりの頭の中に残った。


現実の未来は、

冷蔵庫の中で、

少しずつぬるくなっていた。


………


■第三章

 水3箱で、

 夫婦の距離が詰まる


さおりは、

ネットで水を注文した。


2リットル6本入り。


1箱12キロ。


とりあえず3箱。


合計36キロ。


数字だけ見れば、

たいした備蓄ではない。


大人二人なら、

飲み水だけでも数日分。


料理や洗い物やトイレを考えれば、

全然足りない。


それでも、

水が届いた瞬間、

練馬の2LDKは狭くなった。


玄関横に置く。


廊下が曲がる。


洗面所へ行く時、

体を少し横にしないと通れない。


掃除機も通しにくい。


洗濯かごを持つと、

段ボールにぶつかる。


たった3箱。


36キロの水が、

夫婦の生活動線を変えた。


ひろしは、

思わず声を荒げた。


「これ以上買ったら、

 俺たちが出られなくなるぞ」


さおりも、

反射的に言い返した。


「じゃあどうするの?」


「どうするって……」


「水がなかったら困るでしょ」


「だからって、

 廊下ふさいだら生活できないだろ」


「じゃああなたが仕事見つけて、

 もっと広い部屋に引っ越せば?」


その言葉が出た瞬間、

部屋の空気が変わった。


さおり自身も、

言ってしまったと思った。


けれど、

もう止まらなかった。


「家賃20万円だよ」


「分かってる」


「私の年収600万円で、

 この家賃払って、

 食費も上がって、

 電気代も上がって、

 仕事も停電で遅れて、

 それで来年3月には

 私、辞めたいって言ってたの、

 忘れたの?」


ひろしは黙った。


忘れてはいない。


ただ、

考えないようにしていただけだった。


さおりは続けた。


「水を置く場所すらないのに、

 子どもなんて、

 どこに置くの?」


その言葉は、

怒りというより、

悲鳴だった。


ひろしは、

六畳間の方を見た。


そこは、

子ども部屋にするかもしれないと

話していた部屋だった。


今は、

水の予備、

レトルト食品、

在宅ワークの資料、

簡易トイレ、

トイレットペーパー、

段ボールで埋まっていた。


まだ生まれていない誰かの場所は、

非常用品に取られていた。


ひろしは小さく言った。


「俺が……」


「やめて」


「俺が就職できないからだろ」


「違う」


「違わないよ」


「違うって!」


さおりの声が、

初めて大きくなった。


「ひろしさんだけのせいじゃない。

 でも、

 私ももう限界なの」


二人は黙った。


停電前の部屋は、

まだ明るかった。


けれど、

心の中では、

すでに何かが落ちていた。


家賃20万円の部屋は、

夫婦二人の不安すら

置ききれなかった。


………


■第四章

 40歳の求人サイトは、

 全部「再開未定」だった


翌朝。


ひろしは、

いつものように求人サイトを開いた。


応募済み。


書類選考中。


採用計画見直し。


募集停止。


選考長期化。


再開時期未定。


似たような言葉が、

画面に並んでいた。


ホルムズ海峡の封鎖は、

遠い海の出来事のはずだった。


だが、

企業の採用担当は、

もうそれを遠い話とは見ていなかった。


燃料価格が見えない。


物流コストが読めない。


輸入部材が遅れる。


データセンターの電力費が上がる。


海外案件が延期になる。


工場が動くか分からない。


そうなると、

会社は真っ先に人を採るのを止める。


戦争より先に、

求人票が止まる。


ひろしは、

一つの求人を開いた。


ソフトウェア管理経験者歓迎。


年齢不問。


リモート可。


それだけ見れば、

自分にも合いそうだった。


だが、

詳細を読むと、

最後に小さな文字があった。


「現在、

 エネルギー価格および

 事業計画見直しに伴い、

 採用活動を一時停止しております」


ひろしは、

スマホをテーブルに置いた。


40歳。


無職。


ノイローゼ歴あり。


元管理職。


その肩書きのどれもが、

今の彼には武器ではなく、

重りに見えた。


さおりは、

キッチンで朝食の準備をしていた。


火を使うかどうか、

迷っていた。


ガス代も上がっている。


電気も止まる。


冷蔵庫の中身も減らしたい。


「ひろしさん、

 卵、今日使う?」


ひろしは返事をしなかった。


さおりは振り返った。


「ひろしさん?」


ひろしは、

ようやく言った。


「俺、

 社会に必要とされてないのかな」


さおりは黙った。


そんなことないよ。


すぐ言うべきだった。


でも、

言葉が出なかった。


安い励ましは、

今のひろしを

もっと傷つける気がした。


ひろしは笑った。


「ごめん。

 朝から暗いな」


さおりは首を振った。


「暗いのは、

 ひろしさんじゃないよ」


「え?」


「時代の方」


その言葉に、

ひろしは少しだけ救われた。


でも、

求人サイトの画面は、

やはり冷たかった。


再開時期未定。


その言葉は、

ひろしだけでなく、

この国の未来にも

貼られているようだった。


………


■第五章

 ゲームの勇者は未来を救い、

 翻訳者は納期に殺される


さおりの仕事は、

ゲームの翻訳だった。


剣と魔法。


荒廃した王国。


世界を救う旅。


仲間との絆。


絶望からの再起。


若い勇者が、

必ず最後に立ち上がる。


さおりは、

そういう物語を何本も訳してきた。


以前は、

嫌いではなかった。


むしろ好きだった。


言葉を整え、

キャラクターの感情を

日本語に移し、

プレイヤーが胸を

熱くできるようにする。


それが、

自分の仕事だと思っていた。


だが、

ホルムズ封鎖後の五月、

その仕事が苦しくなった。


画面の中では、

勇者が言う。


「俺たちは、

 どんな暗闇でも

 未来を諦めない!」


さおりは、

その一文を見つめた。


外では、

停電予告のサイレンが鳴った。


午後二時から、

四時間。


納期は今日の夕方。


クライアントからは、

催促のチャットが来ていた。


「可能であれば、

 本日中にご対応ください」


「進捗はいかがでしょうか」


「納期遵守をお願い致します」


さおりは、

キーボードに指を置いた。


でも、

手が止まった。


画面の中の勇者は、

未来を救う。


現実の私は、

未来という言葉を

納期までに納品するだけ。


それも、

停電で落ちるかもしれない。


午後一時五十八分。


さおりは急いで保存しようとした。


しかし、

クラウド同期が遅かった。


ネットが重い。


午後一時五十九分。


照明が一度だけ揺れた。


午後二時。


画面が落ちた。


Wi-Fiが消えた。


外部モニターが黒くなった。


ノートPCは

バッテリーで動いていたが、

同期は止まった。


さおりは、

息をのんだ。


未保存の数行が消えていた。


その中に、

勇者の台詞があった。


「未来は、

 俺たちが作るんだ」


さおりは、

暗い画面に映った自分の顔を見た。


「未来って、

 保存できないんだね」


ひろしは聞こえたが、

何も言えなかった。


さおりは、

もう一度言った。


「笑えるよね。

 私はゲームの中で

 未来を救ってるのに、

 現実では、

 冷蔵庫と納期に負けてる」


その声は、

怒りではなかった。


疲れだった。


未来の物語を作る人間が、

現実の未来を信じられなくなっていた。


………


■第六章

 家賃ゼロ、未来ゼロ


さおりの後輩に、

ミナという26歳の女性がいた。


実家暮らし。


手取りは22万円ほど。


家には月3万円を入れている。


本人は、

自分は浪費家ではないと思っていた。


ブランド品を

買いまくるわけでもない。


高級車に乗るわけでもない。


ただ、

毎日少しずつ使っていた。


外食・飲み会、35,000円。


服・美容、20,000円。


趣味・推し活、25,000円。


コンビニ・カフェ、15,000円。


Amazon・ネット通販、20,000円。


スマホ・サブスク、12,000円。


その他、23,000円。


合計、150,000円。


ミナは、

スマホの家計アプリを見て固まった。


「え……

 家賃ないのに、

 なんで私、毎月消えてるの?」


その相談を受けたさおりは、

何も言えなかった。


ミナだけの話ではなかった。


今の若い人は、

未来が不安だから、

今日の小さな安心を買う。


コンビニのカフェラテ。


推しのグッズ。


サブスク。


深夜の通販。


友だちとの飲み会。


美容室。


新しい服。


一つ一つは、

悪いものではない。


むしろ、

生きるための小さな救いだった。


でも、

全部を足すと、

未来が消える。


その話を聞いた

67歳の元証券会社勤務のおじいちゃんは、

静かに言った。


「家賃がないいうことは、

 金が貯まるいう意味じゃねえ」


ミナは聞いた。


「じゃあ何ですか」


「家賃というブレーキがないいうことじゃ」


おじいちゃんは、

湯のみを置いた。


「一人暮らしの人は、

 毎月、

 家賃に怒られる。


 七万円払うた時点で、

 財布がこう言うんじゃ。


 もう調子に乗るな、とな」


ミナは黙った。


「でも実家暮らしは、

 その声が聞こえん。


 風呂もある。

 米もある。

 電気もついとる。

 冷蔵庫も動いとる。


 自分は余裕があると思う」


「……」


「でもな、

 それは余裕じゃねえ。


 親の家が、

 生活コストを

 肩代わりしとるだけなんじゃ」


ミナはスマホを握りしめた。


家賃ゼロ。


未来ゼロ。


その言葉は、

笑い話ではなかった。


未来に回すはずのお金が、

今の不安をなだめるために、

毎月少しずつ溶けていた。


さおりは、

ミナの話を聞きながら、

自分の六畳間を思い出した。


子ども部屋にするはずだった部屋。


水と段ボールで埋まった部屋。


未来は、

お金だけで消えるのではない。


場所からも消えるのだ。


………


■第七章

 同盟が脅迫状になった日


その夜、

さおりはスマホでニュースを見ていた。


画面には、

ドイツ駐留米軍の撤収報道が流れていた。


米国、

在独米軍5,000人撤収へ。


さらに大幅削減も示唆。


イタリア、

スペインからの撤収も検討。


共和党の軍事重鎮も懸念。


プーチンに誤ったシグナルを送る。


さおりは言った。


「ドイツの話だよね」


ひろしは、

少しだけうなずいた。


「うん。

 でも……」


「日本には関係ない?」


「関係ないって、

 言いたいけど」


おじいちゃんは、

テレビの音を少し下げた。


「関係ある」


さおりが聞いた。


「どうして?」


「これは兵隊の移動じゃない。

 信用の移動じゃ」


おじいちゃんは続けた。


「同盟いうんはな、

 本来は保険みたいなもんじゃ。


 いざという時は助け合う。

 そういう安心を売っとった」


ひろしは言った。


「それが変わったんですか」


「変わった」


おじいちゃんは、

湯のみを持ったまま言った。


「保険会社の社長が、

 気に入らん客に言い始めたんじゃ。


 お前、

 文句言うたな。


 来月から補償減らすぞ、とな」


ひろしは苦笑した。


「それ、

 保険じゃなくて脅しじゃないですか」


「そうじゃ」


おじいちゃんはうなずいた。


「同盟が脅迫状になったんじゃ」


部屋が静かになった。


外では、

停電後の住宅街が

どこか弱々しく光っていた。


さおりは思った。


子どもを産むということは、

この国が20年くらいは壊れないと

信じることだ。


保育園。


学校。


病院。


仕事。


水道。


電気。


そして、

安全保障。


それら全部が、

見えない床になっている。


その床が揺れた時、

若い夫婦は、

子どもを欲しいかどうか以前に、

この世界に連れてきていいのかと

考えてしまう。


アメリカの傘が、

みんなの傘ではなく、

大統領の機嫌で開いたり閉じたりする

折りたたみ傘になった。


そのニュースは、

ドイツだけの話ではなかった。


練馬の2LDKにも、

冷たい風として入ってきた。


………


■第八章

 もう産めない。

 この世界に連れてくるなんて虐待だ


その夜、

練馬のマンションは

いつもより暗かった。


停電は終わったはずなのに、

部屋の中に、

まだ停電の影が残っていた。


冷蔵庫は再び動き始めていた。


けれど、

中に入っていた鶏肉のパックは、

少しぬるかった。


さおりは、

そのパックを手に持ったまま

動かなかった。


「これ、

 食べていいのかな」


ひろしは答えられなかった。


食べていいかどうか。


そんな簡単なことすら、

自分たちでは決められなくなっていた。


さおりは、

冷蔵庫を閉めた。


「病院もさ」


「うん」


「点滴バッグが足りないって。

 内視鏡も延期だって。

 透明な袋がないだけで、

 人って治療できなくなるんだね」


ひろしは黙っていた。


さおりの声は、

少しずつ震えていた。


「スーパーでは刺身も怖い。

 停電で冷蔵庫も怖い。

 病院は透明な袋が足りない。

 求人は止まる。

 同盟も怪しい。

 ニュースでは終わったって言うのに、

 何も終わってない」


ひろしは、

言葉を探した。


でも、

見つからなかった。


「ねえ、ひろしさん」


「うん」


「子どもってさ」


その言葉が出た瞬間、

ひろしの胸が固くなった。


さおりは、

子ども部屋にするはずだった六畳間を見た。


水の箱。


レトルト食品。


在宅ワークの資料。


簡易トイレ。


トイレットペーパー。


段ボール。


まだ生まれていない誰かの場所は、

非常用品で埋まっていた。


さおりは言った。


「もう産めない」


ひろしは顔を上げた。


「さおり」


「この世界に連れてくるなんて、

 虐待だと思う」


その言葉は、

刃物ではなかった。


もっと重いものだった。


床に落ちても音がしない、

重たい石のような言葉だった。


ひろしは、

自分の膝を見た。


「俺が……」


「違う」


「俺が就職できないからだろ」


「違うって」


「俺がちゃんとしてたら、

 お前にこんなこと言わせなかった」


「違う!」


さおりの声が、

初めて大きくなった。


「ひろしさんだけのせいじゃない!

 でも、

 私はもう疲れたの!」


その声に、

ひろしは固まった。


さおりは続けた。


「毎日、

 電気の時間見て、

 冷蔵庫の中身見て、

 仕事の納期見て、

 病院のニュース見て、

 あなたの求人サイトの顔色見て」


「……」


「それでまだ、

 子ども産めるよね、

 未来あるよね、

 大丈夫だよねって、

 誰に向かって言えばいいの?」


ひろしは、

何も言えなかった。


さおりは泣いていなかった。


泣く余裕もない顔だった。


「私、

 子どもが嫌いなんじゃない」


「うん」


「欲しくないんじゃない」


「うん」


「でも、

 この世界に来てもいいよって、

 今は言えない」


ひろしは、

ようやくその意味を理解した。


出生率とは、

統計ではなかった。


この夜、

この部屋で、

妻が言えなかった言葉のことだった。


ひろしは、

小さく言った。


「ごめん」


さおりは首を振った。


「謝らないで。

 謝られると、

 もっと苦しい」


その夜、

二人は同じ部屋にいた。


でも、

心は別々の場所にいた。


練馬の2LDKは、

家賃20万円もするのに、

夫婦二人の不安すら

置ききれなかった。


………


■第九章

 五月一日の亡霊


おじいちゃんは、

五月一日という日付を

忘れていなかった。


2003年5月1日。


アメリカの大統領が、

空母エイブラハム・リンカーンの

上で言った。


主要な戦闘作戦は終了した。


背景には、

Mission Accomplished。


任務完了。


けれど、

戦争はその後も続いた。


「終わった」と言った日が、

一番終わっていない日だった。


そして、

二十三年後。


また五月一日。


また中東。


また、

終わったような言葉が

世界に流れた。


停戦。


沈静化。


敵対行為終了。


市場安心感。


ニュースの言葉は優しかった。


株価は少し戻った。


専門家は、

リスク後退と言った。


ワイドショーは、

連休明けの旅行特集を流した。


しかし、

練馬のスーパーの棚は戻らない。


求人は戻らない。


病院の予約は取れない。


冷蔵庫の不安は消えない。


原油も、

ナフサも、

エチレンも、

全部すぐには戻らない。


おじいちゃんは言った。


「相場の世界ではな、

 安心いう言葉が出た時が

 一番危ないことがある」


ひろしは聞いた。


「どうしてですか」


「人が安心した時、

 確認をやめるからじゃ」


空母の上では終わっていた。


けれど、

台所では終わっていなかった。


今度も同じだった。


終わったと言った日から、

生活の戦争が始まった。


さおりは、

その言葉を聞きながら、

六畳間を見た。


そこには、

まだ段ボールが積まれていた。


戦争は終わっていない。


ただ、

場所を変えただけだった。


中東から、

練馬の部屋へ。


海峡から、

冷蔵庫の中へ。


空母の上から、

夫婦の会話へ。


………


■第十章

 敵対行為ではない、

 という敵対行為


ひろしはニュースを見て、

少しだけ顔を明るくした。


「対イラン敵対行為は終了。

 戦争権限法には該当せず。

 原油価格はいずれ暴落する、だって」


さおりも、

少しだけ安心しかけた。


終わったなら、

電気代も下がるかもしれない。


食料も戻るかもしれない。


求人も戻るかもしれない。


でも、

おじいちゃんは首を振った。


「言葉だけじゃ」


「でも、

 敵対行為は終わったって」


「海を見ろ」


おじいちゃんは言った。


「船が戻されとる。

 油が売れん。

 保険がつかん。

 港が詰まっとる」


ひろしは黙った。


「それって……

 戦争なんですか」


おじいちゃんは答えた。


「戦争かどうかは、

 ワシには決められん。


 けどな、

 相手の国の財布を、

 海の上で握りつぶしとる」


さおりが言った。


「経済制裁?」


おじいちゃんは、

少しだけ笑った。


「経済制裁、物理じゃ」


変な言葉だった。


でも、

正しかった。


敵対行為ではない。


ただ、

船を戻しているだけだ。


敵対行為ではない。


ただ、

油を売れなくしているだけだ。


敵対行為ではない。


ただ、

国家の財布を

海の上で握りつぶしているだけだ。


戦争という名前を捨てれば、

戦争権限法の時計は止まる。


けれど、

船は止まったままだった。


おじいちゃんは言った。


「これは終わりじゃない。

 第二幕じゃ」


「第二幕?」


「追い詰められた国は、

 必ずしも白旗を選ばない。


 時々、

 相手の台所に火をつける」


さおりは、

冷蔵庫を見た。


ひろしは、

求人サイトを見た。


遠い国の封鎖は、

夫婦の台所と仕事に

もう届いていた。


戦争は、

遠い海で終わったふりをしながら、

家庭の中で続いていた。


………


■第十一章

 病院は、

 透明な袋から止まった


さおりの母から、

電話が来た。


「近所の山下さんの内視鏡検査、

 延期になったって」


さおりは驚いた。


「先生が足りないの?」


「先生はいるらしいの。

 でも、

 器具が足りないって」


器具。


その言葉を聞いて、

ひろしは顔を上げた。


テレビでは、

政府の会見が流れていた。


医療体制は維持されています。


必要な患者への対応を優先します。


おじいちゃんは、

小さく言った。


「維持いう言葉は便利じゃのう」


さおりが聞いた。


「どういう意味?」


おじいちゃんは、

テーブルの上にあった

空のペットボトルを指で転がした。


「病院いうんはな、

 医者と薬だけで動いとるんじゃねえ」


「じゃあ、

 何で動いてるの?」


「透明な袋じゃ」


おじいちゃんは、

一本ずつ指を折った。


点滴バッグ。


輸液チューブ。


シリンジ。


手袋。


人工透析の回路。


内視鏡まわりの部品。


カテーテル。


EOガス滅菌。


「全部、

 石油化学の子どもみたいなもんじゃ」


ひろしは言った。


「病院って、

 石油で動いてるんですか」


「車ほど派手には燃やさん。


 でも病院は、

 石油を透明な形で使っとる」


ポリエチレン。


ポリプロピレン。


PVC。


名前は難しい。


でも正体は、

人の体を守る

清潔な道具だった。


病院は、

白衣で動いているように見えた。


本当は、

透明なプラスチックで動いていた。


医者がいても、

看護師がいても、

手術室があっても、

清潔な管が足りなければ

治療は止まる。


点滴バッグがなければ、

薬は体に入らない。


透析回路が足りなければ、

命の順番を決めなければならない。


滅菌ができなければ、

使えるはずの器具も

患者の体に入れられない。


さおりは思った。


子どもを産むということは、

産婦人科の先生だけを

信じることではない。


点滴バッグと、

透明な管と、

清潔な手袋と、

滅菌ガスまで信じることなのだ。


その夜、

さおりは言った。


「病院がちゃんと動く世界じゃないと、

 子どもって産めないんだね」


ひろしは、

何も言えなかった。


病院は開いていた。


けれど、

治療の選択肢が、

透明な袋から

少しずつ閉じていた。


………


■第十二章

 コスパより、

 腐る前に食え


夕方のスーパーで、

さおりは半額の刺身パックを手に取った。


安い。


火を使わない。


洗い物も少ない。


コスパもタイパもいい。


その時、

隣にいた90代くらいの

小柄なおばあさんが言った。


「今日はやめときんさい」


さおりは驚いた。


「え?」


「夕方じゃろ。

 暑いじゃろ。

 停電あるじゃろ。


 刺身は、

 そういう日に買うもんじゃない」


ひろしは苦笑した。


「でも、

 消費期限は今日中ですよ」


おばあさんは首を振った。


「今日中いうても、

 今日の何時まで安全かは、

 誰も書いてくれん」


その言葉は重かった。


おばあさんは続けた。


「わしらの頃はな、

 午前中に買うた。


 暑うなる前に帰る。


 弁当はすぐ食べる。


 梅雨と真夏の生ものは用心する。


 匂いを見る。


 ぬめりを見る。


 迷ったら食べん」


古い習慣ではなかった。


冷蔵庫が弱かった時代の、

命のルールだった。


店内放送が流れた。


本日は計画停電対応のため、

一部惣菜・生鮮食品の販売を

午後六時で終了いたします。


さおりは、

刺身パックを棚に戻した。


帰り道、

ひろしが言った。


「コスパ悪いね」


さおりは首を振った。


「違う。

 今はコスパじゃない」


「じゃあ何?」


「腐る前に食べられるかどうか」


その夜、

おじいちゃんは言った。


「コスパは、

 腐らない世界の言葉じゃ。


 タイパは、

 冷蔵庫が止まらない世界の言葉じゃ。


 時短は、

 電気と水道と物流が

 毎日来る世界の贅沢じゃ」


さおりは、

鍋の湯気を見ていた。


食べ物は、

人間の都合ではなく、

温度と時間の都合で生きている。


昔の人は、

それを知っていた。


90代のおばあさんの口うるささは、

古い価値観ではなかった。


食中毒から家族を守る、

家庭の法律だった。


子どもを守るとは、

栄養を与えることだけではない。


腐る前に食べさせること。


迷ったら捨てること。


午前中に買うこと。


台所で、

時間と温度を見ること。


未来は、

食卓のルールからも始まるのだ。


………


■第十三章

 長野10万円古民家、

 最後の賭け


ひろしが見つけた物件は、

長野県の山あいにあった。


価格は10万円。


東京の家賃の半月分。


土地は約180坪。


母屋あり。


小さな納屋あり。


古い井戸あり。


畑として使えそうな空き地あり。


最寄り駅から車で25分。


東京から車で約3時間半。


築年数不明。


雨漏り跡あり。


残置物あり。


現況渡し。


さおりは、

画面を見た時から疑っていた。


「怪しすぎる」


ひろしは言った。


「怪しいというより、

 正直なんだと思う」


「正直?」


「これは便利な家ではありません。

 でも場所はあります。

 そう言ってる」


二人は、

現地を見に行った。


写真より、

ずっとひどかった。


玄関の引き戸は重い。


畳は沈む。


台所は古い。


風呂は使えるか分からない。


トイレは確認が必要。


壁には雨染み。


天井の一部は、

触るのが怖いほど黒ずんでいた。


さおりは、

玄関に立ったまま言った。


「無理だよ」


ひろしは黙っていた。


「こんな家、

 子どもどころか、

 私たちだって住めないよ」


その通りだった。


これは、

夢の田舎暮らしではない。


古民家カフェでもない。


YouTubeで見るような

おしゃれなDIY物件でもない。


ただ、

安くて、

古くて、

面倒な家だった。


けれど、

ひろしは納屋の戸を開けた。


中は広かった。


ほこり。


蜘蛛の巣。


古い農具。


木箱。


暗い空気。


でも、

空間があった。


東京にはなかった空間。


水を20箱置いても、

誰も通路をふさがない。


米を30キロ置いても、

生活が詰まらない。


簡易トイレを置いても、

子ども部屋を潰さない。


ひろしは言った。


「住める家じゃないかもしれない」


さおりは、

少し怒った顔で見た。


「じゃあ、何?」


ひろしは答えた。


「未来を置ける家かもしれない」


さおりは笑わなかった。


怒りもしなかった。


ただ、

納屋の奥を見た。


そこには、

何もなかった。


何もない。


その何もなさが、

練馬にはなかった。


「ここに、

 水を置くの?」


「うん」


「米も?」


「うん」


「簡易トイレも?」


「うん」


「種も?」


「置ける」


さおりは、

ゆっくり息を吐いた。


「……ここなら」


ひろしは顔を上げた。


さおりは、

小さな声で続けた。


「ここなら、

 少しだけ待てるかも」


「何を?」


さおりは、

古い六畳間の方を見た。


「まだ生まれていない誰か」


ひろしは、

何も言わなかった。


長野の古民家は、

救いではなかった。


ただの最後の賭けだった。


でも、

賭けられる場所があるだけで、

人間は少しだけ息ができる。


………


■第十四章

 子ども部屋は、

 練馬ではなく長野にできた


最初に置いたのは、

水だった。


2リットル6本入りを5箱。


合計60キロ。


練馬なら、

廊下をふさぐ量だった。


長野の納屋では、

棚の一段にもならなかった。


次に米。


5キロ袋を4つ。


合計20キロ。


缶詰。


乾麺。


味噌。


塩。


砂糖。


高野豆腐。


切り干し大根。


乾燥わかめ。


簡易トイレ。


毛布。


ポータブル電源。


防湿剤。


ネズミ対策。


ソーラー式防犯カメラ。


そして、

固定種の種。


大豆。


小豆。


かぼちゃ。


大根。


にんじん。


ひろしは言った。


「缶詰は時間を保存する。

 種は未来を保存する」


さおりは、

今度は笑わなかった。


古民家の一室は、

最初は物置だった。


だが、

二人で掃除をした。


畳を拭いた。


窓を開けた。


古いカーテンを外した。


ほこりが舞った。


虫も出た。


さおりは悲鳴を上げた。


ひろしは笑った。


久しぶりに、

二人で同じ方向を向いて笑った。


練馬の六畳間は、

段ボールと在宅資料で埋まっていた。


でも長野の六畳間は、

古くて、

寒くて、

虫も出るのに、

空いていた。


空いている。


それだけのことが、

こんなにもありがたいとは

思わなかった。


さおりは、

畳の上に座った。


窓から、

山の風が入ってきた。


「ここなら……」


ひろしは振り返った。


「うん?」


「ここなら、

 少しだけ、

 未来を待てるかもしれないね」


ひろしは、

何も言わなかった。


ただ、

井戸のふたを閉め、

六畳間の窓を

もう少し開けた。


山の風が、

部屋の中を通った。


練馬では消えた言葉が、

長野で少しだけ戻ってきた。


いつか。


その言葉が。


その夜、

さおりは古いノートに書いた。


子ども部屋。


まだ決めたわけじゃない。


でも、

消したわけでもない。


その一行を見て、

ひろしは黙って泣いた。


さおりは、

何も言わずに、

その隣へ座った。


………


■第十五章

 出生率とは、

 未来に「来てもいいよ」と

 言える場所の数だった


長野の10万円古民家は、

楽園ではなかった。


雨漏りの跡がある。


草は伸びる。


虫は出る。


トイレも確認がいる。


井戸水は検査がいる。


冬は厳しい。


車がないと不便。


近所付き合いも必要。


それでも、

ひろしとさおりは、

この家を買った。


家を買ったのではない。


考え方を買った。


練馬の2LDKでは、

未来は詰まっていた。


家賃20万円。


水3箱で廊下が詰まる。


停電で仕事が止まる。


求人は凍る。


病院は透明な袋から止まる。


同盟は脅迫状になる。


戦争は終わったと

言いながら終わらない。


食べ物は、

コスパではなく

腐敗時間で考えるようになる。


この世界に

子どもを連れてくる自信が、

少しずつ削られていく。


でも長野には、

余白があった。


水を置く余白。


米を置く余白。


失敗する余白。


考え直す余白。


草を刈って、

もう一度やり直す余白。


そして、

まだ生まれていない誰かのために、

部屋を空けておく余白。


おじいちゃんは言った。


「出生率いうんはな、

 赤ちゃんの数だけじゃねえ。


 この世界に、

 来てもいいよと言える場所が

 どれだけ残っとるかいう

 数字なんじゃ」


さおりは、

長野の六畳間に立った。


豪華なベビーベッドはなかった。


高級な家具もない。


ただ、

拭かれた畳と、

開いた窓と、

山の風があった。


ひろしは言った。


「まだ、

 何も決めなくていい」


さおりはうなずいた。


「うん。

 でも、

 何かをあきらめる前に、

 場所を作ることはできるね」


文明は、

AIで続くのではない。


株価で続くのでもない。


金で続くのでもない。


こうして、

まだ生まれていない誰かのために、

水を置き、

米を置き、

場所を空ける人間がいる限り、


文明は細く、

しぶとく、

続くのだ。


練馬では、

未来は消えかけた。


長野では、

未来を置く棚ができた。


それは、

大きな希望ではなかった。


でも、

消えかけた心電図が、

一度だけ、

小さく動いた音がした。


………


❥Z世代のあなたへ

 ――未来はバズらない


ここまで読んでくれてありがとう。


この話は、

暗い話に見えたかもしれない。


ホルムズ海峡。


停電。


物価高。


求人停止。


医療材料不足。


同盟不安。


戦争終結宣言の言葉遊び。


食中毒リスク。


家賃20万円。


実家暮らし月15万円消費。


どれも重い。


でも、

本当のテーマは絶望ではない。


未来をどう作り直すかだ。


子どもを産めない若者が

冷たいのではない。


子どもを考える前に、

毎月のレシートで未来が燃えている。


病院が動くか分からない。


水道が出るか分からない。


電気が止まる。


求人が止まる。


家賃が高い。


それでも社会は、

「若者はなぜ子どもを産まない」

と聞いてくる。


でも本当は逆だ。


この世界は、

若者にこう聞かれている。


「ここに子どもを連れてきても、

 本当に大丈夫ですか?」


その問いに、

ちゃんと答えられる社会でなければ、

出生率は戻らない。


未来は、

口で励ますだけでは戻らない。


未来には場所がいる。


水を置ける場所。


米を置ける場所。


眠れる場所。


病院に行ける道。


トイレが流れる仕組み。


助け合える人。


そして、

不安を一緒に棚へ置いてくれる相手。


非常口は、

バズらない場所にある。


駅前の光るビルではなく、

山あいの古い納屋かもしれない。


最新アプリではなく、

5キロの米袋かもしれない。


ブランド品ではなく、

井戸のふたかもしれない。


でも、

そこから未来は始まる。


Z世代のあなたへ。


大きな夢を持て、

と言いたいのではない。


まず、

小さな余白を作ってほしい。


お金の余白。


時間の余白。


部屋の余白。


心の余白。


誰かを迎えられる余白。


文明は、

すごい人だけが作るのではない。


普通の人が、

まだ生まれていない誰かのために、

少しだけ場所を空けておくことで、

続いていく。


未来はバズらない。


未来は、

納屋の棚で、

静かに賞味期限を待っている。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの、

 やすきよ漫才風締め


✲ホームズ


どうもこんばんは。


ホルムズ海峡を調べすぎて、

出生率まで

海上封鎖に見えてきた男、

ホームズです。


✲ワトソン


病気や!


出生率は海峡ちゃう!


赤ちゃんの話や!


✲ホームズ


甘いな、ワトソン君。


赤ちゃんの話は、

実は海峡の話でもある。


✲ワトソン


また始まったで。


ほな説明してみい。


✲ホームズ


ホルムズ海峡が詰まる。


原油が詰まる。


ナフサが詰まる。


エチレンが詰まる。


点滴バッグが詰まる。


病院が詰まる。


求人が詰まる。


夫婦の会話が詰まる。


✲ワトソン


最後だけ急に家庭内やな!


✲ホームズ


そこが大事なのだ。


戦争は家庭に来る。


✲ワトソン


ミサイルで?


✲ホームズ


違う。


冷蔵庫で。


求人サイトで。


水の箱で。


子ども部屋で。


✲ワトソン


地味やな!


でも怖いな!


✲ホームズ


今回の主人公、

ひろし君とさおりさん。


練馬の2LDK。


家賃20万円。


年収600万円。


✲ワトソン


数字だけ見たら、

まあ頑張っとる夫婦やな。


✲ホームズ


ところが、

水を3箱置いたら、

廊下が詰まった。


✲ワトソン


水で詰まるんかい!


✲ホームズ


2リットル6本入り。


1箱12キロ。


3箱で36キロ。


✲ワトソン


計算は合うとるけど、

夢はないな!


✲ホームズ


夢より場所が足りなかったのだ。


✲ワトソン


切ないな。


✲ホームズ


さらに、

ひろし君は40歳。


求人サイトを見る。


採用計画見直し。


募集停止。


再開未定。


✲ワトソン


心が削れるやつや。


✲ホームズ


さおりさんはゲーム翻訳。


画面の中では勇者が叫ぶ。


未来は俺たちが作るんだ!


✲ワトソン


ええ台詞やん。


✲ホームズ


その直後、

計画停電でWi-Fiが落ちる。


✲ワトソン


勇者、

通信障害に負けとるやないか!


✲ホームズ


現実の魔王は、

停電と納期なのだ。


✲ワトソン


地味すぎる魔王やな!


✲ホームズ


そして、

夫婦喧嘩が起きる。


水を置く場所がない。


子ども部屋が段ボール置き場になる。


さおりさんが言う。


「この世界に連れてくるなんて、

 虐待だと思う」


✲ワトソン


重いな……。


✲ホームズ


出生率とは、

統計ではない。


その夜、

夫婦が言えなかった言葉なのだ。


✲ワトソン


それは刺さるわ。


✲ホームズ


さらに、

実家暮らしのミナさん。


家賃なし。


でも月15万円が消える。


✲ワトソン


何に使うねん。


✲ホームズ


外食35,000円。


美容20,000円。


推し活25,000円。


コンビニ15,000円。


Amazon20,000円。


スマホとサブスク12,000円。


その他23,000円。


✲ワトソン


その他が一番怪しいな!


✲ホームズ


その他とは、

人類最大のブラックホールである。


✲ワトソン


名言みたいに言うな!


✲ホームズ


家賃がないのに金がない。


それは未来が漏れている証拠だった。


✲ワトソン


それは痛いな。


✲ホームズ


そして同盟も揺れる。


米軍5,000人撤収。


同盟が保険から脅迫状に変わる。


✲ワトソン


世界まで物騒やな。


✲ホームズ


さらに五月一日の亡霊。


終わったと言った日が、

一番終わっていなかった。


✲ワトソン


Mission Accomplishedのやつやな。


✲ホームズ


そう。


終戦宣言は、

時々、

生活への請求書になる。


✲ワトソン


怖いわ。


✲ホームズ


さらに、

敵対行為ではない、

という敵対行為。


✲ワトソン


それ何やねん。


✲ホームズ


経済制裁、物理。


✲ワトソン


雑な言葉やけど、

妙に分かるな!


✲ホームズ


船を戻す。


油を売らせない。


財布を海の上で握りつぶす。


✲ワトソン


そら相手も怒るわ。


✲ホームズ


そして病院。


医者と薬だけでは動かない。


✲ワトソン


ほな何で動くんや?


✲ホームズ


透明な袋だ。


✲ワトソン


袋?


✲ホームズ


点滴バッグ。


チューブ。


シリンジ。


手袋。


透析回路。


カテーテル。


滅菌。


✲ワトソン


全部、

石油化学か。


✲ホームズ


病院は白衣で動いているように見えた。


本当は、

透明なプラスチックで動いていた。


✲ワトソン


それは怖い。


子ども産むにも病院いるもんな。


✲ホームズ


その通り。


出生率は気分ではない。


インフラへの信任投票なのだ。


✲ワトソン


難しいことを言うとるけど、

要するに、

安心して産める世界かどうかやな。


✲ホームズ


そうだ。


そして食卓では、

90代のおばあさんが復活する。


✲ワトソン


どういうことや。


✲ホームズ


午前中に買え。


暑い日に刺身を買うな。


弁当はすぐ食え。


匂いを見ろ。


迷ったら食うな。


✲ワトソン


昔の口うるさいやつやん。


✲ホームズ


違う。


冷蔵庫が弱い時代の

命のプロトコルだ。


✲ワトソン


急にかっこよくなったな!


✲ホームズ


コスパは腐らない世界の言葉。


タイパは冷蔵庫が止まらない世界の言葉。


時短は電気と水道と物流が

毎日来る世界の贅沢。


✲ワトソン


あかん。


刺さる。


ワシ、半額刺身戻すわ。


✲ホームズ


そして最後に、

長野10万円古民家。


✲ワトソン


来たな。


一万円の城の続編やな。


✲ホームズ


練馬では、

子ども部屋が

段ボール置き場になった。


✲ワトソン


悲しいな。


✲ホームズ


しかし長野には、

古い六畳間があった。


井戸があった。


納屋があった。


米を置ける棚があった。


✲ワトソン


住めるんか?


✲ホームズ


すぐには住めない。


でも未来を置ける。


✲ワトソン


未来を置く?


✲ホームズ


まだ生まれていない子どもに、


ここなら

少し待てるかもしれない、


と言える余白だ。


✲ワトソン


おお……。


ちょっと泣けるやん。


✲ホームズ


文明はAIで続かない。


株価でも続かない。


水を置き、


米を置き、


誰かのために

部屋を空ける人間がいる限り、


続く。


✲ワトソン


でもホームズ、

ひとつ聞いてええか。


✲ホームズ


何だね。


✲ワトソン


その長野の古民家、

トイレ流れるんか?


✲ホームズ


……。


✲ワトソン


黙るな!


✲ホームズ


ワトソン君。


✲ワトソン


何や。


✲ホームズ


次回作は、

浄化槽編だ。


✲ワトソン


やっぱり最後は

うん●に戻るんかい!


✲ホームズ


文明の最後の試験場

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