現金はゴミじゃなかった。最後の非常口だった ――海は黒く、空は赤く、市場はカジノになり、ドルだけの時代が終わった――
✦現金はゴミじゃなかった。
最後の非常口だった
――海は黒く、空は赤く、
市場はカジノになり、
ドルだけの時代が終わった――
………
ほんまに怖い戦争いうんは、
ミサイルで始まるんやない。
一隻のタンカーが、
海峡の手前で止められて、
「ドルでは払えません」
そう言われた朝から始まる。
ホルムズ海峡に、
見えない料金所ができた。
そこに書かれていたのは、
大きな星条旗ではなかった。
人民元。
暗号資産。
金。
そして、
そのニュースを見ていた
67歳の元証券会社勤務の
おじいちゃんは、
テレビの前で、
ぽつりと言った。
「ドルが死んだんやない。
ドルだけで済んだ時代が、
死に始めたんじゃ」
孫のゆづきは笑った。
「おじいちゃん、
また難しいこと言い出した」
おじいちゃんは、
湯のみを置いた。
「難しくない。
これは財布の話じゃ」
その夜、
ゆづきのスマホには、
二人の大物の言葉が流れてきた。
ひとりは、
イーロン・マスク。
国は地図ではない。
国は人である。
もうひとりは、
ウォーレン・バフェット。
市場は、
教会にカジノが併設された
ようなものになった。
ゆづきは、
その二つの言葉を見て、
最初はただの
SNSの名言だと思った。
けれど、
おじいちゃんは違った。
「マスクは人を見た。
バフェットは価値を見た。
そしてわしは、
配管を見る」
「配管?」
「そうじゃ。
世界はな、
きれいな言葉で
動いとるんやない。
船。
油田。
銀行。
保険。
送金。
現金。
人間。
その見えん配管が詰まった時、
世界は静かに
壊れ始めるんじゃ」
………
★目次
第一章
ドルは死ななかった。
ドルだけの世界が死んだ
第二章
ホルムズ海峡にできた
見えない料金所
第三章
人民元という迂回路に
大型トラックが走り始めた
第四章
暗号資産は、
夜の地下水道になった
第五章
中央銀行が買った
沈黙の石
第六章
円という湿った新聞紙
第七章
イラ●は原油がありすぎて●ぬ
第八章
油田は蛇口ではなかった
第九章
売上ゼロ、
維持費だけ発生する地獄
第十章
トラン◯の満杯化戦争
第十一章
古いタンカーという
海の上の黒い時限爆弾
第十二章
ドラム缶五百万本の沈黙
第十三章
海は黒く、
空は赤かった
第十四章
日本のニュースは
一円だけを見ていた
第十五章
国は地図ではなかった
第十六章
市場は教会ではなく、
カジノになっていた
第十七章
現金はゴミではなく、
非常口だった
第十八章
青天の霹靂は、
見ていない場所から落ちてくる
第十九章
戦争が終わっても、
非常口は塞がれない
………
第一章
ドルは死ななかった。
ドルだけの世界が死んだ
おじいちゃんは、
昔、証券会社で働いていた。
若い頃は、
株価ボードの前で、
赤い数字と青い数字を見ながら、
客に電話をかけていた。
「今が買い時です」
「ここは一度、
利益を取っておきましょう」
そんなことを言いながら、
何十年も相場を見てきた。
そのおじいちゃんが、
最近また、
テレビのニュースを見る
目つきだけは
昔に戻っていた。
でも、
言葉は少しへたになっていた。
「これはな、
金融の便秘じゃ」
ゆづきが、
スマホから顔を上げた。
「おじいちゃん。
最初の一言が汚い」
「いや、ほんまなんじゃ。
お金の流れる道が
詰まり始めとる」
ニュースでは、
ホルムズ海峡を通るタンカーが
足止めされていると伝えていた。
でも日本のテレビは、
どこかのんびりしていた。
「原油価格は上昇していますが、
政府はガソリン価格への影響を
抑える方針です」
おじいちゃんは首を振った。
「違う。
ガソリンの話だけやない。
これは財布の話じゃ」
ゆづきは聞いた。
「財布?」
「そうじゃ。
世界中の国が、
今までドルという
大きな財布を
使っとった。
原油もドル。
貿易もドル。
借金もドル。
保険もドル。
船の支払いもドル。
ところがな、
ドルを使うと、
アメリカの検問所を
通ることになる」
「検問所?」
「誰と取引したか。
何を買ったか。
どこの銀行を通ったか。
全部見られる。
悪いことをしとる国からすれば、
これは怖い。
悪いことをしとらん国でも、
いつか止められるかもしれん
と思うと怖い」
ゆづきは、
スマホの決済アプリを見た。
「アカウント止められる感じ?」
「そうじゃ。
国ごとアカウント停止じゃ」
その例えで、
ゆづきは少しだけ分かった。
ドルはまだ強い。
でも、
強すぎる通貨は、
便利な財布から、
取り締まりの道具に
なり始めていた。
おじいちゃんは言った。
「ドルは死んどらん。
まだ王様じゃ。
ただ、
王様の前を通るたびに
荷物検査されるのが、
みんな嫌になってきたんじゃ」
………
第二章
ホルムズ海峡にできた
見えない料金所
ホルムズ海峡。
世界の原油が通る、
細い首のような海。
そこを通れなければ、
日本も韓国も中国もインドも、
ただのニュースでは済まない。
発電所。
工場。
飛行機。
船。
トラック。
プラスチック。
薬の包装。
スーパーの惣菜トレー。
全部、
遠い海の細い首に
ぶら下がっていた。
その海峡に、
ある日、
見えない料金所ができた。
軍服を着た兵士が、
本当に料金箱を持って
立っていたわけではない。
だが、
船会社、商社、
保険会社、銀行には、
はっきり見えていた。
「安全に通りたいなら、
支払いの形を考えろ」
ドルで払えば、
アメリカに見られる。
人民元で払えば、
中国の影が伸びる。
暗号資産で払えば、
夜の地下道を通る。
おじいちゃんは、
紙に絵を描いた。
真ん中に海峡。
左にドルの道。
右に人民元の道。
下に暗号資産の細いトンネル。
ゆづきは笑った。
「おじいちゃん、
地図へたすぎ」
「へたでええ。
分かればええんじゃ」
おじいちゃんは、
その下に大きく書いた。
『船は海を渡っとるんやない。
通貨体制の裂け目を渡っとる』
ゆづきは黙った。
少しだけ、
怖くなった。
海峡に料金所ができる
ということは、
ただの通行料ではない。
それは、
世界の財布を誰が握るかという
戦争だった。
………
第三章
人民元という迂回路に
大型トラックが走り始めた
人民元。
昔なら、
日本の高校生には
あまり関係のない言葉だった。
中国に旅行する人。
輸入業者。
商社。
銀行。
そういう人たちの言葉だった。
でも今は違った。
原油を買う国。
石油化学品を買う会社。
船を動かす人。
制裁を避けたい国。
みんなが、
人民元を横目で見始めていた。
おじいちゃんは言った。
「人民元がドルを
倒したわけやない。
そこは間違えたらいけん」
「じゃあ、何が起きとるん?」
「迂回路ができたんじゃ」
「迂回路?」
「高速道路が事故で詰まった時、
みんな最初は国道へ逃げるじゃろ」
「うん」
「最初は細い道じゃ。
でも何度も使ううちに、
コンビニができる。
ガソリンスタンドができる。
信号が増える。
道路が広がる。
そのうち、
そこも普通の道になる」
人民元は、
まだ世界の王様ではない。
資本規制もある。
中国政府の管理も強い。
自由に使える通貨とは言いにくい。
それでも、
戦争中の商売では、
完璧な通貨より、
今動く通貨が強い。
おじいちゃんは言った。
「表の高速道路は、
まだドルじゃ。
けど戦争の煙の下で、
人民元という迂回路に、
大型トラックが
走り始めたんじゃ」
ゆづきは、
その言葉をメモした。
なんだか、
小説の一行みたいだった。
………
第四章
暗号資産は、
夜の地下水道になった
ゆづきの友達には、
暗号資産を
少しだけ持っている子がいた。
「ビットコイン上がった」
「下がった」
「今買えばワンチャン」
そんな話を、
ゲームのガチャみたいに
していた。
でもおじいちゃんは、
暗号資産を見る目が違った。
「暗号資産はな、
夢の通貨というより、
夜の地下水道になり始めとる」
「地下水道?」
「表の銀行を通れん金が、
別の道を流れようとする」
普通の銀行送金は、
銀行を通る。
中央銀行を通る。
国際送金網を通る。
制裁リストに照らされる。
コンプライアンス部門が止める。
途中に、
止める場所が多い。
一方、
暗号資産は完全に自由ではないが、
普通の銀行網の外側を
流れることができる。
だから、
戦争や制裁の世界では、
急に意味が変わる。
若者の投機商品から、
国家の抜け道へ。
夢の資産から、
戦争中の排水路へ。
おじいちゃんは言った。
「ビットコインは金貨ではなかった。
USDTは財布ではなかった。
それは、
ドルの検問所を避けて流れる、
夜の排水路だったんじゃ」
ゆづきは、
少し気持ち悪そうな顔をした。
「暗号資産って、
かっこいい
未来のお金かと思ってた」
「未来のお金でもある。
でも戦争になると、
未来の道具はすぐに
裏口にもなる」
その夜、
ゆづきはスマホで
暗号資産のチャートを見た。
線は上がったり下がったりしていた。
でもその線の下に、
海峡とタンカーと制裁リストが
見えるようになった。
………
第五章
中央銀行が買った
沈黙の石
金。
昔から人間は金が好きだった。
指輪。
延べ棒。
金貨。
金の仏像。
金メダル。
でも今、
金を買っているのは
金ピカが好きな
成金だけではなかった。
中央銀行だった。
国の財布を守る人たちが、
金を買っていた。
おじいちゃんは、
台所にあった石を一つ持ってきた。
「これが金だと思え」
「ただの石じゃん」
「そうじゃ。
金はしゃべらん。
利息も生まん。
決算書も出さん。
選挙にも出ん」
「じゃあ何がいいの?」
「誰の借金でもない」
ドルはアメリカの信用。
円は日本の信用。
人民元は中国の管理。
ユーロは欧州のまとまり。
でも金は、
誰かの借金ではない。
誰かの約束でもない。
誰かの政策金利でもない。
おじいちゃんは言った。
「金は儲けるために
買われたんやない。
誰にも謝らずに済むために、
中央銀行の金庫へ
運び込まれたんじゃ」
ゆづきは、
ただの石をじっと見た。
しゃべらない石。
でも、
戦争の時代には、
しゃべらないものの方が
信用されることがある。
おじいちゃんは、
さらに言った。
「人間はな、
約束が怖くなった時、
石を信じ始めるんじゃ」
………
第六章
円という湿った新聞紙
日本円。
ゆづきにとって、
それはコンビニで使うお金だった。
千円札。
五千円札。
一万円札。
スマホ決済が増えても、
お年玉はまだ円だった。
でもおじいちゃんは、
円を見る目が
少し悲しかった。
「円はな、
昔はもっと強かった」
「今も日本のお金じゃん」
「もちろんじゃ。
でも通貨は、
国の体力そのものなんじゃ」
日本には借金が多い。
高齢者が多い。
エネルギーは海外頼み。
食料も海外頼みが多い。
原油が上がる。
円が下がる。
輸入品が上がる。
生活が苦しくなる。
政府が補助金を出す。
借金が増える。
また円が弱くなる。
まるで、
濡れた新聞紙の上に
また水をこぼすようだった。
ゆづきは言った。
「円って、かわいそう」
「かわいそうというより、
重たいんじゃ」
おじいちゃんは、
古い新聞を手に取った。
それを少し丸めて、
水を一滴たらした。
紙はしんなりした。
「円は紙ではなかった。
国の借金と、
ガソリン補助金と、
年金と、
病院と、
スーパーの値札が、
薄く重なった湿った紙だった」
ゆづきは、
その表現を聞いて、
笑いそうになった。
でも笑えなかった。
スーパーの値札は、
本当に少しずつ上がっていたからだ。
………
第七章
イラ●は原油がありすぎて●ぬ
イラ●は原油の国だった。
地下には油がある。
世界が欲しがる黒い液体。
出せば金になる。
売れば外貨になる。
国家を支える柱になる。
そう思われていた。
だが、
封鎖が続くと、
その原油が逆に
国を苦しめ始めた。
地下から油は出る。
でも船が出ない。
港が詰まる。
保険がつかない。
買い手が逃げる。
タンカーが沖で止まる。
タンクが満杯に近づく。
おじいちゃんは言った。
「原油国が一番怖いのは、
原油がなくなることやない」
「じゃあ何?」
「原油があるのに、
売れなくなることじゃ」
ゆづきは目を丸くした。
「あるならいいじゃん」
「違う。
売れない原油は、
お金ではない。
置き場を食う黒い液体じゃ」
イラ●を苦しめたのは、
原油不足ではなかった。
原油がありすぎて、
逃げ場がなくなったことだった。
おじいちゃんは、
紙にこう書いた。
『原油がありすぎて死ぬ国』
ゆづきは言った。
「それ、タイトル怖すぎ」
「怖い話は、
だいたい現実の方が先にやっとる」
おじいちゃんは、
テレビの画面を見つめた。
海の上には、
動けないタンカーが並んでいた。
………
第八章
油田は蛇口ではなかった
ゆづきは聞いた。
「じゃあ、
油田を止めればいいじゃん」
おじいちゃんは、
待ってましたという顔をした。
「みんな、そう思う。
そこが落とし穴じゃ」
「違うの?」
「油田は蛇口じゃない」
水道なら、
ひねれば止まる。
またひねれば出る。
でも油田は、
地下の圧力で油が動いている。
油の層。
ガス。
水。
砂。
岩。
ポンプ。
配管。
注入水。
圧力管理。
全部が絡み合っている。
急に止めると、
水が入り込むかもしれない。
砂が出るかもしれない。
圧力が落ちるかもしれない。
設備が傷むかもしれない。
再開しても、
前と同じ量が出るとは限らない。
おじいちゃんは言った。
「油田は蛇口ではない。
地下に眠る巨大な心臓じゃ。
急に止めれば、
次に同じ鼓動で
動く保証はない」
ゆづきは、
自分の胸に手を当てた。
心臓は、
止めたり動かしたり
するものではない。
動き続けているから、
命なのだ。
イラ●の地下には、
黒い心臓があった。
でもその心臓が送り出す血は、
国の外へ出られなくなっていた。
………
第九章
売上ゼロ、
維持費だけ発生する地獄
商売で一番つらいのは、
売上がないこと。
でも、
もっとつらいことがある。
売上がないのに、
支払いだけが続くことだ。
油田は、
止めても金がかかる。
技術者がいる。
警備がいる。
保守がいる。
ポンプがいる。
配管がいる。
腐食対策がいる。
圧力管理がいる。
港湾設備もいる。
タンカー管理もいる。
売れないのに、
守らないと壊れる。
出せないのに、
止めると危ない。
おじいちゃんは言った。
「これはな、
売上ゼロ、
維持費だけ発生する地獄じゃ」
ゆづきは、
家計簿アプリを開いた。
収入ゼロ。
家賃。
電気代。
通信費。
食費。
保険料。
ローン。
それが毎月出ていく。
「会社が倒産するやつじゃん」
「国でも同じことが起きるんじゃ」
イラ●の油田は、
金のなる木ではなくなっていた。
水をやり続けないと枯れるのに、
実を売る市場だけが
閉じられた木になっていた。
おじいちゃんは言った。
「ミサイルは一瞬で壊す。
封鎖は、
壊れないように守る費用で、
相手を痩せさせるんじゃ」
………
第十章
トラン◯の満杯化戦争
トラン◯は、
イラ●の油田を爆撃しなかった。
世界中のニュースは、
ミサイルが飛ぶかどうか
ばかりを見ていた。
だが、
おじいちゃんは
違う場所を見ていた。
港。
保険。
タンカー。
貯蔵タンク。
銀行。
外貨。
輸出先。
「これは満杯化戦争じゃ」
「満杯化?」
ゆづきが聞いた。
おじいちゃんは、
コップに水を注ぎ始めた。
コップはすぐに満杯になった。
それでも、
おじいちゃんは注ぎ続けるふりをした。
「止めんとあふれる。
でも止めると、
地下の心臓が弱る」
「ひどい」
「そうじゃ。
ひどい戦争ほど、
爆発音が小さい」
トラン◯の戦略は、
こうだった。
輸出を止める。
貯蔵を満杯にする。
生産を絞らせる。
油田保守費だけ払わせる。
外貨を枯らす。
国内不満を増やす。
交渉に引きずり出す。
おじいちゃんは言った。
「トラン◯は、
イラ●の油田を爆撃しなかった。
もっと残酷なことをした。
油田を生かしたまま、
売り先だけを殺したんじゃ」
ゆづきは、
コップからこぼれそうな水を見た。
あふれる前の水面は、
思ったより静かだった。
………
第十一章
古いタンカーという
海の上の黒い時限爆弾
貯蔵タンクが満杯に近づくと、
国は別の置き場を探す。
地上に置けないなら、
海に置く。
古いタンカーを使う。
動く船ではなく、
浮かぶ倉庫として使う。
だが、
古いタンカーは
安全な倉庫ではない。
バルブが古い。
配管が古い。
エンジンが古い。
保険が高い。
修理部品が足りない。
整備員が動けない。
戦争リスクで、
誰も近づきたがらない。
おじいちゃんは言った。
「これは海の上の
黒い時限爆弾じゃ」
ゆづきは、
ニュース映像のタンカーを見た。
遠くから見ると、
ただの船だった。
でも、
中には売れない原油が詰まっている。
動けない。
降ろせない。
売れない。
直せない。
船ではなく、
巨大な缶詰だった。
おじいちゃんは言った。
「古いタンカーは、
船ではなかった。
海の上に浮かんだ、
黒い倉庫だった。
いや、
倉庫というには、
あまりにも古すぎた。
それは、
波に揺れる時限爆弾だった」
………
第十二章
ドラム缶五百万本の沈黙
イラ●では、
老朽化した石油パイプラインから
大量の原油が漏れているという
報道があった。
年間100万トン級。
数字だけ聞くと、
ゆづきには分からなかった。
「100万トンって、
どのくらい?」
おじいちゃんは言った。
「二百リットルのドラム缶で、
五百万本を超えるくらいじゃ」
「五百万本?」
「そうじゃ。
それを横に並べれば、
日本列島を黒い缶の列で
なぞれるほどじゃ」
ゆづきは、
初めてその量を想像した。
五百万本のドラム缶。
一本一本に、
黒い原油が入っている。
それが毎年、
老朽化した配管から
漏れているかもしれない。
しかも、
それは大事故として
一日で起きるのではない。
少しずつ。
少しずつ。
誰かが見ないふりをしているうちに。
おじいちゃんは言った。
「ペルシャ湾は、
ある日突然黒くなったのではない。
何十年も前から、
少しずつ黒くなっていた。
ただ世界が、
見ないふりをしていただけだった」
ゆづきは、
海の写真を見た。
青い海。
でも、
その下に黒い内臓があるように見えた。
………
第十三章
海は黒く、
空は赤かった
油田からは、
原油だけが出るのではない。
一緒にガスも出る。
そのガスを使えればいい。
売れればいい。
パイプラインで運べればいい。
発電に使えればいい。
でも、
設備が足りない。
処理できない。
運べない。
売れない。
そうなると、
燃やす。
それがガスフレアだった。
夜の油田に、
赤い炎が上がる。
海は原油で黒くなる。
空は炎で赤くなる。
おじいちゃんは言った。
「イラ●は、
余った原油を
海に捨てていたのではない。
原油を出し続けるために、
一緒に出てきたガスを
空へ燃やしていた。
海は黒くなり、
空は赤くなった」
ゆづきは、
その絵を想像した。
黒い海。
赤い空。
地下では油田が止められず、
地上では金が止まっている。
それは、
地獄絵図なのに、
どこか静かだった。
爆発音がない。
大きなニュース速報もない。
ただ、
夜空に炎が上がり、
海に黒いものが広がり、
国家の財布から外貨が消えていく。
おじいちゃんは言った。
「戦争は、
ミサイルで海を汚すとは限らん。
売れない原油を
動けないタンカーに詰め込み、
止められない油田を
燃える空の下で動かし続ける。
それだけで、
海は黒くなり、
国は貧しくなる」
………
第十四章
日本のニュースは
一円だけを見ていた
そのころ日本では、
ニュース番組が明るい声で言った。
「政府の補助により、
ガソリン価格は一定程度
抑えられる見通しです」
コメンテーターが言った。
「家計への影響を
できるだけ小さくすることが
重要ですね」
スタジオは清潔だった。
画面の下には、
レギュラーガソリンの
価格が出ていた。
一円上がった。
二円下がった。
補助金を延長。
政府が対策。
それだけだった。
おじいちゃんは、
テレビに向かって言った。
「違う。
見るところが違う」
ゆづきは聞いた。
「何を見ればいいの?」
「海じゃ。
タンカーじゃ。
保険じゃ。
貯蔵タンクじゃ。
油田の圧力じゃ。
ガスフレアじゃ。
銀行決済じゃ」
「多すぎる」
「だからニュースは、
一円に薄めるんじゃ」
海外では、
ペルシャ湾が黒くなっていた。
日本のニュースでは、
レギュラーガソリンが
一円上がったか下がったかを
笑顔で読んでいた。
おじいちゃんは、
ゆっくり言った。
「抑えられていたのは、
ガソリン価格ではなかった。
日本人の危機感だった」
ゆづきは、
その言葉を聞いて、
スマホの画面を閉じた。
初めて、
ニュースの外側を
見ようと思った。
………
第十五章
国は地図ではなかった
その夜、
ゆづきは一つの動画を見つけた。
画面の中で、
イーロン・マスクが言っていた。
国は地理ではない。
国は人である。
その言葉だけなら、
どこか当たり前に聞こえた。
日本は日本列島だから日本なのか。
それとも、
そこに日本語で笑い、
怒り、
働き、
子どもを育て、
墓参りをし、
朝の味噌汁を飲む人々がいるから
日本なのか。
ゆづきは考えた。
おじいちゃんは、
その動画を見て、
すぐにはうなずかなかった。
「この言葉はな、
使い方を間違えると危ない」
「危ない?」
「人を責める言葉になる。
特定の人たちを
悪者にする言葉にもなる。
けどな、
それでもこの中には
見逃せん本質がある」
「本質?」
おじいちゃんは、
テレビの音を消した。
画面には、
ペルシャ湾のタンカーが映っていた。
「国は地図ではない。
これは本当じゃ。
でも、だからこそ、
国を壊すのは爆弾だけではない」
ゆづきは黙った。
おじいちゃんは続けた。
「若者が子どもを産めなくなる。
働き手が逃げる。
病院が足りなくなる。
学校が足りなくなる。
家賃が上がる。
食料が高くなる。
燃料が届かない。
通貨が信用を失う。
そういうことが重なると、
地図の上では同じ国でも、
中身は別の国になっていく」
世界では、
何億人もの人が
生まれた国の外で暮らしている。
戦争や迫害や暴力で
住む場所を追われた人もいる。
食えなくなって動く人もいる。
水がなくなって動く人もいる。
仕事がなくなって動く人もいる。
ゆづきは言った。
「人が動くと、
国が変わるんだね」
「そうじゃ。
でも人が悪いんやない。
人を動かす戦争と、
人を受け止める余力を作らん政治が
国の中身を変えてしまうんじゃ」
おじいちゃんは、
窓の外を見た。
コンビニがあり、
バス停があり、
学校があり、
病院があり、
スーパーがあった。
でも、
もし燃料が止まり、
食料が高くなり、
病院が足りなくなり、
若者が出ていき、
別の場所から逃げてきた人を
受け止める余力もなくなったら。
この町は、
地図の上では同じ名前でも、
本当に同じ町でいられるのだろうか。
おじいちゃんは言った。
「ドルが揺らぐ。
油田が止まらない。
海が黒くなる。
空が赤くなる。
その最後に来るのは、
人間の移動じゃ。
船が動けなくなったあと、
人が動き始める。
それが一番重い」
ゆづきは、
スマホの画面を見た。
国は地図ではない。
国は人である。
その言葉が、
ただの名言ではなく、
少し怖い警報に見えた。
………
第十六章
市場は教会ではなく、
カジノになっていた
次にゆづきは、
ウォーレン・バフェットの
投稿を見つけた。
オマハの賢人。
世界一有名な投資家。
95歳に近い年齢になっても、
世界中の投資家が
その言葉に耳を傾ける老人。
そのバフェットが、
市場をこう表現したという。
教会に併設されたカジノ。
ゆづきは笑った。
「おじいちゃん、
教会にカジノって何?」
おじいちゃんは、
笑わなかった。
「それはな、
ものすごく怖い例えじゃ」
「怖いの?」
「教会は、
信じる場所じゃ。
長い時間をかけて、
会社の価値を信じる。
商売を信じる。
人間の働きを信じる。
でもカジノは、
一瞬で当てようとする場所じゃ」
「投資とギャンブルの違い?」
「そうじゃ」
昔の市場では、
会社の利益を見た。
工場を見た。
鉄道を見た。
保険を見た。
電力を見た。
人が働き、
物が運ばれ、
利益が積み上がるのを見た。
けれど今は、
一日で消えるオプションを買う。
SNSの噂で飛び乗る。
ショートスクイーズを狙う。
予測市場で事件に賭ける。
AI動画の一言で売買する。
おじいちゃんは言った。
「会社の横に、
巨大なスロットマシンが
置かれたんじゃ」
ゆづきは、
スマホの株アプリを見た。
数字が赤と緑に点滅していた。
それは、
たしかにゲーム画面に似ていた。
「でも、儲かる人もいるんでしょ?」
「もちろんおる。
カジノでも勝つ人はおる」
「じゃあいいじゃん」
「違う。
カジノが教会より大きくなった時、
人は何を信じているのか
分からんようになる」
その週、
レンタカー会社の株が
ミーム株のように動いたという
ニュースがあった。
五十年続いた会社。
車を貸す会社。
本来なら見るべきものは、
燃料費、
保険料、
中古車価格、
旅行需要、
金利、
車両調達だった。
しかし市場が見たのは、
空売りの量だった。
踏み上げられるかどうかだった。
おじいちゃんは言った。
「会社は、
車を貸す商売をしていた。
けれど市場では、
車ではなく、
空売りの数だけが見られていた。
エンジンの音より、
オプションの板の方が
大きな音を立てていた」
ゆづきは、
その言葉をメモした。
外では、
本物の車が走っていた。
画面の中では、
車の会社が賭け札になっていた。
その差が、
少し怖かった。
………
第十七章
現金はゴミではなく、
非常口だった
バフェットの会社は、
巨額の現金を抱えていると
報じられていた。
約三千八百億ドル級。
円にすれば、
五十兆円を超える規模だった。
ゆづきは驚いた。
「そんなに現金を持って、
何もしないの?」
おじいちゃんは言った。
「何もしないことが、
できる人間は強いんじゃ」
「意味わからん」
「みんなが買え買えと叫ぶ時、
買わない。
みんなが現金はゴミだと言う時、
現金を残す。
みんなが分からんものを
分かった顔で買う時、
分からんと言う。
それができる人間は少ない」
インフレの時代、
現金は嫌われる。
明日には価値が下がる。
だから人は、
株を買う。
土地を買う。
金を買う。
暗号資産を買う。
借金してでも何かを買う。
だが、
全員が同じことを始めた時、
市場は教会ではなくなる。
カジノになる。
おじいちゃんは言った。
「現金はゴミだと、
みんなが笑った。
だが、
ゴミだと思われた現金だけが、
暴落の日に店を買えた」
ゆづきは、
自分の財布を見た。
小さな現金。
それは頼りなく見えた。
でも、
もしスマホ決済が止まり、
銀行送金が遅れ、
ATMに行列ができ、
スーパーが現金だけになったら。
その紙は、
急に非常口になる。
おじいちゃんは言った。
「現金とは、
古い紙ではない。
世界が詰まった時に、
まだ動ける人間だけが持つ、
最後の余白じゃ」
ゆづきは聞いた。
「じゃあ、
金とか暗号資産とかは?」
「それも非常口になることはある。
でもな、
非常口は一つだけでは危ない。
現金。
食料。
体力。
技術。
人間関係。
住む場所。
学ぶ力。
全部が非常口になる」
おじいちゃんは続けた。
「バフェットはな、
金持ちになったから
偉いんやない。
待てたから偉いんじゃ。
分からんものを、
分からんと言えたから
強いんじゃ」
ゆづきは、
その言葉を聞いて、
少し胸が痛くなった。
自分も何度も、
分からないのに
分かったふりをしていた。
学校でも。
SNSでも。
友達との会話でも。
おじいちゃんは言った。
「分からんものを、
分かった顔で買うな。
分からんものを、
分かった顔で語るな。
分からんと言える人間だけが、
最後に現金を残せるんじゃ」
………
第十八章
青天の霹靂は、
見ていない場所から落ちてくる
ゆづきは聞いた。
「おじいちゃん、
バフェットは暴落が来るって
思ってるの?」
おじいちゃんは首を振った。
「本当に見えている暴落なら、
暴落にはならん」
「どういうこと?」
「みんなが話しとる危険は、
もう少しずつ値段に入っとる。
怖いのは、
誰も見ていない場所から来る
危険じゃ」
人々は原油価格を見ていた。
ドル円を見ていた。
金価格を見ていた。
ビットコインを見ていた。
株価指数を見ていた。
だが、
本当の危険は、
別の場所にいた。
保険会社の一通のメール。
港湾労働者のストライキ。
古いタンカーのバルブ故障。
銀行の送金停止。
救援物資の輸送費二倍。
油田の圧力低下。
下水処理場の燃料不足。
半導体工場の特殊ガス不足。
おじいちゃんは言った。
「青天の霹靂は、
空から落ちてくるとは限らん。
人が見ていなかった
足元の配管から落ちてくる」
ゆづきは、
ぞっとした。
世界は、
チャートの上だけにあるのではない。
配管の中にもある。
港にもある。
油田にもある。
送金画面にもある。
古いタンカーのバルブにもある。
そして、
人が見ていないところほど、
本当の危険は静かに育つ。
おじいちゃんは言った。
「だからな、
ニュースで騒いでいる危険だけを
見ていたらいけん。
本当に怖いのは、
誰もまだタイトルにしていない
危険じゃ」
ゆづきは、
スマホを置いた。
マスクは人を見た。
バフェットは価値を見た。
おじいちゃんは配管を見た。
そして自分は、
いままで画面ばかり見ていた。
そのことが、
急に恥ずかしくなった。
………
第十九章
戦争が終わっても、
非常口は塞がれない
数週間後、
世界は少し落ち着いたように見えた。
株価は戻った。
原油価格も少し下がった。
テレビは言った。
「市場には安心感が広がっています」
でも、
おじいちゃんは安心しなかった。
「戦争が終わっても、
配管は元に戻らん」
「配管?」
「お金の配管じゃ」
戦争中に、
人民元で払った会社がある。
暗号資産で抜け道を使った業者がある。
金を増やした中央銀行がある。
CIPSに接続した銀行がある。
第三国を挟む契約書を書いた商社がある。
それらは、
戦争が終わったからといって
消えない。
むしろ、
次の戦争に備えて残される。
火事の時に使った非常口を、
火事のあと、
誰も塞がない。
むしろ増やす。
それが、
ペトロダラー体制への
本当の挑戦だった。
ドルは死んでいない。
でも、
ドルだけの時代は
静かに終わり始めた。
おじいちゃんは、
最後にゆづきへ言った。
「覚えとけ。
ドルを避ける道はできた。
人民元もあった。
暗号資産もあった。
金もあった。
けれど、
売れない原油を置く場所だけは、
どこにもなかった。
世界はな、
お金の抜け道は作れても、
物の置き場までは
簡単に作れんのじゃ」
ゆづきは、
窓の外を見た。
日本の町は、
まだ普通だった。
コンビニには明かりがつき、
車は道路を走り、
スーパーには惣菜が並んでいた。
でも、
その普通の下に、
遠い海峡と、
黒い海と、
赤い空と、
湿った円と、
沈黙の金と、
人民元の迂回路と、
暗号資産の夜道と、
カジノになった市場が
重なって見えた。
戦争は、
終わったあとに
世界を変えるのではない。
戦争の最中に、
人々が仕方なく使った抜け道が、
次の世界の本道になる。
その日、
ゆづきは初めて思った。
ニュースを見ているだけでは、
世界は分からない。
値札を見るだけでも、
世界は分からない。
チャートを見るだけでも、
世界は分からない。
船を見る。
通貨を見る。
油田を見る。
人を見る。
現金を見る。
市場のカジノを見る。
そして、
人が何を見ないふりしているかを見る。
そこに、
次の時代の入口がある。
………
★Z世代のあなたへ
君たちは、
よくこう言われる。
投資しろ。
副業しろ。
AIを使え。
英語を学べ。
海外を見ろ。
暗号資産を知れ。
金融リテラシーを持て。
それは間違っていない。
でも、
本当に大事なのは、
「何を買えば儲かるか」だけではない。
もっと大事なのは、
何が止まると、
世界が詰まるのか。
誰が財布を握っているのか。
どの通貨が検問所になっているのか。
どの国が非常口を作り始めたのか。
どの市場が教会で、
どの市場がカジノなのか。
そして、
日本のテレビが
一円のガソリンだけを見ている時、
海外の海では何が黒くなり、
空では何が赤く燃えているのか。
それを見る力だ。
マスクは言った。
国は地図ではない。
国は人である。
これは、
誰かを責める言葉ではない。
国を支えるのは、
土地だけではなく、
そこに生きる人間だという警告だ。
若者がいなくなる。
子どもが生まれなくなる。
働き手が逃げる。
病院が足りなくなる。
学校が足りなくなる。
家賃が上がる。
燃料が届かなくなる。
その時、
国は地図の上では同じでも、
中身が変わっていく。
バフェットは教えた。
市場は、
教会にカジノが併設された
ようなものになった。
これは、
投資するなという意味ではない。
何を信じているのかを忘れるな、
という意味だ。
会社を見るのか。
数字の点滅を見るのか。
事業を見るのか。
一日だけの賭けを見るのか。
現金を馬鹿にするのか。
非常口として残すのか。
ドルはまだ強い。
でも、
ドルだけを信じる時代は
少しずつ終わっている。
円はまだ使える。
でも、
円だけを持っていれば
安心という時代でもない。
暗号資産は夢かもしれない。
でも、
戦争中には地下水道にもなる。
金は古くさいかもしれない。
でも、
誰の借金でもない沈黙の石として、
国家が買い始めている。
現金は時代遅れに
見えるかもしれない。
でも、
スマホ決済が止まり、
送金が遅れ、
ATMに行列ができた時、
その紙は非常口になる。
そして原油は、
ただのエネルギーではない。
売れれば富。
売れなければ出血。
止めれば油田が傷む。
出し続ければタンクが満杯になる。
世界は、
思っているより複雑だ。
でも、
入口はシンプルだ。
ニュースの言葉を、
そのまま信じないこと。
「安心感が広がっています」
その時こそ、
どこに非常口があるか見ること。
「価格は抑えられています」
その時こそ、
何が抑えられていないか見ること。
「市場は上がっています」
その時こそ、
それが教会なのか、
カジノなのかを見ること。
「戦争は終わりました」
その時こそ、
戦争中に作られた抜け道が
どこへ残ったか見ること。
逃げることは、
負けではない。
危ない場所に、
最後まで立ち続けることの方が
本当の負けだ。
君は、
財布の中に
小さな非常口を作っておけ。
知識でもいい。
技能でもいい。
現金でもいい。
金でもいい。
食料でもいい。
人間関係でもいい。
住む場所でもいい。
体力でもいい。
ひとつの道だけを信じるな。
高速道路が止まった時、
生き残るのは、
裏道を知っている人間だ。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
ワトソン:
ホームズ、
結局ドルは終わったんですか?
ホームズ:
終わっとらん。まだ王様じゃ。
ワトソン:
じゃあ安心ですね。
ホームズ:
そこが君の甘いところじゃ、
ワトソン君。
王様は生きとる。
ただ、
みんな王様の前を通るたびに
荷物検査されるのが
嫌になったんじゃ。
ワトソン:
つまり、王様が嫌われた?
ホームズ:
違う。
王様が警察官になりすぎたんじゃ。
ワトソン:
ほな人民元が次の王様ですか?
ホームズ:
それも違う。
人民元は裏道の案内板じゃ。
ワトソン:
暗号資産は?
ホームズ:
夜道じゃ。
ワトソン:
金は?
ホームズ:
沈黙の石じゃ。
ワトソン:
円は?
ホームズ:
湿った新聞紙じゃ。
ワトソン:
先生、言い方!
ホームズ:
でもな、ワトソン君。
一番怖いのはそこじゃない。
ワトソン:
まだあるんですか?
ホームズ:
ある。
イ●には原油がある。
ワトソン:
それなら金持ちじゃないですか。
ホームズ:
売れればな。
ワトソン:
売れなかったら?
ホームズ:
原油は宝物ではなくなる。
置き場のない黒い液体になる。
ワトソン:
油田を止めればいいのでは?
ホームズ:
油田は蛇口じゃない。
地下の心臓じゃ。
ワトソン:
じゃあ止めても地獄、
出しても地獄?
ホームズ:
そうじゃ。
しかも日本のテレビは、
ガソリンが一円上がったか
下がったかだけを見とる。
ワトソン:
海は黒く、空は赤いのに?
ホームズ:
その通り。
ワトソン:
ところで先生、
イーロン・マスクは
何を見たんですか?
ホームズ:
人じゃ。
ワトソン:
国は地図ではなく、人である。
ホームズ:
そうじゃ。
国は土地だけではない。
人が動けば、国の中身も動く。
ワトソン:
ではバフェットは?
ホームズ:
価値を見た。
ワトソン:
市場は教会に併設されたカジノ。
ホームズ:
うまい例えじゃ。
みんな会社を見ているつもりで、
スロットの光を見とる。
ワトソン:
じゃあおじいちゃんは
何を見たんです?
ホームズ:
配管じゃ。
ワトソン:
配管?
ホームズ:
船。
油田。
銀行。
保険。
送金。
現金。
人間。
そこが詰まれば、世界は止まる。
ワトソン:
先生、今日のまとめをお願いします。
ホームズ:
マスクは人を見た。
バフェットは価値を見た。
おじいちゃんは配管を見た。
ワトソン:
かっこいいですね。
ホームズ:
そしてワトソン君は?
ワトソン:
私は何を見たんですか?
ホームズ:
スマホの通知じゃ。
ワトソン:
先生、ひどい!
ホームズ:
でもな、そこから始めればええ。
通知の向こうに、
海がある。
油田がある。
通貨がある。
人間がある。
ワトソン:
最後に一言お願いします。
ホームズ:
ドルは死んでいない。
けれど世界は、
ドルだけを信じるほど
若くなくなった。
市場は死んでいない。
けれど教会の横に、
カジノが建ってしまった。
国は地図ではない。
国は人である。
そして現金は、
ゴミではない。
世界が詰まった時、
まだ動ける人間だけが持つ、
最後の非常口である。
ワトソン:
先生、それ笑えません。
ホームズ:
笑えん話を、
笑いながら読ませるのが、
わしらの仕事じゃ。
ワトソン:
最後に泣かせに来ましたね。
ホームズ:
泣くな、ワトソン君。
ワトソン:
無理です。
海は黒いし、
空は赤いし、
円は湿った新聞紙で、
市場はカジノです。
ホームズ:
それでも人間には、
まだできることがある。
ワトソン:
何ですか?
ホームズ:
見ないふりをやめることじゃ。
ワトソン:
それ、いちばん難しいやつです。
ホームズ:
だから小説にするんじゃ。
ワトソン:
なるほど。
読者に非常口を見せるために。
ホームズ:
そうじゃ。
世界が燃えとる時、
一番大事なのは、
炎を見て騒ぐことではない。
ワトソン:
では?
ホームズ:
出口の場所を、
静かに覚えておくことじゃ。




